日子番能邇邇藝命に科(とが)を詔(みことのり)す
此の豐葦原水穗國者(は:短語)、汝が將(まさに)知る國で賜り言依
故、命に隨(したがう)を以って天より降る可(べ)き
爾(なんじ)日子番能邇邇藝命、將(まさに)天より之(これ)降る時、
天之八衢而(に)、上光高天原、下光葦原中國之神居る
是(これ)に於いて有り
故爾(ゆえに)天照大御神と高木神之命を以って、天宇受賣神に詔(みことのり)す
汝者(は:短語)、手弱女人と雖(いえども)
伊牟迦布神【伊自(より)布に至るは音を以ってす】、面勝神與(ともに)有る
故、汝は專(もっぱら)將(まさに)問いに往く者(は:短語)、吾の御子天降之道と爲す
此の誰かが居るの如く而(に)、故、賜る之(これ)の時に問い答えて白(もう)す
僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)國神名猨田毘古神也
所以(ゆえん)出居(いでい)者(は:短語) 天神御子に聞き、天より降りて坐す
故、御前而(に)參向之(これ)侍(はべらせ)仕奉(つかえたてまつる)
猨田毘古神
「詔」は「みことのり」があるので、問題ないですが、「科」が問題の部分です。
「科」を調べると、Wikiでは「しな、とが、あな」とあり、
「漢字辞典オンライン」では、「しぐさ、しな、とが」があります。
これにより、「科」の訓読みには「しな、とが、あな、しぐさ」がある事になります。
「科詔日子番能邇邇藝命」を解読する時、「詔日子番能邇邇藝命」は、
「日子番能邇邇藝命に詔(みことのり)」になります。
では、この文に「しな、とが、あな、しぐさ」を当てはめた時、
「しな、あな」は意味が通じないので、消去できます。
残るのは「とが」と「しぐさ」ですが、「しぐさを詔(つ)げて」は違う気がします。
そうなると、「とが」が当てはまるとなりますが、何をしたのでしょうか?
「豐葦原水穗國」は、あまり発展していない、流刑地だったのでしょうか?
「日子番能邇邇藝命」が「豐葦原水穗國」に移動するわけですが、
前章で「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の統括する國は
「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」と書いています。
「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」と
「豐葦原水穗國」の位置関係はどうだったのでしょうか?
同じ「豐葦原」を使っていますし、近域だと思いますが、良く分かりません。
「豐葦原水穗國」は、「葦」と「水穂」からして、
「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」よりも、「水」が多く、「沼地」の様にも思えます。
「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は、「秋が長い」や「五百秋」から推測すると、
「九州北部」や「九州中部」だと「東側」辺りかなと考えています。
紀元前1000年頃の古代九州の地図があれば、もう少し推測できそうですが、
現在では、このくらいしか推測は無理そうです。
「日子番能邇邇藝命」は「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の孫ですが、
「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は、誰が統括しているのでしょうか?
「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」を継承しているんでしょうか?
でもそうなると、「天照大御神」の後継者は、
「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」では無い可能性もありそうですが、
別の人間に継承させて、戻ったのでしょうか?
太子とあるので、多分に「天照大御神」の後継者なのだと思われます。
なので、普通に考えれば、別の人物に「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」を継承させて、
自分は「天照大御神」になるために、仕事を頑張ったと考えられますが、
それであれば、別人を派遣すれば良かったと思います。
そうであれば、わざわざ、この様に面倒事にはなっていないでしょう。
もしかすると、「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」でなくては、ダメな事があり、
それのために、派遣されたという考えもできますが、現実にはどうだったのでしょうか?
色々と気になる事が多いです。
「居天之八衢而 上光高天原 下光葦原中國之神」があり、
「天之八衢而(に)、上光高天原、下光葦原中國之神居る」と解読できます。
「八衢」の「衢」は「四方に通じる大通り」を指すようです。
ということは「上光高天原」、「下光葦原中國」だけでなく、
「左右」にも何かしらの名があった可能性もありそうです。
この「上光」は「北」から太陽が登る事を、
「下光」は「南」から太陽が登る事を指していると思いますが、
参考になる情報がありません。
第二章で「天宇受賣命」、「天宇受賣」、「天宇受賣」と三度登場しますが、
今回の「天宇受賣神」も別人です。
血の繋がりに関しても、不明です。
神社の祭神に関しては、「天宇受賣命」にありますが、
天宇受賣神に関しては「金華山」、「 黄金山神社 境内 金椿神社」、「御辰稲荷神社」の
三つしかありません。
ほかは、「天宇受賣命」、「天宇受売命」に関する物がほとんどです。
「雖有手弱女人」とあり、「手弱女人」があるが、どの様な人々だったのでしょうか?
「手が弱い」とは、「手荒れ」がひどい人の事でしょうか?
情報が無いので、不明です。
「自伊至布以音」という注記があるので「音読み」指定となります。
「伊自(より)布に至るは音を以ってす」と解読できます。
「伊」:呉音・漢音:イ
「牟」:呉音:ム、漢音:ボウ、唐音:メ
「迦」:呉音:キャ、ケ、漢音:カ、キャ
「布」:呉音:フ、漢音:ホ
上記により、呉音「いむけ(きゃ)ふ」、漢音「いぼうか(きゃ)ほ」となりそうです。
意味ですが、検索すると「い向かう」で「向かい合う」とするサイトもあるが、
本当にそれが正しいかは、疑問しかありません。
なぜなら、「いむけふ」で「いむけ」であって、「いむか」ではありません。
「ふ」は「う」に変換できても、「いむけ」を「いむか」に変換はできません。
「いむけ」で検索すると、「射向」が出てきます。
「鎧(よろい)の左側。弓手(ゆんで)の方向。」を言い、
「弓を射るとき、体の左を敵に向けることから。」という意味があるようです。
なので、「伊牟迦布神」という人物が存在し、
弓に関しての才能があったのだと考えています。
「汝者 雖有手弱女人與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神」という文なので、
「伊牟迦布神」と「面勝神」は人物だと考えられます。
なにより、「與(ともに)」とあるので、単なる言葉とするのは違うと思います。
この文により、「手弱女人」、「伊牟迦布神」、「面勝神」の三人で何かをしようと
考えていたと思われます。
参照3のサイトでは、
「『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神」と書きますが、
そもそも、第五章においてある、「猨田毘古神」、「猨田毘古之男神」、「猨田毘古大神」、
「猨田毘古神」、「猨田毘古神」の五種類しか、古事記には存在していません。
なので、「猿田毘古神」、「猿田毘古大神」、「猿田毘古之男神」は完全に嘘です。
なぜ、Wikiでこの様に簡単な情報について、嘘を書くのか気になります。
「猿」は「猨」の異体字らしいですが、だからといって、
実際に存在する文字を書き換えるのは、間違っていると思います。
参照3:サルタヒコ
白鬚神社(児湯郡)、八柱神社 境内 社宮社、倉賀野神社 境内 北向道祖神、
春日大社 境内 榎本神社、住吉神社 境内 参道左猿田彦大神、神田明神 境内 籠祖神社、
神杉伊豆牟比咩神社 境内 栄浜神社、大津神社 境内 猿田彦神社
登彌神社 境内 比良田神社、大和神社 境内 増御子神社、同榎本神社、同上水谷神社、
入野神社 境内 道祖神、鎌田神明宮 境内 船魂大神、守田廼神社 境内 守田廼稲荷社、
大前神社 境内 足尾山神社、新田神社 境内 興玉神社、久武神社 境内 塞神祠
白石神社(南九州市知覧町)、上之宮神社(足利市猿田町)、手貫神社(垂水市本城)、
老神神社(姶良市)、老神神社(垂水市牛根境)、鹿児島神社(垂水市)、今山八幡宮、
移田八幡宮 境内 広川社、貴船神社 境内 白鬚社、鎌田神明宮 境内 白髭社
阿射加神社
田代神社(熊毛郡)、息神社(浜松市)
尾針神社 境内 前御前宮、南魚沼八幡宮、椿大神社、阿波神社(伊賀市)、許曾志神社
飛鳥坐神社 境内 飛鳥山口神社
阿須利神社 境内 道祖神、部田神社 境内 八衢神社、阿利神社 境内 幸神社、
神田神社(西洞白髪神社祭神合祀)
和多理神社
出雲大神宮 境内 黒太夫社、加畑賀茂神社 境内 鳥石楠松神社
猿田彦
「猿田彦大神」、「猿田彦神」、「猿田彦命」というのは、
「猨」が廃れた後に、つけられたのだと思います。
実際に、「古事記」、「日本書紀」、「先代旧事本紀」までは、
「猨」が使われているのを確認できます。
しかし、「古語拾遺」では「猨」と「猿」の二パターンがあります。
自分が持っている「古語拾遺 西宮一民校注 岩波文庫」では、
「猨」と「猿」の両方でしたが、
参照4のサイトでは、31ページでは「猿」を使っています。
ただ、注記があり、その場所を見ると、
本作は「猨」とあり、本来は「猨」なのだと思います。
そうなると、どこで、「猨」→「猿」に変化したのか、気になります。
一応、本居宣長の「古事記伝」も見てみましたが、
参照5のサイトの93ページにあるように、「猨」を使っています。
この様に、多くの書物では「猨」を使っているのに関わらず、
「猿」しか神社の祭神名に無いのは、不自然です。
多分に、「猿田」一族が、勢力が強くなったから、
現代のように「猨」なのに、「猿」になったのだと思います。
この場合、血統が違う場合がありそうです。
参照4:古語拾遺 - Next Digital Library
参照5:古事記伝 第5巻
毘古命、比古命
「猿田毘古大神」、「猿田毘古神」、「猿田毘古命」、「猿田比古神」、「猿田比古命」は、
「記紀」では、「猨田」に統一されている事から考えて、
本来は「猨田」だったと思います。
以前にも書きましたが、「彦」の前が「毘古」や「比古」なので、
「彦」と書く場合のほとんどは、神武天皇(仮)以後となりそうです。
もし、本当に「猿田」だった場合、それは、やはり、別の一族の可能性がありそうです。
しかし、現在では、それらを判断する情報がなく、不明となります。
左留陀比古神
呉音で「さるだ」と読めますので、「猨田毘古神」の一族だとは思いますが、
現在では、情報が皆無なので不明です。
多くのサイトでは、「さるた」としていますが、
「左留陀」の例の様に、「さるだ」が正しいのだと思います。
とはいえ、「比古神」とあるので、もしかすると、派生した可能性もありそうです。
佐田彦、白鬚明神
参照6のサイトに「佐田彦=佐太大神=猿田彦=龍蛇神」として、
書かれていますが、根拠はありません。
もし、そうだとした場合、「さるだ」の「る」が抜けた形となるので、
「さるだ」の原型を留めていなくて、なぜ、同じと言われているのか疑問です。
あと、「白鬚明神」についても調べましたが、こちらも根拠がありません。
「白い鬚(ひげ)」なんて、現代で普通にいますから、
当時もたくさんいた一人だったのだと思います。
たぶん、技術などを提供して、敬われたのが根源にあるように思います。