爾(なんじ)、天兒屋命・布刀玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命、
幷(あ)わせて五伴緖、支加而(に)矣(矢が当たって止まり)天より降る也
是於(これにおいて)、其の遠岐斯【此三字以音】を賜り副えて、
亦、常世思金神・手力男神・天石門別神而(に) 者(は:短語)
八尺勾璁・鏡・及び草那藝劒を、詔(つ)げる
此之鏡者(は:短語)、專(もっぱら)我の御魂と爲す
而(すなわち)吾の前で拜(おが)むが如く、伊都岐奉(たてまつる)
次に思金神者(は:短語)、政(まつりごと)を事前に取り持つと爲す
此の二柱神者(は:短語)、佐久久斯侶伊須受能宮 【自佐至能以音】を祭りて拜(おが)む
次に、登由宇氣神、此れ者(は:短語)、外宮に坐す之(これ)度相神者(は:短語)也
次に、天石戸別神、亦の名を櫛石窻神と謂う、亦の名を豐石窻神と謂う
此の神者(は:短語)御門之神也
次に手力男神者(は:短語) 佐那那縣に坐す也
故、其の天兒屋命者(は:短語)、中臣連等之祖、布刀玉命者(は:短語)、忌部首等之祖、
天宇受賣命者(は:短語)、猨女君等之祖、伊斯許理度賣命者(は:短語)作鏡連等之祖、
玉祖命者(は:短語)、玉祖連等之祖
天兒屋命
第二章で「天兒屋命」と三回登場していますが、同一人物ではありません。
そして今回も同じ名なので、同じ名を継承しているのが分かります。
第二章の範囲で「天兒屋命」を取り扱ってますが、
神社については、今回、調査したいと思います。
また、「伊香連」、「壱伎直」の2つに関しては、「天兒屋命」で考察しているので除きます。
ただ、「壱伎直」に関しては、補足を書きます。
城南宮
比都佐神社、形原神社、宇流冨志禰神社、天満神社(合祀)、高越神社
日枝神社 境内 春日社、蘭宇氣白神社、下仁田町栗山 稲含神社、岐多志太神社、
室生龍穴神社、春日大社 境内 本宮神社、彌美神社、須倍神社、鎌田神明宮、
與能神社、船井神社、荒井神社、伊伎佐神社、山口大神宮、鹿嶋神社遥拝殿、網戸神社
多賀神社(仙台市)
榛名神社 境内 五柱社、登彌神社
札比内神社、遠別神社、榊山神社 境内 春宮、六郷神社 境内 三柱神社(合祀)、
須加神社(合祀)、石前神社 境内 朝長神社(合祀)、許波多神社 境内 春日神社、
伊勢寺神社(井之本神社祭神合祀)、宇太水分神社 下宮、等彌神社 境内 春日神社
諏訪神社(爾志郡)、惣社水分神社
熊野神社 境内 春日神社(高島市)、生馬神社(合祀)
護國八幡宮 境内 春日社(合祀)、伊牟移神社(合祀)、龍王神社、賀茂神社(邑智郡)、
穴石神社、鵜森神社、高於磐座神社、荒嶋神社、大神社 境内 春日神社(合祀)、
宇奈岐日女神社 境内 政正社、大溝神社、御前神社
加志波良比古神社(合祀)
榆山神社 境内 荒神社、城端神明宮、春日神社(養父市)
吉田神社 境内 若宮社、大原野神社
基本形は「天兒屋命」となります。
「日本書紀」、「先代旧事本紀」、「古語拾遺」では、「天兒屋命」と書かれています。
では、「天兒屋根命」としたのは、いつの頃でしょうか?
「古語拾遺」とは違う「斎部氏家牒」では、「天子屋根命」とあるのを確認できます。
また、「中臣寿詞」では、「天児屋根命」とあり、
「春日祭(祝詞)」では「天之子八根命」とあります。
これにより、主に主要な史書以外では、
「アマノコヤネ」が使われていたのだと思われます。
「天兒屋命」と「天兒屋根命」は、血の繋がりがあるかは不明です。
「天児屋根命」といった「兒」ではなく、「児」を使っている表記は、
多分に、書くのに大変になったから「児」を使ったのであって、
大元は「兒」だと思います。
こちらは、「神」という地位ですが、見た事がありません。
なので、本当に「天兒屋根神」という人物が存在したのかは不明です。
ただ、「比都佐神社、形原神社、宇流冨志禰神社、天満神社(合祀)、高越神社」と、
5つあるので、もしかしたら、偶然、「神」に昇格した人物がいたのかも知れません。
「天津」がどこから来たのか不明です。
今まで見た資料には存在していないので、良く分かりません。
ですが、こちらも、多くの神社で使われているので、存在した可能性が高いです。
「天兒屋命」で書いた「春日祭(祝詞)」の「天之子八根命」と同じなので、
存在していたのは確定ですが、詳細については不明です。
また、「斎部氏家牒」には「天子屋根命」とあり、「屋根」→「八根」とあるので、
「天子屋根命」の子孫の可能性がありそうです。
336 左京 神別 天神 藤原朝臣 朝臣 出自津速魂命三世孫天児屋命也
337 左京 神別 天神 大中臣朝臣 朝臣 藤原朝臣同祖
338 左京 神別 天神 中臣酒人宿祢 宿祢 大中臣朝臣同祖
天児屋根命十世孫臣狭山命之後也
339 左京 神別 天神 伊香連 連 大中臣同祖
天児屋命七世孫臣知人命之後也
340 左京 神別 天神 中臣宮処連 連 大中臣同祖
341 左京 神別 天神 中臣方岳連 連 大中臣同祖
342 左京 神別 天神 中臣志斐連 連 天児屋命十一世孫
雷大臣命男弟子之後也
343 左京 神別 天神 殖栗連 連 大中臣同祖
344 左京 神別 天神 中臣大家連 連 大中臣同氏
345 左京 神別 天神 中村連 連 己々都生須比命子天乃古矢根命之後也
451 右京 神別 天神 壱伎直 直 天児屋命九世孫雷大臣之後也
512 山城国 神別 天神 呉公 公 天相命十三世孫雷大臣命之後也
544 大和国 神別 天神 大家臣 臣 大中臣朝臣同祖 津速魂命之後也
545 大和国 神別 天神 添県主 県主 自津速魂命男武乳遣命也
572 摂津国 神別 天神 津島朝臣 朝臣 大中臣朝臣同祖
津速魂命三世孫天児屋根命之後也
573 摂津国 神別 天神 椋垣朝臣 朝臣 同上
574 摂津国 神別 天神 荒城朝臣 朝臣 同上
575 摂津国 神別 天神 中臣東連 連 天児屋根命九世孫鯛身命之後也
576 摂津国 神別 天神 神奴連 連 同神十一世孫雷大臣命之後也
577 摂津国 神別 天神 中臣藍連 連 同神十二世孫大江臣之後也
578 摂津国 神別 天神 中臣大田連 連 同神十三世孫御身宿祢之後也
579 摂津国 神別 天神 生田首 首 同神九世孫雷大臣命之後也
617 河内国 神別 天神 菅生朝臣 朝臣 大中臣朝臣同祖
津速魂命二世孫天児屋根命之後也
618 河内国 神別 天神 中臣連 連 同神十四世孫雷大臣命之後也
619 河内国 神別 天神 中臣酒屋連 連 同神十九世孫真人連公之後也
620 河内国 神別 天神 村山連 連 中臣連同祖
621 河内国 神別 天神 中臣高良比連 連 津速魂命十三世孫臣狭山命之後也
622 河内国 神別 天神 平岡連 連 同神十四世孫鯛身臣之後也
623 河内国 神別 天神 川跨連 連 同神九世孫梨富命之後也
624 河内国 神別 天神 中臣連 連 天児屋根命之後也
625 河内国 神別 天神 中臣 中臣高良比連同祖
680 和泉国 神別 天神 宮処朝臣 朝臣 大中臣朝臣同祖 天児屋命之後也
681 和泉国 神別 天神 狭山連 連 同上
682 和泉国 神別 天神 和太連 連 同上
683 和泉国 神別 天神 志斐連 連 同上
684 和泉国 神別 天神 蜂田連 連 同上
685 和泉国 神別 天神 殿来連 連 同上
686 和泉国 神別 天神 大鳥連 連 同上
687 和泉国 神別 天神 中臣部 同上
688 和泉国 神別 天神 民直 直 同上
689 和泉国 神別 天神 評 連 連 同上
690 和泉国 神別 天神 畝尾連 連 同上
691 和泉国 神別 天神 中臣表連 連 同上
1080 右京 未定雑姓 中臣栗原連 連 天児屋根命十一世孫雷大臣之後也
1081 右京 未定雑姓 大鹿首 首 津速魂命三世孫天児屋根命之後也
1101 山城国 未定雑姓 春日部主寸 主寸 津速魂命三世孫大田諸命之後也
1102 山城国 未定雑姓 大辟 津速魂命之後也
1126 摂津国 未定雑姓 津嶋直 直 天児屋根命十四世孫雷大臣命之後也
1146 河内国 未定雑姓 三間名公 公 仲臣雷大臣命之後也
中臣酒人宿祢
「常陸風土記」の「香嶋郡」の文章に、
「倭武天皇ノ世、天ノ大神宣(のり玉はく)す。中臣臣狭山命〜。」とあり、
「倭武天皇」の時代に「中臣臣狭山命」が存在した様です。
「倭武天皇」ですが、「ヤマトタケル」と書くサイトが多いですが、
本当なのでしょうか?
そもそも、「ヤマトタケル」は「帝位」についていないので、
「天皇」というのは違います。
それに、「天皇」という言葉は、「天武天皇」以降に使われたと云われていて、
「ヤマトタケル」だとするならば、時代が大きく異なります。
「宿祢」は、Wikiによれば「西暦3〜5世紀」に使われていたと書いていますが、
「足尼」などを「すくね」と言っていたので、
多分に紀元前後から使われてきたと考えています。
結局、「倭武天皇」が誰なのかが分からないと、
「中臣臣狭山命」の存在した時代が判断できません。
ちなみに、参照6のサイトに「中臣酒人宿祢久治良」という人物が登場します。
この人は「天平7年(735年)8月28日」に存在した人物の様です。
この人物よりも後の人物に、「續日本紀」の「天平勝寶六年(754年)正月壬子条」
にある、「中臣酒人宿祢虫麻呂」がいます。
参照6:【正倉院 聞き耳頭巾(ききみみ ずきん)】#5 | 動画・コラム
中臣宮処連
「神亀6(729)年2月に左大臣長屋王の謀反を密告」した人物に、
「中臣宮処東人」がいるようです。
他に情報はありません。
中臣志斐連
「志斐連」には、「中臣志斐連」と「阿倍志斐連」があります。
詳細について、調べましたが、あまり情報がない様で、不明な点が多いですが、
参照7のサイトにあるように、「中臣志斐連景信」の存在が確認できます。
参照7:式内社 伊伎佐神社
殖栗連
「殖栗連」では、「中臣時風」と「中臣秀行」という兄弟が有名らしいです。
「中臣時風」が「辰市家祖」となり、「中臣秀行」が「大東家祖」となったようです。
この「中臣時風」の子孫である「辰市祐時」の三男である「神祇権大輔祐仲」が、
「大和國吉野郡新子邑(現 奈良県吉野郡吉野町新子)」を領し、
新子(あたらし)氏を称した様です。
「殖栗占部浦手」の後裔とも言われていますが、良く分かりません。
また、「春日社神宮預」を「中臣時風」がしていて、その子孫である
「正預祐房(春日若宮神主祖、後に千鳥家祖)」の四代孫が「権預祐峯」で、
その一男が「祐季」とあります。
「嘉元三年(1305年)中臣祐良」、「孫祐為」が「春日若宮神主」をしていたようです。
中村連
「大和国忍海郡中村郷から興った中臣氏族」と言われています。
それ以外の情報はありません。
壱伎直
日本書紀の「應神天皇」の段に「壹伎直祖眞根子」が登場しますが、
新撰姓氏録に「壱伎直」となっているので、中臣一族では無い可能性が高そうです。
確かに「壹」は「壱」の異体字と使われていますが、
「異体字」は由来が異なると考えているので、「壱伎直」を指すのであれば、
「壹伎直」という表記は使うべきではないと思います。
第二章の「天兒屋命」では、「天児屋命九世孫雷大臣之後也」について考察しています。
津島朝臣
参照8のPDFには、「津島朝臣大庭」、「津島朝臣家虫」、「津島朝臣小松」が登場します。
また、「續日本紀」にて、「津島朝臣堅石」、「津島朝臣真鎌」、「津島朝臣家道」、
「津島朝臣雄子」が登場します。
荒城朝臣
Wikiに「「日本後紀」延暦23年(804)正月には大荒城臣忍国を遠江介に任じた」や、
「「類聚国史」巻第九十九、「叙位」によると弘仁8年(817年)12月に
荒城朝臣広野に外従五位下を授けたとあるため」とあります。
他に、「天平7年(735年)8月14日「瑜伽師地論」跋語の荒城臣多都乎」がいます。
あと、「貞観9年(867年)3月26日付「高子内親王家庄牒案」に名の記されている
荒城長人も朝臣姓と推定される。」とあります。
菅生朝臣
「河内国丹比郡菅生郷」を本拠地とした氏族だった様です。
また、「「續日本紀」25 天平寶字八年正月乙巳条」に、「菅生朝臣忍人」がいます。
後は、参照8のPDFには、「菅生朝臣忍人」、「菅生朝臣虫麿」、「菅生朝臣諸忍」、
「菅生朝臣水通」が登場しますが、系図に関しては不明です。
他には、参照9のPDFには、「菅生古麻呂」が見えます。
村山連
「河内国丹比郡狭山郷」を本拠地としていた様です。
参照8のPDFには、
「村山連首万呂(河内國丹比郡侠山郷の戸主少初位上の村山連浜足の戸口)」、
「村山連道万呂」が登場しています。
他には、「村山連糠麿」、「村山連豊家」があります。
この「村山連豊家」は「中臣高良比連千上」の同母異父弟だった様です。
中臣連
参照10のサイトに「新撰氏族本系帳」に掲載された一部が載っていますが、
疑問が多くあります。
「記紀」を通して、「中臣氏」の前が「卜部」だとする記事は見た事がありません。
また、「新撰姓氏録」を見ると「中臣」を名乗っているのは、
後の「藤原一族」だけでなく、「神饒速日命系」、「饒速日命系」があります。
○神饒速日命系
418 右京 神別 天神 采女朝臣 朝臣 石上朝臣同祖
神饒速日命六世孫大水口宿祢之後也
419 右京 神別 天神 中臣習宜朝臣 朝臣 同神孫味瓊杵田命之後也
420 右京 神別 天神 中臣熊凝朝臣 朝臣 同上
○饒速日命系
486 山城国 神別 天神 宇治宿祢 宿祢 饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也
489 山城国 神別 天神 中臣葛野連 連 同神九世孫伊久比足尼之後也
上記のように、「神饒速日命系」、「饒速日命系」、「中臣氏系」が考えられます。
元々、「中臣氏」が「卜部」を名乗っていたのではなく、
途中で派生したというのが正しいように思えます。
あと、「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」の「大中臣系図」に、
「始めて中臣連姓を賜る。本は卜部(うらべ)なり。」とあると書いていますが、
「中臣常磐大連公」は「大連」で、「連」よりも上の地位を手にしています。
なので、「卜部」の中でも「中臣」に与するために、
「中臣連」を名乗ったという方が、納得できます。
こちらの考察の傍証となりそうなのが、参照11のサイトになります。
「臣狭山命」は「中臣酒人宿祢」の祖と言われている人物なので、
この時点で「中臣」が使われていると考えれば、
「卜部」はそこから派生した「氏族」となります。
参照10:元は「卜部」 と名乗っていた!? 豪族・中臣氏のルーツに迫る
参照11:卜部氏、中臣氏、藤原氏 の系図など。|レコの館(やかた)
殿来連
参照12のサイトには、下記のようにあります。
『続日本紀』の天平勝宝4年(752年)条に、
「中臣殿来連竹田売」という人物の名前が残っており、
その頃 に領地を治めていた中臣殿来連竹田売が
祖先である天児屋根命を祀ったことから始まりということになっており
上記には、「中臣殿来連竹田売」が「天児屋根命」を祀った事によって
「等乃伎神社」が誕生したとあります。
しかし、残念ながら、これ以上の情報がありませんでした。
参照12:02-03800等乃伎神社 | 和泉の国再発見 和泉名所図会探訪記
中臣部
参照13のサイトには、下記のようにあります。
中臣氏の部曲(かきべ)。
『日本書紀』天智(てんじ)天皇10年(671)三月条に
「常陸(ひたち)国、中臣部若子貢(たてまつ)る」とある。『常陸国風土記(ふどき)』には、己酉(つちのととり)年(649年=大化5)
「大乙上中臣□子、大乙下中臣部兎子(うのこ)」らが、
天(あめ)の大神(おおかみ)の社(やしろ)(鹿島(かしま)神宮の祭神)、
坂戸(さかと)社、沼尾(ぬまお)社(両社とも鹿島神宮の摂社)をあわせて
香島の天の大神といい、この神の鎮座する神郡香島郡の建郡を伝え、
また746年(天平18)3月に常陸国鹿島郡の中臣部20戸が
中臣鹿島連(むらじ)と改氏姓していることからも(続日本紀(しょくにほんぎ))、
常陸の中臣部は中臣氏の斎(いつ)く鹿島神宮の祭祀(さいし)に携わっていた
部曲であることがわかる。なお中臣部は常陸のほか美濃(みの)、下総(しもうさ)、下野(しもつけ)、
越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)にも設定されていた。
まず、「貢(たてまつ)る」」とありますが、これは「貢(みつ)ぐ」だと思います。
上記の情報を見ると、「中臣部」はそれなりに多くの人がいたと分かります。
参照13:中臣部(なかとみべ)とは? 意味や使い方
椋垣朝臣
他の「姓(かばね)」の情報がないかと、検索していたら、
参照14のサイトを見つけました。
このサイトでは、「椋垣氏】というのもあり、中臣氏と同族。
津速産霊命十三世孫鯛身命の孫御身宿祢の子真束が倉垣臣を賜姓される。」
とありますが、「椋垣朝臣」ではなく、「倉垣臣」です。
ここからして違うんですが、系譜も存在していません。
色々と探しましたが、「新撰姓氏録」には無いようですし、
どこからの情報なのか?と気になっています。
ちなみに、「御身宿祢の子真束」についての情報はありませんでした。
参照14のサイトには、他に、
「近江大津宮朝13年(674)豊毘登は椋垣朝臣に改賜姓、鹿養以降は摂津国能勢郡大領、
後裔の池田政扶の女は紀姓池田維実の妻とな り後世の大名家池田氏の祖となる。」
ともあります。
不思議な事に「近江大津宮朝13年」は「667年~672年」の期間の最後の年なので、
「674」ではなく、「672」ですし、「豊毘登」が検索で現れません。
なぜ、これだけ、詳細の情報があるのに、
「豊毘登」が出てこないのは、不思議でしかありません。
もちろん、先程書いたように、「674」ではなく、「672」だと言う様に、
間違えている事も多いでしょう。
ですが、一切引っかからないのは不思議です。
他にも不思議な事があり、「椋垣氏」と書いているのに、「倉垣臣」を持ってくる事や、
「鹿養」が誰なのか?、「摂津国能勢郡大領」についても疑問があります。
「椋垣氏」と「倉垣臣」の問題は、多分に同じだと思ったのでしょう。
「鹿養」については不明です。
「摂津国能勢郡大領」については、基本的に平安時代後半から「能勢氏」が就いていたと
思われますが、情報不足で、「鹿養」という人物が就いていたのかは不明です。
参照14:平川家について31
「倉垣臣」と「椋垣朝臣」ですが、一部のサイトでは、
中臣氏の一部と考えて書いている場所もあります。
しかし、同じ中臣氏の一族であるという証拠がありません。
参照15のサイトでは、「椋垣朝臣は倉垣臣が朝臣を賜姓されたもの」とありますが、
その根拠となる情報源についての言及がありません。
仮に参照15のサイトに、情報源が載っていなくても、
検索すれば、少しは見つかるはずですが、全く見つかりません。
なので、信頼できない情報となります。
調べていくと、参照16のサイトの「満仲の長子頼光の流れ」の場所に、
「また、摂津国能勢郡の能瀬〔能勢。阿波に分る〕、田尻、倉垣、野間」とあり、
「能勢氏」とも親しい関係の様なので、「摂津国能勢郡大領」も嘘とは言えなくなります。
これにより、もしかして、
「倉垣臣」は「清和源氏」なのでは無いか?という疑問が出ます。
「摂津国能勢郡大領」を考えても、「能勢氏」に親しい関係ならば、
「大領」に就任するのも難しい話では無いでしょう。
どちらも「摂津国能勢郡倉垣村」だとすれば、「清和源氏」の可能性が高そうです。
また、参照17のPDFに、「椋垣朝臣」についての記述がありますが、
系図化できる重要な情報はありませんでした。
参照16:清和源氏概観
参照17:新撰姓氏錄考證卷之十五
575 摂津国 神別 天神 中臣東連 連 天児屋根命九世孫鯛身命之後也
622 河内国 神別 天神 平岡連 連 津速魂命十四世孫鯛身臣之後也
本文では「津速産霊命十三世孫鯛身命」とありますが、
「平岡連」は「鯛身臣」で異なります。
また、「平岡連」の最初が「津速魂命」ですが、
「津速産霊命」と同一人物とは考えづらいので、こちらも異なります。
これにより、「津速産霊命十三世孫鯛身命」の信頼性が失われます。
もちろん、「津速産霊命十三世孫鯛身命」が存在した可能性もありますが、
実際に、情報として、存在していない様なので、別の話を勘違いしたのかも知れません。
子孫は、「水走氏」と「鳥居氏」ですが、「水走氏」はそれなりに続きましたが、
「鳥居氏」は「穂積朝臣鈴木氏」から派生した「鳥居氏」が有名で、
「椋垣朝臣系統」は、消息不明です。
ちなみに、「平安時代後期の河内国一ノ宮の枚岡神社(平岡神社)の神職であった
「水走季忠」は「源義忠の息女(源義家の養女)」を娶り、
「水走康忠」が生まれた様です。
「16代水走忠義(水走忠元)」まで続き、
数代空けて、「水走忠堅」と「水走忠良」がいます。
大鹿首
「津速魂命三世孫天児屋根命之後也」と
「新撰姓氏録」にある以上の大きな情報はありません。
系図もなく、情報が混雑していて、精査が難しいです。
参照18のサイトにある「相鹿上神社」の「明治神社誌料」には、下記の様にあります。
神都志に云ふ、
「敏達天皇釆女、伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生二女、長曰大娘皇女、更名、
櫻井皇女、少曰糠手姫皇女、更名田村皇女」と、相傳ふ、大鹿首の末裔其氏祖を祀りし者にして、
今尚村内に村田某なる者あり、古名瓶子屋と称す、上世皇大神宮伊蘇宮に奉齋の時瓶子を調進せし家にて節、大鹿首の後裔なりと、
果して然るや否、記して後考に備ふ
上記にある「敏達天皇釆女、伊勢大鹿首小熊女〜」は、
「神都名勝誌」という書物にある様ですが、参照19のサイトの巻1にある
「多氣郡」、「相可郷」、「多氣郷」を調べましたが、上記の文は載っていませんでした。
「相鹿上神社」という神社名でも確認しましたがありませんでした。
他の場所に載っていたのかは確認していません。
内容ですが、この文は、「日本書紀」にも載っています。
「次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人 生太姬皇女更名
櫻井皇女與糠手姬皇女更名 田村皇女」
ところが、「日本書紀」の「太姬皇女」が「大娘皇女」になっています。
表記を見て分かる様に、「姫」→「娘」に変化しています。
これらは、同一人物ではありませんが、これは、もしかして、表に出てきませんが、
「敏達天皇」は「大娘皇女」を娶って
「太姬皇女」が誕生したのではないか?と思っています。
根拠は無いですが、「大娘皇女」と「太姬皇女」で似ています。
「大娘皇女」が本当に「皇女」だったのかは不明ですが、そうだった場合、
「天皇家」の家系と考える事が出来ますが、情報がありません。
参照18:相鹿上神社
参照19:神都名勝誌. 巻之1-6 / 東吉貞 編輯 ; 河崎維吉[ほか] 校訂
先程の続きになりますが、日本書紀の「伊勢大鹿首小熊」は、
古事記では「伊勢大鹿首之女・小熊子」となっていて、
「伊勢大鹿首小熊」は共通しています。
しかし、古事記では「又娶伊勢大鹿首之女・小熊子郎女、生御子、布斗比賣命」とあり、
「伊勢大鹿首之女・小熊子」の女性の名がありません。
「布斗比賣命」が「太姬皇女」だとするならば、
「大娘皇女」が「伊勢大鹿首之女・小熊」の子である可能性はあります。
ですが、情報がありません。
この辺りは、今後の考察で考えていきます。
また、「糠手姫皇女、更名田村皇女」は、
「神都名勝誌」と「日本書紀」の双方で記載がありますが、
「糠手姫皇女」という名があるのに、
わざわざ、「田村皇女」に名を改める理由が分かりません。
多分に、違う時代の同じ名と勘違いしているのだと思います。
この辺りも、今後、考察していきます。
参照20のサイトには、下記の様にあります。
崇神・垂仁朝に活動した大鹿島命の子に①大楯命、②相鹿津臣命、
③臣狭山命の三名をあげて、①が常陸の中臣鹿島連の祖、
②が伊勢の大鹿首・川俣連の祖、③が中臣連の祖と記されます。
上記の様に「大鹿島命」で3つに分派するようです。
では、「大鹿島命」は?と言うと、「尊卑分脈」の「藤原一北家甲」には、
「久志宇賀主命ー國摩大鹿島命ー臣狭山命」とありますが、
「大楯命」も「相鹿津臣命」も載っていませんし、
「國摩大鹿島命」であって、「大鹿島命」ではありません。
「日本書紀」には「中臣連遠祖大鹿嶋」とありますが、
「命」の地位が無く、別人だと思われます。
「古事記」には、この人物の表記はありませんでした。
これにより、参照20のサイトは、本来「國摩大鹿島命」と書くべきだったと思われます。
もしくは、日本書紀の記事を使うならば「大鹿嶋」だと思いますが、
こちらは、「景行天皇」の場所を見ましたが、
「臣狭山命」は無かったので、繋がりません。
ちなみに、念の為、「大楯命」と「相鹿津臣命」を調べましたが、>
やはり、載っていませんでした。
なので、参照20のサイトの作者は、何を見て書いているのか不明です。
相鹿津臣命
「相鹿津臣命」は、どこの情報か不明ですが、
「伊勢津彦命」の娘である「弥豆佐久良姫」を娶ったという事と、
参照20のサイトでは「若子命」を子として「大鹿首・川俣連の祖」と書いている様です。
ただ、一部に「相鹿津臣命」ではなく
「大鹿津臣命」だという情報もあり、詳細は不明です。
これ以上の情報がありませんでした。
「大鹿島命」の子に「大楯命」、「相鹿津臣命」、「臣狭山命」の三人がいると、
参照20のサイトでは書いていますが、「大楯命」と「相鹿津臣命」の情報が
あまりにも少ないのは、疑問しかありません。
なぜなら、色々な「姓(かばね)」を賜ったりする分岐点なのだから、
もう少し、重要な情報があっても良い気がします。
そこから考えると、「大鹿島命」は「中臣氏」では無いのでは?と思っています。
とはいえ、「中臣大鹿島命」という表記もあり、現時点では判断できません。
参照20:伊勢の大鹿首氏の系譜と氏人
参照21の「皇太神宮儀式帳」には「中臣大鹿島命」とありますが、
参照22のサイトでは「中臣大鹿島」と「命」の地位がありません。
どちらが正しいのかは判断が難しいですが、
多分に参照21のサイトの「皇太神宮儀式帳」が正しいのだと思います。
ただ、参照22のサイトの様な「中臣大鹿島」とある情報があるのであれば、
時代等を考える必要がありそうです。
次に「倭姫命世紀」の3つの記事についてですが、
「中臣大鹿嶋命」、「中臣ノ国摩大鹿嶋命」、「大鹿嶋命」と、どれも、
「大鹿嶋」では一致していますが、完全に一致ではないので、
全て、別人だと思われます。
そうなると、「中臣大鹿嶋命」と「大鹿嶋命」がいる事になりますが、詳細が不明です。
参照21:皇太神宮儀式帳 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
参照21のサイトでも書いていますが、「皇太神宮儀式帳」では、
「尒特太神宮禰宜氏荒木田神主等遠祖國摩大鹿嶋命(歹+糸)
天見通命乎禰宜定弖倭姫内親王朝廷尓参上㘴支」と書いています。
これを見ると「國摩大鹿嶋命」の孫?である「天見通命」が、
「太神宮禰宜氏荒木田神主等遠祖」と解釈できます。
詳しくは、今後、調べます。
また、参照23のサイトにある「倭姫命世紀」では、
「天見通命」の子孫についての言及があります。
「汝誰答白奴吾波天見通命孫尓八佐加支刀部(一名伊己我呂比命)兒
宇太乃太米禰奈登白岐」とあります。
上記の「宇太乃太釆禰奈」は「釆」がふりがなで「ウ」となっていますが、
「宇」と考えると明らかにおかしい漢字になっているので、
「ノ+米」と見た感じで「釆」にしました。
しかし、「釆」は音読みで「はん、べん」、訓読みで「のごめ」なので、
「ウ」にはなりません。
また、他のサイトを見ましたが、
なぜか「宇太乃太米禰奈」の「釆」を抜かして書いています。
ここで気になるのは、「八佐加支刀部」の両親についてです。
調べましたが、全く情報がありませんでした。
参照23:倭姫命世記
ここで問題があり、「伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳」が参照24のPDFにありますが、
系図には「國摩大鹿嶋命ー大狭山命ー天見通命ー天布多由岐命ー大貫連伊己呂比命」
とあり、色々と今までの系図と異なります。
参照24:校本・伊勢天照皇太神宮祢宜譜図帳
臣狹山命と巨狹山命
参照25のサイトでは、「中臣酒人宿禰」と「中臣高良比連」の祖を「巨狹山命」と
書いていますが、参照26のサイトで確認すると、
確かに「臣」ではなく「巨」とあります。
これは、単に線を入れ忘れたのか、それとも、本当に「巨」だったのか不明です。
「記紀」では「巨」は見つけられませんでしたが、
「常陸國風土記」には「巨」と書かれているという情報を見て、
参照27のサイトで確認したら、「巨」ではなく「臣」でした。
他に怪しい記事は見つかりませんでしたが、多分に「臣狹山命」が正解で、
写本する本を書いた人物が、「巨」としてしまったのではないか?と考えています。
実際に、調べても、「巨」は「新撰姓氏録」くらいですが、
こちらも間違いの可能性がありそうです。
「大狭山命」は、「巨狹山命」が発端らしいので、本当に存在したのであれば、
親戚関係だったと思います。
ただ、参照24のサイトにある「伊勢天照皇太神宮祢宜譜図帳」には、
「國摩大鹿嶋命」の「二男大狭山命」という書き方をしているので、
もしかすると、長男が「臣狹山命」の可能性もありそうです。
そうなると、「天見通命」の立ち位置がおかしくなるので、
この辺りの問題は、今後、系図化する時に深堀したいと思います。
ちなみに「尊卑分脈」では、「臣狹山命」ではなく「臣陕山命」と書かれています。
「犭」ではなく「阝」が書いていますので、誤記では無いと思います。
そうなると、「臣陕山命」と「臣陕山命」が存在する事になりますが、情報がありません。
参照25:巨狭山命
参照26:新撰姓氏録 - 国書データベース - 国文学研究資料館
参照27:常陸風土記 - 国書データベース - 国文学研究資料館
天見通命孫
あと、「八佐加支刀部」の一名を「伊己我呂比命」としていますが、
本当かどうか、疑問しかありません。
なぜなら、「刀部」を特殊な「姓(かばね)」の様に考えれば、
わざわざ、それを失くすというのは、ありえないと思います。
もし、本当であれば、どこかに一文があっても良いですが、見つかっていません。
また、参照28のPDFの6頁に、「内宮帳ハ天見通命乃孫川姫命ヲ大物忌トス」とあり、
どうやら、「川姫命」も存在していた様です。
2つの系図が、どの様に繋がるかは、今後、検証しながら行います。
参照28:NAJDA-210-0055_人倫門1・2.pdf
大貫連伊己呂比命
「大貫連伊己呂比命」ですが、色々と検索していると、
「伊己我呂比命」ではなく、「伊己呂比命」となっていて「我」が抜けています。
「伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳」に書くぐらいですから、正しいと思います。
では、なぜ、一文字少ない表記である「伊己呂比命」が、表に出ているのか疑問です。
「倭姫命世紀」では、
「汝誰答白奴吾波天見通命孫尓八佐加支刀部(一名伊己我呂比命)兒
宇太乃太米禰奈登白岐」とし、「伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳」では、
「國摩大鹿嶋命ー大狭山命ー天見通命ー天布多由岐命ー大貫連伊己呂比命」
としています。
ちなみに、「倭姫命世紀」の原文では「伊己我呂比命」ですが、
一部のサイトでは「伊己呂比命」としています。
同じ、「天見通命孫」なのに「伊己我呂比命」と「伊己呂比命」で、なぜ、違うのか。
考えられるのは、「伊己我呂比命」と「伊己呂比命」が兄弟であるという事です。
それならば、「伊己我呂比命」が仮に兄として、「伊己呂比命」が弟として考えれば、
同じ、孫になるので、問題が無くなります。
ただ、現時点でその様な情報がありません。
そもそも、なぜか、「伊己我呂比命」という表記が、検索していても見つからないのは、
非常に不可解です。
参照25のサイトには「吉川家」の伝承があり、下記の様に書いています。
天児屋根命から十代嫡流に国摩大鹿島命があり、
国摩大鹿島命は伊勢鹿島両宮神祇伯祭主となり、
その子雷大臣命が鹿島に土着して吉川家の始祖となり、
その四世の孫が国摩真人である
「尊卑分脈」では、「天児屋根命から十代嫡流に国摩大鹿島命」ではなく、
「9代目」になります。
現代は、「自分」を含めて何代目と数えますが、
古代の数え方は、「自分」を含めないので、
この場合、「天押雲命」から「国摩大鹿島命」が9代なので、
「天児屋根命」からは9代孫になります。
「雷大臣命」は「尊卑分脈」には、記載が無いので、正しいのかは不明です。
次に「続群書類従」で「松尾社家系図」が違う記載をしているとあったので見たら、
こちらでは、「國摩大鹿嶋命ー臣狭山命ー雷大臣命ー大小橋命」となっています。
こちらは、「天見通命」の系統は消えています。
「尊卑分脈」では「雷大臣命」は記載がありませんが、
「跨耳命」に「雷大臣命」を当てています。
ですが、これが、本当に正しいという根拠はありません。
あと、「続群書類従」の「雷大臣命」の横には、事象が書かれていますが、
ここに、親の事が書かれています。
ただ、「雷大臣命」の事を書いているわけではありませんでした。
内容は、「伊賀都臣、是、中臣遠祖天御中主命二十世之孫意美佐夜麻之子也」で、
「伊賀都臣」について書かれています。
「中臣烏賊津使主」に関する記事もありますが、それについては触れていません。
「烏賊津」=「伊賀都」=「雷」だという根拠は何でしょうか?
「雷」は「いかずち」とは言いますが、「いかず」とは言いません。
なので、同一人物と考えるのは間違っていると思います。
「中臣烏賊津連」が「仲哀天皇」の場面で登場していますが、
「中臣烏賊津使主」と同一人物なのか?については、情報不足で不明です。
ちなみに、「呉公 天相命十三世孫雷大臣命之後也」の「天相」の存在は不明です。
また、「三間名公 仲臣雷大臣命之後也」の「仲臣雷大臣命」が。
「雷大臣命」を指しているのは不明です。
わざわざ、「中臣」を「仲臣」にするという事は、別人だと思います。
あと、「続群書類従」の「意美佐夜麻」ですが、こちらが元祖で、
「臣狭山命」は後世の人物が、表記を変えたのだと思います。
参照25:鬼一法眼と国摩真人について|木部二郎
國摩真人
色々と調べていくと、「國摩真人」というのを見つけました。
参照25のサイトには、
「鹿島神宮大行事大鹿島命」の後裔である「国摩眞人」とありますが、
そもそも、「鹿島神宮」は「武甕槌大神」を祭神にしているので、話が繋がりません。
そのため、作者は、
「私は、『日本書紀』等に記された中臣(藤原)氏の伝説上の祖とされる
国摩大鹿島命に関する記録を元に創作されたものではないかと考えています。」
とあります。
それは、本当なのでしょうか?
このサイトでは、「大鹿嶋」と「国摩大鹿島命」を同一人物と考えていますが、
「国摩」と「命」が無いので、別人でしょう。
そもそも、「国摩大鹿島命」が正式名であるならば、その様に書かないと、
似た漢字の人物名と誤解する事も出てくるでしょう。
実際に、「大鹿嶋」と「国摩大鹿島命」で問題になっています。
ただ、これでは、「國摩真人」にはたどり着きません。
ちなみに「真人」が「姓(かばね)」だったとしたら、
「真人」は「八色の姓」で作られた最高位の「姓(かばね)」なので、
一番最初は「公」だったのかも知れませんが、これぐらいしか深堀出来ません。
Wikiでは、「續日本紀」に「栗原勝子」について記載があるようなので、
確認してみました。
内容は下記になります。
癸酉右京人正六位上柴原勝子公等之先祖伊賀都臣是中臣遠祖天御中主命廿世之孫
意美佐夜麻之子也伊賀都臣神功皇后御世使於百済更娶彼士女生二男名曰本大臣小大臣小大臣遥尋
本系㱕於聖朝時賜美濃国不破郡柴原地以居焉厥後因居命氏遂(刀+員)
柴原勝姓伏乞蒙賜中臣栗原連於是子等男女十八人依請改賜
上記の文を見ると、「美濃国不破郡柴原」を領有した事によって
「柴原勝子公」になった様ですが、
その後に「中臣栗原連」への改姓を願い出ているので、
Wikiにある「栗原勝子」は「柴原勝子公」とは別人の可能性があります。
また、「本大臣」と「小大臣」ですが、
参照26のWikiには「大本臣」と「小本臣」とありますが、
「續日本紀」「天應元年七月五日癸酉」には、その様には書かれていません。
大本を探しましたが見つかりませんでした。
どこの情報でしょうか?
参照26:栗原子公
参照27:中臣烏賊津
「中臣氏」の支族として、上記に「49氏」を並べて、「14氏」について考察しました。
一番の問題として、「藤原朝臣 出自津速魂命三世孫天児屋命也」、
「大鹿首 津速魂命三世孫天児屋根命之後也」、
「菅生朝臣 津速魂命二世孫天児屋根命之後也」
とある様に、「天児屋命」と「天児屋根命」の問題があります。
多くのサイトでは、「中臣氏」の祖は「天兒屋根命」という書き方をしています。
上記の「藤原朝臣」が「天児屋命」であるのに対して、
「大鹿首」と「菅生朝臣」は「天児屋根命」を使っています。
この「天児屋命」と「天児屋根命」は、別人だと思いますが、
いつの時代かを知る情報がありません。
ただ、「記紀」では「天児屋命」を使っているので、こちらが古く、
「天児屋根命」は新たしい人物だと思います。
今後、もっと掘り下げて、系図化しようと思います。
ちなみに、「鹿島神宮」に関する資料には「中臣部兎子」が登場しますが、
これは、参照28のサイトにある「中臣鹿島連」の家系らしいです。
また、不明な「姓(かばね)」には、「中臣鹽屋連」があります。
この、「中臣鹽屋連」には、「中臣鹽屋連枚夫」がいます。
しかし、武内宿禰系の「鹽屋連」も存在していて、判断が難しそうです。
参照28:社家の姓氏-中臣鹿島氏-