是於(これお)左の御目洗う時、成る所の神名天照大御神
次に右の御目洗う時、成る所の神名月讀命
次に鼻を洗う時、成る所の神名建速須佐之男命(須佐の二字は、音を以ってす。)
右件、八十禍津日神以下 速須佐之男命以前
十四柱神者(は:短語)御身滌(あら)う所に因って生まれる者也
此の時、伊邪那伎命、大いに歡喜し詔(みことのり)す
吾者(は:短語)生生(せいせい)の子而(に)生まれ終わりに三貴子於(お)得る
即ち其の御頚(くび)の玉緒
母由良邇(此の四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。もゆらに)
由良迦志(ゆらかし)而(に)取り天照大御神賜り之(これ)而(に)詔(みことのり)す
汝の命者(は:短語)所知(しょち)の高天原而(に)事依り(ことより)賜る也
故、其の御頚(くび)の珠の名を御倉板擧之神(板擧の訓は多那と云う)と謂う
次に月讀命に詔(みことのり)す
汝の命者(は:短語)所知(しょち)の夜之食國に事依る也(食の訓は袁須と云う)
次に建速須佐之男命に詔(みことのり)す
汝の命者(は:短語)所知(しょち)の海原に事依る也
故、各(おのおの)随(したが)う
速須佐之男命が、賜った命(みこと)之所知(しょち)に依る中看ると、
命の國に不治所(なおらないところ)あり
而(なんじ)八拳須(やつかひげ?)于(に)至り、心の前で啼く、
伊佐知伎(伊自(より)下の四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。いさちぎ)也
其の泣く状(かたち)者(は:短語)青山(せいざん)が枯れ山の如く泣いて枯れ、
河や海者(は:短語)悉く泣いて乾き
是(これ)を以て惡神の音の如く、皆、蝿の狭さ満ちて、萬物之(これ)悉く妖しさを發す
故、伊邪那岐大御神、速須佐之男命に詔(みことのり)す
何の由(よし)以て泣く
事依る之(この)国而(に)不治所(なおらないところ)伊佐知流(?)にて哭く
爾(なんじ)答て白(もう)す
僕者(は:短語)妣(なきはは)の國根之堅州國、故に哭き、罷(や)めるを欲す
爾(なんじ)伊邪那岐大御神、大いに忿(いかり)て怒って詔(みことのり)す
汝者(は:短語)此の國に住む不可(べきでない)ので然れ
乃ち、神夜良比爾夜良比(夜自(より)以下七字、音を以ってす。やらひにやらひ)を
賜う也
故、其の伊邪那岐大神者(は:短語)淡海之多賀に坐る也
天照大御神
ここから、「天照大御神」・「月讀命」・「建速須佐之男命」の
3人の話に入って行きます。
最初は、「天照大御神」からです。
しかし、不自然な事に、「八十禍津日神」〜「上筒之男命」までは、
「あらう」の漢字は「滌」ですが、3人の場面では「洗」を使用しています。
もし、同一の場面であれば、「滌」を使えば良いはずです。
「八十禍津日神」〜「上筒之男命」と「天照大御神」・「月讀命」・「建速須佐之男命」
では、場面も違えば、場所も異なる可能性が高いように感じます。
他にも「是於(これお)左の御目洗う時」の「是於(これお)」は何を指すのか?など、
分からない事もあります。
「洗」:
「流れる水」の象形と「足あとの象形と人の象形」
OK辞典
(「さき」の意味だが、ここでは、「湔(せん)」に通じ
(同じ読みを持つ「湔」と同じ意味を持つようになって)、
「あらう」の意味)から、水で「あらう」を意味する「洗」という
漢字が成り立ちました。
滌は、「中瀬」の「滌」に詳しく書きましたが、比較しても同じ様には思えません。
違いを調べると、2つほどサイトが見つかりました。
参照1のサイトは「洗」の漢字について考察していて、
「洗は水を流して汚れを分散させる情景を暗示させる。」と記載しています。
参照2のサイトには、「滌」と「洗」の範囲について記載では、
「洗う>濯ぐ>滌う」と使用する範囲が狭くなり、
「「滌う」は洗いすすぐ意で、洗に似ているが用途はさらに狭い」としています。
上記により、「滌」を特殊な洗い方と考えると、「八十禍津日神」〜「上筒之男命」は、
精密な物を扱っていたと言えるように思えます。
逆に、「天照大御神」・「月讀命」・「建速須佐之男命」の「洗」は、
「左目」・「右目」・「鼻」となり、
単に「洗顔」をしていたのではないか?と考えてしまいます。
しかし、顔の部位に当てはまるような「地位」に就いていたと解釈出来ます。
「天照大御神」は、「左目」なので、「高天原」の「左半分」の索敵等を担い、
「月讀命」は、「右目」なおで、「高天原」の「右半分」の索敵等を担い、
「建速須佐之男命」は、「鼻」なので、「伊邪那伎命」の「後継者」として
臨機応変に活動していたと考える事が出来ると推測しています。
あと、検索すると「天照大御神」と「建速須佐之男命」が「姉弟」とありますが、
そもそも、順番だけで「年齢」を考えないのは、どうなんでしょうか。
巌流島の戦いの「宮本武蔵」と「佐々木小次郎」も年齢差が20以上あり、
宮本武蔵が若かったとも云われています。
そこから考えても、記載される順番は単に、神名を命名された順番でしか無く、
年齢を全く考慮していていないと考えています。
参照2:あらう
本家である「阿毎一族」は、「聖徳太子」が「西の天子、東の天子」としている事から、
古代中国が思想していた「天帝」の子である「天子」を思想していた可能性があります。
分家である「天(あま)一族」も、元々は「天帝」や「天子」から、
「阿麻」を「天」の漢字に当てたと思うので、本家と同じ思想だと思われます。
しかし、分家は当初、「高天原」の中でも、勢力は小さかったのが、
徐々に勢力を大きくし、発言力を高めたのだと考えられます。
その後、「大御神」という最上位の地位に、「天(あま)一族」で初めて昇格を果たし、
「天(あま)一族」に脚光を浴びせたので、「天照」にしたのだと推測しています。
検索すると、「天照大御神」を「太陽神」と同一視するようなサイトが、
ちらほら、見る事が出来ますが、「天帝」を調べると分かりますが、
参照4のサイトには「天帝は普段人の前に姿を見せない。」とあるので、
「太陽神」と同一視するのは、明らかに間違いだと考えています。
「太陽神」だと言うのならば、「日子」になると思いますが、
「天(あま)一族」が「大御神」の地位に昇格できたのは、
「日一族」を組み込めたからではないか?とも考えています。
「日一族」を組み込む事により、
「天(あま)一族」は、「天体観測」を、「日一族」が「太陽観測」をして、
そのデータを基に活動できて、予測が当たるようになったのだと思います。
上記を意識して、「左目を洗う」を改めて考えると、
「滌」と「洗」で「「高天原」の「左半分」の索敵等を担い」と記載しましたが、
「左(西)」から始まるのを「夜の動き」とする解釈が出来ます。
しかし、「月讀命」は「右目」となっていて、同じ様に解釈すると、
「右(東)」から始まる「日の動き」となり、
「月」の「観測」をすることが出来ません。
そうすると、逆になっている可能性として、
「伊邪那伎命」から見ての「位置」ではないか?と推測できます。
ただ、「月」は太陽が出ている間でも、観測は可能ですし、
情報も乏しく、判断が難しいです。
ちなみに、多くの方は「女性」と思っていると思いますが、
現代人の感覚でしか無く、本当にそうなのかは、情報不足だと思います。
あと、「大御神」は当時の「最高位」で、グループ毎に候補者を選出し、
競わせるなどして当選者を決めたのだと、考えていますが、
実際にどの様な事をしていたのか、現存する資料は無いと思うので気になります。
参照4:天帝
多くの方は、1人の「天照大御神」という人物と思っていると思います。
しかし、速須佐之男命の7世孫大國主神以降の「葦原中國」の場面を見て分かる通り、
場面の前後で、「天照大御神」を使用していますが、同一人物ではありません。
また、「葦原中國」の場面で、
天照大御神之命以 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者(中略)告而
更還上 請于天照大神
と、なぜか、「天照大御神」と「天照大神」の記載があります。
「大國主神」の家系紹介の前までは、「大御神」に安定して昇格する事が出来たが、
「葦原中國」の場面の時代では、「大御神」に昇格失敗した人物が、
一族から出たと言う事なのだろうと考えることが出来ます。
この一箇所以後は、「天照大御神」が使われ、俗に「神武天皇」の時代の記載に、
「高倉下答曰 己夢云 天照大神・高木神二柱神之命以」とあり、
「天照大神」とあり、ここまでで二箇所「天照大神」が使用されています。
「脱字」とする人もいると思いますが、「葦原中國」の場面では、
十分に確認する事が可能ですし、これは、「脱字」では無く、
「大神」止まりの人物が、最低でも2人は存在した証拠だと思います。
では、普通であれば、「大御神」昇格出来ないのは、恥だと云われかねないのに、
なぜ、「隠さず」に記述出来たのでしょうか?
もしかしたら、「大御神」に昇格出来なくても致し方ない理由があるかも知れません。
可能性としては、「大御神」をどの様に決定しているのかは不明ですが、
他の一族もしくは集団で「大御神」に昇格した人が若い場合、
先代が大きなミスを犯して、次代が一時的な降格だったなどがありそうです。
日本書紀編で継承に関しては、追求して行きたいと思います。
検索して、300近くの神社を調べると、
「天照大御神」・「天照大神」・「天照皇大神」の表記が95%以上でしたので、
今回は通常の様に纏めませんでした。
そこで、気になった事がありました。
「宮崎県高千穂町」の「天岩戸神社 西本宮」の祭神として、「大日孁尊」ですが、
対になっている「東本宮」の祭神は「天照皇大神」となっています。
この神社の様に、「天照皇大神」と「大日孁尊」を分けているのは、
調べてみた感じでは、ここだけの様です。
なぜでしょう?
他の神社は両立ではなく、片方のみを祭神としています。
「天照の意味」で書きましたが、
「日一族」が後に「天(あま)一族」に組み込まれた事により、
「天照大神」への立候補や推薦が可能になった為に起こったと解釈できます。
そもそも、「大日孁尊」には「日」の漢字が使用されているので、
「日一族」が「天(あま)一族」に組み込まれた、傍証となると思っています。
「大日孁」は、日本書紀のみの表記で、祭神表記で数種類、異なったのがあったので、
日本書紀編の際に追求していきたいと思います。