費彌國氏、洲鑑を賛えて曰く
漠(ひろい)海を象(かたどる)而(に)、變える地于(に)縮まるは、西乃后稜と爲す
海、天に而(に)遠くに於いて東に矣(矢が当たって止まった形)
又、洚(洪水)を經て火災す
西の族(やから)漸く入り、
神の牛首者(は:短語)、鬼の蛇身者(は:短語) 吾、號(よびな)を神子に詐(いつわる)
農(農地を耕す)を造(つくり)、犧(いけにえ)を黄の昊(なつそら)のもと、
陶(やきもの)を濫(みだりに)、蕃(獣道)の祀(まつり)で命の虞(おそれ)
予(かねて)自(より)聖(きよい)と謂う
舜と與(ともに)寧(むしろ)堯(たかい)識(しる)
東の族(やから)者(は:短語)、翅(はね)報せる也
渾族(とよくこん)には君が有り
夏禹自(より)肇(はじめ)と雖(いえども)然し、
禹は沄(水が渦巻いて流れるさま。)也 夏から繾(離れない)也
及び、昌(あきらか)に發(おこり)、而(すなわち)羗蠻が帥(ひきいて)出る
夏賂(まいない)以って猾(みだれる)
之(これ)戈(ほこ)繼(つぐ)を以って 遂に、臣を以って弑君致す
且つ、咋人(ひけらかす、得意気に見せつける)之刑を以って施(ほどこ)す
伯(おさ)而(に)唱(となえる)が不成(ならず)
不克(よくならず)而(に)征(うつ)を和(やわらげる)
津(港)を防ぐ于(に)勇ましく陽(いつわる)
而(すなわち)節(区切り)之(これ)畔(あぜ)を易(かえて)賣る
周の師の次を焉(ここに)牧とす
郊戰于(に)力で方(まさに)淮(淮河)を徐(おそく)移動する。
而(すなわち)姜(姜水)從い、商の祀(まつり)之(これ) 内に火をし、
矣(矢が当たって止まった形)にて終わりて亡くす
潢(水が深く広いさま。)にある浮いた潘(水流が渦巻く)海から北(にげて)退く
宛(あたかも)南を辟(ひらく)
朱(あか)を嘻(やわらげ)之(これ)宗に申(もうす)
倒れた兵に賄(まかない)を 毒(なのり)、東に委(まかせ)、盡(ことごとく)頽(崩れ落ちる)
惟(おもうに)武伯と與(ともに)智淮殿を而(すなわち)焉(ここに)止める
力を欲し、氳(さかん)に晋(すすむ)之(これ)原を保つ
賖(贅沢する)虜(とりこ)に於いて、智淮、子の叔釐から奪う
城于(に)葛(くず)が零(おちて)、焉(ここに)基(もと)を以って舍(やどる)
國の號(よびな)辰沄殷の時の人、又、智淮氏が燕を稱(たた)えた
燕と邵を別けるを以って 、姫の志を降(おりて)發(つかわす)
箕封が賄(まかない)を以って、殷と郤(地名)、之(これ)叔(よし)
韓に燕が來攻し、乃(すなわ)ち、焉(ここに)都を婁(つな)ぎ、
翳(越君主)の父が徙(うつる)
傳(つたえて)云う
翳父(越君主)と奚(モンゴル高原東部から中国東北部の遼河上流に存在した遊牧民族。)
を婁(つなぎ)者(は:短語)旦(あきらか)に契(ちぎる)
爰(遊牧民族)は岣(衡山(コウザン)の主峰)の秘めた處(ところ)で麻をとる也
又、云う
奚旦(あきらか)に契(ちぎる)
爰の神子、麟(鱗のような斑紋がある馬)を馭(あやつる)が叡(あきらか)に耆(おいて)、
別の號(よびな)也
當(まさに)武伯山軍の糾合于(に)冀(こいねがい)、跳(はねて?とんで?)破る
南に於いて、偶(たまたま)寧羲騅、其の舟を以って、
師及び弩(いしゆみ)は旅于(に)會わせて、濱(はま)を渝(かえる)
令(うながし)高く擧げて、國より前を走る
歌いて曰く
鄲(邯鄲(カンタン)、趙の都)、
孟(はじめ)珂(白瑪瑙)の番(つがい)達を謨(はかり)讃(ほめて)納(おさめる)
銍(鎌)が孟(はじめ)隕(おちる)が唫(つぐむ)
秦率いる伊(聖職者)朔(きた)とき、黔(くろい)ものを牟(むさぼり)突(つく)
娜(しなやか)で旺(うつくしい)喃(よびかけ)を孟(はじめ)嗚(むせぶような声?)を壓(おさえる)
武伯、夏を追って獲る莫(なかれ)
且つ、寧羲騅を斬り、之(これ)を以って徇(したがう)
諸(もろもろ)の族(やから)躍(おどって)喜び、應(まさに)響く
傳(つたえて)謂う
入る于(に)兪(しかり)之(これ)誅(ころす)
是に於いて、燕を降し、韓滅し、齊薄く、周破る
辰殷大記曰く
殷、叔老、子が無くに當(あたり)、尉を越えて、之(これ)將(まさに)東于(に)旋(もどる)
矩(さしがね)で密(こまかく)嗣ぎ養(やしなう)と爲す
壽(ひさしく)八十九を尋(たずねて)殂(ゆく)
督(ただし)國密かに抗(あらがう)賁(いきどおる)
矩(さしがね)立つ時、兮(地名)を尹(おさめて)歩く
乙酉秋七月也
繼ぐ前に賛(たたえて)言うを曰く
爾(なんじ)三百餘載せて來て嘯(うそぶき)跳(おどる)
漸(ようやく)運が不利(りない)時、伯(おさ)を二つに分けると爲す
弁(かんむり)に於いて一連の 秦一于(に)入り、
秦自(より)是(これ)豪(えらく)益(ふえる)
燕、亦、加えて彊(つよく)、
殷、遂に孛(草木が茂るさま)を以って、勃(突然)涘(水際)の大水を界(さかい)と爲す
東而(に)幹之壤(つち)を曼(ながく)灌(そそぎ)讓(ゆずる)
是於(これにおいて)、殷、大(おおいに)君の德を築の味(内容) で諏(はかる)
孛(草木が茂るさま)の前が斐(あや)で禮水(中国湖南省北部を流れる川の名)が險(けわしい)
岱(山東省にある山の名。泰山の別称。)から海へ背(そむき)、
盟(ちかい)により介(たすけて)敦(あつい)
薛(周代の国の名。現在の山東省に位置する。)の
葛(かたびら)で柵(しがらみ)を右踰(足でこえること)
母を撻(鞭打つ)于(に)牟(むさぼる)而(に)固めると爲す
大きな辰(道具)を脇に於いて、之(これ)親而(に)托(たのむ)と爲す
依って孛(草木が茂るさま)を以って涘(水際)で渤(水がわきたつさま。)と爲す
外には塹(ほり)、内には新たに興す神廟、祭察(あきらか)亶(ほしいまま)賀(よろこび)、
號(よびな)を唫(口を急ぐこと) と爲す
城を和(なごやかに)餼(おくる)
鞅(むながい)を委(まかせて)王に贈(おくる)
蠙(虫に従う?)を以って劍(つるぎ)副(そえて)之 (これ)東を表(あらわす)
靈(より)[崛(たかい)[言+冉]龍(たつ)の髯(ひげ)を載せる所、之(これ)物を貽(おくり)云う
又、宇越勢が祠(まつり)を配し、旻(そら)訶(せめて)通(かよう)
宇越米、旻(そら)訶(せめて)通(かよう)于
之(これ)山 密(ひそかに)單(ひとえ)欝(ふさぎ)占める
焉(ここに)國を振って復(もどす)
第二十一章〜第三十章
「費彌國氏洲鑑賛曰」は「費彌國氏洲鑑を賛えて曰く」と解読できますが、
「費彌國氏洲鑑」が何なのか不明です。
参照78のPDFにある11の初めの方に、「以上のことから、『遼史』の「費彌國氏洲鑑」とは、
フェニキヤ族国家の前史だったのである。」とありますが、
そもそもの証拠が足りません。
フェニキア人の国は、紀元前一世紀頃には、すでに危機的状況で、
その後に、滅んだと思われているようです。
なので、多くの世代を経て、古代中国にたどり着いたとしても不思議では無いです。
ですが、『遼史』の「費彌國氏洲鑑」がどこにあるのか、確認出来ませんでした。
「遼史」を国会図書館からダウンロードし、簡単に見ましたが、
それらしき、目次が無いので、本当にフェニキア人が関係しているのか不明です。
また、参照78のPDFでは、「費彌國」を「ひみこ」としていますが、
そもそも、フェニキア人であるならば、発音等が違っている可能性もあり、
たぶんに違う風に読むのだと思われます。
なにより、「國」を仮に、万葉仮名で読んだ場合、「こ」とはなりません。
一部では「く」に入っていますが、入っていないサイトもあります。
なので、「費彌」が「ひみ」と読めるから、
こじつけて「國」を「こ」としているのだと思います。
参照78:(2)かあか祭りの場合一
「渾族有君」は、「渾族(とよくこん)には君が有り」と解読できそうです。
ここにある「渾族」は、検索すると、
「古代中国の青海地域に4世紀から7世紀にかけて拠点を置いた遊牧民族」
とありました。
詳しい事は、参照79のサイトにありますが、
「吐谷渾」の記事は、少々異なっているようです。
中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。
3世紀から7世紀まで(286年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、
Wiki
チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。
上記のように、検索では「4世紀から7世紀」とありますが、
こちらでは、「3世紀から7世紀」とあります。
「吐谷渾」は「地域の長」であり、人名でもあります。
なので、「契丹古伝」にある「渾族」は、派生した一族の可能性もあります。
参照80のサイトでは、「吐谷渾」の後裔の「渾族」について書いています。
もしかしたら、やはり、派生系が存在していたのかも知れません。
しかし、「吐谷渾」は、「西方」を拠点にしていたが、
契丹は「北アジア」に拠点を置いていたので、「吐谷渾」と「渾族」の関係は不明です。
参照79:吐谷渾
参照80:トウ(土)族
「及昌發帥羗蠻而出」は、
「及び、昌(あきらか)に發(おこり)、而(すなわち)羗蠻が帥(ひきいて)出る」と解読でます。
ここで、「羗蠻」ですが、参照81にあるのみですが、内容としては下記のようになります。
西漢武帝年間匈奴人,因滅門獅群而收養獅童,獅童的養父,
被長大後的獅童殺死,羅剎教銅護法的獅王魔功介紹時登場
「西漢」とは、調べると「前漢」の異称らしいです。
また「武帝年間」ですが、調べると「前141年3月9日〜前87年3月29日」と出てきます。
しかし、不思議なことに、「羗蠻」の名は無いです。
なぜ、これだけの文章で「羗蠻」の事を言ってると分かったのでしょうか?
不思議です。
たぶんに、上記の文以外にも存在していたのでは無いか?と思っています。
「羗蠻」の名の「羗」ですが、色々と調べても「羌」となってしまい、良く分かりません。
ただ、「契丹古伝」にあるということは、「羌」と「羗」は異なる部族であると思われます。
参照81:羌蠻| 新著龍虎門非官方维基
「惟武伯與智淮殿而止焉」は、
「惟(おもうに)武伯と與(ともに)智淮殿を而(すなわち)焉(ここに)止める」
と解読できます。
「武伯」は、調べると「北周の禁衛軍の六率の長」という職に就いている人物と思われます。
しかし、「智淮殿」も人物名と思われますが、調べても分かりませんでした。
この文が正しいのであれば、「武伯」と「智淮殿」が二人存在したことになります。
日本では、女性が「〇〇殿」と名乗る事もあり、ここで書く「殿」も同じと考えると、
「智淮殿」は、「智淮」という名を持つ何かの「殿」にいる女性で、本名では無いでしょう。
そうなると、「智淮殿」が誰を指すのかの調査は難しいと思います。
さて、次に「北周」についてですが、「556年〜581年」存在した國のようです。
そうなると、先程の「羗蠻」は「前漢」で、「前141年3月9日〜前87年3月29日」、
そしてこちらは、「北周」で「556年〜581年」となり、大きく異なります。
章をまたぐだけで、ここまでの違いは、おかしいように思います。
ただ、「契丹人」にとって、必要だから残したのだろうとは思いますが、
説明が出来ないので、現代人にしたら意味が無いでしょう。
「韓燕來攻 乃徙翳父婁都焉」は、「韓に燕が來攻し、乃(すなわ)ち、
焉(ここに)都を婁(つな)ぎ、翳(越君主)の父が徙(うつる)」と解読できます。
ここにある「翳父」ですが、「翳」は、参照82のサイトによれば、
「翳(えい)は、殹・不光ともいい、春秋戦国時代の越の君主。」とあります。
先程も書きましたが、「羗蠻」は「前漢」、「武伯」は「北周」、
そして、こちらは「春秋戦国時代の越」で、「前漢」よりも前の國になります。
「翳(えい)」の子孫が「翳(えい)」を名乗ったとする見解も出来ますが、
その様に考える根拠が足りません。
参照82:翳
「殷叔老無子 當尉越之將旋于東」は、
「殷、叔老、子が無くに當(あたり)、尉越、之(これ)將(まさに)東于(に)旋(もどる)」
と解読できます。
「叔老」ですが、参照83のサイトによると、「春秋戦国期」にいた「鲁国」の人物のようです。
そして、このサイトには、この人物について、下記のように書かれています。
原文:
叔老,他是鲁文公的曾孙、叔肸之孙、子叔声伯之子,《左传》作子叔齐子。
前559年(鲁襄公十四年)春季,吴国到晋国报告自己战败于楚国,
诸侯为吴国策划进攻楚国,鲁国季孙宿、叔老和晋国的士匄、齐国人、宋国人、卫国人、
郑国公孙虿、曹国人、莒国人、邾国人、滕国人、薛国人、杞国人、
小邾国人和吴国人在向地会见。当时叔老作为季武子季孙宿的副手而参加会见,
《左传》说自此晋国人减轻了鲁国的财礼而更敬重鲁国的使臣。前557年(鲁襄公十六年)五月,叔老会郑简公、晋国荀偃、卫国宁殖、宋国人伐许国。
前553年(鲁襄公二十年)秋季,叔老第一次到齐国聘问,《左传》说他是合于礼的。
551年(鲁襄公二十二年)七月辛酉,叔老卒。
解読:
叔老,彼は魯の文公の曾孫です。
叔志の孫で子叔勝伯の子で、『左伝』では子叔斉子と呼ばれている。
紀元前559年(魯相公14年)の春、呉国は晋国に赴き、楚国に敗れたと報告した。
諸侯たちは呉国の季孫子と魯国の叔老、さらに晋の民、斉の民、宋の民、
魏の民を狙って楚国を攻撃する計画を立てた。鄭の公孫会、曹、莊、朱、滕、薛、斉の人々、小朱と呉の人々は襄帝で出会った。
その時、叔老は季無子季孫蘇の代理として会議に出席した。
『左伝』には、これ以降、晋の人々は魯の金銭的贈り物を減らし、
魯の使者をより尊重するようになったと記されている。紀元前557年(魯相貢16年)5月、叔老は鄭建公、晋の荀燕、魏の寧史、
宋の人々と会い、徐国を攻撃した。紀元前553年(魯相公20年)の秋、叔老は初めて斉国に赴き、
「左伝」は礼を守っていると述べた。551 年 (魯祥公 22 年) の 7 月に、老叔父が亡くなりました。
上記のようにあり、文の最後にある「乙酉秋七月也」は、
「叔老」の亡くなった年の「干支」かと思っていましたが、調べると、
「紀元前551年」の「干支」は「庚戌」とのことで、「乙酉」とは異なります。
「乙酉」になるには、「紀元前516年」と「紀元前576年」の、どちらかでしかありません。
「乙酉秋七月也」が、いつを指すのかは、この文からは読み取れません。
参照83:叔老_百度百科