國名
「契丹古伝」では、色々な國名が登場します。
第七章:「塢須弗耶馬(摩)駘記曰 其國所以未嘗隤頽(頺)者 職由潭探上古」
第二十一章:「渾族有君 肇自夏禹 雖然 禹沄也 夏繾也」
第二十二章:「及昌發帥羗蠻而出 以賂猾夏」
第二十三章:「周師次牧焉 淮徐方力于郊戰 而姜從内火之 商祀終亡矣」
第二十四章:「城于葛零基以舍焉 國號辰沄殷 時人〜中略〜殷叔郤之 韓燕來攻」
第二十六章:「武伯追獲夏莫且」
第二十七章:「於是 降燕 滅韓 薄齊 破周」
第二十八章:「辰殷大記曰 殷叔老無子當」
第二十九章:「秦自是益豪 燕亦加彊 殷遂以孛涘勃大水爲界」
第三十章:「於是殷大築味諏君德」
第三十一章:「倚殷居於宛灘」
第三十二章:「至是燕築塞繞曼灌幹城曰〜中略〜及秦滅燕」
第三十三章:「秦忽諸不祀 夫胥子有秩 率其衆來歸 殷舍之白」
第三十四章:「燕瞞說殷曰 請背水而國以禦漢寇 殷納封之姑邾宇〜中略〜
胡藏秦華胄請滅之爲郡以絶後患 漢喜給之兵仗 瞞襲取殷
漢進郡阻徐珂 殷王奔辰 秦氏隨徙 殷亡 瞞乃案智淮氏燕故事
以之紀國曰 朝鮮 始達周武之志也」第三十五章:「徐珂王淮骨令南閭峙 欲爲殷報讐 謀之於漢 漢誓不郡
許以王印爲證 及洛兎出 南閭峙憤恚自刎 子淮骨令蔚祥峙 襲破遼東」第三十七章:「蓋辰者古國 上代悠遠也〜中略〜與殷爲姻〜中略〜
漢寇方薄其先入朔巫達 擊退之 淮委氏沃委氏竝列藩嶺東爲」第三十八章:「伊逗氏者殷密矩王孫所入而繼〜中略〜殷善外計〜中略〜
圍漢幾獲 轉掃弁殷之間 殷乃爲康」第四十章:「秦城寂存嘻 辰沄氏殷今將安在」
第四十二章:「朕之先者出自神子奇契丹燕矣 所謂炎帝者是也」
第四十六章:「我先世葛禹圖可汗」
「耶馬(摩)駘記」とありますが、これは「邪摩台國」の事を表しているのでは無いです。
なにより、「邪摩」と「耶馬」では意味が完全に異なります。
そもそも、「摩」=「馬」としてのは、明らかにおかしいです。
「摩」は「説文解字」では「研也。从手麻聲」とあり、「馬」に変換すべきでは無いです。
なので、「耶馬駘記」と「耶摩駘記」のどちらが、本当に存在したかによって、
意味が大きく変わり、「邪摩台國」から遠ざかるでしょう。
あと、「駘」も「台」の代用としては、違っていて、「説文解字」では、
「馬銜(くつわ)脫(脱)也」とあり、「馬の銜(くつわ)が脱した」事と書いています。
この様に、「耶馬駘記」と「耶摩駘記」のどちらだとしても、合っていないわけなので、
「邪摩台國」と考えるのは、間違いだと言えます。
原文:
渾族有君 肇自夏禹 雖然 禹沄也 夏繾也
解読:
渾族(とよくこん)には君が有り
夏禹自(より)肇(はじめ)と雖(いえども)然し、
禹は沄(水が渦巻いて流れるさま。)也 夏から繾(離れない)也
「渾族(とよくこん)」という一族が、「夏禹」の子孫であると書いています。
良く「夏王朝」は、存在しないという話を、サイトで見ますが、
実際にこの様に書いてあるという事は、「夏王朝」が「王朝」かは別として、
「夏國」が古代中国の古い時代に存在したと言えると思います。
「渾族」については、「第二十一章〜第三十章」の「渾族有君」で少し解説し ていますが、
全く情報の無い一族であるのは、間違いないようです。
後、「禹沄」の「沄」の意味が「水が渦巻いて流れるさま。」と辞典にあり、
これが「渦潮」を指し、「禹」が「治水」したという話に繋がるのでは?と思いました。
原文:
及昌發帥羗蠻而出 以賂猾夏
解読:
及び、昌(あきらか)に發(おこり)、而(すなわち)羗蠻が帥(ひきいて)出る。
夏賂(まいない)以って猾(みだれる)
「羗蠻」については、「第二十一章〜第三十章」の「及昌發帥羗蠻而出」で解説し ています。
「羌」と「羗」が同じだと言うのであれば、
なぜ、「羌」とは書かずに、「羗」とするのか?非常に不思議です。
そこで、比較してみると、全く違っていました。
羌
デジタル大辞泉によると下記のように書いています。
青海地方に住んでいたチベット系の遊牧民族。
後漢時代に陝西せんせい・甘粛に移り、五胡十六国時代に後秦こうしんを建国。
隋・唐代には一 族のタングート(党項)族が有力となり、
その一部は11世紀に西夏を建国。
また、「羊」+「人」で形成されているようです。
そして、読みは、呉音「こう(かう)」、漢音「きょう(きゃう)」、訓読み「ああ、えびす」です。
羗
「シカ科キョン属の動物の総称」で、
読みは「きょん」で、分布は「中国東部・台湾」らしいです。
上記の様に、「羌」と「羗」では、意味が大きく異なるので、
「羌蠻」ではなく「羗蠻」が正しいと思います。
また、「羌」は「青海地方」という古代中国でも「西側」に属し、
「羗」は「キョン属の動物」が多くいる場所で活動していたのならば「東側」だと思います。
「中国東部」で活動していたが、徐々に東に移動し、
朝鮮半島でも活動したと考えれば、ありえると思います。
原文:
周師次牧焉 淮徐方力于郊戰 而姜從内火之 商祀終亡矣
解読:
周の師の次を焉(ここに)牧とす
郊戰于(に)力で方(まさに)淮(淮河)を徐(おそく)移動する。
而(すなわち)姜(姜水)從い、商の祀(まつり)之(これ) 内に火をし、
矣(矢が当たって止まった形)にて終わりて亡くす
「周師」ですが、多分に「周代の官名」である「士師」の事では無いかと思っています。
また、「牧」は「州牧」の事では無いかと思っています。
ただ、「商祀終亡矣」があるので、場面としては、「商(殷)」が終わり、
「周」の時代になった「殷周革命」のあった「紀元前1046年頃」の可能性があります。
そうなると、「周代」には「士師」が存在していましたが、「牧」は参照3のサイトによると、
「綏和元年(紀元前8年)」に「刺史を州牧」と改称したとあります。
これでは、時代が異なっています。
なので、もしかしたら、「周代」以前の「周國」では、
「師」の後に「牧」が存在していたのでは無いか?と考えています。
調べてみましたが、情報は見つかりませんでした。
参照3:刺史 - Wikipedia
原文:
城于葛零基以舍焉 國號辰沄殷 時人又稱智淮氏燕 以別邵燕姫發降志
賄以箕封 殷叔郤之 韓燕來攻 乃徙翳父婁都焉
解読:
城于(に)葛(くず)が零(おちて)、焉(ここに)基(もと)を以って舍(やどる)
國の號(よびな)辰沄とし、殷の時の人、又、智淮氏が燕を稱(たた)えた
燕と邵を別けるを以って 、姫の志を降(おりて)發(つかわす)
箕封が賄(まかない)を以って、殷と郤(周内の地名)、之(これ)叔(よし)
韓に燕が來攻し、乃(すなわ)ち、焉(ここに)都を婁(つな)ぎ、
翳(越君主)の父が徙(うつる)
「國號辰沄殷」を「國の號(よびな)辰沄とし、」と「殷」を分けましたが、
「辰沄殷」が「國の號(よびな)」の可能性を考えました。
しかし、当然ですが、色々と調べても「辰沄殷」では有意義な情報がありません。
「稱智淮氏燕」は「智淮氏が燕を稱(たた)えた」と解読できそうです。
そもそも、「燕」の誕生は、「周武王の弟である姫奭(召公奭)によって、
紀元前1044年に建立されました。」とあります。
つまり、「殷代」には、存在していないと思われます。
ところが、この第二十四章においては、「殷代」に「燕國」が存在した様に書かれています。
どういう事か?と考えると、「燕」には「國」がなく、もしかすると、
小さな地域に「燕」があった可能性がありそうです。
「賄以箕封 殷叔郤之」は「箕封が賄(まかない)を以って、
殷と郤(周内の地名)、之(これ)叔(よし)」と解読できそうです。
「箕封」が「箕子が朝鮮に封された」事を指すとしたら、「賄以箕封」の時代は、
「紀元前1047年頃」という事になりそうです。
ちなみに、本名は「胥余」と言う様です。
また、「殷叔郤之」の「郤」ですが、以前に「周内の地名」と見ましたが、
現在、確認したら、ありませんでした。
そこで、改めて調べると、「春秋時代に晋の献公が建立した国」とあります。
領地は「山西省沁河下流一帯の郤邑(げきゆう)」のようです。
そうなると、「殷叔郤之」の場面が違ってきます。
「郤」が「周内の地名」と見たので、「殷」と「周」で同じ時代を考えれましたが、
「春秋時代の「晋」」となると、西周の初めが「紀元前1046年頃」で、
春秋時代の初めは「紀元前770年」なので、「殷」を滅ぼして「300年近く」経過しています。
あと、「郤」は「山西省沁河下流一帯の郤邑(げきゆう)」であり。
「陝西(せんせい)省の渭水(いすい)盆地」の「周國」とは、近くの地域では合ったようですが、
「周内の地名」とするのは、違うように思えます。
「韓に燕が來攻し」は、戦国時代の事を指していると思われます。
しかし、参照4のサイトにある戦国時代の地図を見ると、
「韓國」と「燕國」では場所が遠く、戦うことが難しいように感じます。
ところが、参照6のサイトにある戦国時代の地図を見ると、
「趙國」と「斉國」が了承すれば、
「燕國」から「韓國」へ戦いを仕向ける事は可能だと思います。
とはいえ、簡単に攻め込む事は出来ないでしょう。
なので、本当に「燕國」が「韓國」へ攻撃したのか?については謎です。
もしかすると、「燕國」の近隣に「韓」という地域があったのかも知れません。
ちなみに、ここに登場する「韓國」は、「朝鮮」の「韓族」ではありません。
参照4:秦(古代中国)の歴史と武将たち【歴史地図・年表付き】
参照5:韓(戦国)
参照6:戦国時代┃中国まるごと百科事典
「武伯追獲夏莫」は「武伯、夏を追って獲る莫(なかれ)」と解読できそうです。
「武伯」は調べると「北周の禁衛軍の六率の長」と出ますが、
そうなると、「夏」とはどこを指すのでしょうか?
「北周」は「556年〜581年」の國らしいので、
「夏」は近くの國もしくは地域の可能性があります。
そこで、調べると、「北周國」には「夏州」が存在することが分かりました。
「夏州」は「北斉國」との境界線に近い場所の様です。
「夏を追って」が表現として正しいとすると、
「夏州」は一度、「北斉國」に取られた時を指すという解釈も出来ます。
しかし、「夏州」を調べても、「北斉國」に占領されたという情報がありません。
参照7:北周
「於是 降燕 滅韓 薄齊 破周」は「是に於いて、燕を降し、韓滅し、齊薄く、周破る」
と解読できそうです。
これを、戦国時代の1場面と考えることも出来ますが、
「趙國」と「魏國」がなく、おかしい状況になっています。
まず、「韓國」が存在したのは、「西周國時代」と「戦国時代」の二つです。
「西周國時代」では、「燕」、「齊」、「周」があります。
「西周國時代」の「韓國」は「周の武王の子で成王の弟である韓叔」が、
「領地の地名を氏とするようになった」と言われている様です。
なので、この場面は「西周國時代」である可能性が高そうです。
原文:
辰殷大記曰 殷叔老無子當 尉越之將旋于東
解読:
辰殷大記曰く
殷、叔老、子が無くに當(あたり)、
尉を越えて、之(これ)將(まさに)東于(に)旋(もどる)
「叔老」は参照7のサイトによると、「春秋時代」の「鲁国」にいた「大夫」の様です。
「大夫」は、宋代以降「医者」を「大夫」と呼ぶようになった様ですが、
ここにある「大夫」は「宋代」以前の話なので、当てはまりません。
調べると、「大夫は卿の下、士の上に位した」とWikiにありました。
なので、「叔老」という人物も、高位だったと思われます。
また、この人物の家系ですが、参照7のサイトには「鲁文公の曾孫」、「叔肸の孫」、
「子叔声伯の子」とあります。
「鲁文公」は、「春秋時代」の「鲁國の第十九代君主」の様です。
この人物が亡くなったのが「紀元前609年」らしいので、
春秋時代に入って「170年近く」経過していたことになります。
あと、「叔老の子」についても調べましたが、全く見つからなかったので、
多分にいなかったのだと思います。
ただ、「魯國の歴代君主」を見ると、不思議なことに、参照8のサイトには、
「魯國第十九任君主」とありますが、参照9のサイトには「二十代」とあり、
一代ずれていることになります。
本来であればありえないですが、何があったのでしょうか?
参照7:叔老- 维基百科,自由的百科全书
参照9:魯
原文:
一連於弁 一入于秦 秦自是益豪 燕亦加彊 殷遂以孛涘勃大水爲界
解読:
弁(かんむり)に於いて一連の 秦一于(に)入り、
秦自(より)是(これ)豪(えらく)益(ふえる)
燕、亦、加えて彊(つよく)、
殷、遂に孛(草木が茂るさま)を以って、勃(突然)涘(水際)の大水を界(さかい)と爲す
「一入于秦」を「秦一于(に)入り」と解読した場合、
「一」とは何でしょうか?
また、「秦自是益豪」を「秦自(より)是(これ)豪(えらく)益(ふえる)」と解読した場合、
「豪(えらく)益(ふえる)」とは、どこの國、もしくは地域の何が増えたのでしょうか?
あと、「燕亦加彊 殷遂以孛涘勃大水爲界」には「燕」と「殷」が登場しますが、
そもそも、「燕國」が登場する時には、すでに「殷國」は亡くなっていたので、
同じ時代に、存在しているはずは無いです。
「殷國」は、「五代十国時代」に「二年間」のみ存在していたようですが、
その時の地図に「燕國」は無いので、「燕亦加彊 殷遂以孛涘勃大水爲界」の文が
いつを題材にしていたのか、全く分かりません。
「於是殷大築味諏君德」は、
「是於(これにおいて)、殷、大(おおいに)君の德を築の味(内容) で諏(はかる)」
と解読できそうですが、先程の「第二十九章」でも書いたように、
この「殷國」がいつの事を書いているのか、全く分かりません。
原文:
至是燕築塞繞曼灌幹城曰 襄平將 又越孛涘渤强行阻斷 二国伐燕克之 踰渝及孤竹
盡復殷故地 及秦滅燕 乃與之約 郤地千里 以孛水爲界如故
解読:
是(これ)に至り、燕、築塞し、曼(ながく)繞(まつわり)城の幹(みき)を灌(そそぎ)曰く將(まさに)襄平、又、孛(草木がしげるさま)を越えて、
强行し渤(水がわきたつさま)で涘(水際)を阻斷す
二国、燕之(これ)伐(そむき)踰(こえて)克(よく)渝(かわる)
及び、竹を盡(きわめて)、孤(ひとり)で殷の故地に復(もどる)
及び、秦により燕滅す
乃(すなわ)ち之(これ)與(ともに)約し、郤(郤国)の地千里、
孛(草木が茂るさま)を以って水の界(さかい)故の如くと爲す
「燕、築塞し、曼(ながく)繞(まつわり)城の幹(みき)を灌(そそぎ)曰く」と解読しましたが、
「築塞」が「曼(ながく)繞(まつわり)」から、「万里の長城」の様な物を想像しました。
そこで、「燕國 築塞」で検索すると、参照10のPDFが見つかりました。
これによると、戦国時代に河北省の北部の北側と東側に長城を築いていたのが分かりました。
もしかすると、これを指すのでは無いか?と思っています。
参照10:燕城
「及び、秦により燕滅す」は、
紀元前222年に秦國により滅ぼされた燕國の事を指していると思われます。
原文:
燕瞞說殷曰 請背水而國以禦漢寇 殷納封之姑邾宇 瞞又說漢曰
胡藏秦華胄請滅之爲 郡以絶後患 漢喜給之兵仗 瞞襲取殷 漢進郡阻徐珂 殷王奔辰
秦氏隨徙 殷亡 瞞乃案智淮氏燕 故事以之紀國曰 朝鮮 始達周武之志也
解読:
燕、殷を瞞(だます)と說(といて)曰く水而(に)背(そむく)を請けて、國を以って漢(漢水?)に寇(あだする)を禦(ふせぐ)
殷、封をして納めて、
之(これ)姑(しばらく)邾(山東省鄒城市の國名)の宇(いえ)を瞞(だます)
又、漢に說いて曰く
胡、秦の藏を華胄(貴族)に之(これ)請われて滅すと爲す
郡を以って後の患(うれい)絶える
漢、兵仗之(これ)喜び給う
殷を瞞(だまして)襲取(奪取)す
漢、郡への進み、珂(白瑪瑙)が阻み徐(おそい)
殷王、辰(辰国?)へ奔(はしる)
秦氏、殷亡に隨(したがい)徙(うつす)
乃(すなわ)ち智淮氏と燕で案を瞞(だます)
故事、之(これ)を以って國を紀(しるす)と曰(い)う
朝鮮、周武之(これ)志により始まり達する也
「燕、殷を瞞(だます)と說(といて)曰く」と解読できますが、
第三十三章で「及秦滅燕」とあり、「秦國により燕國が滅んだ」とあるのに、
この章の一番最初に持ってくるのは、なぜなんでしょう?
また、「殷を瞞(だます)」とした場合、「殷代」に「燕國」が存在する事が前提になりますが、
調べた限り、存在していません。
「殷代」の地図も見ましたが、確かに「燕國」の領地である「北京近郊」は、
「殷代」の領地と近い位置にあり、敵対するのも分かりますが、
存在した証拠がありません。
「燕國」はすでに、「西周代」に存在していた様です。
参照11のPDFの8枚目にある「北京市房山区琉璃河燕国墓地」は、
「燕侯克」の墓だと言われている様です。
参照12のサイトでは、「燕侯克」という人物は「召公奭」の子と言われている様です。
この「召公奭」の没年が、「紀元前1053年」なので、
子である「燕侯克」の没年も「紀元前1000年」より前だと思われます。
これにより、「召公奭」の没年が「紀元前1053年」で、
すでに「殷國」が死に体になっている頃なので、「殷を瞞(だます)」とは、
「殷國」の残党刈りの際に、その様な事をしたと考えられますが、
殷を瞞(だまして)襲取(奪取)す現実にどうだったのかは不明です。
参照11:西周代姫姓諸侯考
参照12:燕侯克
「又、漢に說いて曰く」と解読できますが、この時の「漢」とは、どこを指すのでしょうか?
この文の前には、「殷、封をして納めて、」と「殷國」が出てきます。
色々と調べても、「殷國」の時代に「漢國」が存在したと思われる情報が出てきません。
「漢水」という考えもありますが、「又、漢水に說いて曰く」というのも、おかしい文です。
「胡、秦の藏を華胄(貴族)に之(これ)請われて滅すと爲す」と解読できそうです。
「胡」が「胡國」だった場合、「戦国時代」の事だと思われます。
「胡」の漢字を調べると、意味として、「えびす」、「でたらめ」、「ながいき」などがあり、
「ながいき」だと、文に合わなさそうなので、「胡國」でない場合、
「でたらめ」が入りそうに思います。
あと、文についてですが、「秦の藏」を「華胄(貴族)」から造るように要請されて、
「滅す」とは、どの様な状況なのでしょうか。
「漢、兵仗之(これ)喜び給う」と解読できますが、
この「漢」は「漢水」に代替できそうな文ではありません。
また、この文の後が「瞞襲取殷(殷を瞞(だまして)襲取(奪取)す)」なので、
状況が混雑していて、どの様な場面なのか分かりません。
原文:
殷王奔辰 秦氏隨徙 殷亡
解読:
殷王、辰(辰国?)へ奔(はしる)
秦氏、殷亡に隨(したがい)徙(うつす)
殷王奔辰
「殷王、辰(辰国?)へ奔(はしる)」と解読できますが、
そもそも、「辰」とは何を指しているのでしょうか?
一応、ここでは「辰國」としていますが、そもそも、「辰國」は存在していません。
「辰韓」はありますが、ここには「辰」しか書いていないので、
「辰韓」なのか、それとも「辰國」なのか、それとも、「道具」を指すのか不明です。
上記の文で言えば、「辰(道具)へ奔(はしる)」とは思えないので、
多分に「辰國」なのだと思います。
しかし、先程も書いたように「辰國」が存在していないので、不思議な文になっています。
秦氏隨徙 殷亡
「秦氏、殷亡に隨(したがい)徙(うつす)」と解読できますが、
なぜ、ここでは「秦氏」としているのでしょうか?
他の文では「秦」としています。
また、「殷亡に隨(したがい)徙(うつす)」とは、どういう事でしょうか?
「徙」は、調べると「場所を移動する」とあるので、
「秦氏」が「殷墟」を本拠地にしたという解釈もできそうですが、正しいのかは不明です。
「秦氏」は、日本以外には情報もありませんでした。
「朝鮮、周武之(これ)志により始まり達する也」と解読できますが、
「周武」とは何でしょうか?
「朝鮮」も、どこの時代を指すのでしょうか?
「殷の紂王の一族の箕子」に始まった「箕子朝鮮」でしょうか?
それとも、「衛氏朝鮮」の時代でしょうか?
それとも、「李氏朝鮮」の時代でしょうか?
「周王家」の一族が、「朝鮮」に移動したとする情報がなく、
「周武」が何を指すのか、なおさら、わけが分かりません。
ただ、参照13のサイトに、
「宋微子世家に「武王既克殷,訪問箕子,於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、」
とあり、周の武王自ら箕子を訪問したとすれば、「周武之志」も頷けます。
参照13:箕子
原文:
徐珂王淮骨令南閭峙 欲爲殷報讐 謀之於漢 漢誓不郡
許以王印爲證 及洛兎出 南閭峙憤恚自刎 子淮骨令蔚祥峙 襲破遼東
解読:
徐(おもむろに)淮骨令の王、南閭の峙、
珂(白瑪瑙)を殷に報(しらせて)讐(むくいる)を欲すと爲す
謀(はかりごと)之(これ)漢に於いて、漢に不郡(孤高)の誓(ちかい)をす
王が證(あかし)を許すを以って印(しるし)と爲す
及び、兎を洛(つらねて)出る
南閭、峙(そばだち)、刎(はねた)ことに自(より)憤(いきどおる)恚(いかる)
淮骨令の子が蔚祥の峙、遼東を襲い破る
「淮骨令の王」としましたが、「徐珂王」かも知れません。
しかし、これらの情報が皆無で、全く分かっていません。
「南閭」とは「濊人の名」と参照14のサイトには、
「南閭は28万人を連れて漢に投降した。投降を受けて漢は蒼海郡を設置する」と続きます。
「南閭」が「濊人」ということは、「淮骨令の王」、もしくは、「徐珂王」は、
「南閭」の事を指している可能性が出てきます。
また、「遼東を襲い破る」とある事から、攻撃して戦になったのだと思います。
その事で、参照14のサイトに、「また、『魏書』東夷伝韓条に「桓霊之末,韓濊彊盛,郡県不能制,民多流入韓国。」とあり、濊人が韓人と共 闘して中国の郡県支配に抵抗していた」とあり、
もしかすると、「淮骨令」や「子の蔚祥」が「遼東を襲い破る」とは、
この事では無いかと考えています。
参照14:南閭