最終更新日 2021/12/31

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倭國とは

解釈

01

「倭」の初見は、古事記では、「次生大倭豐秋津嶋」で、他にも「倭田中直」、
「倭淹知造」、「倭國」、「倭之青垣東山」、「神倭伊波禮毘古命」があります。

日本書紀では、「少宮、此云倭柯美野」、「倭文神」を見る事が出来ます。

古代中国史書での初見は、「倭人」と表記される、王充の「論衡」が初見です。

この「論衡」には、周の時代に、「倭人」は「暢草」を献じたと記述があります。

また、参照2のサイトには、

倭人は紀元前1,000年頃から中国で認められていたことになります。

ともあり、この考えに共感します。

「倭人」は日本人を指すのではなく、元々、古代中国で普通に暮らしていた原住民で、
食糧難や戦などで暮らすのが困難になった為、一部の倭人は、以前から交流のあった、
列島へ移住したのだと考えています。

そのように考えると、古事記の「倭田中直」、「倭淹知造」、「倭國」は、
「倭」を誇りに感じていたから、姓(かばね)に用いたのかも知れません。

参照1:倭・倭人関連の中国文献

参照2:倭人が献じた鬯草(暢草)とは何か、周の成王の時。

「倭」の漢字の意味

「倭」と言う漢字が「悪い字」だと、今でも、感じている人がいるかも知れませんが、
検索しても、発信源は分かりませんでした。

本編の「大倭豐秋津嶋」で、「倭」について考察しましたが、
「母系氏族共同体」に出来た漢字(甲骨文字)と解釈すると、
「ひざまつく」とする「女」の由来は奇妙に思えます。

それよりも、真偽不明の「女性の座っている姿」の由来の方が納得出来ます。

古代中国の殷の時代に、「母系社会」→「父系社会」へ転換したと考えられ、
時代を経る毎に、女性は弱い存在だと、一部の男性が悪く言うようになり、
徐々に「悪字」として、認識されるようになったのではいか?と考えています。

また、「倭」の名付けを、「古代中国が付けたから」との内容のサイトもありましたが、
それは、どうなんだろうと思っています。

なぜなら、古代中国は、何回も戦乱の時代にあり、栄枯盛衰も多かったと思うので、
仮に古代中国の殷から、「倭」と付けられて嫌だった場合、
殷滅亡時に、自らの意志で変えれば良いだけなので、使い続ける意味がありません。

それに、姓(かばね)や土地の名、人名に使用しています。

本当に、嫌な漢字をわざわざ、後世でも使うでしょうか?

そこから考えると、「倭」を名乗る事は「栄誉」だった可能性があります。

参照3:【  「 倭 」  と い う 漢 字の 解 釈 】

02

論衡

古代中国や古代朝鮮の史書から「倭人」や「倭國」の記事を抜粋し、
考察して行きます。

その前に、「倭人」=「列島人」ではなく、
大陸にも「倭人」の人々が存在していたと思うので、
史書に出てくる「倭人」がどちらを指すのか、見極める必要があります。

「異虚篇第一八」

原文:

周時天下太平 倭人來獻鬯草

解読:

周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

────────────────────────────────

「恢国篇第五八」

原文:

成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯

解読:

成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

────────────────────────────────

「儒増篇第二六」

原文:

周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶

解読:

周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。

白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

論衡

参照1:倭・倭人関連の中国文献

成王の在位は「前1042年~前1021年」、「鬯草」は参照2のサイトから、
「中国の鬱林(うつりん)郡の名産の鬱金(うっこん)草」らしいです。

現在、九州において、水田での稲作は、
参照4のサイトによれば、「佐賀県唐津市の西南部」にある「菜畑遺跡」が、
紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)で、
現在日本最古の水稲耕作遺跡だとあります。

一部の倭人が、九州に移住し、水稲耕作を安定させるとして、
紀元前1042年から紀元前930年を引いた110年あれば、
現実的にも問題無く出来たと思います。

しかし、紀元前930年頃に水稲耕作していたのが、
倭人なのか、違う種族なのか不明です。

参照4:菜畑遺跡

余談として、水稲耕作の最古が紀元前930年という事で、もう一つ重要なのが、
参照5のサイトによれば、近畿地方へのイネの伝播が、紀元前2世紀頃と遅い事です。

今まで、神武天皇が東征し、
近畿にて天皇に就いて、國を運営して来たとされて来ました。

ところが、紀元前930年と紀元前2世紀と言う大きな差が発生していたとなると、
仮に東征していても、自分達の食糧である「イネ」を使わずに、
近畿で7世紀も生活するのは不自然となり、
近畿に東征していない可能性が高くなりそうです。

この件は、今後、詳しく調査します。

参照5:イネ

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