最終更新日 2025/07/01

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 第五章 邇邇藝命

第五章のまとめ

解説

01

五伴緖1と豐葦原水穗國


豐葦原水穗國

「此豐葦原水穗國者 汝將知國 言依賜 故隨命以可天降」とある様に、
「豐葦原水穗國」と書いていますが、この章の冒頭では、
「今平訖葦原中國之白 故隨言依賜降坐而知者」とあり、「葦原中國」とあります。

まず、この一連の解読ですが、下記になります。

爾(なんじ)天照大御神と高木神之命を以って、
太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に詔(つ)げる

今、葦原中國が平(たいら)に訖(おわり)之(これ)白(もう)す

故、賜る言依に隨(したがい)知る而(に)者(は:短語)降りて坐す

爾(なんじ)、其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に答えて白(もう)す

僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)將(まさに)裝束之間に降りて、
名天邇岐志國邇岐志【邇自(より)志に至るは音を以ってす】より子が生まれ出る

天津日高日子番能邇邇藝命

此の子は降るに應える也

此の御子者(は:短語)、高木神之女・萬幡豐秋津師比賣命と御合、
生まれる子、天火明命、次、日子番能邇邇藝命の二柱也

是(これ)を以って隨(したがい)て之(これ)白(もう)す

日子番能邇邇藝命に科(しぐさ)を詔(みことのり)

此の豐葦原水穗國者(は:短語)、汝が將(まさに)知る國で賜り言依

故、命に隨(したがう)を以って天より降る可(べ)き

正勝吾勝勝速日天忍穗耳命

「太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」は「太子」なので、
「天照大御神」の後継者だと考えています。

天津日高日子番能邇邇藝命

「天津日高日子番能邇邇藝命」ですが、
親が「天邇岐志國邇岐志」だという解釈が出来ます。

この文は、「僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)將(まさに)裝束之間に降りて」
と、「名天邇岐志國邇岐志【邇自(より)志に至るは音を以ってす】より子が生まれ出る」
が本当に同じ情報源なのか気になります。

なぜなら、「僕(やつがれ、使用人)」が「裝束之間」に移動する事が、
なぜ、「子が生まれ出る」事に繋がるのか疑問だからです。

「天邇岐志國邇岐志」と「天津日高日子番能邇邇藝命」を
繋げているサイトもありますが、
普通に考えて「天邇岐志國」の「邇岐志」となり、別だと思います。

これが本当だとすると、「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の子では無いという事になります。

ただ、問題としては、「天邇岐志國邇岐志」が男性と女性どちらなのか?という事です。

「子が生まれ出る」と考えれば、「女性」と考える事が出来ます。

結局、父親が誰なのか?については不明です。

葦原中國

「今、葦原中國が平(たいら)に訖(おわり)之(これ)白(もう)す」の後にある、
「故、賜る言依に隨(したがい)知る而(に)者(は:短語)降りて坐す」の文ですが、
誰が「葦原中國」に派遣されたんでしょうか?

誰かが派遣されたという文がありません。

最初、「爾(なんじ)、其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に答えて白(もう)す」で、
「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」が派遣されたと考えていましたが、
最初にも書いたように、「太子」とある事から、
「高天原」からは動いていないと思います。

ところが、「葦原中國」の話が出た後、話が広がらずに、
「天津日高日子番能邇邇藝命」の話になります。

ここでは「葦原中國」の話は出ていません。

日子番能邇邇藝命

「天津日高日子番能邇邇藝命」は「高木神之女・萬幡豐秋津師比賣命」と結婚し、
生まれたのが「天火明命」と「日子番能邇邇藝命」の二人です。

そして、「豐葦原水穗國」に行くのが、子の「日子番能邇邇藝命」となります。

この話以降、「葦原中國」は登場しません。

また、次に段落の最初に
「爾(なんじ)日子番能邇邇藝命、將(まさに)天より之(これ)降る時、
天之八衢而(に)、上光高天原、下光葦原中國之神居る」という文がありますが、
「上光高天原、下光葦原中國之神」とは何を指しているのでしょうか?

「上光高天原」の「上」とは「高度が高い」事を示していると仮定すると、
「葦原中國」は「高天原」よりも「高度が低い」位置にあると解釈出来ます。

ただ、「天之八衢」ですが、「八衢」は「八の方角に通じる場所」と解釈できますが、
これは「八俣遠呂智」と同様に「隕石」を指すのではないか?と考えています。

「天之」とあるので、「天(あま)なる國」の上に「隕石」が現れて、
光を放ちながら「高天原」や「葦原中國」の方へと落ちていったのでは無いでしょうか。

猨田毘古神

「僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)國神名猨田毘古神也」とあり、
「猨田毘古神」は、誰かの「使用人」だと言うのが分かります。

また、本文にも書きましたが、「猨田毘古神」、「猨田毘古之男神」、「猨田毘古大神」、
と古事記ではあって、3種類しかありません。

日本書紀でも「猨田彥大神」、「猨田彥神」と二種類が見えます。

このため、「猿田」と書くのは誤りです。

「猨」と「猿」が異体字の関係だからといって、正式名は「猨」なのだから、
こちらを使うべきでしょう。

移行

「猨田」から「猿田」になった経緯ですが、古事記」、「日本書紀」、
「先代旧事本紀」までは「猨」を使っているのを確認しています。

「古語拾遺」では、「猨」と「猿」の二パターンがあります。

ちなみに、自分が持っている「古語拾遺 斎部広成撰 西宮一民校注」では、
「猨田」と「猿田」が両方使われています。

参照1のサイトでは「猿田」を使っていますが、「注記147」を見ると
「猿、凞本作「猨」」とある事から、
「古語拾遺」でも、元々は「猨」だったのだと思います。

本居宣長の「古事記伝」も確認してみましたが、こちらも「猨」を利用しています。

つまりは、「猨田」以外は無いという事になります。

ところが、神社の祭神を、本文の「猨田毘古神」に書いていますが、
一件を除き、「猿田」になっています。

これは、非常におかしな話です。

多分、昔は「猨田」を使っていたが、読める人が少なくなったので、
分かりやすい「猿田」に変わったのかも知れません。

ですが、何も問題が無かったのに変更するのも、不思議な話です。

憶測ですが、「猨田」と「猿田」の両方が存在していたが、いつの頃から、
「猿田」の勢力が強くなり、「猿田」が一般的になったという考えも出来ます。

しかし、情報が無いので、調べようがありません。

参照1:古語拾遺ー次世代デジタルライブラリー

五伴緖

「天兒屋命・布刀玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命」の五人を
「五伴緖」と呼ぶようですが、どの様に読むのかは不明です。

天兒屋命

「天兒屋命」は、多くのサイトでは「天兒屋根命」としていますが、
ここにある様に「天兒屋命」が正しい表記になります。

「中臣連等之祖」が「天兒屋命」で、
「中臣鎌足」の直近の先祖が「天兒屋根命」だったのだと思います。

今後、家系図をまとめたいと思います。

天兒屋命」は、こちらでまとめています。

布刀玉命

「布刀玉命」が正しい表記なのですが、「太玉命」が多くのサイトでは使われています。

また、「忌部首等之祖」とありますが、「新撰姓氏録」では「斎部宿祢」があるだけで、
「忌部首」については、見つけられません。

ですが、参照2のPDFでは、日本書紀等にある「忌部首」の痕跡について言及しています。

しかし、記述があるのに関わらず「忌部首」が「新撰姓氏録」では無いのか、疑問です。

もしかすると、「新撰姓氏録」に載る前に、滅んでしまったのかも知れませんが、
「新撰姓氏録」以後の記事にも、「忌部虫名」などが載っているのが、
大いに気になります。

今となっては、調べようがありません。

参照2:忌部首・同子首をめぐって “ ” “ ” - リポジトリ ASKA-R

天宇受賣命

「猨女君等之祖」も「新撰姓氏録」には見えません。

参照3のサイトには、面白い事が載っているので、その部分を見ていきます。

猿女君氏:

これは比賣陀君氏の別名でまったく同じもの。

「ひめだ」はどこかわからないが本家主流氏族の所領(本貫)の地名、
「ひえだ」はひめだの訛りで分流氏族が今の奈良県大和郡山市の当該地に
やってきて土着した時に地名となったのだろう。

比賣陀が稗田に訛ったのはかなり早く、推古朝の頃には稗田といっていたろう。

「さるめ」は職掌の名、比賣陀君が猿女君を名乗ったのはかなり遅く、
天武朝の頃かと思う。

他氏族の例から類推すれば正確には「比賣陀の猿女の君」といったのであろう。

その直後まもなく猿女君は没落したと思われる。

律令国家ができて宮中祭祀の重点が「神がかり」から
ますます「儀礼祭式」に移ったこと、文書行政が整い 『日本書紀』が編纂された一方、
自国の伝承よりも漢籍史書の故実の講義が催されるようになり
「語部」の存在意義が段階的に抹消されて しまったことが原因であろう。

猿女君が後述のように小野氏の支配下に入ったのはあるいはこの頃やも知れぬ。

AD759年には「君」の 字は「公」に変更されて「猿女公」となったが
その頃はすでに問題外の存在であった。

「比賣陀君」や「猿女君」という氏族名が残ったの は
まったく記紀編纂時のタイミングによる。

猿女氏は弱小氏族としてその後もしばらく歴史に残ったが、実は猿女氏は、
古くから山城国の 小野臣氏と近江国の和邇部臣氏の支配下にあった関係で、
弘仁四年(AD813年)の太政官符によると、
当時すでに宮中に出仕する猿女 も猿女公の女性ではなく小野臣や和邇部臣の女性が
猿女として出仕する事態となっていた。

これは「小野猿女」「和邇部猿女」といわれて いる。

一方、稗田氏は『西宮記』によると延喜二十年(AD920年)の宮中の猿女の人事について
先日死去した稗田福貞子の後任として 稗田海子を補充したとあるだけで、
これ以降は消滅。

なお天之宇受賣命を始祖とするのは、
語部として仕える者の霊統における始祖という意味で、血筋の話ではない。

血筋と無関係に誰でも自 分の職業の元祖である神を職能上の守護神・祖神として
祀っていたのが、奈良時代には血統上の祖先と混同していた。

比賣陀君は上述の通 り、開化天皇皇子・日子坐命の孫、
兎上王(うながみのみこ)の子孫である。

兎上王は垂仁天皇皇子・本牟智和気命をめぐる神秘的な事件 で活躍した人で、
霊感の強く神事に仕えるにふさわしい人物だったろうと推察される。


女系の問題と稗田氏の無姓について:

なんとなれば、父がもし卑俗な庶民でなく小野氏や和邇部氏ならば、
その女性は父方の小野氏、和邇部氏を名乗ったろう。

すなわちそれが上記の史料に表れる「小野猿女」「和邇部猿女」なのである。

稗田氏がもし公姓で、父が稗田氏ならば当然、公姓を名乗ったはずであるが記録にない。

なぜならこの氏族の職掌として母が猿女であるほうが採用に有利であるが、
父が稗田氏で母が猿女という場合、その夫婦は近親婚である可能性が高くなる。

当時は現代と異なり近親婚に対する忌避感は皆無に近かったのであるが、
氏族の生き残り策として(皇族もそうだが)支配-被支配の関係にある
氏族間での婚姻が一般的である。

必然的に同族内での近親婚は稀少となり特に稗田氏の場合、
主人筋に当たる小野氏や和邇部氏との婚姻が多くなるだろう。

そして男児が生まれても氏族の職掌柄、男では宮中には仕事を得るのが難しいので、
山城や近江の本拠地の経営にあたることになる。

この結果、歴史上の記録には小野臣や和邇部臣ばかりが残り
「稗田公」という記録がないのである。

母が稗田氏の出身で、かつ小野氏や和邇部氏を父にもたないケースは珍しかったろうが、
母親の宮中出仕の経歴が評価されていれば、たまたま父が庶民の出でも採用された。

それがカバネをもたない稗田氏の女性で、
上述のごとく平安前期にたった2人だけが記録にあるにすぎない。

後世の系図では稗田阿礼を中臣氏の一族とする説がある。

中臣黒田の孫・中臣忍立の子が稗田阿礼という。

有名な藤原鎌足も中臣黒田の子孫だが世代数でいうと
鎌足より一世代前となりかなり不自然。

中臣黒田の父は中臣鎌子で、この藤原鎌足の前名も同じ中臣鎌子だが別人であり、
こっちは欽明天皇の頃の人である(『日本書紀』にも出てくる)。

この系図はこのままでは史料的価値がないが、
稗田阿礼の父母や祖父母が中臣氏や秦氏と何らかの縁続きであることには信憑性がある。

猿女君氏

まず、「猿女君氏」ですが、これは「猨女君」が正解で、時代が下ることに変化し、
「猨」が「猿」へと変化したのだと思います。

それから、「比賣陀が稗田に訛ったのは」としていますが、
本当に「訛った」のかについては、いろいろな観点から、検証が必要だと思います。

結局、過去の当時の状況からではなく、現在に残る情報から考えているので、
その当時、「訛った」のかについては、現代の自分たちでは分かりません。

あと、「その直後まもなく猿女君は没落したと思われる。」とありますが、
「新撰姓氏録」に載せるかどうかに、「没落」しているかは関係ないと思っています。

なぜなら、「猨女君」は「君」という「姓(かばね)」を貰っているので、
「新撰姓氏録」に載せないという選択肢は無いと思います。

なにより、「新撰姓氏録」に載っている全てが、没落していないのかどうかは、
現在では分かりませんが、「全て」では無いと思います。

また、「君」は古代から使われていたと考えられますが、
時期としては、「西暦」以降だと思っています。

参照3:猿女君 - ウヨペディア

女系の問題と稗田氏の無姓について

「この結果、歴史上の記録には小野臣や和邇部臣ばかりが残り
「稗田公」という記録がないのである。」ですが、
この「記録」という言葉の意味の捉え方次第だと思います。

「記録」が無いと言いますが、長い年月の間に、水害などの災害によって、
「記録」が消失などで、「記録」自体が無くなっている事もあるでしょう。

例えば、神社も災害や戦(いくさ)の飛び火などによって、
焼失や紛失したという事は、調べていると多くあります。

なので、「記録」が無いのではなく、焼失や紛失で消失しただけと考えると、
「稗田公」も、本来は記事が存在していたと言えると思います。

稗田氏

稗田阿礼で有名な稗田氏は、
通説では、『弘仁私記序』に稗田氏は天鈿女命の後裔とあることから
猿女氏の同族もしくは末裔とされる。

実際、平安時代でも宮中の猿女が稗田氏から出仕していた例として
稗田福貞子、稗田梅子がいた(詳細後述)。

この通説に対する反論として、
猿女氏は君姓(きみカバネ)を有するが稗田氏は無姓であることを根拠として、
両者は関係ない別々の氏族だとする説もある。

しかし『新撰姓氏録』などをみると
始祖が同一人物であったり氏族名が同名であったりしても、
カバネが異なっている例や、有姓の氏と無姓の氏が併存している例がいくらもある。

従って、通説に従いながらも、
猿女氏が主流で稗田氏が支流分族のようにみるのがよい。が、
元々は同一氏族であることは動かないと思う。

これも参照3のサイトからの引用ですが、「猨女君」は「猨田毘古神」で書いたように、
「古事記」、「日本書紀」、「先代旧事本紀」、「古語拾遺」が「猨」を採用しています

なので、基本形が「猨」なのは明白で、「猿女氏が主流で稗田氏が支流分族」ではなく、
その逆と考えられます。

その方が納得出来ます。

また、「平安時代でも宮中の猿女が稗田氏から出仕していた例」と書いていますが、
紀元前である古代と平安時代では、色々と異なるので、
比較材料とするのは間違っていると思います。

平安時代に「猿女」が「稗田氏」から出ていても、それが全てではありません。

その過去に、どの様な事があって、その様になったのかは不明ですが、
「古事記」、「日本書紀」、「先代旧事本紀」、「古語拾遺」の史書が「猨」を
使っているので、「猿女」ではなく「猨女」と書いてあったと思います。

平安時代の事ですが、「源高明が撰述した有職故実・儀式書。」と言われる
「西宮記」があり、そこに、「稗田福貞子」の事などが登場しますが、
「猨」だったり、「猿」だったりと統一していません。

この事は、現物を見ていないので、本当に「猿」だったのかなどは不明です。

ですが、「猨」も使われている様なので、
「猿」は後世に書き足されたとも解釈出来ますが不明です。

伊斯許理度賣命

石凝姥命

日本書紀で「石凝姥命」となっているのは不可解です。

本文に書きましたが、「伊斯」=「石」、「許理」=「凝」、「度賣」=「姥」の変化が、
なぜ起こったのか?疑問です。

特に、「度賣」=「姥」です。

「度」は主に「はかり」、「温度」や「度数」を測る「めもり」等の事で、
「賣」を仮に「女性」としても、普通に考えれば、
「「はかり」や「めもり」についての仕事をしている女性」と思うでしょう。

ところが、日本書紀では、若いか、年老いているのか不明なのに、
なぜか、「姥」として「年老いた女性」としています。

確かに、一時期を見れば、その様な状況の時もあったでしょうが、
「石凝姥命」として考えると、
この名を継承した人が「年老いた女性」だと言っています。

これは、非常に不思議です。

ちなみに、神社の表記ですが、「石許利止賣命」、「石凝度賣命」、「石凝留命」、
「石凝嫗命」といった「どめ」を別の漢字にしているのもあり、
最終的に「年老いた女性」の仕事になったのかも知れません。

作鏡連

古事記には、「伊斯許理度賣命者 作鏡連等之祖」とあり、「作鏡連」が正しいのですが、
なぜか、「鏡作」となっているサイトもあります。

確かに、「日本書紀」では「鏡作上祖石凝姥命」となっていますが、
そもそも、「作鏡連」=「鏡作」なのか疑問です。

それに、古事記では「作鏡連」と「連(むらじ)」としているのに、
日本書紀では「鏡作」と「姓(かばね)」が付いていません。

これにより、もしかすると、別の組織では無いかと思ったのです。

神社等については、二章の「伊斯許理度賣命」にあります。

玉祖命

「玉祖命」については、あまり知られていません。

「玉祖連等之祖」とありますが、「新撰姓氏録」にあるのは、下記の3つです。

448 右京  神別 天神 玉祖宿祢 宿祢 高御牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也
627 河内国 神別 天神 玉祖宿祢 宿祢 天高御魂乃命?十三世孫建荒木命之後也

449 右京  神別 天神 忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也

「天津彦火瓊々杵命。降幸於葦原中国時。与五氏神部。陪従皇孫降来。
是時造作玉璧以為神幣。故号玉祖連。亦号玉作連」

高御牟須比乃命系玉祖宿禰

「高御牟須比乃命」は、神社の祭神名にも無い表記です。

なので、ほとんど、情報がありません。

しかし、「宿禰」を使っている事から、大体の授かった時期を割り出せそうです。

これは、以前にも書いたのですが、「宿禰(すくね)」という表記には、
「足尼」、「足禰」、「少名」、「宿儺」などがあったようで、
一番最後が「宿禰」だと思われます。

Wikiでは「大和朝廷初期(3世紀 - 5世紀ごろ)」とあり、
信用するなら「5世紀頃」に「宿禰」が現れたと思われます。

もちろん、全てがでは無いと思います。

例えば、「野見宿禰」が良い例で、この人物は垂仁天皇時代に登用されたようで、
垂仁天皇の時代といえば「3世紀後半から4世紀前半ごろ」とWikiでは書いています。

いつ頃、「野見宿禰」が生まれたのかは不明ですが、
「大和朝廷初期(3世紀 - 5世紀ごろ)」に当てはまっています。

また、当然ですが、「玉祖宿祢」が「八色の姓」で賜った可能性もあります。

これにより、「5世紀頃」と考えると、
「大荒木命」は「垂仁天皇」に近い時代に存在していた可能性があります。

玉荒木命

色々と調べていると、参照4のサイトを見つけました。

内容は下記にあります。

『国司文書 但馬故事記』に、
人皇26代武烈天皇5年夏5月、玉祖宿禰は、その祖、玉荒木命を伊爪丘に祀り、
玉荒木神社と称えまつる。(式内 多摩良木神社:豊岡市日高町猪爪)

ここでは、「武烈天皇5年(503年)夏5月」に「玉荒木命」という人物が
「玉祖宿禰」を賜ったと解釈できる情報があります。

ところが、参照5のサイトでは、少々異なっています。

多麻良岐タマラキ神社 気多郡猪爪ノ丘鎮座(兵庫県豊岡市日高町猪爪字玉谷367)
祭神 大荒木命(またの名 玉荒木命、建荒木命) 玉祖宿祢の祖
人皇26代武烈天皇三年、玉祖宿祢これを祀る。

ここでは、「武烈天皇三年(501年)」に
「大荒木命」が「玉祖宿禰」を賜ったと解釈できます。

この差は二年ですが、どうなっているのでしょうか。

「またの名玉荒木命」と書いていますが、
そもそも、同じ様な時代に違う名を使うのは違うと思うので、
「大荒木命」と認識していたと思います。

「玉荒木命」が「武烈天皇5年(503年)夏5月」に
「玉祖宿禰」を賜ったとするならば、二年前の「大荒木命」は何を賜ったのでしょうか?

どちらも同じ「玉祖宿禰」を賜ったのか、情報が見つからないので、判断は出来ません。

参照4:村社 八城神社 - - - 日本のランドマーク

参照5:国司文書 但馬神社系譜伝 第一巻・気多郡 -

天高御魂乃命系玉祖宿禰

「天高御魂乃命」も「高御牟須比乃命」とほぼ一緒です。

ですが、「天高御魂乃命」は「天」が付いているので、「天(あま)一族」だと思います。

また、「魂」という漢字を使っている事からも、
紀元前〜西暦の間くらいでは無いかと思います。

天明玉命系忌玉作

「天明玉命」を「櫛明玉命」と混同しているサイトがありますが、
表記が異なるので、別人だと思います。

単に、似ているから同じというのは、
「花器」と「火器」が同じと言っている様なものです。

また、色々と調べていると、「玉祖命」と混同している例もあります。

これらが同一人物である証拠が見えてこないので、違うのだと思います。

そもそも、この系統は、「忌玉作」という「姓(かばね)」が存在しない名なので、
それと「玉祖宿禰」を混同するべきでは無いと考えています。

だから、「天明玉命」と「玉祖命」を混同しているのでしょう。

神社

神社は「櫛玉命神社」、「玉諸神社」、「板井神社」、「建部大社」の4社が、
祭神名を「天明玉命」としています。

ただ、「玉諸神社」では、現祭神は「天羽明玉命」ですが、
「神社明細帳」では「天明玉命」と記載されていたようです。

また、一部では、「「伊奘諾尊」の子が「天明玉命」」であると書くサイトもありますが、
色々と探しても、その様な証拠は見つかりませんでした。

何を根拠に、その様な事を言っているのか不明です。

付属

原文:

天津彦火瓊々杵命 降幸於葦原中国時 与五氏神部 陪従皇孫降来 是時造作玉璧以為神幣
故号玉祖連 亦号玉作連

解読:

天津彦火瓊々杵命、葦原中国に於いて幸降る時、五氏を神部に與(くみ)させる

皇孫降りて来るに陪従す

是(これ)の時、玉璧の造作を以って神幣と爲す

故、玉祖連と号す

亦、玉作連と号す

天津彦火瓊々杵命

正式名は「天津日高日子番能邇邇藝命」ですが、
どこに「火」の要素があるのでしょうか。

また、「日高」と「番能」は省略されていますし、
そもそも、「邇邇藝」が「瓊々杵」に変化しています。

そこから考えて、当然、「葦原中国」の問題が起きていた当時に行ったのではなく、
「天津彦火瓊々杵命」が行ったのは、だいぶ、後だったと考えられます。

「天津彥彥火瓊瓊杵尊」を「日本書紀」では使っているので、
ここから「彦」を抜いたと考えると、紀元前3世紀かも知れません。

とは言っても、参考にできる情報が無いので、良く分かりません。

神部

「五氏を神部に與(くみ)させる」と書いていますが、
この「五氏」という言葉が、紀元前660年頃に存在したのか、疑問に思っています。

なぜなら、この当時は、「氏」ではありません。

「五名」ならば、理解できますが、「五氏」だと新しく感じます。

「古事記」の第一章でも、「神」と書いています。

もちろん、「神」の地位にいない人物も同じく「神」と書くので、問題もありますが、
基本的に「神」としています。

「日本書紀」には、そもそも、その様な記事がありません。

そして、「神部」を簡単に調べた限り、
「天津彦火瓊々杵命」と「神部」の関係性を表す情報がありませんでした。

つまり、この情報自体の信頼が無い事になります。

そもそも、この情報は、どこから手に入れたのか気になります。

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