最終更新日 2024/06/30

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 第三章 大國主神

故此大國主神之兄弟八十神坐 然皆國者避於大國主神 所以避者 其八十神各有欲婚
稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時 於大穴牟遲神負帒 爲從者率往 於是到氣多之前時 裸菟伏也
爾八十神謂其菟云 汝將爲者 浴此海鹽 當風吹而 伏高山尾上 故其菟從八十神之敎而伏
爾其鹽隨乾 其身皮悉風見吹拆 故痛苦泣伏者 最後之來大穴牟遲神見其菟 言何由汝泣伏
菟答言 僕在淤岐嶋 雖欲度此地 無度因 故欺海和邇【此二字以音 下效此】言 吾與汝竸
欲計族之多少 故汝者隨其族在悉率來 自此嶋至于氣多前皆列伏度 爾吾蹈其上 走乍讀度
於是知與吾族孰多 如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來 今將下地時 吾云 汝者我見欺
言竟 即伏最端和邇捕我 悉剥我衣服 因此泣患者 先行八十神之命以 誨告浴海鹽當風伏
故爲如敎者 我身悉傷 於是大穴牟遲神敎告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之蒲黄
敷散而 輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如敎其身如本也 此稻羽之素菟者也
解読

故(ゆえ)此(こ)の大國主神之(の)兄弟八十神坐(ざ)し、
然(しか)るに皆(みな)國の者は大國主神於(お)避(さ)ける

其の八十神、各(おのおの)が避ける所以(ゆえ)者(は:短語)、
婚(こん)する稲羽之八上比賣之心を欲(ほっ)すと有り

共に稲羽に行く時、大穴牟遅神、帒(ふくろ?)を負うに於いて、
從者を率(ひき)いて往くと爲す

是於(これお)氣多之前に到る時、裸の菟伏しき也

爾(なんじ)八十神に謂れ、其の菟に云う

「汝(なんじ)の將(まさ)に爲(ため)になる者(は:短語)、
此の海を浴びた鹽(しお)、吹く風而(に)當(あたり)、高山の尾の上に伏せること」

故(ゆえ)其の菟は八十神之(の)教(おし)え而(に)従ひて伏す

爾(なんじ)、其の鹽乾くに隨(したが)ひ、
其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹かれて見れば拆(さ)ける

故(ゆえ)に苦しく痛く泣いて者(は:短語)伏せ、
最後に大穴牟遅神之(これ)来て、其の菟を見て言はく

「汝(なんじ)は何由(なによし)泣き伏すや。」

菟答へて言はく

「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。 雖(いえども)此の地に度り無く度りを欲(ほっ)す」

故に因って、海の和邇(わに)を欺(あざむ)きて言はく

「吾(あれ)、汝の與(くみ)する族(やから)之(これ)多いか少ないか計(はか)り、競うを欲す」

故、汝(なんじ)者(は:短語)其の族(やから)を、悉(ことごと)く率(ひき)いて来て隨(したが)うと在り

此の嶋自(より)氣多の前于(に)至(いた)り皆(みな)列(つらな)り度りに伏せる

爾(なんじ)、吾(あれ)踏み、其の上を走り乍(ながら)讀(づ)つ度る

是於(これお)吾(あれ)が與(くみ)する族(やから)と孰(いずれ)が多いかを知る

此の如(ごと)く言う者(は:短語)、
欺かれ列(つらな)り伏せし時而(に)之(これ)見て、吾(あれ)を蹈(ふ)み、
其の上を度り讀(づ)つ来て、今、将に地に下りようとした時、吾(あれ)云はく

「汝(なんじ)者(は:短語)、我(われ)を見て欺(あざむ)く」と言い竟(お)わる

即(すなわ)ち最端に伏した和邇(わに)我(われ)を捕まえ、
我(われ)の衣服を悉(ことごと)く剥(は)ぐ

此れに因って泣き患(わずら)う者(は:短語)、先に行(ゆ)きし
八十神之命(めい)を以って誨(おし)へ告(つ)げられ、海の鹽を浴び、風に當(あたり)伏しき

故、教えの如(ごと)く為(ため)し我(われ)者(は:短語)身を悉(ことごと)く傷(いた)める

是於(これお)大穴牟遅神、其の菟に教(おし)え告(つ)げる。

「今急ぎ此の水門(みと)に往(ゆ)き、水を以(もち)て汝の身を洗え」

即(すなは)ち其の水門(みと)之(の)蒲黄(ほおう)を取り、散らして敷き、
而(なんじ)其の上を轉(ころ)がり輾(めぐ)る者(は:短語)
汝の身、本(もと)の如(ごと)きに必ず膚(はだ)を差(さ)す

故(ゆえ)教(おし)えの如く為(ため)し、其の身は本(もと)が如し也

此れ者(は:短語)稲羽之素菟(いなばのすうさぎ)也

今に於いて者(は:短語)菟の神と謂ふ也

解説

01


原文:

故此大國主神之兄弟八十神坐 然皆國者避於大國主神 所以避者 其八十神各有欲婚
稻羽之八上比賣之心

解読:

故(ゆえ)此(こ)の大國主神之(の)兄弟八十神坐(ざ)し、
然(しか)るに皆(みな)國の者は大國主神於(お)避(さ)ける

其の八十神、各(おのおの)が避ける所以(ゆえ)者(は:短語)、
婚(こん)する稲羽之八上比賣之心を欲(ほっ)すと有り

ここでも、前文と繋がらない「故」が登場します。

前文は「生子 大國主神 亦名謂大穴牟遲神 亦名謂葦原色許男神 亦名謂八千矛神
亦名謂宇都志國玉神 幷有五名(抜粋)」で終わっていて、
「故」と繋がる文章の記載はありません。

その事から、この間には、「大國主神」と「八十神」の出生などについての情報が、
存在していた可能性が高いと考えています。

大國主神之兄弟八十神

「大國主神之兄弟八十神」とありますが、
前文では「八十神」の存在を示す文章がありません。

しかも、「故此大國主神之兄弟八十神坐」と「此」があるので、
今回の情報以前に、詳細が書かれた情報があったことが分かります。

「故此大國主神之兄弟八十神坐 然皆國者避於大國主神」の前に
存在した情報が、この部分のみしか編纂当時現存していなかったのでしょうか?

個人的には、もう少し、情報が残っていたのと考えています。

多分に、「大國主神」とは違う名が載っていたのでは無いでしょうか?

その名は、「大國主神」の名を継承する以前の名で、「大國主神」を継承した時の情報が
欠落していた為に、「天之冬衣神」の子の「大國主神」と同一名ではないとして
掲載をしなかったのだと推察しています。

八十神

「八十」を多くの人は「やそ」と呼んでいると思われますが、
本当にそうなのでしょうか?

「八」を「や」と読むのは「訓読み」ですが、
紀元前から「訓読み」が存在したのかについては不明です。

色々と検索して調べると、参照1のサイトがあり、下記のように書かれています。

日本列島の中で考える訓読は,
奈良時代あるいはそれ以前の飛鳥時代にはすでに
素朴な形がある程度できあがっていたことになります。

上記の文を別角度から見ると、古事記の情報源の時代と推測される、
紀元前1000年頃には「訓読み」は存在していなったと言えるように思います。

ただ、紀元前の時代には、近畿以西の統一政権はありませんし、
日本人という枠組みも無いので、集団個々に故郷の言葉や文字を使っているでしょう。

その様に考えると、「訓読み」という統一見解が無くても、当然と思われます。

そうすると、古事記の情報源の時代には、「音読み」が基本とすると、
「八」を「や」と読むのは間違っていると考えられます。

参照1:漢文の訓読はいつから始まりましたか - ことばの疑問

読み

数字の読みに関して、別件で「シュメール人」について調べたことがあり、
その時に、下記の参照2のサイトを見つけました。

しかし、他に裏付けを取れる情報を探しましたが、
「シュメール人」が使っていたと思われる「楔形文字」の数字の発音に関する情報は、
参照2の情報以外に、見つけることが出来ませんでした。

なので、現時点において、参照2の情報の正否に関しては不明です。

シュメール古拙文字では、「十」(じゅう)みたいな文字を二つ重ねた「十十」が「奉る」という意味を表す。

この十に八方位を表すように線を引いた文字が、北極星を表している。

8=「ヤ」

方位=「ホウ」

8方位を表す記号が「ヤホウ」

「ヤホウ」が「ヤハウェ」となったのではという説もある。

(中略)

北極星が消えていき天神信仰の対象であるアヌの影響力が薄れていくと、
風神エンリルが信仰の対象となった。

風神エンリルは「50」の数詞を持つ神様。

シュメールではエンリルを砂時計のようなマークで表している。

五=「イ」

十=「シュ」という発音になる。

シュメール読みだと、五十=「イシュ」

日本語読みだと、五十=「イス」「イセ」となる。

参照2:50はエンリルの数字です。シュメール人と日本人。

「十」を「そ」と読むのを「訓読み」だからと思われる方もいるでしょうが、
オンライン辞典を数箇所見ると、「訓読み」に「そ」はありません。

訓読みは「とお」、「と」の2つです。

では、「そ」という読みの語源は何でしょうか?

「八」の「や」という「訓読み」のように表記されなかった事を考えると、
「特殊な場合に用いられた読み方」と言えそうです。

大陸や半島から移動してきた集団が、自分達だけで、故郷の言葉を使っていたが、
後に多くの人達が使い始めたのかも知れません。

これによって、「十」は「そ」とは読めないので、「八十=やそ」は成立しません。

読み

この「十」に関しても、上記の「八」の「読み」に書いたように、
参照2のサイトでも、「十=「シュ」」としています。

これは、「じゅう」に通じると考えれば、「そ」がどこから現れたのか不思議です。

語源を深堀しましたが、Wikiにも「そ」については書かれていなくて、
元々「じふ」だったのが、時代を経るごとに変化し、「じゅう」へとなったとあるだけです。

他のサイトをみても、語源の根拠として成立していないので、
いつの間にか、「十=そ」となっていたと言うのが現状です。

しかし、「じゅう」は元々「じふ」だったという説があるように、
通常使われない読みだからこそ、「シュメール人」ではない別の人達が使っていた、
「そ」という言葉を利用したのだろうと推測しています。

ちなみに、「ウィクショナリー日本語版」では、「そ」は「常用漢字表外」です。

また、「常用漢字表外」と書かないサイトでは、「苗字や名」に使う読みとして書いています。

八十

「八」と「十」を分けて考察しましたが、
現代のように「やそ」と読むのは正しくないと考えられます。

では、「八十神」とは何を意味しているのでしょうか?

「大國主神之兄弟八十神」とあるので、単に「大國主神」には「80人」の兄弟がいて、
この「80人」には「大國主神」の様な名を付ける人物がいなかった。

「80人」が集団活動していた事から、「八十神」と命名されたような気がします。

ただ、ここに登場する「大國主神」は、間にある文章が省略されている事から、
「天之冬衣神」の子では無いと思うので、注意する必要がありそうです。

根拠になりそうなのが、「所以避者 其八十神各
(其の八十神、各(おのおの)が避ける所以(ゆえ)者(は:短語))」です。

「各(おのおの)」とあり、「八十神」が1人を指すのではなく、
複数人を指すとイメージできます。

読み

ちなみに、「十」で考察したように、「十=そ」が日常で使う読みで無いので、
「八十=やそ」は、やはり違和感があります。

古代から当て字が存在していたのか疑問です。

参考にできる情報が無いかと、関連性のありそうなサイトを見ていると、
「ひらがなの「そ」の字形」について書かれていました。

そこで、ふと思ったのが、江戸時代などに「くずし字」がありますが、
「そ」の「くずし字」を調べてみると、確かに「そ」が「十」の様に見えます。

もし、ここから「十=そ」となったのであれば、古事記の時代(推:紀元前1000年頃)には、
その様な読みをしていない可能性が高い様に思えます。

なにより、「十」に注記が無いのも、日常的に呉音や漢音を利用していたとすれば、
「そ」は特別な読みなので、注記を書くことはするはずです。

これにより、「やそ」の可能性よりも「はちじゅう」の可能性が大きいように思えます。

出雲國風土記

「八十神」は「出雲國風土記」の「大原郡来次郷」に登場します。

原文:

郡家正南八里 所造天下大神命詔 八十神者 不置青垣山裏 詔而 追廃時
此処治次坐 故云来次

解読:

郡家正南八里。

天下造所大神命が詔(みことのり)す。

八十神者(は:短語)青垣山の裏には不置(おかず)と詔(みことのり)す。

而(なんじ)追うのを廃し時、此の処で治し、次に坐す。

故、来次と云う。

異文

ここに揚げたのは、「講談社学術文庫 出雲国風土記 全訳注 萩原千鶴著」
に掲載されている原文ですが、上記の原文で検索すると、
発行元によって、文が異なっている事が分かりました。

大筋では同じですが、漢字が異なっている様です。

白井文庫

原文:

來以郷郡家正南八里 所造天下大神命詔八十神者不置靑鹽山裏詔而
追廢時此義迨以生故云來以

この原文に対しての考察が下記になります。

◯來以郷…来次郷・後に木次(キスキ)。

・出雲風土記抄4帖k34解説で
「鈔云此郷者合西日登東日登寺領宇谷来次市等五所以為来次郷也」

◯郡家正南八里…8里=4280(m) 郷標は今の西日登小学校辺りと考えられている。

斐伊川を挟んで対岸に河邊神社があるが、斐伊川が大きく蛇行し川幅が拡がり流れが
緩やかになり渡船や水運の要地だったのであろう。

・出雲国風土記考証p338解説で
「郷標は、郡家正南八里なれば、今の西日登の本郷の小學校の邊にあたる。」

◯八十神者不置靑鹽山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以
・細川家本k60で「八十神者不量青塩山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以」
・日御碕本k60で「八十神者不置青塩山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以」
・倉野本k61で、「八十神者不量青塩垣山裏詔而追廢時此義[辶呂]迢以生故云来以」
・出雲風土記抄4帖k33本文で
「八十神者不置青垣山裏詔而追廢時此義迢以生故云来次」
・萬葉緯本k80で「八十神者不置靑垣山裏詔而追廢時止此イ義迢以生故云來次」

異同を比べると、量は置の誤りであろう。

青塩山を出雲風土記抄で青垣山とし、萬葉緯本や倉野本はこれを受けている。

[迨]を出雲風土記抄で迢、萬葉緯本はこれを受け、倉野本は[辶呂]に迢を傍記。
 [迨(タイ)]には(及ぶ至る)の他(願う)の意味がある。
 [迢(チョウ)]は(遙か・遠い)の意味
 [辶呂]は不明。誤写であろう。[追]かとも思われる。

白井本・細川家本・日御碕本・倉野本で[来以]。

これを[来次]としているのは出雲風土記抄で萬葉緯本は[來次]としている。

古写本にさほど大きな異同はないので
白井本をそのまま読んで解釈して見ると次のようになる。

「八十神は靑鹽山のうちには置かじと詔りて、追い廃シリゾける時、
この義ワケにいたるのは以スキて生きよという事である。故に来以キスキと云う。」

つまり、「八十神を青塩山の内に住まわせず追い払う訳は、(殺しはしないから)
遠くで土地を鋤いて生きよと願っての事である。
それで生以キスキ転じて来以キスキという。」という意味になる。

八十神に何度も殺されかけた
大己貴神の温情を義(ワケ・理由)として記しているのである。

ここで[裏]は服の裏地、つまり[内側]の意味として古来使われていた。

[以]の本字は[㠯]であり、象形で農具のスキ[耜]を表す。

スキを用いて耕すことを意味する語義が転じて(用いる・もって)の意味をもつ。

今「木次」と記し(キスキ)とよんでいるのは「生㠯」が転じて
「木以」即ち「木の㠯」を表わした呼び名と考えられる。

又、農具の「㠯」は元々は土を掘り起こし溝を作る道具であった。

木次の町は北西から南東に久野川に沿って溝を掘ったような地形であり、
それも地名の由来になっているのかと思われる。

[次]は[以]の誤写から始まったことであろう。

靑鹽山(出雲風土記抄では青垣山)はどこの山と特定はされていない。

冬場や春先に斐伊川を遡上すると、
この附近では川の東西で山の植生が少々異なることに気づく。西側に常緑樹が多い。

青鹽山と云うのは斐伊川の西岸部の山々を指しているのであろうと思われる。

「八十神者不置青塩山裏」というのは神門郡朝山郷に暮らしていた大己貴神が
神門川と斐伊川に囲まれた地域には八十神を入らせないと
防衛線を引いたことを意味しているのであろう。

ところで、通説は例によって内山眞龍の捏造妄想とそれを真に受けた
千家俊信の訂正出雲風土記によって広められたものが底流になっており、
埒もない加藤の追従が定説とされている。

気乗りはしないが一応記しておく必要はあるであろう。

・出雲風土記解-下-k33本文で
「來次郷郡家正南八里凣今一里四町所造天下大神ノ命詔八十神者ヤソカミハ
不置青垣山裏詔而アヲガキヤマノチニオカジトノリマシテ追廢時オヒハナツトキ
古事記追[扌発]此義コノトコロニ迢以生オヒスキマシキ義迢以生ハ處追次坐也故云來以」

解説で「~義迢以生ハ書写の誤りにて處追次坐なり、追次とハ追ツゞク尒て、
俗オヒツクと云同字彙云次ハ亞也、文意は八十神を追来て此處にて追次しなり。~」

「~青垣山は垣の如く引囬たる山を云、垣を塩尒書たる本ハ誤奈り。
~此所ハ須賀の宮所を圍む山を云奈れバ東北小須我山林垣山、
西南尒高麻山舩岡山有て堺を廣く遠く八十神を追[扌発]を云、~」

眞龍は青塩山は間違いで青垣山だとする。

その山は須賀の宮所を囲む山を云い、大穴牟遲神は八十神をこの地から追い払い、
追いついたのが來次なのだと論じている。(途中長々と古事記等の引用があるが省く)

さすれば須賀の地から八十神を追い払い須賀川・赤川にそって
下流に向かって追い続けて、木次で追いついたという事になる。

追い払った八十神をなぜ追い続け追いつかなければならないのか
疑問であり追いついてどうしたのかも不明。

そもそも須賀の宮を囲む地から追い払うとか、サッパリ解らない。

これが所謂「定説」の根拠である。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

大己貴神が須賀の宮処を守るために八十神を木次さらには
その先の出雲郷に追い払うなどということがあろうはずがない。

完全に倒錯している。

又、眞龍は後の城名樋山の解説で、
須佐之男命が大己貴神に八十神を伐つように詔りしたと記している。

須佐之男命と八十神に接点はない。馬鹿馬鹿しくて話にならない。

ちなみに[扌発]は[撥]の略字と思われるが、
弦をはじく(バチ)の事で、古写本で記される[廢]とは意味が全く異なる。

・「訂正出雲風土記」-下-k38で「來次郷キスキノサト。郡家ノ正南ミナミ八里。
所造天下大神命アメノシタツクラシシオホカミノミコト詔ノリタマハク。
八十神者不置靑垣山裏詔而ヤソナミハアヲカキヤマノチニオカジトノリタマヒテ。
追廢時オヒハラフトキ此義迢以生コノトコロニオヒスキマシキ。
故云來次カレキスキトイフ。」
頭注に「真龍云義迢以生ハ處追次坐也トイヘリ可従」

・修訂出雲国風土記参究p438で
加藤は「~此の処に迨次きすき坐しき~」と記している。

眞龍の「此義迢次生」から「此処追次坐」への改変を卓見と称賛し、
[追]も[迢]も相応しないので[迨]とし(き)と読んでいる。

[迨]に(き)の読みはない。

ついでに記すと、
「此義迢以生」を「此處退次坐」ではないかと疑ったのは春満が最初で、
眞龍はそれを更に改変している。

参照3:『出雲国風土記』大原郡 - 「風姿」のWiki (UTF8) - k-pj.info

上記の様に考察しているので、気になる箇所を順番に見ていきます。

考察

◯八十神者不置靑鹽山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以
・細川家本k60で「八十神者不量青塩山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以」
・日御碕本k60で「八十神者不置青塩山裏詔而追廢時此義迨以生故云来以」
・倉野本k61で、「八十神者不量青塩垣山裏詔而追廢時此義[辶呂]迢以生故云来以」
・出雲風土記抄4帖k33本文で
「八十神者不置青垣山裏詔而追廢時此義迢以生故云来次」
・萬葉緯本k80で「八十神者不置靑垣山裏詔而追廢時止此イ義迢以生故云來次」

ここで他の写本の情報が書かれていて、大いに助かります。

上記にある5つの写本と「白井文庫」の原文を比較すると、
「次」と「以」、「量」と「置」、「鹽、塩」と「垣」の3つの漢字が異なっています。

青塩山を出雲風土記抄で青垣山とし、
萬葉緯本や倉野本はこれを受けている。

筆者は、考察を見る限り、「青塩山」を基本としているようです。

しかし、「青塩山」と「青垣山」のどちらが正しいのかと言うのは、
後世に生きる自分達には分かりません。

比較できるとするならば、正しい情報があっての話なので、
現時点でも、「青塩山」と「青垣山」どちらが正しいのかは不明です。

[迨]を出雲風土記抄で迢、萬葉緯本はこれを受け、倉野本は[辶呂]に迢を傍記。
 [迨(タイ)]には(及ぶ至る)の他(願う)の意味がある。
 [迢(チョウ)]は(遙か・遠い)の意味
 [辶呂]は不明。誤写であろう。[追]かとも思われる。

「講談社学術文庫 出雲国風土記 全訳注 萩原千鶴著」の原文では、
「治」でしたが、「迨」という漢字を使った写本があるのならば、
意味が異なりますので、解読も変わって来ます。

「治」と「迨」は書き方によっては、判別が難しいと思うので、
間違ったとしても、不思議ではないですが、
「此処治次坐」の「処」を「義」と混同するのだろうか?という疑問が出て来ます。

試しに、「義」を「処」と誤写するのか検索しましたが、見つかりませんでした。

白井本・細川家本・日御碕本・倉野本で[来以]。

これを[来次]としているのは
出雲風土記抄で萬葉緯本は[來次]としている。

もし、「来以」→「木次」に変化したのなら、どの様な理由なのだろうか?

「来次」→「木次」ならば、理解できるけど、
そもそも、大元には「来以」と記載されていたのだろうか?

多くの写本が書いているからと言って、必ずしも正しくはないので、
慎重に調べる必要がありますが、深堀は「出雲國風土記」でします。

古写本にさほど大きな異同はないので
白井本をそのまま読んで解釈して見ると次のようになる。

「八十神は靑鹽山のうちには置かじと詔りて、追い廃シリゾける時、
この義ワケにいたるのは以スキて生きよという事である。故に来以キスキと云う。」

つまり、「八十神を青塩山の内に住まわせず追い払う訳は、(殺しはしないから)
遠くで土地を鋤いて生きよと願っての事である。
それで生以キスキ転じて来以キスキという。」という意味になる。

八十神に何度も殺されかけた
大己貴神の温情を義(ワケ・理由)として記しているのである。

ここで[裏]は服の裏地、つまり[内側]の意味として古来使われていた。

「古写本にさほど大きな異同はないので」とありますが、
漢字が異なれば、意味も変化するので、白井文庫だけで解釈するのは間違っています。

するならば、漢字が異なる写本の種類全てを解読し、
共通点と異なる点を出してからです。

そもそも、白井文庫の情報が必ずしも正しいわけでないので、
収拾選択した上で、考察するべき問題です。

また、「八十神」と古事記に登場する「大國主神之兄弟八十神」と同名ですが、
時代背景などが不明なので、古事記や日本書紀の内容を持ち込むのは違うと思います。

他にも「義(ワケ・理由)」としていますが、この漢字に「わけ」という読みが無いので、
都合の良い解釈に思います。

「[裏]は服の裏地」に関しても、「靑鹽山裏」とあり、
「服の裏地」と解釈するのは無理があるように感じます。

[以]の本字は[㠯]であり、象形で農具のスキ[耜]を表す。

スキを用いて耕すことを意味する語義が転じて(用いる・もって)の意味をもつ。

今「木次」と記し(キスキ)とよんでいるのは「生㠯」が転じて
「木以」即ち「木の㠯」を表わした呼び名と考えられる。

又、農具の「㠯」は元々は土を掘り起こし溝を作る道具であった。

木次の町は北西から南東に久野川に沿って溝を掘ったような地形であり、
それも地名の由来になっているのかと思われる。

「[以]の本字は[㠯]であり」とあるので、Wikiで調べてみましたが、「表意文字」としては、
「古くは耜類の農具の形と考えられたが、根拠に乏しい。」と否定されている様です。

「会意形声」の文字としては、「「㠯」はすきの象形文字で「耜」の原字。」とあります。

しかし、漢字は成り立ちによって「象形文字、指事文字、会意文字、形声文字」の
四種類に分類されるので、「以」の異体字が「㠯」であり、
「「㠯」はすきの象形文字」ならば、「会意形声」ではなく、「象形文字」に分類されます。

この話は、今後、字源辞典で深堀していきます。

次に、「今「木次」と記し(キスキ)とよんでいるのは「生㠯」が転じて」の
「生」はどこから来たのでしょうか?

また、「木の㠯(すき)」とは、何でしょうか?

「㠯」が「農耕具」の「鋤」を指すのは良いとして、
「鋤」を使うならば「土㠯」となるように思いますが、「木」なのはなぜでしょう。

参照4:以 -ウィクショナリー日本語版

[次]は[以]の誤写から始まったことであろう。

そもそも、「来次」、「来以」どちらが正しいのか不明です。

靑鹽山(出雲風土記抄では青垣山)はどこの山と特定はされていない。

冬場や春先に斐伊川を遡上すると、
この附近では川の東西で山の植生が少々異なることに気づく。西側に常緑樹が多い。

青鹽山と云うのは斐伊川の西岸部の山々を指しているのであろうと思われる。

「八十神者不置青塩山裏」というのは神門郡朝山郷に暮らしていた大己貴神が
神門川と斐伊川に囲まれた地域には八十神を入らせないと
防衛線を引いたことを意味しているのであろう。

「靑鹽山」が正しいと思うのは自由ですが、
「靑鹽山」と「青垣山」は同じ山なのでしょうか?

他に、「神門郡朝山郷に暮らしていた大己貴神」とありますが、
「所造天下大神大穴持命娶給而」とあり、
「大穴持命」と「大己貴神」を混同するのか不思議です。

まとめ

この様に色々と見て来ましたが、「白井文庫」にある原文は、
不明な点も多くあり、参考になれど、基礎となるのかは疑問です。

特に、誤写しなさそうな漢字が異なっていたりと、疑問が多いです。

他に「出雲国風土記」を掲載しているサイトを探しましたが、
1件しか無く、そのサイトでも、漢字が異なっていました。

「此処治次坐」が「此處追次坐」となっていました。

「白井文庫」の例で考えると、「治」と「追」から、
本来は「迨」と書かれていた可能性が出て来ます。

書き方がくずし字の様になっていたので、判別が難しく、
「迨」が「治」と「追」に分岐したのではないか?と考えています。

ただ、「迨」が正解かと言うと違う可能性もあると思っていて、
他の漢字が「迨」に変化した可能性もあるので、
編纂時にどのような漢字を使っていたのか気になります。

最後に、「八十神」についてですが、時代背景などの重要事項が不明なので、
現時点では「古事記」の「八十神」との関連性は不明です。

鍵を握っているのは「天下造所大神命」の継承者にあると思っています。

「神門郡朝山郷」には「所造天下大神大穴持命」とあり、
本来は「天下造所大神〇〇命」と◯の箇所に「実名」が入っていたと考えられます。

ですが、情報が無いので、「出雲國風土記」考察の際に深堀します。

参照5:大原郡条:【二】 大原郡の郷 - 出雲国風土記・現代語訳

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