是於(これお)天照大御神は速須佐之男命に告げる。
是、後に生まれた所の五柱の男子者(は:短語)、
我の物に因る所の物実(ものざね)成り。
亦、吾自らの子也。
先に生まれる所の三柱の女子者(は:短語)、汝の物に因る所の物実(ものざね)成り。
故、乃ち汝の子也。
此の詔(みことのり)の如く別れる也。
故、其の先に生まれる所の神多紀理毘賣命者(は:短語)胸形之奧津宮に坐り
次の市寸嶋比賣命者(は:短語)胸形之中津宮に坐り
次の田寸津比賣命者(は:短語)胸形之邊津宮に坐る
此の三柱の神者(は:短語)胸形君等之以て、伊都久三前(いつくみさき)大神の者也
故、此の後に生まれる所の五柱の中の天菩比命の子建比良鳥命は
此れ、出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・
遠江國造等之祖也
次の天津日子根命者(は:短語)
凡川内國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・
周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖
告げる
「天照大御神 告速須佐之男命」とありますが、
「宇氣布」を行ったのは、「建速須佐之男命」と「速須佐之男命」です。
話を通すのであれば、「建速須佐之男命」になると思いますが、
「速須佐之男命」になっています。
また、「是後所生五柱男子者」とありますが、
普通であれば、「先」「後」の順に書くと思いますが、逆になっています。
他にも、「女性3人」を「物實因汝物所成」とありますが、
「建速須佐之男命」の物であって「速須佐之男命」の物ではないでしょう。
この様に、内容がずれている様に感じます。
もちろん、5男3女の人達は、「天照大御神」の子でも、
「速須佐之男命」の子でもありませんが、
「自吾子」、「乃汝子」とあるので、養子に入ったと解釈できます。
「十拳劒」から「多紀理毘賣命」、「市寸嶋比賣命」、「多岐都比賣命」の
三人用に作った品を授けたと思われますが、
先に、この3人が記載されているのは、海を先導して来たからではないか?
とも考えています。
次に五人の男は、「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」から、
五人用に作った品を授けたと思われます。
「正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命」は陸の一族だったために、
航海術を持っている3人の女性に先導してもらったと繋がります。
多分に、「天(あま)なる國」の為に、五人の男を呼び寄せたと思っています。
だからこそ、「天照大御神」の方が多いのでしょう。
胸形
「多紀理毘賣命」は「胸形之奧津宮」、「市寸嶋比賣命」は「胸形之中津宮」、
「田寸津比賣命」は「胸形之邊津宮」に移動したとありますが、
現在地であっているのでしょうか?
普通に考えれば、「胸形」→「宗像」に変化したと言えそうですが、
検索しても情報がありません。
ただ、日本書紀では、「筑紫胸肩君」が登場するので、
「胸形」と「胸肩」は無関係では無いと思っています。
とはいっても、「筑紫胸肩君」には、
「筑紫」という地名が付与されている事を考えると、
別の地域にも「胸形君」などが存在したとも受け取れます。
この表記は、「 多岐都比賣命を祀る神社と神名」にも登場しています。
しかし、「多紀理毘賣命」と「市寸嶋比賣命」は同じ表記なのに、
「多岐都比賣命」は「田寸津比賣命」へと変化したのでしょうか?
時代としても、「宇氣布」の時から、
世代交代するだけの年月が経っているようには思えません。
そうであるならば、表記を変更しなければ行けない理由が出来たのでしょう。
一番考えられる理由として、「多岐都比賣命」は「胸形之邊津宮」に行くと、
他の仕事が滞ってしまうので、代わりとなる人物を派遣したです。
「多岐都比賣命」から派生した表記が多くあるのも、
傍証になるかも知れません。
なにより、「都」と「津」では意味が大きく異なります。
「伊都久」は「
底・中・上 中編」で、
「三前」は「
底・中・上 後編」で考察しています。
「此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也」と
「墨江之三前大神也」とありますが、「伊都久三前」となっていません。
そもそも、同じ意味として考えるべきなのか、情報が無く不明です。
「伊都久」を分解すると「伊(聖職者)」、「都」、「久(ながい)」となり、
「聖職者が都に長く滞在している状況」と考える事が可能です。
「三前」も、「突き出た土地」とすると、「別荘地」という考えも出来そうです。
「此三柱神者 胸形君等之以 伊都久三前大神者也」とありますが、
3人の女性の子孫が「胸形君等」かどうか、この文だけでは判断できません。
関連性があることしか分かりません。