故に後、木花之佐久夜毘賣參(まいり)出て白(もう)す
妾が妊(みごもる)身、今、產む時に臨む、是(これ)天神之御子、私、不可產(うまず)
故、爾(なんじ)詔(みことのり)請う
佐久夜毘賣、一宿で妊(はらむ)哉(なり)
是、非我子(わがこあらず)、國神之子必ず、爾(なんじ)答えて白(もう)す
吾、妊(はらむ)之(これ)の子、若國神之子者(は:短語)、產むと不幸(しあわせこず)
若天神之御子者(は:短語)幸せ
卽(すなわち)、戸が無い八尋殿を作り、其の殿に入り內に土を以って塗って塞ぐ
而(すなわち)、方(まさに)產む時、火著を以って、而(すなわち)其の殿で產む也
故、其の火が盛(さか)り燒ける時、生まれる所之子の名、
火照命【此者(は:短語)隼人阿多君之祖】、
次に生まれる子の名、火須勢理命【須勢理三字以音】、
次に生まれる子の御名、火遠理命、亦名、天津日高日子穗穗手見命、三柱
三人兄弟
「佐久夜毘賣 一宿哉妊」という記事がありますが、
「木花之佐久夜毘賣」の「木花之」が無いので、別人だと思われます。
「木花之佐久夜毘賣」ー「弟木花之佐久夜毘賣」ー「木花之佐久夜毘賣」
ー「木花之佐久夜毘賣」ー「佐久夜毘賣」という風に、表記が変遷しています。
これによって、「火照命」などを産んだのは、「木花之佐久夜毘賣」ではなく、
「佐久夜毘賣」というのが分かります。
問題は「木花」が何を意味するのかです。
これが、人物を識別する上で大切な表記なのは分かりますが、
あるなしで、何が異なるのか疑問になります。
それと、「木花之佐久夜毘賣參(まいり)出て白(もう)す」の後の会話に、
「妾が妊(みごもる)身、今、產む時に臨む、是(これ)天神之御子、
私、不可產(うまず)」とあり、「木花之佐久夜毘賣」は
「天神之御子、私、不可產(うまず)」とあります。
「佐久夜毘賣」も「若國神之子」の子を「妊娠」したのであって、
「若天神之御子」の子ではない様子。
「火照命」達を産んだのは、「木花之佐久夜毘賣」でも、「佐久夜毘賣」
でも無いとなれば、だれが、産んだのでしょうか?
ちなみに、自分の事のはずなのに「日子番能邇邇藝命」の名が出てきません。
不思議です。
「佐久夜毘賣、一宿で妊(はらむ)哉(なり)」の次の文章が、
「是、非我子(わがこあらず)、國神之子必ず、爾(なんじ)答えて白(もう)す」で、
次が「吾、妊(はらむ)之(これ)の子、若國神之子者(は:短語)、
產むと不幸(しあわせこず)」とあり、「佐久夜毘賣」が「妊娠」したが、
「非我子(わがこあらず)」とはどういう事でしょうか。
「妊娠」しているのだから、「誰」の子かは別としても、
お腹に「胎児」がいるのは当然です。
また、3つ目の文に「若國神之子」とあるので、もしかしたら、
「佐久夜毘賣」が妊娠したのは、「若國神之子」の子ではないか?と思います。
そうでなければ、ここで名は出て来ないでしょう。
「產むと不幸(しあわせこず)」とは、つまり、「中絶」したという事なのでしょうか?
「若天神之御子者(は:短語)幸せ」とあるので、そうなのだろうと思います。
しかし、「若天神之御子」とありますが、誰の事を指しているのかは不明です。
「天津日高日子番能邇邇藝能命」や「日子番能邇邇藝能命」は、名が出ているので、
これらの有名な人物ではない事は確定だと考えています。
「卽(すなわち)、戸が無い八尋殿を作り、其の殿に入り內に土を以って塗って塞ぐ」と
「而(すなわち)、方(まさに)產む時、火著を以って、而(すなわち)其の殿で產む也」
が次に来て、たぶん、これは「冬」で、寒い中で産んだら、子が大変なので、
この様な方法を取ったのだろうと思っています。
潮嶽神社
鹿児島神宮 境内社、南宮大社 境内 四宮・隼人神社、鑰島神社
大歳神社 境内 飛騨國荒城郡 阿多由太神社(合祀)
浅間神社
「闌」を調べると「てすり、さえぎる、たけなわ、おとろえる、みだりに」
という意味がある様で、「闌降」とする事で、
「てすりから降りる」という意味になりそうです。
これにより、「火照命」とは全く違うので、なぜ、この漢字を使ったのか不思議です。
系図は、島津氏流の阿多氏は存在するようですが、知りたい「隼人阿多君」に関しては、
全く情報がありません。
ただ、「新撰姓氏録」で関係ありそうなのを書きます。
469 右京 神別 天孫 坂合部宿祢 宿祢 火闌降命八世孫迩倍足尼之後也
470 右京 神別 天孫 阿多御手犬養 同神六世孫薩摩若相楽之後也
559 大和国 神別 天孫 大角隼人 出自火闌降命也
602 摂津国 神別 天孫 日下部 阿多御手犬養同祖火闌降命之後也
738 和泉国 神別 天孫 坂合部 火闌降命七世孫夜麻等古命之後也
迩倍足尼
参照37のサイトにある「火明命八世孫・建諸隅命の子、邇倍足尼」と、
「火闌降命八世孫迩倍足尼」が近い関係、もしくは、同一人物かも知れません。
ただ、「火明命」には「天」が無いので、
「萬幡豐秋津師比賣命」の子の「天火明命」なのかは微妙かなと思っています。
また、「火闌降命」と「火明命」の関係がどうなっているのか、
それによっては、無関係なのかも知れません。
とはいえ、「邇倍足尼」と「迩倍足尼」は名が同じなので、
なんらかの関係はありそうです。
参照37:迩幣姫神社
「須勢理三字以音」と注記があり、「音読み」指定となります。
「須」:呉音:ス、漢音:シュ、唐音:シ
「勢」:呉音:セ、漢音:セイ、慣用音:ゼイ
「理」:呉音・漢音:リ
上記により、呉音「すせり」、漢音「しゅせいり」となりそうです。
「須」は「ひげ、もとめる」、「勢」は「勢い、むれ」、「理」は「ことわり、すじ」で、
たぶんに「むれに理(ことわり)を求める」という意味だと思います。
「日本書紀」では「火酢芹命」としていますが、
これでは「芹(せり)」で「酢(返杯する)」となり、意味が異なります。
なぜ、「火須勢理命」→「火酢芹命」と変化したのか、疑問しかありません。
川向神社
春日大社 境内 栗柄神社
霧島東神社 境内社
国玉神社(伊佐市)
525 山城国 神別 天孫 阿多隼人 富乃須佐利乃命之後也
558 大和国 神別 天孫 二見首首 富須洗利命之後也
と、上記のように「富乃須佐利乃命」や「富須洗利命」があり、
これは、「火須勢理命」の事を指しているのでは無いか?と思っています。
呉音で「すせり」なので、「富須洗利命」の「須洗利」は「すせり」と読めますし、
「富乃須佐利乃命」の「須佐利」も、時代の経過によって、
「せ」→「さ」に変化した可能性を考えると、
十分に「火須勢理命」を指すに値すると思います。
石前神社、牛庭神社、蛭兒神社
「亦名、天津日高日子穗穗手見命」となっていますが、
これも「天津日高日子穗穗手見命」が「火遠理命」を継承したのだと考えています。
もしくは逆で、「火遠理命」が「天津日高日子穗穗手見命」
を名乗ったのかも知れません。
ただ、仮に「火遠理命」が「天津日高日子穗穗手見命」を名乗ったのが、
本当だった場合、「天津日高日子穗穗手見命」に関する両親等の情報が無いのは
大いに根拠になりそうです。
ですが、これらを証明できる情報がありません。
大山神社
出水神社、大虫神社、青島神社
益救神社
天岩戸神社 西本宮
多久頭魂神社(神社由緒)
木嶋坐天照御魂神社(葛野郡神社明細帳)
彦佐須岐神社
大嶋奥津嶋神社 境内 四宮神社
新田神社 境内 四所宮、木曽三社神社、師岡熊野神社、於呂閇志胆澤川神社、
南宮大社、糟目春日神社、忌部神社、惠曇神社、大江神社(合祀)、加知彌神社、
胎安神社、廣幡八幡宮(合祀)、走田神社、多摩良木神社、久集比奈神社、塩野上神社
正一位浅間神社、大神神社(明治神社誌料)、熊野速玉大社 境内 児宮、浅間神社、
稲積六神社
染羽天石勝神社
鹿児島神宮
霧島岑神社
阿志神社(式内社調査報告)、斗布神社
小國神社 境内 愛宕社、鎌田神明宮 境内 高根社、魚津神社、海神神社(合祀)、
浅間神社、大神神社、知立神社、熊野本宮旧社地 大斎原 境内 兒宮、弓削神社、
一宮淺間神社(合祀)、都波只知上神社(合祀)、津神社、狹野神社、霧島神宮
沙田神社
宮浦宮
物部神社 境内 皇祖四代社、志登神社、熊野那智大社 境内 児宮、熊野神社、鵜戸神宮、
熊野速玉大社 境内 兒宮、東霧島神社、敷山神社、粟鹿神社、見上神社
文を読むと、「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」の三人には、
「萬幡豐秋津師比賣命、生子」という風に、
「誰が」この三人を産んだのか?という情報がありません。
また、今まで父親と思っていた「日子番能邇邇藝命」も、
「日子番能邇邇藝命」→「天津日子番能邇邇藝命」→「天津日高日子番能邇邇藝能命」
とあり、この変化の後、産む場面では登場しません。
母親も近い位置に「佐久夜毘賣」とありますが、
本当にこの人物を娶って出来た子なのか、こちらも不明です。
この様に、「父母」が全く不明なのが、
「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」となります。
なぜ、この様な状況になったのでしょうか?
この「古事記」では、大体の場合、
「〇〇が〇〇を娶って、子の名、〇〇という」という形式で、
進行していきましたが、この場面では、それがありません。
なので、一般的に言われている、
「日子番能邇邇藝命」が「父親」、「木花之佐久夜毘賣」が「母親」は成立しません。
「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」の三人は、名から分かるように、
「天(あま)一族」では無いので、「天津日高日子穗穗手見命」との関係性も不明です。
「天津日高日子穗穗手見命」が「火遠理命」を継承、
もしくは逆の関係により脚光を浴びたのだと思います。
しかし、一番の問題は「天津日高日子穗穗手見命」の両親が不明な点です。
「天(あま)一族」なので、資料が存在していても不思議ではありません。
それが無かったから、この様な書き方になったのだと思います。
では、両親が不明な原因ですが、
一番考えられるのは、「天津日高日子番能邇邇藝能命」と同じ血統では無いと言う事です。
これが、正しい場合、「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の直系は、
すでに断絶している事になります。
ですが、残念ながら、それらを知る情報がありません。