最終更新日 2025/03/05

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契丹古伝 へようこそ Welcome to Japanese History


○四十一章
天顯元年元朔 太祖天皇王 拜日乎東閣 丹鷄從日邊降 翔旋閣上 勅使旁求其所止
未得 會同元年六月乙酉 丹鷄復現 因得奎瓏石于毉巫閭山 紅紫綫細 自然成文
卽古頌也。

○四十二章
皇上喜然曰 朕之先者出自神子奇契丹燕矣 所謂炎帝者是也 五原於今不克復之
何以能見哉 朕當輙善也 於是 新興神廟于明殿之領親齋進頌

○四十三章
頌云 辰沄繾翅報 斡南易羅祺 駿蔘冉謨律辨扈陪 蘊杜乍喃吟 綿杜乍喃密
伊寧枚薰汶枚氣冉 滿婆載娜摩矩泥克 羊袁暘弭沚緬

○四十四章
辰沄繾翅報 斡南遏浪祺 億扈瑪尹冉濟 紆凱湄烏架樂遊 絶斿麗奄斿例
斡浸播圭婁可洛 資斿麗絆斿例 耶那奈資婁可洛 固牟畢滿呂魏克 遏浪謨納岐緬

○四十五章
辰沄繾翅報 案斜踧岐 賁申釐倪叔斿厲 珂洛秦弁支廉 勃剌差笏那蒙緬

○四十六章
應天太后徴諸學士曰 太祖有言 我先世葛禹圖可汗 冒稱神賚之甲
可汗其義猶言日神之體也 誰能究源流辨宗支者 因問頌義 學士恐惶對曰 隔世旣杳
語音亦革 雖旁求匪懈 古義未可遽攷也 太后曰 韻心所通 神必能格 輙攬而上諸琴
命樂人作譜 嚠渺森嚴 眞是神韻也 臣羽之 謹錄 竝爲之叙傳云 會同五年六月日
解読

天顯元年(926年)元朔

太祖天皇王(耶律阿保機?) 東閣乎(お)日拜(おがむ)という

丹(あかい)鷄に從い日の邊(あたり)に降りる

閣の上を翔(とんで)旋(めぐる)

其の所の止めを勅使は旁(かたわら)求めるが、未だ會(あう)を得ず

同元年六月乙酉 丹(あかい)鷄を現(うつつ)に復(もどす)

因って奎瓏石を得て、毉巫閭山于(に)紅紫(こうし)が細綫で自然と文が成る

卽(すなわ)ち、古頌也


皇上、然し喜び曰く

朕、之(これ)より先者(は:短語)、
契丹と燕は出自神子で奇しくも矣(矢が当たって止まる)

所謂(いわゆる)炎帝者(は:短語)是(これ)也

五原に於いて、今之(これ)不克(かたず)に復(もどる)

何を以って能(よく)見る哉

朕、當(まさに)善(よい)輙(わきぎ)也

是に於いて、新興の神廟于(に)
明殿之(これ)齋(つつしみ)親領(しる)を進んで頌(たたえる)


頌(たたえて)云う

辰沄繾翅報 南を斡(めぐる)

祺(さいわい)羅(鳥を捉える網)を易(かえる)

律(道理)を辨(わきまえて)蔘(朝鮮人参)冉(しなやか)駿(はやく)謨(はかり)、
陪(かさねる)に扈(したがう)

杜(もり)を蘊(つみ)乍(ながら)吟(うめく)

杜(もり)を綿密に乍(ながら)喃(口ごもってしゃべる。)

伊(聖職者)寧(むしろ)枚(木の幹)から汶(けがれ)の薰がある

枚(木の幹)を冉(しなやか)氣(二十四節気) 滿ちて婆を載せる

娜(那国の女性)は矩(さしがね)にて泥を克(よく)摩(こする)

緬(はるか遠い)沚(なぎさ)にある暘(あかるさ)にて袁(遠く)を羊(さまよう)を弭(やめる)


辰沄繾翅報 南を斡(めぐり)浪(むやみに)遏(さえぎる)

祺(さいわい) 億(おしはかる)扈(したがい)、
瑪(瑪瑙?)尹(おさめる)ために濟(濟水?)を冉(ゆっくりと進む。)

凱(やわらぐ)烏(からす)が湄(岸)に架(かける)紆(めぐり)、樂(たのしく)遊ぶ

絶(はなはだ)斿(旗の吹流し)が麗(ならぶ)

例(しきたり)が斿(旗の吹流し)で奄(ふさがる)

播(まいて)斡(めぐり)、圭(かど)浸(そそぐ)のは婁(むなしい)が洛(つながる)可(べ)き

斿(旗の吹流し)資(助けて)絆(つなぐ)麗(ならぶ)

例(しきたり)を資(助けて)、
耶(父親)の那(那国)にある奈(からなし)を斿(旗の吹流し)で婁(つなぐ)

固(もとより)牟(むさぼり)洛(つながる)可(べ)き

魏呂克(よく)滿(みちて)畢(終わる)

緬(はるかとおい)浪(なみ)を遏(さえぎり)岐(分かれ道)で謨(はかりごと)を納める


辰沄繾翅報 斜めの案の岐(分かれ道)に踧(驚く)

倪(流し目)を申(かさねて)釐(改めて)賁(走る)

叔(わかい)斿(旗の吹流し)が厲(はげしい)

秦から洛(つながる)珂(白瑪瑙)の弁(かんむり)を廉(いさぎよく)支える

那(那国)の笏の緬(細い糸)蒙(おかし)、勃(にわかに)剌(そむく)は差(まちがい)


應天太后、諸(もろもろ)の徴(しるし)學士曰く

太祖が言うて有る

我より先の世、葛禹圖可汗、
神より之(これ)賚(たまう)甲(甲羅)を冒(かぶり)稱(たた)える

可汗、其の義、猶(なお)日神之體(からだ)と言う也

誰(だれ)宗(本家)支(別家)者(は:短語)源流を辨(わきまえて)能(よく)究(きわめる)

問うに因って義を頌(褒める)

學士は恐惶し對(こた)えて曰く

旣(すで)に世を隔て杳(くらい)

亦、語音を革(あらためる)と雖(いえども)、匪懈(怠らない)を旁(ひろく)求める

古き義、未だ遽(すみやかに)攷(考える)可(べ)き也

太后曰く

心に韻(ひびく)所を通り、神の格を必ず能い

輙(すなわち)諸(もろもろ)琴を攬(とり)上而(に)、
樂人が命をかけて譜を作る

森で嚴(おごそかに)渺(水の広大なさま)と嚠(音が澄んで響きわたるさま)す

是(これ)眞(まことに)神の韻(ひびき)也

臣(家臣)之(これ)を羽(かざし)謹(つつし)んで錄(しるす)

之(これ)叙傳に竝(ならび)云うと爲す

會同(942年)五年六月日

解説

10

第四十一章〜第四十六章


應天太后徴諸學士曰

「應天太后徴諸學士曰」は「應天太后、諸(もろもろ)の徴(しるし)學士曰く」
と解読できそうです。

最初にある「應天太后」ですが、「天太后」と呼ばれたのは、
「則天武后」だとAI検索では出ますが、詳しく調べていくと、
参照90のサイトに「諡号」の変遷について書かれています。

そこには「天后」→「大聖天后」→「天后聖帝」→「則天皇后」→「則天順聖皇后」
とあるだけで、「天太后」とはありません。

「天太后」を使っているのは、「西遼」の四代目「承天太后」のみだと思われます。

ただ、参照91のPDFには、下記のように書かれています。

27 唐中宗神龍2.11

洛城南門 「潑寒胡戯」を鑑賞

この前に大赦を賜う

十一月戊寅,

加皇帝尊號曰應天皇后,尊號曰順天。
壬午皇帝皇后親謁太廟,告授徽號之意,大赦天下,
賜酺三日。己丑御洛城南門樓觀潑寒胡戯

『旧唐書』7中宗紀

上記にあるように、「加皇帝尊號曰應天皇后」と
「應天皇后」を號(呼び名)としています。

また、ここには「皇帝尊號」とあり、「皇帝」の號(呼び名)なので、
「則天武后」を指しているとも受け取れます。

しかし、「尊號曰順天」ともあり、「皇帝尊」ではなく「尊」という別の名に関してなので、
「皇帝」と「尊」は別人という印象を受けます。

ここで「則天武后」を指していると思われていた「皇帝尊」が、二人の名とすると、
「則天武后」とは思えなくなります。

「應天皇后」とは誰を指すのか?という一番の問題の解決が難しい状況になります。

なにより、ここには「天后」という號(呼び名)が登場していません。

あと、参照92のサイトの7番に、「十一月戊寅」の情報が載っていますが、
「皇帝尊」については、この場所で初めて登場します。

ただ、「尊」に関しては、2番から登場しています。

一番から流れを書いていきます。

まず、「高宗」が亡くなり、「中宗大和聖昭孝皇帝諱顯 高宗第七子,母曰則天順聖皇后」
とあり、「中宗」が継承したと思われます。

この後、「弘道元年(683年)」から「嗣聖元年」と変えて、
「元年二月,皇太后廢帝為廬陵王,幽於別所」とあります。

この「皇太后廢帝為廬陵王」は「廢帝」とある事から「則天武后」だと思われます。

そして、「則天武后」は「上天后尊號為則天大聖皇帝」へと変化しています。

その後は、変化なく来ますが、「加皇帝尊號曰應天皇后,尊號曰順天」は
「則天武后」ではない可能性も出てきますが、良く分かりません。

参照90:武則天

参照91:唐代皇帝生誕節の場についての一考察

参照92:舊唐書: 卷七本紀第七中宗睿宗

日本との関係

参照90のサイトの最後の方に、下記のように書かれています。

「日本」の国名について、『三國史記 巻第六 新羅本紀第六 文武王  上』には、
「十年十二月。倭国更號日本。自言近日所出。以爲名。」とある。
(三国史記 朝鮮史学会 昭和3年(1928年) p10 
国立国会図書館デジタルコレクション 41/257 コマ)
新羅の文武王10年は、西暦670年。

大形 徹はこれを「倭国あらためて日本となづく、自ら言う、
『日の出づる所に近く、以て名と為す』と」と読む。

そしてこの記述は「宋、王溥撰『唐会要』(九六一成書)倭國」の項で
「咸亨元年三月、遣使賀平髙麗、爾後繼来朝貢則天時、自言其國近日所出
故號日本國、盖惡其名不雅而改之。
(咸亨元年(670年)三月、使いを遣わし、高麗を平(たいら)ぐるを賀(よみ)し、
爾後継いで来たりて朝貢す。則天(在位(六九〇‐七〇五)の時、
自ら言う「其の国、日の出づる所に近し、故に日本国と号す」と。
盖し其の名の雅ならざるを悪(にく)みて之を改む)と、
新唐書そのままの記述としている。」と記している。

(大形 徹 『國號「日本」の「本」はどのような意味か』 漢字學研究 第八號
立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所 [編]
立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所発行
2020年 p75~76 file.jsp (ritsumei.ac.jp) )

さらに大形 徹は「唐代の発音は地方に残っている。唐代に日本の使節が
中国に日本と決めたことを報告したとき、
当時の中国人が発音したのが「ニッポン」だったのだろう。

日本の使者は、日本国内では「ひのもと」あるいは
「やまと」と呼んでいたのかもしれない。

しかし、「日本」という漢字二文字を中国に持って行ったときに、
「ニッポン」という発音を教えられたのではないかと思う。」と記している。
(同書 p82)Wiki
新羅本紀

「三國史記 巻第六 新羅本紀第六 文武王 上」にある
「十年十二月。倭国更號日本。自言近日所出。以爲名。」の記事を
現日本の記事と考えている人が多いと思いますが、これは違うと思います。

「更(さら)に倭国自(より)日本と號(呼び名)にす。
日の出の所に近いと言うを以って名と爲す。」と解読できそうです。

現日本ではないと思うのは、「新羅本紀」にある事から分かります。

古代の日本列島は、どこかに属していたのではなく、独自の発展をして来ました。

「新羅本紀」にあると言うのは、「新羅」に属していたと考えられます。

明らかに不自然です。

また、「日の出の所に近い」だけで「日本」と、名を付けることもおかしいです。

「日の本」なのだから、日照時間が一番長いなどの理由が必要です。

そして、「新羅」に属してるところから、
この「日本」は朝鮮半島に存在していた可能性があります。

唐会要

次に「咸亨元年三月、遣使賀平髙麗、爾後繼来朝貢則天時、自言其國近日所出
故號日本國、盖惡其名不雅而改之。」は、
「咸亨元年三月、髙麗の遣使平(おさめて)賀(祝う)、爾(なんじ)朝貢に来て、
後に繼ぐ。則(すなわち)天の時自(より)其の國、日の出の所に近く言う。
故、日本國と號(呼び名)す。其の名、惡(にくみ)不雅(みやびなく)
而(すなわち)之(これ)改盖(無いのか)」と解読できそうです。

この問題点は、「咸亨元年」が「670年」なのに対して、
「髙麗」は「918年」に建国した國です。

つまり、「670年」には、「髙麗」は存在していないのです。

なぜ、本では、それを指摘していないのか、不可解です。

また、「日本」の人が、「日本」の意味を言うのであれば問題ないですが、
ここでは、なぜか、「髙麗」の遣使が「自言其國近日所出 故號日本國」と話しています。

「其の名、惡(にくみ)不雅(みやびなく)而(すなわち)之(これ)改盖(無いのか)」
とあり、「髙麗」が「日本(元倭国)」となんらかのトラブルがあったようにも解釈できます。

あと、「其國近日所出」が「日の出の所に近い」と解読でき、
「新羅本紀」の内容のまま書かれたとするならば、
「新羅」から見て「日の出に近い場所」つまり、「新羅」から「東」に存在しています。

つまり、今の日本列島と思う人が多いと思いますが、
「則(すなわち)天の時自(より)」も重要な情報です。

「天の時」が「天子を名乗ってから」という意味だとするならば、
「新羅」から見てではなくて、「唐」から見て「東」になるのです。

そうだとすれば、「唐」から見て「東」にあるのは、「朝鮮半島」も入るので、
「日本列島」を指すとは言えません。

この様に、誰の目線なのかで、大きく異なりますが、
疑問しかありませんし、情報が不足しているので不明です。

葛禹圖可汗

「葛禹圖可汗」は、人名だと思い、そのままにしました。

「可汗」ですが、参照93のサイトによると、
「古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ」とあります。

「葛禹圖」を解読するとなると「禹が圖(はかり)葛(かたびら)」になりそうですが、
その後の話と合いそうも無いですので、たぶん、人名なのだと思います。

しかし、参照93のサイトや、検索しても見つかりません。

ただ、近い名で言えば「回鶻可汗国の第2代可汗の葛勒可汗」があります。

これだと、「葛」は合っていますが、「禹圖」がありません。

「葛禹圖可汗」が人名とした時、存在した時代が気になりますが、
情報が存在していないので、完全に不明です。

参照93:カガン

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