最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

神世7代までのまとめと時代考証

解説

01

阿毎一族

今までは、「伊邪那美神を祀る神社と神名」で、
1-3を終了させていたのですが、
新しい考察により、色々と繋がりが見えて来たので、
この場で、纏めていきたいと思います。

阿毎一族

「天(あま)一族」の本家と考えている「阿毎一族」が、
南朝鮮に来る前について、なかなか、繋がる良い情報がありませんでしたが、
今回、繋がる感じがする情報がありました。

「東夷」に関連性のありそうな情報が無かったので、
「北狄」を調べるとWikiでは下記の様に書いています。

翟人は紀元前2000年頃にはオルドス地方一帯で繁栄していたようで、
考古物から時代ごとの人口の増加と経済的発展が確認される。

その後、水と草を追い求めながら東方や南方へ向かって居住地域を拡大、
夏・殷前期には翟人の遊牧地域は華北一帯(主に山西・河北・陝西)で
存在していた事が確認されている。

Wiki

上記の記事を見て、「阿毎一族」=「遊牧民」の可能性がある様に思っています。

「紀元前2000年頃」以降に、「居住地域を拡大」とありますが、
地球規模の寒冷化が発生した影響ではないかと考えています。

参照1のPDF(19ページ、イベント3)に載っています。

この事により、居住地域を拡大せずとも、生活を維持できていたのが、
寒冷化の影響で、「水と草」を追い求めなければ、
生活できない状況へと変化したのだと推測しています。

その後、「遊牧民」としての生活が出来なくなった人達は、
別な仕事を探す事になります。

「阿毎一族」は、船を使った「水運業」を選択したと思っていましたが、
本当はどうだったのでしょうか。

もちろん、必要な技術だったと思いますが、
関連した情報も無く、分かりませんでした。

参照1:気候変動と文明の崩壊 - 成城大学

阿毎

漢字の意味を考えます。

読み

「阿」:呉音・漢音:ア

「毎」:呉音:マイ、漢音:バイ (表外)

上記により、呉音「あまい」、漢音「あばい」となりそうです。

意味

「阿」:良い

「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「口の奥の象形と口の象形」
(口の奥から大きな声を出すさまから、「良い」の意味だが、
ここでは、「かぎ型に曲がる」の意味)から、
丘の曲がった所「くま(湾曲して入りくんだ所)」を意味する
「阿」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「毎」:常に

「髪飾りをつけて結髪する婦人の象形」で
つねに女性は髪の手入れが必要な事から
「つねに」を意味する「毎」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

他の解釈として、Wikiでは、二つの説を掲載しています。

髪飾りをつけた女性の姿で、家事などにいそしむ(「敏」の原字)の意、
「次々に、その都度に」の意は音を仮借したもの(白川)。

又は、

「母」を音符とする会意形声文字で、母親の指呼と、特に次々と子供を産むことで、
そのような現象を形容する言葉に転用された(藤堂)。

Wiki

どれが、正しい解釈が正しいかは不明ですが、
意味の中に「草が盛んにしげる」と「むさぼる(飽きることなくほしがる)」あり、
「遊牧民」らしい漢字だと思います。

参照2:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「阿」という漢字

参照3:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「毎/每」という漢字

参照4:毎 - ウィクショナリー日本語版

まとめ

この一族が「遊牧民」をしていた時期には、
必要な「草」を「良い」状態に維持させる技術を使っていて、
良い名として、継承して来たと思われます。

イネ

「阿毎一族」が南朝鮮へ南下する際に、
「水稲栽培技術」を所持していたと思わますが、どこで、学んだのでしょう。

南下

「水稲」の稲作の起源をWikiでは下記の様に書いています。

長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、
約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、
インディカ米の出現はずっと下るという。

野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、
後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、
インディカ米の系統が生じたと考えられている。

Wiki

「草鞋山遺跡」は、中国の「蘇州市」にあります。

そして、「蘇州市」の横に「上海市」があり、
1-2の番外編でも書いた「淮夷」民族と繋がる事になります。

わいい【淮夷 Huái yí】

中国,殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族。

〈東夷〉の一つで,水稲農耕を主とした。

世界大百科辞典

ちなみに、「殷代」と言うのは、
Wikiによると「紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年」となります。

しかし、「遊牧民」は、「華北の陝西地域」まで南下していますが、
「現蘇州市」や「現上海市」には、まだまだ、遠いです。

そこで、古代中国の色々な地域に居た「倭人」と
接触した可能性があるのではないかと考えていますが、
「周代」以前の状況を知る情報が無く、推測止まりとなっています。

もしくは、「華北の陝西地域」から「現蘇州市」方面へ南下の可能性もあります。

その「現蘇州市」方面へ南下出来たのは、
「倭人」による仲介があったのかも知れません。

「現上海市」から見て、南朝鮮は正面になるので、
「阿毎一族」が目指す対象として、十分に考えられます。

参照5:淮夷

南朝鮮

「阿毎一族」が南朝鮮に向かったとするならば、
その頃、先住民族はどうしていたのでしょうか?

古代朝鮮半島の記事が参照6のサイトです。

ただ紀元前1000年頃からこの土地の人々は模様のない土器を使い始め、
それとほぼ同時に水稲作が始まったと言われています。

この記事の裏付けになりそうなのが、「阿麻(あま)と阿毎(あま)」でも紹介した、
参照7のPDFになります。

この情報により、「紀元前1000年頃」に変化が起きたようです。

「現蘇州市」近域では、紀元前4000年頃には既に、
「水田」で「水稲栽培」がされていたのに、変化がありませんでした。

しかし、「紀元前1000年頃」に変化が起きた要因は、
「阿毎一族」が持ち込んだ影響と考えた方が良い様な気がします。

参照6:韓国の歴史

参照7:朝鮮半島原始時代農耕集落の立地 - J-Stage

韓民族

それでは、現在の「韓民族」の先祖は、この当時、どこにいたのでしょうか?

調べると、なぜか、「韓民族」が見えて来ません。

今度は「朝鮮民族」で調べると、Wikiには下記の様に書いています。

先史時代の朝鮮半島は
櫛目文土器(ウラル語族に関連)を有する遼河文明圏に属していた。

このウラル系民族が、朝鮮民族の基層にある可能性が高い。

古代の朝鮮半島は現代と比べ人口も少なく諸種族が点在しており、
半島南部には倭人、北部には沃沮(よくそ)、濊(わい)、扶余(ふよ)などの
濊貊(わいはく)系、挹婁、扶余、を中心に定住していた。

Wiki

「ウラル系民族」という北方系民族が基礎にあるようです。

そこで、Wikiの「朝鮮半島の歴史」を見ると、疑問点が出て来ます。

朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、
現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。

約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで
現在より海面が約130mも低かったため、東シナ海の大部分は陸地であったが、
紀元前4000年ころにかけての海面上昇により
当時の沿岸部は海中に没しているとされている。

最終氷期に日本列島とは対馬海峡で短期間漂砂によって
陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある。

Wiki

紀元前4000年頃より以前は、「東シナ海の大部分は陸地」だったのならば、
「水稲栽培技術」が、南朝鮮に波及していても不思議では無いと思いますが、
その様な事が無く、紀元前1000年頃まで痕跡がありません。

また、他の朝鮮半島の変化についても記載があります。

紀元前1500年頃から無文土器が出現し同時に支石墓が多数建造されるようになる。

これに先駆けて紀元前2000年から紀元前1500年頃、
朝鮮半島より北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化で、
支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、
これらが北方から流入した可能性を示唆している。

Wiki

「支石墓・無文土器や大規模な住居」と言った、
新しい変化が半島内部ではなく、半島外部からの流入した事から、
当時の半島の状況が見える様な気がします。

半島に住む先住民族は、基本、原始的な生活をし、
なにも不自由な生活をしておらず、変えるつもりも無かった。

ただ、新しいもの好きな人達によって、外部の文化が入り、
便利さを知ってしまったので、受け入れたのだと推測します。

ここでも、「韓民族」が関係している内容でもありません。

「韓民族」は、先史文明期に、
朝鮮半島には居なかった可能性が高い様に思えます。

とすると、紀元前1000年頃の変化は、
「阿毎一族」による影響なのでしょう。

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