最終更新日 2025/03/05

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契丹古伝 へようこそ Welcome to Japanese History


○三十一章
先是宛之徐 濟海舶臻 倚殷居於宛灘 闢地數百千里 築弦牟達 稱昆莫城 國號徐珂殷

○三十二章
至是燕築塞繞曼灌幹城曰 襄平將 又越孛涘渤强行阻斷 二国伐燕克之 踰渝及孤竹
盡復殷故地 及秦滅燕 乃與之約 郤地千里 以孛水爲界如故

○三十三章
秦忽諸不祀 夫胥子有秩 率其衆來歸 殷舍之白 提奚爲都岐越

○三十四章
燕瞞說殷曰 請背水而國以禦漢寇 殷納封之姑邾宇 瞞又說漢曰
胡藏秦華胄請滅之爲 郡以絶後患 漢喜給之兵仗 瞞襲取殷 漢進郡阻徐珂 殷王奔辰
秦氏隨徙 殷亡 瞞乃案智淮氏燕 故事以之紀國曰 朝鮮 始達周武之志也

○三十五章
於是瞞要漢反故 漢去但巫志 心甚啣之 徐珂王淮骨令南閭峙 欲爲殷報讐 謀之於漢
漢誓不郡 許以王印爲證 及洛兎出 南閭峙憤恚自刎 子淮骨令蔚祥峙 襲破遼東
斬其守彭吾 率國合潘耶 潘耶乃大焉

○三十六章
於是辰以蓋馬大山爲固 以奄淥大水爲城 拒漢 碎破其眞敦之志

○三十七章
蓋辰者古國 上代悠遠也 傳曰 神祖之後 有辰沄謨率氏 本與東表阿斯牟須氏爲一
辰沄謨率氏有子 伯之裔爲日馬辰沄氏 叔之裔爲干靈辰沄氏 干靈岐爲干來
二干隔海而望 干來又分爲高令云 然有今不可得攷焉 其最顯者爲安冕辰沄氏
本出東表牟須氏 與殷爲姻 讓國於賁彌辰沄氏 賁彌氏立未日 漢寇方薄其先入朔巫達
擊退之 淮委氏沃委氏竝列藩嶺東爲 辰守郭潘耶又觀兵亞府閭 以掣漢

○三十八章
先是弁那有二汗落曰 縉耘伊逗氏曰 縉耘刀漫氏 伊逗氏者殷密矩王孫所入而繼
淮伯諸族合于弁者 具瞻爲宗 中微兒孫或爲刀漫氏所鞠育 繆突幼有異相 刀漫忌憚之
質於鞅氏而急襲 繆突亡奔 迂而依殷 殷善外計 伯陰内應 繆突入爲沄翅報 圍漢幾獲
轉掃弁殷之間 殷乃爲康 及繆突死於賄 伯復坎軻 久潜漠邊
至是辰招以率發符婁之谿臼斯旦烏厭旦之壤 高令乃之臻

○三十九章
又遣使伊鎩河畔 載龍髯酬以遠鎩河及頌卑離 乃亦令勃婁達修杜都那
置納祇米行高密帥志 禳寇云 鑑罄乎此矣

○四十章
洲鮮記曰 乃云訪于辰之墟 娜彼逸豫臺米與民率爲末合 空山鵑叫 風江星冷
駕言覽乎其東藩封焉 彼丘不知是誰 行無弔人 秦城寂存嘻 辰沄氏殷今將安在
茫茫萬古訶綫之感 有坐俟眞人之興而己矣
解読

是より先、宛(さながら)之(これ)徐(おもむろに)海舶(ふね)を濟(わたし)臻(およぶ)

宛(あたかも)灘(水の流れが速く、進むのに難しい所)に於いて、殷に居るを倚(たのむ)

數百千里の闢地(へきち)に、弦(つる)で築するを牟(むさぼり)達(すすめる)

昆莫城を稱える

國の號(よびな)徐珂殷とす


是(これ)に至り、燕、築塞し、曼(ながく)繞(まつわり)城の幹(みき)を灌(そそぎ)曰く

將(まさに)襄平、又、孛(草木がしげるさま)を越えて、
强行し渤(水がわきたつさま)で涘(水際)を阻斷す

二国、燕之(これ)伐(そむき)踰(こえて)克(よく)渝(かわる)

及び、竹を盡(きわめて)、孤(ひとり)で殷の故地に復(もどる)

及び、秦により燕滅す

乃(すなわ)ち之(これ)與(ともに)約し、郤(郤国)の地千里、
孛(草木が茂るさま)を以って水の界(さかい)故の如くと爲す


秦、忽(たちまち)諸(もろもろ)不祀(まつらず)

夫の子、胥(みな)秩(よく整った順序)有り

其の衆を率いて歸(かえ)って來た

殷に舍(やどる)之(これ)白(もう)す

奚の都を越す岐(わかれ)を提(さげる)と爲す


燕、殷を瞞(だます)と說(といて)曰く

水而(に)背(そむく)を請けて、國を以って漢に寇(あだする)を禦(ふせぐ)

殷、封をして納めて、
之(これ)姑(しばらく)邾(山東省鄒城市の國名)の宇(いえ)を瞞(だます)

又、漢に說いて曰く

胡、秦の藏を華胄(貴族)に之(これ)請われて滅すと爲す

郡を以って後の患(うれい)絶える

漢、兵仗之(これ)喜び給う

殷を瞞(だまして)襲取(奪取)す

漢、郡への進み、珂(白瑪瑙)が阻み徐(おそい)

殷王、辰(辰国?)へ奔(はしる)

秦氏、殷亡に隨(したがい)徙(うつす)

乃(すなわ)ち智淮氏と燕で案を瞞(だます)

故事、之(これ)を以って國を紀(しるす)と曰(い)う

朝鮮、周武之(これ)志により始まり達する也


是於(これにおいて)、漢、瞞(だまし)反故にしたのを要(みとめる)

漢、但し、巫(道具)の志の心、甚(はなはだ)之(これ)啣(くわえて)去る

徐(おもむろに)淮骨令の王、南閭の峙、
珂(白瑪瑙)を殷に報(しらせて)讐(むくいる)を欲すと爲す

謀(はかりごと)之(これ)漢に於いて、漢に不郡(孤高)の誓(ちかい)をす

王が證(あかし)を許すを以って印(しるし)と爲す

及び、兎を洛(つらねて)出る

南閭、峙(そばだち)、刎(はねた)ことに自(より)憤(いきどおる)恚(いかる)

淮骨令の子が蔚祥の峙、遼東を襲い破る

其の守りを斬り、吾の彭(さかき)を率いて、潘耶合わせて國とし、
焉(ここに)潘耶、乃(すなわ)ち大とす


是於(これにおいて)、辰(辰国?)を以って、馬で蓋(おおい)固めて大山と爲す

淥(若竹のような色)で奄(おおう)を以って、城、大水と爲す

漢を拒(こばみ) 其の眞の破で碎(くだき)、之(これ)敦(あつい)志(こころざし)


辰(辰国?)者(は:短語)古國を蓋(おおい)、上代より悠遠(はるかとおく)也

傳(つたえて)曰く

神祖之後、辰沄謨率氏有り

東表阿斯牟須氏と與(ともに)本家と爲す


一、辰沄謨率氏、子有り、伯(おさ)之裔を日馬辰沄氏と爲す

叔之裔、干靈辰沄氏と爲す

干靈(天の神?)干されて、岐(わかれ)來たと爲す


二、海に干して隔(へだてる)而(に)望む

又、高く分けて干して來て、令(うながして)云うと爲す

然し、今、有る不可(べからず)焉(ここに)攷(しらべて)得す

其の最(もっと)も顯(あらわ)れる者(は:短語)安冕辰沄氏と爲す

本東表牟須氏から出た本家は、殷と與(ともに)姻(とつぐ)と爲す

賁彌辰沄氏に於いて國を讓(ゆず)る

賁彌氏未(いま)だ立ち日く

漢に方(まさに)寇(あだなし)、其の先に入り薄く、朔(きた)の巫(道具)達(すすめる)

之(これ)擊退し、淮委氏、沃委氏、藩の列に竝(なら)び、
嶺東(韓国地域、中国地域並びに街道)と爲す

辰守の郭(くるわ)潘耶、又、兵の觀(しめし)を亞(つぎ)閭(さと)の府を以って漢から掣(ひく)


是先(これよりさき)、弁那有り、汗の二つが落ちて曰く

縉耘伊逗氏曰く

縉耘刀漫氏、伊逗氏者(は:短語)、殷の密矩王の孫の所に入而(すなわち)繼ぐ

淮伯諸族合わせて、弁(かんむり)于(に)者(は:短語)、
具(つぶさに)瞻(みて)と爲す

宗中微の兒孫、或いは刀漫氏の所の鞠育と爲す

幼(わかく)有る異相(いそう)繆(まとう)突(つく)

刀漫之忌憚(きたん)、質(ただす)に於いて、鞅氏而(すなわち)急襲す

繆(まとう)突(つき)奔亡(逃走)す

殷に依って、而(すなわち)迂(遠く)なる

殷、外での計(はかり)善く、伯(おさ)の陰で内應す

繆(まとう)突(つき)沄翅報が入ると爲す

漢の幾(ほとんど)を圍(かこい)獲る

殷之間、弁(かんむり)を掃いて轉(ころ)がす

殷、乃(すなわ)ち康と爲す

及び、繆(まとう)突(つき)、賄(まかない)に於いて死す

伯(おさ)の軻(くるま)の坎(あな)を復(もどす)

漠(すなはら)の邊(あたり)に久しく潜(ひそむ)

是至(これにいたり)、辰(辰国?)を招(まね)くを以って、
發符(証明物件の総称)婁(つなぎ)率いる

之(これ)旦(あきらか)に谿(たに)臼、斯(これ)烏(からす)を厭(きらう)

旦(あきらか)に之(これ)壤(つち)を高く令(うながし)乃(すなわ)ち之(これ)に臻(いたる)


又、遣使が伊鎩河畔に龍の髯を載せて酬(むくいる)

以遠くの河にある鎩(刃渡りの長い矛)を以って、
及び、卑(ひくい)頌(かたち)離(ならぶ)

乃(すなわ)ち、亦、勃(さかんに)達(すすめて)婁(つなぎ)令(うながし)、
杜の都の那修(かざる)

祇(くにつかみ)を納めて置く

密(こまかい)米の行を高く志(こころざし)を帥(ひきいる)

寇(あだ)を禳(はらい)云う

此の矣(矢が当たって止まる)乎(お)罄(ことごとく)鑑(かんがみる)


洲鮮記曰く

乃(すなわ)ち、辰之墟(あと)于(に)訪れて云う

娜(那国の女性?)から彼は逸(はずれる)

豫(あらかじめ)臺(うてな)と與(ともに)民を率いて米と合わせて末と爲す

空や山に鵑(ほととぎす)の叫び、江(揚子江)に星が冷えて風となる

駕(しのいで)言う

乎其の東藩乎(お)覽(みて)焉(ここに)封ず

是(これ)誰の彼丘(かのおか)不知(しらず)

弔(とむらい)の人が無く行く

秦城嘻(やわらぐ)が寂(さびしく)存(たもつ)

辰沄氏、殷の今、將(まさに)安(やすらかに)在る

古から茫茫(広がるさま)萬(よろず)綫(すじ)之感を訶(しかる)

坐して俟(まつ)と有り、眞人之興(おこし)、
而(すなわち)矣(矢が当たって止まる)は己なり

解説

09

第三十一章〜第四十章


稱昆莫城

「稱昆莫城」は、「昆莫城を稱える」と解読できます。

ここにある「昆莫」ですが、参照84のサイトを見ると人名のようです。

「昆莫城」は「昆莫の城」という解釈もでき、
「烏孫国」を建国した時に、居城とした城の事を指すのかも知れません。

参照84:昆莫

参照85:烏孫

國號徐珂殷

「國號徐珂殷」は「國の號(よびな)徐(おもむろに)珂殷とす」と解読できます。

「珂殷」を調べると、下記のようにありました。

珂殷(かけついんちゅう)は、殷の帝辛(紂王)と夏桀、末喜を指す言葉です。

末喜は山東の有施氏の娘で、絶世の美女といわれていました。

桀は末喜を寵姫として愛し、
末喜の願いに応えるために巨大な宮殿を建てました。

末喜が絹を裂く音を好んだため、高価な絹を集めて引き裂くなど、
みだれた行いを繰り返しました。

この行いを諫めた賢臣・関龍逢を桀は殺し、
家臣となっていた伊尹も湯王のもとへ帰りました。

湯王は兵を挙げ、夏を亡ぼしました。

ここで、上記の文は、検索して、AIで出てきたものですが、疑問に思うこともあります。

参照86のサイトには、「夏桀殷紂」を「かけついんちゅう」としています。

ところが、上記の文には、「珂殷(かけついんちゅう)」とあり、
なぜ、「珂殷」の「珂」は読みが「か」だとしても「かけついんちゅう」とするのは、
非常におかしいと思われます。

ただ、後世の「契丹古伝」では、「國の號(よびな)徐(おもむろに)珂殷とす」から、
「珂殷(かけついんちゅう)」と考えている可能性があります。

なぜ、「夏桀殷紂」が「珂殷」になってしまったのか、非常に疑問です。

参照86:末喜

徐珂王淮骨令南閭峙 欲爲殷報讐

「徐珂王淮骨令南閭峙 欲爲殷報讐」は、「徐(おもむろに)淮骨令の王、南閭の峙、
珂(白瑪瑙)を殷に報(しらせて)讐(むくいる)を欲すと爲す」と解読できそうです。

淮骨令

参照87のサイトには、「淮骨令」の事について、下記のように書いています。

==[仮説]==

「穢」は秦代に文献に現れる。「貊」は秦代以前から文献に現れ、
周代と考えられる。

思うに、貊は呉の太伯の末を表しているのではないか。呉は越に入り、秦代以後には、
呉越は「百」を名のって南北に散り、百越や百済と なったのではないか。

従って「穢貊」は貊域に住む穢という意味で、後に両族をまとめて言うようになった。

2,3世紀に用いられる貉かく、ばくは、高句麗族を指す。

歳#君は、楽浪郡で使われた中原系民族による他称であり、
自称は淮骨令ということになる。

思うに、淮・歳#・穢は、
淮水周辺の民族が東方に植民したものではないか。

=={木屋清八}==1997.12.20

==[仮説]==

淮族は殷に従い、周に反抗して東方に移った。

秦の東方進出を阻もうとした淮は秦から穢と呼ばれるようになる。

自ら歳#と名乗った理由は不明である。

=={木屋清八}==2001.12.20

「歳#君、南閭等」は、「淮骨令、南閭峙」に通ず。   
淮伯は、淮族と伯族に分けられ、それぞれ智淮、武伯と呼ばれる。

「淮骨令」について、知ろうと思い、検索しても、上記の記事くらいしかありませんでした。

今回の文には、「淮骨令」についての情報がほとんどなく、
「穢」と関係があるのかどうかの検証が出来ませんでした。

参照87:木屋の資料館3.21淮伯

南閭

参照88のサイトには、下記のような事が書かれています。

南閭(なんりょ、生没年不詳)は、濊の君。南閭は、中国姓・中国式姓名であるため、
濊人は、紀元前2世紀から中国姓・中国式姓名を使用していたことが確認できる。

概要
紀元前128年、南閭は28万人を連れて漢に投降した。

投降を受けて漢は蒼海郡を設置する。

武田幸男は、蒼海郡治を咸南咸興か永興に比定しており、
紀元前2世紀に中国姓・中国式姓名をもつ濊人が咸鏡南道で活動していた。

紀元前後の楽浪郡に存在した現地系民族として確実に存在が確認できるのは
濊人であり、平壌の楽浪郡の古墳群から出土した銀印には「夫租薉君」の印記があり、
武田幸男は、夫沮(沃沮)すなわち咸鏡道一帯から遠い平壌の地に埋葬されるほどに
濊人が楽浪郡との関係を深めていたことを指摘している。

また、『魏書』東夷伝韓条に「桓霊之末,韓濊彊盛,郡県不能制,民多流入韓国。」とあり、
濊人が韓人と共闘して中国の郡県支配に抵 抗していた。

また、『魏書』東夷伝濊条に
「自単単大嶺以西属楽浪郡,自領以東七県,都尉主之。皆以濊為民。」とあり、
素直に読めば、 楽浪郡の「民」は濊人となり、
『魏書』東夷伝韓条は「国出鉄,韓・濊・倭皆従取之。」とあり、
弁韓(朝鮮半島最南端)で韓、倭と接触 していた。

さらに、迎日郡(浦項市)出土とされる銅印には「晋卒善穢佰長」が出土している。

以上から、濊人の活動範囲は西南部を除く 朝鮮半島の広範囲に及んでいた。

「徐珂王淮骨令南閭峙 欲爲殷報讐」の文の「南閭」が、
「紀元前128年」よりも前なのか、後なのかで、色々と変わりそうだと思いますが、
情報が不足していて、良く分かりません。

参照88:南閭

米行高密帥志

「米行高密帥志」は、「密(こまかい)米の行を高く志(こころざし)を帥(ひきいる)」
と解読できそうです。

「米行」の「行」ですが、
検索すると、「中国古代の同業者組合」を当時、「行」と言っていたようです。

参照89のサイトに詳しく書かれていて、最後の方に、
「馬行,魚行,薬行,絹行,大衣行,鞦轡行,絲行,彩帛行,肉行,果子行,靴行,新貨行,
雑貨行,染行,米麺行,菜子行,帛練行,鐺釜行,白米行,米行,大米行,粳米行,油行,
五熟行(料理された食品)行,屠行,大絹行,絲帛行,市絹行,小絹行,小彩行,絲綿行,布行,
幞頭行,磨行,秤行,生鉄行,炭行,口馬(張家口以北生まれの馬)行など」と
「米行」があるので、たぶんに、これを指すのだと思います。

参照89:「行」,中国古代の同業者組合とは

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