目次
葦原中國
ほとんどは「天照大御神」ですが、一箇所のみ「更還上 請于天照大神」と、
「天照大神」を利用しています。
当然、同一人物では無いですが、なぜ、この様な事をしたのか、不思議です。
写本時に抜けたと考える事も可能ですが、写本は、書いてある通りに書くので、
抜けたと思ったら、書き直すはずですから、違うと思います。
多分、最初から、この様に書かれていた可能性が大きいと考えています。
内容としては、出張かどうかは不明ですが、「更に上に還る(様に)天照大神于(に)請う」と
「還」を使っているので、一度戻ってくるようにと、命令が合った可能性があります。
第一章〜第三章までの範囲で、「葦原中國」が誰かが賜ったとする記事が存在しません。
なので、「思金神令思而詔 此葦原中國者 我御子之所知國 言依所賜之國也」の
文自体おかしな話になっています。
なので、「我御子之所知國」は、「天(あま)なる國」からみてではなく、
「葦原中國」からみての「我御子」だと思っています。
多分に「我御子」が「葦原中國」の王の後継者だと考えられます。
この様な「天(あま)なる國」が賜ったという記事は、第四章において、たびたび、見かけます。
ただ、気になるのが、「我御子」の後の「名」が無い事です。
前文では、
「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國」
ときちんと名を書いていますが、今回は名がありません。
これは、最初から無かったのか、都合が悪いから削除したかの二択ですが、
都合が悪いから削除したのでは無いかと思っています。
この文の時点で、「葦原中國」を賜ったという記事が存在しないので、
賜る事が出来るのは、「葦原中國」の「王の後継者」のみです。
その「後継者」の名を消す事で、最初から「天(あま)なる國」の領地と思わせる様な感じに
したのでは無いか?と考えています。
しかし、もし、「天(あま)なる國」の領地であり、一族の誰かが賜ったのであれば、
名を残しているはずなので、名を消す行為は意味が無いと思います。
もちろん、古事記編纂時に、情報が欠落している可能性もあります。
ちなみに、「天菩比神」は、「天(あま)なる國」と「葦原中國」の橋渡し役だったと考えています。
今までの関係について、振り返ります。
「黃泉國」の場面で登場します。
「黄泉(硫黄泉)」なので、現代の「地獄谷」の近くにある街の様な
國造りをしていたのかも知れません。
「爾高天原皆暗、葦原中國悉闇」、「以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣」、
「高天原及葦原中國」の3個になります。
1個目と3個目から、「高天原」と「葦原中國」がすごく近い位置にあるのが分かります。
近い位置にあるという事は、情報量も多いはずです。
なので、「我御子」の名を残していないと言うのは、あまりにも怪しいと感じます。
しかし、そんな怪しいと思える記事を、歴史書でもある古事記に載せるというのは、
すごく不思議に思えます。
第三章の範囲において、「次妹高比賣命 亦名 下光比賣命」とあり、
「下光比賣命」が「下照比賣」と似てはいますが、「光」と「照」で異なります。
また、「下光比賣命」には、「命」という地位が存在しますが、
「下照比賣」にはありません。
「次妹高比賣命 亦名 下光比賣命」は、
「妹高比賣命」を継承した人の中に「下光比賣命」がいたのだと思います。
あと、「娶大國主神之女、下照比賣」とはありますが、
「大國主神」という名が、多くの人が継承されているので、
第二章、第三章、第四章の繋がりは不明です。
「天菩比神」は、「葦原中國」にいたからか、あまり深堀されませんが、
「天若日子」に対しては、扱いが大きく違います。
「天若日子之淹留所」を探したりしています。
最後に亡くなるわけですが、そもそも、時間軸がどの様になっているのか不明です。
なので、時系列順に書かれていると思われますが、
一番最初の「天若日子」と亡くなった「天若日子」が同一人物では無いだろうとも思っています。
今までにも、同じ様に時系列順ではあるけれど、同一人物でない例としては、
「天照大御神」、「速須佐之男命」などがあるので、「天若日子」も同じだろうと考えています。
「雉」ですが、「可遣雉名鳴女」と「鳴女」という名の人物を派遣すべきと書いていますが、
その後の文では、派遣したとする文がありません。
なので、「故爾鳴女、自天降到」の文は、成立していません。
もし、派遣したのであれば「遣天菩比神者」や「天若日子而遣」の様に、
派遣したとする文を載せるべきですが、実際にはその様な文はありません。
これにより、「故爾鳴女、自天降到」が正しいのならば、
「雉」という団体?などから、独自に派遣された人物の可能性が高いように思います。
「鳴女」が見つけた「天若日子之門湯津楓上」ですが、
「居天若日子之門湯津楓上而、言委曲如天神之詔命」とあるので、
「天神」が宿屋の様に使っていたとも解釈できます。
また、「爾天佐具賣此三字以音聞此鳥言而 語天若日子言 此鳥者 其鳴音甚惡
故 可射殺」の様に「鳥」と書いていますが、なぜか、
「卽天若日子、持天神所賜天之波士弓・天之加久矢、射殺其雉」と
「雉」を射殺すという話になります。
これから考えて、前半の「〜可射殺」の文と、
「卽天若日子〜」の文では場所や時期が異なる可能性が高いと考えています。
「雉」も「鳥」の一種ですが、もし、最初から「雉」であるならば、
最初から「雉」と表記したはずですが、そうなっていません。
「爾其矢、自雉胸通而、逆射上」とありますが、
「雉」打ちを「天安河之河原」のすぐ近くで行っていれば、飛んでいく可能性がありますが、
第四章の範囲においては、「天安河之河原」は初めてです。
そもそも、「雉」は空を飛ばないので、「雉」を狙う時は、「下に向けて」矢を放つのだと思います。
「雉の胸を貫通」して、しかも「上に逆に射る」の後に「天安河之河原」に至るのは、
相当無理があるのではないか?と思っています。
実際に、雉打ちをした事が無いので、もしかしたら、出来るのかも知れませんが、
異様に感じてしまいます。
あと、「是高木神者 高御產巢日神之別名」とありますが、「別名」ではなく、
詳細不明の「高木神」が「高御產巢日神」の名を継承したと言うう事です。
「高木」という事は、「高い木」についての知識が多かったから、
名付けられたのだと思いますが、「高御產巢日神」を使わずに「高木神」を使っている事は、
もしかすると、系統が変化したのかも知れません。
今までは、「高御產巢日神」の一族で継承してきたが、ここに来て、
子が生まれなくて、「高木神」を養子に迎えて継承させたという解釈も出来そうです。
「故爾、天照大御神・高御產巢日神、亦問諸神等〜」では、
「高御產巢日神」を使っているので、
喫緊の課題で、色々と探した結果「高木神」だったのでしょう。
これが、当時の人口減少だと考えるならば、参照1のサイトにある「気温」の図が、
紀元前1000年〜紀元前500年の半分程なので「約紀元前750年」頃に、
寒さのピークが来ています。
参照1のサイトにも書いていますが、「気温の寒冷化」による、「食糧の減少」が、
人口減少に影響している可能性もあります。
ただ、「渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になった」
とありますが、現在の一番古い「イネの圧痕」は、九州の紀元前9世紀頃なので、
大きな違いがあります。
Wikiなどを見ると、
現在は、紀元前1000年頃から「水稲」が行われてきたという認識になってきているようです。
参照1:縄文晩期から弥生時代にかけておきた急激な人口減少と気候変動
「於是 高木神告之 此矢者 所賜天若日子之矢」の場面ですが、
「所賜天若日子之矢」がおかしいです。
「所賜天若日子之矢」を解読すると「天若日子之矢を賜った所」となります。
「卽示諸神等 詔者 或天若日子 不誤命〜」と続くわけですが、
「天若日子之矢を賜った所」がどうしたのでしょうか?
その大事な箇所が書かれていません。
これにより、「於是 高木神告之 此矢者 所賜天若日子之矢」と、
「卽示諸神等 詔者 或天若日子 不誤命〜」には、関係性が無い可能性もあります。
なにせ、大事な箇所が書かれていませんから、繋がる様には思えません。
「取其矢、自其矢穴衝返下者、中天若日子寢朝床之高胸坂以死」の
「高胸坂」ですが、地盤の隆起によって、「胸が高い」位置にあり、
手足が「坂」の「∧」の様になったのではないか?と考えています。
「穴」が「火口」、「衝」が「ぶつかる」と考えた場合、「隕石」が「火口」にぶつかり、
地上に衝撃が走り、近い位置にいる程、影響が大きいはずです。
なので、偶然にも「天若日子」の近くにある火口に隕石がぶつかり、
その衝撃によって、地上は断層が出来、断層近域にあった「天若日子」の家が、
影響を大きく受けて、「天若日子」は、地上の隆起によって、亡くなった可能性がありそうです。
ただ、最後の「亦其雉不還 故於今諺曰 雉之頓使 是也」については不明です。
「日八日夜八夜遊也」は、どう考えても、「葬式」という感じがしません。
また、「八日」とは書いていますが、「五日分」しか存在していないので、
「日八日夜八夜遊也」の事を指しているのか、微妙な感じです。
「河雁」と「岐佐理持」、「鷺」と「掃」、「翠鳥」と「御食人」、「雀」と「碓女」、「雉」と「哭女」
の五日分が書かれていますが、もし、「日八日夜八夜遊也」の中の五日分だとすると、
他に三日分ある事になりますが、なんでしょうか?
「河雁」と「岐佐理持」、「鷺」と「掃」の2つは「渡り鳥」で共通するので、
「秋」〜「冬」をイメージし、「翠鳥」と「御食人」は「春」、
「雀」と「碓女」、「雉」と「哭女」の2つが「夏」をイメージすると考えています。
そのため、「新年のお祭り」や「収穫祭」の可能性がありそうです。
葬儀の話は、いろいろな話が交錯して、どの様に考えて良いのか、判断が難しいです。
阿遲志貴高日子根神が「天若日子」と似ているという話を聞いて怒る場面ですが、
そもそも、他の行事等で一緒にいれば、似ているという事は、言われているはずです。
だから、それで怒ると言うのは、おかしいと考えています。
あと、「其過所以者 此二柱神之容姿 甚能相似、故是以過也
於是阿遲志貴高日子根神 大怒曰」とありますが、「此の二柱」が、
「阿遲志貴高日子根神」と「天若日子」の事なのかが疑問です。
違う場合、怒る意味がありません。
「祁理」は「呉音「ぎり」、漢音「きり」」となりますが、何を指すのか不明です。
また、この「祁理」という言葉は、第一章に「祁理【此二字以音】」とあり、
第四章までの間、どの様に読んでいたのか、気になります。
「拔所御佩之十掬劒 切伏其喪屋 以足蹶離遣」と怒った阿遲志貴高日子根神が、
起こす行動ですが、そもそも、喪屋は剣で切ったところで、簡単には倒れないでしょう。
なので、「剣」ではなく、喪屋を解体するのにふさわしい道具、
例えば「斧」などを使ったと思いますが、書かれていません。
そもそも、阿遲志貴高日子根神が行ったかどうかも不明です。
「此者在美濃國藍見河之河上 喪山之者也」の最後の「喪山之者也」は、
「之者」は不要なはずなのに、なぜ、あるんでしょうか?
この当時の「美濃國」は、現在の岐阜県ではなく、
九州でも「高天原」や「葦原中國」の近くに存在したと考えています。
現在の岐阜県は、この人達がたどり着いた場所だったのだと思います。
あと、「喪屋」が「喪山」になるのは、多くの「喪屋」が設置されたけど、
それを解体し、木などを山積みにしておいて、年月が経って、「喪山」になったのでしょうか。
「其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒」の書かれた場所が、
「切伏其喪屋」の場面とは、離れた場所にあるのはなぜなのだろうか?
もし、これを使って、喪屋を解体したのならば、その時に書くはずです。
そうでないという事は、この剣の存在を知ってもらいたいという事だと考えられます。
つまり、「大刀」の存在を知らしめる為の話が、
「切伏其喪屋」なのではないか?と思っています。
「故 阿治志貴高日子根神者 忿而飛去之時 其伊呂妹高比賣命 思顯其御名 故歌曰」
の「阿治志貴高日子根神」は、「阿遲志貴高日子根神」と表記が異なるので別人です。
この「阿治志貴高日子根神」と関係があるかは不明ですが、
「伊呂妹高比賣命」が登場します。
「伊呂妹」について、検索して調べると、「同母妹」と書いているサイトが多いですが、
本当にそうなのでしょうか?
もし、「同母」を指すのであれば、別に書く必要が無いはずです。
ところが、それを書く必要があるという事は、「同母」を指すのでは無いと思われます。
ここで、なぜ、「出雲國」へ行くのかの説明が全くありません。
「亦遣曷神者吉」と派遣する人物を聞いていますが、
なぜ、全くの無関係な「出雲國」へ行くのか、すごく不思議です。
あと、「天安河河上之天石屋」にいる「伊都之尾羽張神」の子と思われる
「建御雷之男神」と「僕(やつがれ、使用人)子、建御雷神」という、混同しやすい名が登場します。
船長が「天鳥船神」で副長が「建御雷神」なので、
「僕(やつがれ、使用人)子、建御雷神」が選ばれたようです。
また、混同しやすい名に、「伊都之尾羽張神」、「天尾羽張神」がありますが、
やはり、同じ「尾羽張神」から、「天尾羽張神」の話を挿入したのだと思われます。
しかし、「伊都之尾羽張神」と「天尾羽張神」の関係性が不明なのと、
単に「尾羽張神」が共通しているだけで、関係は無いと考えています。
「到出雲國伊那佐之小濱」とあるので、いろいろな場所を移動した後、
「出雲國」に到着したようです。
一番不思議なのは、大國主神が「葦原中國者 我御子之所知國 言依賜」と言っている事です。
「賜る」でも書きましたが、「天(あま)なる國」の人物が、
「葦原中國」を賜ったという記事は、存在しません。
なので、「天照大御神・高木神之命以問使之」とある様に、「命令」されるいわれが無いです。
また、「我御子」とありますが、ここでも、名が書かれていません。
「我御子〇〇」と書くべきで、書いていないのは、明らかにおかしいです。
実際に、第四章の冒頭で「我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國」とあるので、
本来は、この様に書くべきだと思います。
「葦原中國」は「高天原」や「天(あま)なる國」とも近いので、
情報は多く入っているはずなので、「御子」の名が書かれていないと言うのは、
ありえないとさえ、思ってしまいます。
「我子八重言代主神是可白」の後にある「徵來八重事代主神而」では、
「八重言代主神」ではなく、「八重事代主神」とあるため、
「八重言代主神」が何も話をしていません。
なので「〜未還來」と「故爾 遣天鳥船神 徵來八重事代主神而〜」とでは、
そもそもの人物名が異なるので、繋がっていない可能性があります。
それから、「語其父大神言 恐之 此國者 立奉天神之御子」の
「其父大神」とは誰を指しているのでしょうか?
「大神」という地位にいる人は、第四章の範囲では、
「請于天照大神」と「其父大神」の2つしかありません。
これにより、実際に記載されている人物よりも、多くの人がいる可能性が出てきます。
とはいえ、「其父大神」を探すのは厳しそうです。
他にも、「語其父大神言 恐之 此國者 立奉天神之御子」の文は、
矛盾した文になっています。
「此國者」と言っていますが、この場面は「出雲國」での話なので、
「此の國」=「出雲國」となってしまいますが、その様な記事はありません。
これは、もしかして、「葦原中國」での会話なのでは?と思っています。
そもそも、「天(あま)なる國」は「出雲國」をよこせと言っていません。
「葦原中國」が、「天(あま)なる國」の領地であるのを認めろと言っているだけです。
そうなると、「卽蹈傾其船而 天逆手矣 於青柴垣打成而隱也」の文も、
もしかすると、「出雲國」ではなく、「葦原中國」での事と考える事も出来ますが、真偽不明です。
最後の方で登場しますが、「亦、我父大國主神之命に不違(たがわず)、」とあり、
「建御名方神」は「大國主神之命」という特殊な人物なので、
先に出てきた「大國主神」ではありません。
「大國主神之命」が特殊な人物と書きましたが、
通常、「神」や「命」の後に、「之」とは入りません。
今回は「大國主神」の後に「之命」と地位が二重になっています。
「科野國之州羽海」に逃げてくるわけですが、過程がすごく不可解です。
然し、力で競う欲と爲す
故、我先に其の御手を欲し取る
故、其の御手者(は:短語)令(うながし)取る
卽(すなわち)、氷を取りて成り立ち、亦、劒刄を取り成して、
故爾(ゆえに)退居而(に) 懼(おそれる)爾(なんじ)、其の建御名方神之手を欲して取り、
而(すなわち)取れ者(ば:短語) 歸(かえ)し乞う若葦搤(つかんで)取る如く、而(すなわち)投離者(は:短語)批される
卽(すなわち)、逃げ去り、故、追い往く而(に)、科野國之州羽海に迫りて到る
「然し、力で競う欲と爲す」〜「故、其の御手者(は:短語)令(うながし)取る」までは、
問題なく理解できます。
イメージすると、手と手を取り合いしていると思われます。
問題は、次です。
原文は「卽取成立氷 亦取成劒刄 故爾懼而退居」で、
「卽(すなわち)、氷を取りて成り立ち、亦、劒刄を取り成して、
故爾(ゆえに)退居而(に) 懼(おそれる)」と解読しました。
しかし、残念ながら、前文までに「氷」も「劒刄」も登場していません。
「氷を取りて成り立ち、亦、劒刄を取り成して」は、氷を氷室などに保存していて、
それを取り出して、剣で切っているとイメージする事は可能です。
ですが、「退居而(に) 懼(おそれる)」とは、何を指すのか、全く分かりません。
なぜ、関係のない文を挿入したのか、気になります。
その他の文は、手と手を取り合いしていると考えれば、納得できます。
やはり、「科野國之州羽海」に逃げると言うのは、良く分かりません。
どの文を見ても、逃げる必要性があるとは思えません。
ここで一番の問題点としては、逃げた建御名方神を「科野國之州羽海」まで追って、
殺そうとした相手の名が、全く出てきません。
ここまで、情報があるのだから、「建御名方神」が襲われた相手についても、
情報があっても不思議ではありませんが、実際には全く記載がありません。
手と手を取り合いしていると思われる場面の相手と同じなのか、
それとも、違うのかも気になります。
相手を隠したいのでしょうか?
あと、「亦、我父大國主神之命に不違(たがわず)、
八重事代主神の之(これ)言うにも不違(たがわず)」と「建御名方神」が言うのですが、
「大國主神之命」も「八重事代主神」も「出雲國」に居るはずなので、
「我、此の地を除け者(ば:短語)、他の處に不行(いかず)」は、
必然的に破る事になりそうです。
「〜我、此の地を除け者(ば:短語)、他の處に不行(いかず)」と言ったと云われる
「建御名方神」ですが、後世にはあまり意味のない事になっていたようです。
「社伝によると、祭神・健御名方富命が出雲より信濃へ入国の際、
しばらく善光寺近辺にお住まいになり先住の地方民を教化し、
その後、諏訪へ移られたという。」という話があるようです。
「出雲より信濃」が本当であれば、西暦4世紀頃の話かも知れません。
なにより、「信濃」という地名は、古事記内には無く、
あるのは、「國造」としての名です。
また、「現長野県」には、「州羽海」という海が存在していない事が分かっています。
これは、紀元前1000年以降の話なので、
仮に「1300万年前」に海だとしても意味がありません。
もちろん、「海」に由来する地名などがあるのは分かっていますが、
実際に、存在したのか?については、微妙だと思っています。
もし、「現長野県」に「州羽海」があったとして、どこに消えたのでしょう?
消えた場所はどこなのでしょう?
色々と疑問がつきません。
「神社名鑑」に、「当地は往古湖水をなし、水内の海 と称した時、
湖北の山林に鎮座したと伝えら れる。〜」とあるようです。
「海」に由来する地名などは、もしかしたら、これのことを指している可能性もあります。
「其の大國主神に問う
汝の子等、事代主神・建御名方神二神者(は:短語)、天神御子之命に隨(したがう)」
の4行下に「僕(やつがれ、使用人)子等二神。隨(したがう)と白(もう)す」とあります。
この2つは、「事代主神」と「建御名方神」の事を指していると思いますが、
なぜか、重複するように書かれています。
どちらが正しいのかは、多分に下の方がある程度合っていると思います。
それは「建御名方神」の父親が「大國主神之命」という事からも分かります。
「事代主神」も、「僕(使用人)」の子お可能性がありそうです。
多分に、ある程度優秀な人材を養子にしたりしていたのでは無いか?と思います。
突然、下の話が始まります。
「唯(ただ)、僕(やつかれ、使用人)の住む所者(は:短語)
天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音 下效此】の如く
天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】
高天原氷木多迦斯理【四字以音】に於いて、
而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)、
僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)百不足に於いて、八十坰(けい)手而(に)隱れ侍る」
この「僕(使用人)」は、「僕(やつがれ、使用人)子等二神〜」の事だと思います。
ここの「僕(やつかれ、使用人)」は、「天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理」という、
すごく高級な家に居候で働いているのだと思われます。
では、この建物がどこに存在していたのかまでは、記載していません。
「出雲國」、「葦原中國」、もしくは他国、どれなんでしょう。
ただ、「而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)、」と、
「僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)」で、「者(は:短語)」が二重になっているので、
もしかして、繋がりが無い可能性もありそうです。
「多藝志」を「多くの植えた物」と解釈すると、「天之御舍多藝志」は、
今で言うビニールハウスみたいな建物だったのではないか?と考えています。
「舎」を調べると、作物生産場でも問題ない気がします。
参照2のサイトのWikiには「音符「余 /*LA/」+羨符「口」」とあり、
「余」は参照3のサイトのWikiには
「取っ手のついた刃物又は農具を象る。農具で土を押し退けること。」とあります。
ただ、参照4のサイトでは、
「一本の柱の上に屋根がつき、柱から支えがのびている簡単な家屋の形。」
と解釈したようです。
確かに、「取っ手の付いた」と言うのは、今までにも色々な道具の漢字がありましたが、
その様に表現されていないので、家屋の意味というも納得できます。
「口」については、「壁」とする説もあるようですが、まわりが囲まれているわけでは無いので、
違うかなと思っています。
「舎」の甲骨文字が見つからないので分かりませんが、
「祝詞を収める器」という説もあります。
作物を栽培する時に「祝詞」を話すと考えると、あながち間違っていない様にも思えます。
しかし、どうやら、「余」の字源については、諸説あり、はっきりしないようです。
当然、「舎」もそうだと思います。
ちなみに、「而(すなわち)、水戸神之孫 櫛八玉神が膳夫を爲す」とある事から、
紀元前750年頃には、既に大宝律令などの基盤が出来ていたのかも知れません。
とはいえ、「櫛八玉神」が鵜に化けると言うのは、その様に表現したまでの事で、
実際に「鵜」に化ける事は出来ません。
参照2:舍 -ウィクショナリー日本語版
参照3:余 -ウィクショナリー日本語版
参照4:音符「余ヨ」と「除ジョ」「徐ジョ」「叙ジョ」「斜シャ」
「底から出て之(これ)波邇【此二字以音】、天八十毘良迦【此三字以音】を作り
而(すなわち)、鎌海布之柄 に燧臼(のろしうす)を作る
海を以って蓴(ぬなわ)之柄、燧杵(のろしきね)を作る
而(すなわち)、鑽(きり)出す火と云う」と物を作り、
最後には鑽(きり)出す火の事を伝える話ですが、
「鎌海布の柄」や「蓴の柄」などは作れたのでしょうか?
「鎌海布の柄」は、「布」なので問題ないと思いますが、
「蓴の柄」は「蓴菜(じゅんさい)」なので、小さいし粘りがあるしで、
本当に柄にしたのならば大変だと思いました。
ここにある道具を調べましたが、分かりませんでした。
「是、我の所の燧(のろし)の火者(は:短語)〜」とありますが、
「燧(のろし)の火」とあるので、「燧臼と燧杵」で作られた火だと思います。
しかし、「我の所」という事から、高位の人間の近くと考えると、
「鑽(きり)出す火」の話とは、無関係かも知れません。
この場面には、「神產巢日御祖命之登陀流」、「摩弖」、「麻弖」など、
良く分からない単語が多く出てきます。
特に「佐和佐和邇此」と「登遠遠登遠遠邇」が、全く分かりませんでした。
「故 建御雷神 返參上 復奏言向和平葦原中國之狀」を、
「故、建御雷神、返りて参上し、葦原中國之狀が和平に向かうと復奏して言う」
と解読しました。
ここで不思議なのは、「葦原中國之狀」と言っている事です。
「狀」は「かたち」とも読むので、「和平に向かう」、
つまり、「平穏な日常」が来る事を指している様に思っています。
ここから考えるに、この文章は「道速振荒振國神」という甚大な災害に遭ったのが、
やっと、日常を取り戻したとする意味があるように思います。
しかし、それであれば「葦原中國」の領有権を「天(あま)なる國」が主張するので、
それを認めろという話は、一切必要無かった事になります。
なぜ、この様な文の構成にしたのか疑問です。