故爾(ゆえに)伊邪那岐命之(これ)詔(みことのり)す
我の愛する那邇(那邇の二字は音を以ってす。此れ下も效(なら)う。なに)の
妹命乎(お)子之一つの木乎(お)易(か)えると謂う
乃(すなわち)御枕(おんまくら)の方へ匍匐(ほふく)、
御足(おあし)而(に)匍匐(ほふく)して
哭く時、名を泣澤女神という御涙に於いて成る所の神が香山之畝尾木本に坐る
故、其の所の神を避けて伊邪那美神者(は:短語)
出雲國に與(くみ)する伯伎國堺比婆之山へ葬る也
是於(これお)伊邪那岐命、御佩之十拳劍拔く所で、其の子迦具土神の頚(くび)を斬り
爾(なんじ)の其の御刀前之血著しく、就いたまま走り
湯津石村の所で成る神名石拆神、次に根拆神、次に石筒之男神
次に御刀本血が著しく、亦、就いたまま走り
湯津石村の所で成る神名甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、
亦の名建布都神(布都の二字は音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)、亦の名豐布都神
次に御刀之手上血を集めて、自らの手俣から漏れ(漏の訓は久伎と云う)出る所で
成る神名闇淤加美神(淤以下の三字は音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)、
次に闇御津羽神
上件、石拆神自(より)以下闇御津羽神以前の并(あわ)せて八神者(は:短語)
御刀に因って生まれる所の神なる者也
迦具土神の頭を於いた所の殺所(せっしょ)から成る神名正鹿山津見神
次に胸を於いた所から成る神名 淤縢山津見神(淤縢の二字は音を以ってす。)
次に腹を於いた所から成る神名 奧山津見神
次に陰を於いた所から成る神名 闇山津見神
次に左手を於いた所から成る神名 志藝山津見神(志藝の二字は音を以ってす。)
次に右手を於いた所から成る神名 羽山津見神
次に左足を於いた所から成る神名 原山津見神
次に右足を於いた所から成る神名 戸山津見神
正鹿山津見神自(より)戸山津見神に至る并(あわ)せて八神
故、刀の斬る所の名を天之尾羽張と謂う。
亦の名、伊都之尾羽張(伊都の二字は音を以ってす。)と謂う
葬地
さて、「故爾(ゆえに)」とは何を指しているのでしょうか?
「故伊邪那美神者 因生火神 遂神避坐也」の文が、前触れもなく、挿入されていて、
「突然の話の再開」で「火山の噴火により、本拠地の退去を余儀なくされた」と
解釈しました。
でも、この時点では、「哭く」事態にはなっていません。
ところが、その後、「伯伎國堺比婆之山」にて、伊邪那美神の葬儀が行われます。
この間の出来事が、抜け落ちていて、
「故爾(ゆえに)」は、「退去した伊邪那美神だったが、火砕流に飲み込まれた」に
対する言葉の可能性が高いと考えています。
原文で「愛我那邇妹命乎【那邇二字以音下效此】」とあり、
「那邇」は「音読み」指定の注釈が入っています。
しかし、「那邇」は、「阿那邇夜志愛袁登古袁」と「阿那邇夜志愛袁登賣袁」で、
既に登場し、「此十字以音、下效此」と「阿那邇夜志愛袁登古袁」の注釈に
記載があります。
つまり、「愛我那邇妹命乎【那邇二字以音下效此】」で指定しなくても、
「此十字以音、下效此」により、「那邇=以音」であり、
「下效此」として読むのが確定しているのです。
その為、なぜ、ここで改めて「音読み」指定したのか疑問になります。
ただ、「改めて「音読み」指定した」事により、
抜け落ちた「退去した伊邪那美神だったが、火砕流に飲み込まれた」の文章において、
「那邇」は「〇〇と云う」と「音読み」以外の読みが記載されていたからこそ、
上書きの意味でも、改めて注釈を書く必要があったのだと推察出来ます。
読みは、呉音で「なに」になるので、問題ないとして、意味がなかなか分かりません。
「那=美しい」、「邇=近い」として、
「我の愛する那邇(なに)の妹命乎(お)」と解読すると、
「妹命=妹伊邪那美」を指すと思うので、
「那邇」は「近くにいる美しい人」と解釈出来ます。
別の言い方をすれば、「美人の妹命」の様になりそうです。
とすると、「阿=良い」なので、「阿那邇」で「良い美人」と言えそうに思えます。
最初は気にしていなかったのですが、伊邪那美神の死因が「火山の噴火」以外にも
あるのではないか?と考えるようになりました。
考えるきっかけになった文が「易子之一木乎」で、試行錯誤した結果、
「子之一つの木乎(お)易(か)える」の解読になりました。
「伊邪那美神」の後継者である「妹伊邪那美命」が木を伐っては植林していたが、
今まで植えていた木の種類ではなく、別の種類の木を植えた為に、防壁であった山が、
土石流などを押さえる事が出来なくなったと解釈しました。
ただ、その後の話の流れでは、「迦具土神を斬ったら血が飛び散った」となるので、
伊邪那美神の直接の死因は「火山の噴火」なのだと思います。
しかし、木の種類を変えた影響が本当に無かったのか?気になります。
原文:
乃匍匐御枕方 匍匐御足方而哭時 於御涙所成神
坐香山之畝尾木本 名泣澤女神解読:
乃(すなわち)御枕(おんまくら)の方へ匍匐(ほふく)、
御足(おあし)而(に)匍匐(ほふく)して
哭く時、御涙に於いて成る所の神、
香山之畝尾木本に坐し、名を泣澤女神という
「泣澤女神」は何を指しているのでしょうか?
話的には、「遺体にすがりついて哭く」で十分なはずですが、
「涙」において神名が誕生する話は、分けるべきではないか?と思っています。
また、今まで、「於○○成神名〇〇」と言う形式で書かれていましたが、
今回、「於御涙所成神」の後に神名が書かれていません。
なぜ、形式を変えて、「坐香山之畝尾木本 名泣澤女神」としたのか不思議です。
写本する際に、わざわざ、原本と違う様に書かないと思うので、
最初からそうだったのだと思われます。
「泣澤女神」という人物は、
「香山之畝尾木本」に住んでいるとありますが、どこでしょうか?
葬地が「出雲國に與(くみ)する伯伎國堺比婆之山」なので、
その近隣の地域だと思うので、「大和国」は無関係だと考えています。
「國」や「郡」などの表記がないので、
「香山」は「大字」、「畝尾木本」は「字」と考える事が出来ます。
検索すると、「天香山」と「香山」をイコールとしているようですが、
今までにも「天之御柱」や「天浮橋」の記述があるので、
ここに来て、「天」を省略するとは思えません
「香山之畝尾木本」がどの様な場所だったのかは、今となっては分かりませんが、
記録にも残らない様な土地だったのかも知れません。
「泣澤女神」とはどの様な人物かを調べると、葬儀などの時に「泣く」事を仕事とする、
「泣き女」と言う職業が、古代エジプトに存在したようです。
参照1のサイトに「エジプト神話では最初のミイラはオシリス神であり、泣き女たちは
その妻イシスと妹ネフティスを演じて泣いていたようです。」とありました。
この風習が、列島に流れて来て、
「泣澤女神」という神名を作るまでになったと解釈出来ます。
伊邪那美一族の本拠地では、
この様な仕事が日常的に存在していたのかも知れません。
藤並神社の古墳由来書には、斉明女帝(宝皇女)の御孫建皇子が
八歳にして薨去、天皇は皇子の事が忘れられず、健康をそこなう有様なので、
有馬皇子の勧めで白浜の湯へ湯治におもむいたとあります。658年のこと。
この吉備の地は大和の建王子を葬った地と似ていたので、
皇子の遺骨を納めたとの説明です。斉明女帝の名代に泣沢女がいたのかもしれません。
上記の記事は、参照2のサイトの古墳に関する記述で、
サイトによっては「泣沢女の古墳」と呼ばれているようです。
この時代の「泣沢女」がどの様な仕事をしていたのか、
そして、「泣澤女神」と同じ一族かも不明ですが、
もし、同一の仕事をしていたとすると、
「宝皇女」の時代まで存続していたと言えるかも知れません。
この神社は、「啼澤女命」を祭神としていて、
「泣澤女神」の子孫もしくは、仕事を同じくする人が名乗ったのだと考えられます。
ただ、この神社にある石碑には、別の表記が記載されています。
参照3のサイトにある石碑の原文をテキスト化した内容を見ると、
祭神の「啼澤女命」を除いて2つあります。
石長比売神は寿命を司り泣澤売神は命乞の神なり
(平田篤胤玉襷)
春雨秋雨等語源的に澤女は雨に通ず水神なり
(本居宣長古事記伝)
平田篤胤著「玉襷」は、文政2年(1819年)に遊歴した時の内容らしく、
「泣澤売神」と「女」→「売」に変化しています。
なぜ、変化させなければ行けなかったのか?を調べましたが、
見つかりませんでした。
次に本居宣長著「古事記伝」は、1764年(宝暦14年)から執筆始めた様で、
「澤女は雨に通ず水神なり」という情報があったのだと思います。
しかし、「澤女」とあるだけで、本当に「泣澤女神」を省略した形なのか?と
疑問が出て来ます。
「澤」は「細い川」などを意味するので、「澤女」は「澤にいる女性」を指すだけで、
原意の「泣く」と繋がりません。
だからこそ、「澤女」=「水神」という構図が出来たのだと考えます。
参照1:遺族よりも声をあげて泣き叫ぶ?!「職業:泣き女」とは
参照3:畝尾都多本神社
「出雲國與伯伎國堺比婆之山(出雲國に與(くみ)する伯伎國堺比婆之山)」とあり、
「伯伎國堺」にある「比婆之山」に葬ったと記載されています。
「比婆之山」を特定する時に一番必要な「伯伎國」の国境が前代に残されていないので、
特定するのはすごく難しいと思います。
「伯伎國」と「伯耆国」はイコールでないと解釈していて、
もし、この当時から「伯耆国」なら「伯耆国」と書けば良いのに、
書いていない事からしても、イコールではないと言えます。
では、「伯伎國」の国境線を探そうにも情報が殆ど無いので、厳しいですが、
現代に残る「伯耆国」の国境線に固執せずに、「出雲國」の近隣だと思うので、
地道に探すしか方法はなさそうです。
ただ、「出雲國に與(くみ)する伯伎國」と読んだ場合、
「伯伎國」は「出雲國」傘下の國となり、
飛び地とするのは、手伝いや防衛・援軍等の事を考えると無理だと思うので、
「出雲國」に隣接した場所に「伯伎國」が存在した可能性が高そうです。
それから、「故其所神避之(故、其の所の神を避けて)」とすると、
当時は歩きしか無いので、伊邪那美一族の本拠地から、
それほど離れていないと解釈すれば、「出雲國」・「伯伎國」の近隣に
「伊邪那美一族の本拠地」が存在したと考える事が出来ます。
そうなると、たぶん「伊邪那岐」一族も別に國を運営していたと思うので、
「高天原」のある九州に、在任期間、二人は別居していたという事になりそうです。