「倭國とは」と「日本國とは」を前提にして記紀の存在を考えて行きます。
普通に「記紀」で検索すると、Wikiなどでは「歴史書」と書かれていると思います。
さて、では、何の「歴史書」でしょうか?
多くの人は、学校の授業やTVやサイトなどで見聞きした
「日本の歴史書」と答えるでしょう。
自分でも、記紀を独自に解読するまでそう思っていました。
しかし、もし、「日本の歴史書」とするならば、一番大事な箇所が欠落しています。
記紀には、「これより、この國を日本國とする」の一文、つまり宣言文が無いのです。
「歴史書」は後世への証明書みたいな物だと思うので、
明確に建国日を記すのは、公文書として当然だと考えています。
その文が無いという事は、
特に列島において「日本國」は建国されていないと考える事が妥当です。
建国について、Wikiには下記の一文が記載されています。
神話、国史である日本書紀・古事記は、九州日向国に生まれた
Wiki
神日本磐余彦尊が東征を行い、大和国橿原宮で
初代天皇(神武天皇)に即位した時を以て、日本国が建国されたとする。
しかし、この一文は、明らかな間違いです。
建国宣言と国名の名付けは、
当時としても、国王の名誉であり、専権事項だったと思われます。
それを、後世に遺す事を前提に編纂している歴史書に、記載しないのはおかしいです。
まして、「神武天皇(俗称)」の箇所に、「建国」の記事が無いのならば、
それは、「神武天皇(俗称)」以前(建国記事が存在しなくなる程の昔)から、
存在している可能性を考えるべきだと思います。
もし、多くの人が考える様に、初代天皇の即位により「日本国」が建国したのなら、
初代天皇以前には、「日本国」は存在していないはずです。
ところが、日本書紀に「日本國」と出てくる文があります。
對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 卽營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也日本書紀
これは、日本書紀の神代上に記載されている文です。
つまり、日本書紀を読むと、早い段階で、
「日本國の歴史書」ではない事が判明するのです。
なのですが、現状は、検索しても神倭伊波禮毘古命(神日本磐余彥天皇)が
建国した事になっていて、不可思議としか言いようがありません。
では、記紀という書物は何か?
本編のまとめの「紀元前1000年頃」でも書きました。
古事記は、天御中主神から続く「天(あま)一族」と、
「神倭伊波禮毘古命」から続く、天下を管理する家系を記す歴史書。
そして、日本書紀は、古事記の内容を、「補完」する歴史書。
以前までは、上記の様に考えていました。
しかし、色々と調べて行くと、違うと感じる様になり、
下記の解釈に落ち着きました。
・古事記:「天(あま)一族」の分家である「天皇家」の歴史書
血の繋がりが確認されていないので、
「天皇家」=現代の「天皇家」ではありません。
・日本書紀:「日本」の「歴史」を「書き記す」
この日本は「倭奴」ー「日本」ー「日本國」と繋がった國で、
現「日本国」を指すのではありません。
補足すると、日本書紀にある「日本國之三諸山」を指す山が、
「南朝鮮南岸諸島群」に存在すれば良いですが、
もし、無かった場合、南朝鮮の「日本國」が滅亡寸前になり、
列島に移住した可能性がありそうです。
その場合、旧「日本國」の人達が向かったのが、
「近畿」なのでは?と思うようになりました。
理由として、近畿にも先住民族が「國」を建国している可能性もあり、
栄枯盛衰の末に「日本國」の建国の話が出るかも知れません。
しかし、「古事記」・「日本書紀」には、その様な記事がありません。
これにより、下記の様に推察しました。
九州では「天(あま)一族」と分家の「天皇家」が一大勢力だった為、
移住して来た「日本國」の国民は、発展した生活ではなく、
原始的な生活を良しとして来たので、九州での再興を断念した。その時、「天(あま)一族」から、
「東」には、まだ、未開拓地域があるという情報を貰い、
「東」に移動し、今までの生活が出来るのが、「近畿」だった。だから、近畿での「水稲」が遅れたのでは?と思っています。
その後、時代が流れて、九州勢力が衰退。
701年頃に「近畿」の「日本國」が台頭し、
九州勢力と引き継ぎを行い、元々、「日本國」を名乗っていたので、
わざわざ、「建国宣言」を書き残す必要が無かった。
この推察がどこまで、的に当たっているかは、今後、検証します。
ここからは、番外編です。
多くの人は、「天下」を取ったのが「トップ」という認識だと思いますが、
「下」と言う漢字がある様に、
「天(あま)一族」、もしくは、「天帝」の「下」を意味します。
つまりは、二番目を指します。
これらは「記紀」においての話になるので、
古代中国で使われる「天下」は違うと考えています。
古代中国の「天下」は、「天帝の下」の意味が強いように思います。
理由としては、記紀をきちんと読めば分かりますが、
中心にいるのは天照大御神などの「天(あま)一族」です。
「天下」と言う「天(あま)一族の傘下の國や土地」を管理運営する総取締役が、
「神倭伊波禮毘古命」から続く「天皇」一族なのだと考えています。
「天皇」は、「天(あま)一族」の「天」と「高皇産靈尊」の「皇」と考えていますが、
古事記では「高皇産靈尊」との表記もありません。
「皇」の漢字の由来を調べると、
Wikiに、「天子(中国や日本で用いられた君主の称号)」とあります。
もしかすると「高皇産靈尊」の事ではなく、
天子の意味がある「皇」なのかも知れません。
「聖徳太子」や「太宰府」など「天子」に関連する名が後世に残っていて、
「天(あま)一族」の発端が「天子思想」にあれば、無関係な事ではないと思います。
しかし、残念ながら、判断材料が少なく、推測の域は出ません。
良くTVなどで使われる「天下統一」についてですが、
「天(あま)なる國」の「傘下」にある國や土地を統一する事を指します。
もし、参照サイトにある、原理的の意味の「全世界を意味する概念」ならば、
時代と共に「天下統一」など夢物語になってしまいます。
後世には、「天下」の本来の意味が正しく伝わっておらず、
言葉の響きに引き寄せられた人達が、意味も知らずに使用していたのでしょう。
参照:天下
ツイッターにも投稿しましたが、
なぜ、持統天皇以降明治天皇までの期間、
天皇が先祖である天照大御神を祀る伊勢神宮に、参拝しなかったのか?
すごく、気になるところです。
もし、今までの歴史研究家の皆さんの言っている通り、
「九州から近畿に東征し、近畿以西は万世一系で天皇家が支配して来た」のであれば、
天皇家の先祖である「天照大御神」を、天皇がお参りに行かないのはありえないです。
ところが、不思議な事に、西暦700年以降、
明治以前は天皇が伊勢参拝する事が無かったと分かりました。
なぜ、先祖に参拝しないのか?
現代とは違って、
「家」を大事にしていただろうから、先祖をないがしろにする理由は無いです。
仮説として、西暦700年を境に、為政者が交代したからではないか?と思っています。
西暦700年以前は、天照大御神の子孫だから、普通にお参りしていたが、
以後は、天照大御神の子孫では無かったか、子孫でも恨みなどでお参りしなかった。
その様に考えると、納得出来ます。
西暦700年までは「天(あま)一族」分家「天皇家」が主に運営していたのが、
西暦701年から、南朝鮮「日本國」の移住者が運営を引き継いだのであれば、
系統が違いますので、「天照大御神」を祀っている「伊勢神宮」を
参拝しなくても、なにも、不思議ではありません。
推察の傍証となるかも知れません。