最終更新日 2021/12/31

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記紀の存在

解釈

記紀の存在

「倭國とは」と「日本國とは」を前提にして記紀の存在を考えて行きます。

普通に「記紀」で検索すると、Wikiなどでは「歴史書」と書かれていると思います。

さて、では、何の「歴史書」でしょうか?

多くの人は、学校の授業やTVやサイトなどで見聞きした
「日本の歴史書」と答えるでしょう。

自分でも、記紀を独自に解読するまでそう思っていました。

しかし、もし、「日本の歴史書」とするならば、一番大事な箇所が欠落しています。

記紀には、「これより、この國を日本國とする」の一文、つまり宣言文が無いのです。

「歴史書」は後世への証明書みたいな物だと思うので、
明確に建国日を記すのは、公文書として当然だと考えています。

その文が無いという事は、
特に列島において「日本國」は建国されていないと考える事が妥当です。

建国

建国について、Wikiには下記の一文が記載されています。

神話、国史である日本書紀・古事記は、九州日向国に生まれた
神日本磐余彦尊が東征を行い、大和国橿原宮で
初代天皇(神武天皇)に即位した時を以て、日本国が建国されたとする。

Wiki

しかし、この一文は、明らかな間違いです。

建国宣言と国名の名付けは、
当時としても、国王の名誉であり、専権事項だったと思われます。

それを、後世に遺す事を前提に編纂している歴史書に、記載しないのはおかしいです。

まして、「神武天皇(俗称)」の箇所に、「建国」の記事が無いのならば、
それは、「神武天皇(俗称)」以前(建国記事が存在しなくなる程の昔)から、
存在している可能性を考えるべきだと思います。

日本國

もし、多くの人が考える様に、初代天皇の即位により「日本国」が建国したのなら、
初代天皇以前には、「日本国」は存在していないはずです。

ところが、日本書紀に「日本國」と出てくる文があります。

對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 卽營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也日本書紀

これは、日本書紀の神代上に記載されている文です。

つまり、日本書紀を読むと、早い段階で、
「日本國の歴史書」ではない事が判明するのです。

なのですが、現状は、検索しても神倭伊波禮毘古命(神日本磐余彥天皇)が
建国した事になっていて、不可思議としか言いようがありません。

記紀とは

では、記紀という書物は何か?

本編のまとめの「紀元前1000年頃」でも書きました。

古事記は、天御中主神から続く「天(あま)一族」と、
「神倭伊波禮毘古命」から続く、天下を管理する家系を記す歴史書。
そして、日本書紀は、古事記の内容を、「補完」する歴史書。

以前までは、上記の様に考えていました。

しかし、色々と調べて行くと、違うと感じる様になり、
下記の解釈に落ち着きました。

・古事記:「天(あま)一族」の分家である「天皇家」の歴史書

血の繋がりが確認されていないので、
「天皇家」=現代の「天皇家」ではありません。


・日本書紀:「日本」の「歴史」を「書き記す」

この日本は「倭奴」ー「日本」ー「日本國」と繋がった國で、
現「日本国」を指すのではありません。

補足すると、日本書紀にある「日本國之三諸山」を指す山が、
「南朝鮮南岸諸島群」に存在すれば良いですが、
もし、無かった場合、南朝鮮の「日本國」が滅亡寸前になり、
列島に移住した可能性がありそうです。

その場合、旧「日本國」の人達が向かったのが、
「近畿」なのでは?と思うようになりました。

理由として、近畿にも先住民族が「國」を建国している可能性もあり、
栄枯盛衰の末に「日本國」の建国の話が出るかも知れません。

しかし、「古事記」・「日本書紀」には、その様な記事がありません。

これにより、下記の様に推察しました。

九州では「天(あま)一族」と分家の「天皇家」が一大勢力だった為、
移住して来た「日本國」の国民は、発展した生活ではなく、
原始的な生活を良しとして来たので、九州での再興を断念した。

その時、「天(あま)一族」から、
「東」には、まだ、未開拓地域があるという情報を貰い、
「東」に移動し、今までの生活が出来るのが、「近畿」だった。

だから、近畿での「水稲」が遅れたのでは?と思っています。

その後、時代が流れて、九州勢力が衰退。

701年頃に「近畿」の「日本國」が台頭し、
九州勢力と引き継ぎを行い、元々、「日本國」を名乗っていたので、
わざわざ、「建国宣言」を書き残す必要が無かった。

この推察がどこまで、的に当たっているかは、今後、検証します。

天下

ここからは、番外編です。

多くの人は、「天下」を取ったのが「トップ」という認識だと思いますが、
「下」と言う漢字がある様に、
「天(あま)一族」、もしくは、「天帝」の「下」を意味します。

つまりは、二番目を指します。

これらは「記紀」においての話になるので、
古代中国で使われる「天下」は違うと考えています。

古代中国の「天下」は、「天帝の下」の意味が強いように思います。

理由

理由としては、記紀をきちんと読めば分かりますが、
中心にいるのは天照大御神などの「天(あま)一族」です。

「天下」と言う「天(あま)一族の傘下の國や土地」を管理運営する総取締役が、
「神倭伊波禮毘古命」から続く「天皇」一族なのだと考えています。

天皇の意味

「天皇」は、「天(あま)一族」の「天」と「高皇産靈尊」の「皇」と考えていますが、
古事記では「高皇産靈尊」との表記もありません。

「皇」の漢字の由来を調べると、
Wikiに、「天子(中国や日本で用いられた君主の称号)」とあります。

もしかすると「高皇産靈尊」の事ではなく、
天子の意味がある「皇」なのかも知れません。

「聖徳太子」や「太宰府」など「天子」に関連する名が後世に残っていて、
「天(あま)一族」の発端が「天子思想」にあれば、無関係な事ではないと思います。

しかし、残念ながら、判断材料が少なく、推測の域は出ません。

天下統一

良くTVなどで使われる「天下統一」についてですが、
「天(あま)なる國」の「傘下」にある國や土地を統一する事を指します。

もし、参照サイトにある、原理的の意味の「全世界を意味する概念」ならば、
時代と共に「天下統一」など夢物語になってしまいます。

後世には、「天下」の本来の意味が正しく伝わっておらず、
言葉の響きに引き寄せられた人達が、意味も知らずに使用していたのでしょう。

参照:天下

伊勢神宮参拝

ツイッターにも投稿しましたが、
なぜ、持統天皇以降明治天皇までの期間、
天皇が先祖である天照大御神を祀る伊勢神宮に、参拝しなかったのか?

すごく、気になるところです。

もし、今までの歴史研究家の皆さんの言っている通り、
「九州から近畿に東征し、近畿以西は万世一系で天皇家が支配して来た」のであれば、
天皇家の先祖である「天照大御神」を、天皇がお参りに行かないのはありえないです。

ところが、不思議な事に、西暦700年以降、
明治以前は天皇が伊勢参拝する事が無かったと分かりました。

なぜ、先祖に参拝しないのか?

現代とは違って、
「家」を大事にしていただろうから、先祖をないがしろにする理由は無いです。

仮説として、西暦700年を境に、為政者が交代したからではないか?と思っています。

西暦700年以前は、天照大御神の子孫だから、普通にお参りしていたが、
以後は、天照大御神の子孫では無かったか、子孫でも恨みなどでお参りしなかった。

その様に考えると、納得出来ます。

西暦700年までは「天(あま)一族」分家「天皇家」が主に運営していたのが、
西暦701年から、南朝鮮「日本國」の移住者が運営を引き継いだのであれば、
系統が違いますので、「天照大御神」を祀っている「伊勢神宮」を
参拝しなくても、なにも、不思議ではありません。

推察の傍証となるかも知れません。

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