最終更新日 2022/08/23

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古事記 へようこそ Welcome to Japanese History

 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

まとめ

解説

01

小氷期

ここからは、第一章の番外編となります。

古事記第一章では、「小氷期」がキーワードになります。

色々な研究により、「弥生の小氷期」と言う「寒冷期」が、
弥生時代に存在した事が分かっています。

そして、「大八嶋國」や「八拳須」の様な現象が起きたのは、
縄文時代の温暖な気候が徐々に変化し、「寒冷期」が起きた証拠だと思われます。

良い資料が無いか、色々と調べていると、参照1のPDFが参考になりそうなので、
この内容を基礎に考察します。

基本として、

古事記:「小氷期」により「水位が低下」した事から始まる。
日本書紀:「小氷期」が終わる、もしくは、無い状態から始まる。

と考えているので、重要なのは「小氷期」の始まりと終わり、
そして、「温暖化」の回復だと思います。

その事が、参照1のPDFにはありました。

標準的な炭素 14 生成率を 0.75 ~ 0.80 とみると、
紀元前1400 ~ 1350年、紀元前1250年、紀元前900年、
紀元前850 ~ 700年、紀元前670年頃に、太陽活動の停滞期があり、
とくに紀元前820 年前後から始まる停滞期は規模も大きく期間も長い。
(中略)紀元前900年からの約20年間の太陽活動停滞期は
紀元前820 年から始まる停滞期とほぼ同程度の強さ」
(今村・藤尾2009:52)であり、
これらの太陽活動停滞期には気候が寒冷化していたとする。

一方、「紀元前800年頃からつづいた太陽活動停滞期が
紀元前600 年半ばには終束した。
その後は紀元前400年頃始まる再度の大きな停滞期の時期までの
約2世紀半に渡って太陽活動は平常で、
その結果気候は比較的温暖であったと推測される

上記の文の重要な点は、下記の三点です。

・「太陽活動の停滞期」が「紀元前900年」〜「紀元前670年頃」まで続いた。

・「紀元前900年からの約20年間」は影響が大きかったと考えられる。

・「紀元前670年頃〜紀元前400年頃」の期間は、「気候は比較的温暖」とある。

これらから、古事記は「紀元前900年頃」、日本書紀は「紀元前670年頃」を
情報の基本としているように感じます。

本当に古事記と日本書紀の情報源の時代が、「230年」くらい離れているとすると、
過去の情報の風化や古事記と同じ神名ではないのも、当然かも知れません。

しかし、古事記と日本書紀の書体の違いを、解明する手がかりには、
なりそうもありません。

参照1:縄文時代晩期における気候変動と土器型式の変化

02

紀元前1000年頃

「小氷期」の時代を調べると、
「紀元前900年頃」に列島でも「寒冷化」したと考えられます。

その事を踏まえて、「天之御中主神」達が「高天原」を構築した時代を考察します。

「紀元前900年頃」に列島でも「寒冷化」したと言っても、
急激になったわけではなく、じんわりじんわり寒くなったのだと思います。

それであれば、本国(南朝鮮)は、列島の北に位置するので、
列島よりは早くに影響を受けた可能性があります。

分家である「天(あま)一族」は、南下して影響しない地域を探していたら、
列島の九州に到着し、当時はまだ温暖な気候だった事もあり、
定住する事にしたと考える事が出来ます。

他にも、「阿麻(良い麻)」が入手出来たり、本国(南朝鮮)と近い位置なのも、
要因だと思われます。

「麻」は、調べて見ると、「夏・秋・冬」でも使えるようなので、
「天(あま)一族」が「阿麻(良い麻)」を定住の要因に選んだのは、
「寒冷化」への警戒感からだと思っています。

もしかすると、「寒冷化」した際に、
列島から本国(南朝鮮)へ供給していたかも知れません。

上記の様に、一時期は、「天(あま)一族」が「阿毎一族」の分家とする、
可能性を中心に考察しました。

しかし、「神世7代までのまとめと時代考証」を考察して行くと、
「分家」・「同族」・「別族」の3つ全てに可能性がありそうです。

関係は不明ですが、「天(あま)一族」と「阿毎一族」は、
多くの交流をして、情報の共有をしていたと考えています。

その傍証として、後世に「天武天皇」と呼ばれた人物によって、
「古事記」と「日本書紀」の編纂が開始します。

その1つ「日本書紀」を現在まで、自分達の先祖の歴史と考えていると思います。

ところが、コラムの「倭國とは」と「日本國とは」で色々と考察すると、
南朝鮮に住んでいたと思われる「倭人」と定住先を探していた「阿毎一族」、
利害が一致し、後に同族化し、「倭王」を名乗ったと思われます。

そして、古代中国の史書にも情報が残されています。

・旧唐書日本國伝:日本國者倭國之別種也

・新唐書 日本伝:日本古倭奴也

・宋史:倭國者、本倭奴國也

上記により、まとめると、「日本國」と「倭國」は、「別の國」であり、
「倭國」の前身は「倭奴國」であると言えそうです。

また、「古倭奴」を引き継いだのが「日本」とも言えます。

倭奴ー┬倭奴國ー倭國
   │
   └日本ー日本國

上記の関係で、最終的に生き残ったのが「日本國」となり、
その情報を基にして作成されたのが、「日本書紀」と考えています。

つまりは、「日本書紀」とは「日本」の「歴史」を「書き記す」となります。

多分に、「日本國」が滅んで、国民が列島に移住したので、
歴史を闇に葬り去るのは、忍びないと考え、
「天武天皇(俗称)」が、編纂させたのだと解釈しています。

根拠

弥生時代の始まりには諸説ありますが、そもそも、急激な変化ではなく、
ゆっくりした時代の変化と思うので、古代中国の先端技術により発展した地域もあれば、
縄文時代特有の狩猟や採集をして暮らす地域もあり、混在していたと思います。

その中でも、古事記の情報源の時代は、「紀元前1000年頃」という説を、
採用し、その説を土台にして、考察もして来ました。

アメーバブログで記紀以前の考察を始めた当時から、
「紀元前1000年頃」としましたが、古事記第一章の考察を終えてみると、
やはり、大きくは間違っていなかったと考えています。

干支

根拠として、「干支」があります。

「戊寅」の様に「十干」と「十二支」の組み合わせで構成されていて、
「60年周期」となっています。

ここで、参考になるのが、古事記にある天皇の崩御年になります。

例えば、「御眞木天皇」は「戊寅年十二月崩」とあり、
「紀元前343年」と「紀元前403年」の可能性が出て来ます。

日本書紀だと、なぜか、同じ天皇の箇所を見ると
「天皇、踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩」とあり、異なっている事から、
古事記と日本書紀の天皇は、同一人物ではないでしょう。

古事記に記載される崩御年の干支を少し検証すると、
「(平均寿命)30年」×「世代数」で、近い年代が検出します。

「(平均寿命)30年」×「世代数」から、「10世代」なら「300年」となり、
「神武天皇(俗称)」までの世代が「約16世代」の為、「480年」以上になります。

厳密には、情報が無いので出せませんが、単純に「紀元前660年頃」と「480年」を
加算しただけで、「紀元前1140年頃」になります。

これらから、「神武天皇(俗称)」が「紀元前660年頃」に生存していたと仮定すると、
「紀元前1000年頃」に「天之御中主神」らが「高天原」を作っていても、
不思議ではないと考える事が出来ます。

最低でも「紀元前1000年頃」には、列島に来ていた可能性は十分にあります。

03

比定地


三貴子

「高天原」は天照大御神、「夜之食國」は月讀命、「海原」は建速須佐之男命と
「三貴子」の担当地域が記載されています。

しかし、ネットで調べると、なぜか、「九州」以外を「比定地」にしていたり、
良く分かっていないようです。

古事記の一章の箇所は、「高天原」に到着し、土地の開発、勢力の拡大、
「天照大御神」の台頭、三勢力の同盟が書かれています。

紀元前1000年以前は、ユーラシア大陸の列島側で、
古代中国の「殷」や「周」が組織として行動し、
他の國や地域等も、今までの生活形態を変化させる事を余儀なくされています。

そんな、激動の時代の幕開けの時、
列島でも、「天(あま)一族」が、「高天原」の地域を確立し、
生活基盤を安定させるべく、色々な手段を行っていると思います。

そんな中、Wikiには下記の文が記載されています。

紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では
既に集落内に階層差が存在したことが確認されている

Wiki

「階層差」があるのであれば、「大御神ー大神ー神ー命」という「地位」や「階級」が、
「福岡市博多区板付」付近では存在した可能性があります。

実際に地図で確認すると、この遺跡は「太宰府」に程近い距離にあり、
「天(あま)一族」と関連性があるかも知れません。

しかし、九州には上記の様に、
「紀元前9世紀」と年代まで判明している遺跡がありますが、
「高天原」の地と説明する土地に、同等の時代に存在した遺跡は見つかっていません。

もちろん、今後、見つかる可能性があると思いますが、
「九州」以外に適した土地は無いと考えています。

古事記を読むと、一章だけで「111名以上の人名」が登場しますので、
登場する人名の人物の下には、補佐や部下、家臣等がいて、その人物には家族もいます。

多くの人が活動していたとすれば、遺跡は必然的に多くなります。

そして、地理的に見ても、「半島」や「ユーラシア大陸」にも近い位置にあり、
現在の上海付近に船で交流していたという話もあり、近畿や瀬戸内海側だと、
難しいだろうと考えています。

では、九州のどこなのか?と考える時、

洗左御目時 所成神名 天照大御神 次洗右御目時 所成神名 月讀命
次洗御鼻時 所成神名 建速須佐之男命

上記の文が異様に思え、ヒントになりそうにも思えます。

「次於投棄御帶所成神名 道之長乳齒神」の様に、「神名」が「命名」される場面では、
「管理地?」と思われる説明と、関連しているイメージが出来る「神名」がセットです。

しかし、「左目」から「天照大御神」を連想出来ません。

他の2人についても同じで、
もしかすると、土地が「目」を連想出来るのではないか?と考えています。

その様な思いつきで、航空写真の地図を見ると、「阿蘇山」が「目」の様に見えますし、
対となるのであれば「雲仙岳」、「海原」は熊本県宇城市を始点、
長島を終点する「海域」と考える事も出来る様に思いました。

あと、「淡海之多賀」は「多くの賀(喜び)」とすると、「漁」をイメージ出来ます。

ただ、「博多湾」〜「有明海」が繋がっていたのであれば、漁が出来るのは、
「古有明海」だけでなく、広範囲に及ぶので、「淡海之多賀」の特定は難しいです。

それと、調べても古代の地形を知る事が出来る資料が乏しく、
現在と古代の比較検証が、なかなか出来ないのは残念です。

その他

「大八嶋國」などの位置ですが、
「建速須佐之男命」の「海原」が、熊本県南部であるとすると、
最初の方に登場する「淤能碁呂嶋」は九州の北部にあると考える事が出来ます。

「寒冷化」は、「北から南へ」移動すると思うのが理由です。

ただ、
「淤能碁呂嶋」は「淤(泥)」・「碁(整然と線の引かれた)」・「呂(長い)」で、
「整然と長い泥の線が引かれた」と解釈し、「海中の道」を指すと思うので、
「淤能碁呂嶋」の位置を知る事は難しいと思います。

以下に可能性のありそうな地域を記載します。

「大八嶋國」:「博多湾」〜「筑紫野市」周辺

「六嶋」:「筑紫野市」〜「うきは市」

本編とは違う地域もあるかも知れませんが、
証拠が無い以上、追跡する事が出来ないのが残念です。

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