最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

天地初發之時 於髙天原成神名 天之御中主神【訓高下天云阿麻 下效此】
次髙御産巣日神 次神産巣日神 此三柱神者 並獨神成坐而隱身也
解読

天地初めて發(はつ)す之(この)時、高天原成るに於いて神名は、
天之御中主神(高の下の天の訓は阿麻(あま)と云う。此れ下も效(なら)う。)。
次高御産巣日神。次神産巣日神。

※「髙御産巣日神」の「産」が、「国宝真福寺本」では、「座」に変わる。

此の三柱神者(は:短語)、獨り神(ひとりがみ)而(に)成りて、
並んで坐り隱れる身也。

解説

06

天之御中主神の子孫

天之御中主神に関しては、子孫の存在が確認されていません。

天之御中主神だけ子がいなかったと考えるのは、不自然です。

「彌久賀神社」に残る「天照大御神」の祖父が「天之御中主大神」という情報は、
古代の記録に無い1つの情報なのかも知れません。

ただ、参考になるのが二つあります。

一つは「新唐書日本伝」と「宋史」の古代中国史書です。

この史書は、当時の「日本國」の情報を書いています。

現日本国の過去記事でないのは残念ですが、古事記に登場する名も登場するので、
参考にするには、大変優れています。

もう一つは、新撰姓氏録の神別姓(かばね)です。

この書は、信憑性が高いと考えていて、下記に例を書きます。

447 右京 神別 天神 斎部宿祢 宿祢 高皇産霊尊子天太玉命之後也
448 右京 神別 天神 玉祖宿祢 宿祢 高御牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也

例では、古事記表記側の「高御牟須比乃命」、
そして、日本書紀表記側の「高皇産霊尊」を使っています。

多くのサイトでは、同一人物のように記載されますが、
実際には、上記の例の様に、分けて記載されている事からも、
同一人物ではなく、別系統であった可能性が高いです。

このように、記紀では分からなかった事も判別出来るかも知れません。

参照16:『新撰姓氏録』氏族一覧2(第二帙/神別)

「新唐書日本伝」と「宋史」

自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二丗、皆以尊爲號。
居筑紫城、彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州

新唐書日本伝

初主號天御中主、次曰天村雲尊、其後皆以尊爲號、次天八重雲尊、次天彌聞尊、
次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊、次角龔魂尊、
次汲津丹尊、次面垂見尊、次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、
次伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、
次炎尊、次彦瀲尊、凡二十三世、並都於筑紫日向宮。

宋史

「新唐書日本伝」と「宋史」で、共通するのは、
「皆以尊爲號」と天御中主に「尊」が付いてない事です。

日本書紀の考察でも書きますので、詳しく書きませんが、
古事記の記事が正しいと言えるのも、上記の二点となります。

今まで気が付きませんでしたが、二つの史書では「初主」とあります。

「初主」=「日本國主」を指すのだと思いますが、
「日本國」の詳しい内容が、「宋史」にはあります。

日本國者,本倭奴國也。自以其國近日所出,

故以日本為名;或云惡其舊名改之也。

其地東西南北數千里,西南至海,東北隅隔以大山,山外即毛人國。

自後漢始朝貢,歷魏、晉、宋、隋皆來貢,
唐永徽、顯慶、長安、開元、天寶、上元、貞元、元和、開成中,並遣使入朝。

宋史

上記の記事は、参照17のサイトから引用しましたが、
「自後漢始朝貢」とあります。

「後漢」の時代は「西暦25年〜220年」です。

一章のまとめで、古事記は「紀元前900年頃」、日本書紀は「紀元前670年頃」を
基礎として、編纂されていると考察しました。

そして、古事記には「日本國」は登場せず、
日本書紀の「日本國之三諸山」の場面で登場します。

日本書紀の記事が「紀元前670年頃」であり、
「神代上巻」なのに「神日本磐余彥火火出見天皇之后」の名が登場する事から、
本家南朝鮮に存在した「日本國」は、「紀元前200年以前」には、
建国していた可能性があると思います。

そうだとすると、それまでは「倭奴國」の連合国としての存在したが、
「倭奴國」の衰退もしくは滅亡によって、後ろ盾が無くなり、
「後漢」を頼る事によって存続させる道を選んだとも言えると思います。

つまり、最低でも「宋史」にある「天御中主」は、
古事記の「天之御中主神」では無いと言う事です。

ただ、この人物が、血縁なのか、それとも、名を継承だけなのかは不明です。

参照17:宋史/卷491

皆以尊爲號

「皆以尊爲號」は、日本書紀の下記の文と一致しています。

原文:

號國常立尊【至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此】

解読:

號(よびな)國常立尊。
(尊は貴に至ると曰(い)う。餘(われ)自(より)命と並ぶと曰(い)う。
訓は美舉等(みこと?)也。此れ下も效(なら)う。)

日本書紀

ここで注目するのは、「貴」と「命」です。

「尊」は元々、青銅器の酒器全般の総称らしく、貴い人達に喜ばれていたから、
「尊は貴に至る」と言えたのではないかと推測しています。

また、Wikiには

器全体の形状が動物の形をした容器も「尊」と呼ばれ、象尊などの例がある。

Wiki

とある事から、主に動物の形が喜ばれていたのかも知れません。

この記載により、「尊」と「命」は違うという認識がある事、「命と並ぶ」事から、
元々、「尊」は「命」より下に位置していた事も分かります。

つまり、「高御牟須比乃命」と「高皇産霊尊」の例でも分かる通り、
双方の歴史が存在したと言えると考えられます。

古事記は列島側(命)、日本書紀は本国風(尊)で記載されてるとも言えます。

第三者(他国の使者)の報告により、古代中国史書に「尊」が記載されているので、
基本的に「尊」は、本国側、「命」は列島側で活動していたと推測しています。

今後は、この点を考慮しつつ考察して行きます。

「尊」が無い

天御中主に「尊」が付いてないという事は、「神」だった証拠だと考えています。

理由としては日本書紀では、「天御中主尊」とあるのだから、
「尊」と書いても問題にはならないでしょう。

しかし、実際には「尊」が無いのだから、「新唐書日本伝」と「宋史」の
「天御中主」は、「天之御中主神」の事を指していると考える事が出来ます。

ただ、本人ではなく、子孫による継承だと思います。

では、「天御中主尊」が誰なのでしょうか?

一番考えられるのは、「子」ですが、子が居ない場合、
後継者が名を継承したと考えられます。

「國常立尊」と「天御中主尊」を同一視する話もあるようなので、
もしかしたら、後継者が、「國常立尊」だったのかも知れません。

ちなみに、「豊受太神宮禰宜補任次第」において、中臣氏などの系図に登場する、
「天御中主尊ー天八下尊」が、「國常立尊ー天八下命」とあり、
「天八下尊=天八下命」ならば、「國常立尊」が「天御中主尊」を名乗っていたのも、
あながち間違いではないのかも知れません。

新撰姓氏録

540 大和国 神別 天神 服部連  連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也
546 大和国 神別 天神 御手代首 首 天御中主命十世孫天諸神命之後也
663 河内国 神別 天神 神人     御手代首同祖 阿比良命之後也

上記から、「服部連」・「御手代首」・「神人」は、
天御中主命の子孫である事が分かります。

そして、「天御中主命」の先祖が、「天之御中主神」と考える事も容易です。

つまり、子孫が「天御中主命」であるならば、
天之御中主神に何も実績が無いのではなく、
列島側の仕事だけでなく、本国の仕事もしていたのでしょう。

神社の表記に「尊」が少ないのも、信仰の影響もあるかと思いますが、
子孫達が、活動していた証ではないかと考えています。

しかし、後世の人がそれらの仕事の情報が無い事により、
非実在と考えても不思議ではありません。

なにより、「天御中主命十一世孫天御桙命」とあるように、「◯世孫」と書けるのは、
系図や証明文書等が現存し、新撰姓氏録の聞き取りで証明出来たからこそでしょう。

そこまで、証明出来るのだから、天御中主命以前の系図等、
当時は現存していたのではないかと思います。

ちなみに、「証明」出来ない場合は、「未定雑姓」に記載されます。

その証拠に、「摂津国」の「未定雑姓」には、
「住道首」の始祖を「伊奘諾命男素戔嗚命之後也」と記載しています。

参照16:『新撰姓 氏録』氏族一覧2(第二帙/神別)

服部連

服部連はWikiの服部 (品部)伊豆国造にまとめられていますが、
大和国以外にも摂津国にも服部連が存在し、色々と複雑に絡み合っているようです。

詳細は、今後検証します。

御手代首

御手代首は、検索しても詳しい事が一切分かりませんでした。

御手代は、デジタル大辞泉によれば、

天皇などに代わって御幣(ごへい)を手に持ち、
神事を行う者。また、幣(みてぐら)とするもの。

デジタル大辞泉

とあり、神事を行う事から高い地位だったと思われます。

ちなみに、姓(かばね)の「首(おびと)」は、「臣連制」で制定され、
「八色の姓(かばね)」の制度により廃止されたので、
「首」就任期間が短いと考えられます。

神人

河内国の神人だけでなく、摂津国などにも「神人」が存在するようですが、
こちらにも姓(かばね)が書かれていません。

しかし、新撰姓氏録に掲載されるという事は、
本来、姓(かばね)が存在していたと思われます。

中臣氏

今後、改めて検証しますが、「中臣氏」の先祖が「天御中主尊」としています。

気になるのは、「天之御中主神」とせずに「天御中主尊」とした事です。

皆以尊爲號」で書きましたが、「尊」と「命」は別の存在なので
「天之御中主神」=「天御中主尊」ではありません。

参照18のサイトによると、その後の系図は下記のようになるようです。

天御中主尊ー天八下尊ー天三下尊ー天合尊ー天八百日尊ー天八十万日尊ー
津速魂尊ー市千魂命ー居々登魂命ー天児屋根命ー天押雲命

※上記の画像は、世代の参考にする為に作りました。

天児屋根命

「天児屋根命」は、古事記で「天兒屋命」と表記され、初見は「天石屋戸」の場面で、
その後、大国主神の時代を超えて、日子番能邇邇藝命の時代に名が再び現れます。

中臣氏の家系図と世代の参考画像を比較すると、
実際には多少の誤差があると思いますが一致しました。

その事から、現在に伝わる家系図の世代は、正しいと思われます。

ただ、「尊がない」の箇所でも書きました が、「豊受太神宮禰宜補任次第」の中で、
「國常立尊」の子「天八下命」とあり、「天八下尊=天八下命」であれば、
「天兒屋命」の先祖は、「天之御中主神」ではなく、「國常立尊」の可能性もあります。

他にも、「天児屋根命」を調べて行くうちに、問題も出て来ました。

検索すると、「天児屋根命」は「日本書紀に、その様に記載される」と出ると思います。

確認の為に、日本書紀の写本画像調べましたが、「天兒屋命」とありました。

「天児屋根命」と記載がある文献は、
「先代旧事本紀」の「神祇本紀」などの少数のようです。

国立国会図書館デジタルコレクション先代旧事本紀の43ページに、
「天兒屋根命」とあるのが初見となり、九割は「天兒屋命」と書かれていると思います。

また、新撰姓氏録でも、「天兒屋命」と「天兒屋根命」を分けて書いてあるので、
別人と考えたほうが良いのかも知れません。

今後の「天兒屋命」の箇所で、改めて詳しく調べて行きます。

余談ですが、伊勢国造家の「天日別命」は、天御中主尊12世孫となっていますが、
この人物の検証も、中臣氏関連で検証して行きます。

参照18:藤原氏 -序説-不比等以前-公卿類別譜(公家の歴史)

倭漢惣歴帝譜図

現存していないらしく、日本後紀でしか知る事は出来ないようです。

自分でも国立国会図書館デジタルコレクションで、探し出す事が出来なかったので、
参照11のサイトに全文が載っていましたので、引用させて貰います。

勅。倭漢惣歴帝譜圖。天御中主尊標爲始祖。至如魯王。呉王。
高麗王。漢高祖命等。接其後裔。倭漢雜糅。敢垢天宗。愚民迷執。
輙謂實録。宜 諸司官人等所藏皆進。若有挾情隱匿。乖旨不進者。
事覺之日。必處重科。(大同四年二月条)

倭漢惣歴帝譜図

「倭漢惣歴帝譜図」では、如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等の始祖が
天御中主尊だと書いています。

検索しても、真面目に考えている人はいないらしいですが、
本当であれば重要な情報となり得ると考えています。

「天御中主尊」と「漢高祖命」とあるように、「命」と「尊」を別けていますので、
「天御中主尊」が、本国(南朝鮮)で活動していたのなら、帰化人である
「漢高祖命」達の始祖であるとするのも、別に不思議ではありません。

また、「尊がない」や「中臣氏」 で書いた通り、「天御中主尊」=「國常立尊」ならば、
元々、「國常立尊」は本国で活動していたので、こちらも全く問題がありません。

一番問題があるのは、「國常立尊」が本当に「天御中主尊」と名乗ったかのか?と、
活動拠点が南朝鮮にあったのかの二点ですが、考察するだけの情報が無いので不明です。

日本書紀でも検証しますが、日本書紀の一番最初の名が「國常立尊」と言うのも、
実は、当時の状況が反映されていたのでは?と思っています。

その場合、「天御中主尊」=「國常立尊」の図式が成立しますし、
既成概念を改める必要があります。

それから、魯王・呉王・高麗王・漢高祖命と言った海外の人達が、
色々と不利になるのを分かっているのにに関わらず、列島に帰化しに来たのは、
自分達の祖先が「天御中主尊」と言う話が残っていて、しかも、列島に子孫がいると
知っていたから、わざわざ、言葉や習慣等大変な思いをすると知りつつ、
列島に帰化しに来たのではないだろうか?と考えています。

参照19:「弘仁私記序」愚考

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