故、是於(これお)天照大御神見て畏れる
天石屋の戸を開く而(に)刺し、許母理(此の三字、音を以ってす)て坐し也
爾(なんじ)高天原皆暗く、葦原中國悉く闇、此れ而(に)因って常に夜を往く
是於(これお)萬神の聲者(は:短語)狭く蠅の那須(此の二字、音を以ってす)
萬の妖(あやかし)皆 悉く満ちて發(はな)つ
※「皆滿萬妖悉發」の文には「皆」が無い写本もある
是を以て八百萬神於(お)天安之河原而(に)集わせ
集った(集の訓は都度比と云う)神
高御產巢日神之子思金神(金の訓は加尼と云う)
令(うなが)し思う而(に)常世長鳴に集う鳥而(に)鳴くを令(うなが)し
天安河之河上之天堅石を取る
天金山之鐵(くろがね)取り、
而(すなわち)鍛える人を天津麻羅(麻羅二字、音を以ってす)而(に)求める
伊斯許理度賣命(伊自(より)下六字、音を以ってす)に鏡を作るを科し令(うなが)す
玉祖命而(に)八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠作りを科して令(うなが)す
天兒屋命と布刀玉命(布刀二字、音を以ってす。 此れ下も效(なら)う。)を召して、
天香山之眞男鹿之肩を抜くの而(に)内から抜く
天香山之天之波波迦(此の三字、音を以ってす 木名)取り而(に)令(うなが)し
而(すなわち)麻迦那波(麻自(より)下四字、音を以ってす)と
天香山之五百津眞賢木(まさかき)合わせて占う
而(すなわち)、根を許士爾許士(許自(より)下五字、音を以ってす)
枝の上から八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉於(お)取り著(あらわ)し
枝の中から八尺鏡(八尺の訓は八阿多と云う)於(お)取り繋ぎ
枝の下から垂(垂の訓は志殿と云う)、白丹寸手、青丹寸手於(お)而(すなわち)取る
此の種種(くさぐさ)なる物者(は:短語)
布刀玉命而(に)布刀御幣を取りて持ち登る
天兒屋命、布刀詔(みことのり)し、戸に禱(いの)ると言い白(もう)す
而(すなわち)天手力男神、戸の掖(わき)而(に)隠れ立つ
天宇受賣命、天香山之天之日影而(に)次いで手を繋ぎ
天之眞の𦆅(かずら?)を折る為而(に)
天香山之小竹(小竹の訓は佐佐と云う)葉を手草而(に)結んで
天之石屋の戸於(お)汙氣(此の二字、音を以ってす)て伏せる
而(すなわち)、神懸(かみがかり)の為而(に)登杼呂許志(此の五字、音を以ってす)
を踏み、胸の乳を出して掛け、裳(もすそ)の緖に垂(しでん)忍ばせて登る番也
爾(なんじ)高天原の動き而(に)八百萬神と共に咲く
物作り
原文:
取天金山之鐵而 求鍛人天津麻羅而【麻羅二字以音】
解読:
天金山之鐵(くろがね)取り、
而(すなわち)鍛える人を天津麻羅(麻羅二字、音を以ってす)而(に)求める
「麻羅二字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。
「麻」:呉音:メ(表外)、漢音:バ(表外)、慣用音:マ
「羅」:呉音・漢音:ラ
上記により、呉音「めら」、漢音「ばら」となりそうです。
「天津麻羅」は「地域名」だと思いますが、
検索すると「人物名」と捉えているようです。
「天津麻羅」の人に鍛えてもらうと解釈すれば、
人物名より地域名が適していると思います。
逆に「天津麻羅」という場所は、
「鍛冶技術を持った人達」が多くいる場所とも受け取れます。
ちなみに、「天目一箇神」と同一人物とする説があるようですが、
「天目一箇神」の名を継承した人がいたとしても、
イコール同一人物とは限りません。
「天目一箇神」の名を継承する条件が、鍛冶技術だったという事だと思います。
立岩神社(徳島市)
五泉八幡宮(合殿)
上記のように、神社表記にある事から、
今回の一連の功績により、名を賜った可能性があります。
その土地もしくは地域名を名字にするのは、十分にありえます。
神社表記では上記の2種類ですが、他にも存在しているようです。
参照3のサイトに、他の表記として、下記のようにあります。
天津麻羅は、あまつまら、と読みます。
宣長は「あまつまうら」と読んでいます。
綏靖紀に「倭鍛部天津眞浦 」、
先代旧事本紀(巻三)の饒速日尊の天降りに随行する神々のうちに
「物部造等祖天津麻良」「倭鍛師等祖天津眞浦」「笠縫等祖天津麻占」の名が見えます。
上記の情報を調べましたが、情報が乏しいため、関連不明です。
ただ、「天津麻良命」に関しては、
「新撰姓氏録」の「和泉国神別」の「大庭造」の箇所に
「神魂命八世孫天津麻良命之後也」とあり、
系統の判明している人物が継承したとも考えられます。
原文:
科伊斯許理度賣命【自伊下六字以音】令作鏡
解読:
伊斯許理度賣命(伊自(より)下六字、音を以ってす)に鏡を作るを科し令(うなが)す
「自伊下六字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。
「伊」:呉音・漢音:イ
「斯」:呉音・漢音:シ、宋音:ス
「許」:呉音:コ(表外)、漢音:キョ
「理」:呉音・漢音:リ
「度」:呉音:ド、ダク、漢音:ト、タク
「賣」:呉音:メ、漢音:バイ、慣用音:マイ
上記により、呉音「いしこりどめ」、「いしこりだくめ」、
漢音「いしきょりとばい」、「いしきょりたくばい」になりそうです。
「伊」:聖職者、長
「斯」:「切り分ける」
「許」:「他人の願いなどを聞き入れる」
「理」:「磨(みが)く」
「度」:「測量する」、「計算する」
「賣」:歩いて売る
上記のように考えた場合、この人物は集団の長で、
「鏡」の受注生産を商売としていた可能性が高いです。
しかも、長に頼む事から、緊迫した場面だと言えそうです。
参照8: 賣
七社神社、荒船神社(里宮、下仁田町)、五所神社(行田市)、金物神社
鏡作伊多神社(保津)
金鑚神社 境内 五柱神社
三宅神社(西都市、合祀)、鏡作坐天照御魂神社、鏡作伊多神社(宮古)、荒石神社、
鏡作神社(磯城郡三宅町)、深沢大石神社(勝沼町)、神部神社(寺部)、
荒石比古神社、日吉神社(中島町豊田町)、有礒正八幡宮(高岡市、合祀)、
石井神社(石地)、五泉八幡宮(合殿)、大石神社(相模原市)、國吉神社(苅谷)、
大我井神社(合祀)、蜂前神社 境内 右脇宮、海士潜女神社、古宮神社
中山神社(津山市)、内原王子神社
小梳神社(合祀)
大石神社(綿塚)
「伊斯許理度賣命」の表記は、
古事記の「日子番能邇邇藝命の五伴緖」の1人として名が残っています。
つまり、最低でも「神武天皇(俗称)」の頃までは、
「伊斯許理度賣命」の表記を継承していたと思われます。
この表記は、「伊斯」→「石」、「理度」→「利止」に変化しています。
これは、「伊」という集団の長から降り、
部下などへの仕事の振り分けをしなくなったので、
このような表記になったのだと思われます。
「理度」が「測量し、計算して磨く」と考えられるのに対して、
「利止」は、「石の切り出し」を、特殊な方法で行ったと考えられます。
これにより、命令する立場だったのが、
1人の職人として働いていたと思われます。
時代を知る情報はありません。
この表記から「石凝」に固定されます。
残念ながら、調べても有力な情報がありませんでした。
ただ、一点真偽不明な情報がありました。
天目一根命の亦名を天御陰命とも、天照麻良建雄命とも申して、
天照大御神の御子天津日子根命の御子小坐し、
石凝度賣命を亦名を天香山命と申して、
天照大御神の御孫天照國照彦火明命の御子小坐せん
「天香山命」=「天香語山命」とするサイトが多いですが、
読みが「かやま」と「かごやま」で異なるので、子や孫の可能性が高そうです。
「天香山命」は調べると「神武天皇(俗称)」と同時代とありますが、
表記を変えずに継承していた場合、それが初代かどうかは不明です。
もし、「天香山命」が「石凝度賣命」の名を継承していたとすると、
血統による継承ではなく、能力による継承かも知れません。
参照9: 玉襷 - Google ブック検索結果
日本書紀では、「命」の無い「石凝姥」しか記載がありません。
つまり、官位を持っていないという事で、
「石凝姥命」=「石凝姥」と簡単には言えません。
また、「姥」ですが、先代もしくは先々代を指す言葉とも受け取れます。
継承するべき人間がいなかったのか、
いたとしても、すぐに仕事を辞めたのか、
色々な理由で先代もしくは先々代が復帰したとも解釈出来ます。
『延喜式神名帳』にある鏡作麻気神社、鏡作伊多神社については同じく社伝に
「左座麻気神者天糠戸ノ命大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、
今伊勢崇秘大神也、右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、
比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」とみえる。
上記の文は参照9のサイトにあったのですが、
「大山祇ー天糠戸ノ命」、「天糠戸命ー石凝姥命」の関係が分かります。
「大山祇ー天糠戸ノ命」と「天糠戸命ー石凝姥命」を分けたのは、
「天糠戸ノ命」に「ノ」が入っている為です。
片方に統一すれば良いのに、それをしなかったという事は、
「天糠戸ノ命」も「天糠戸命」も存在していた可能性が高いと考えています。
「先代旧事本紀 巻第二 神祇本紀」の最後の方に
「復使鏡作詛天糠戸神召石凝姥命之子也」とあります。
ここでは「石凝姥命」の子が「天糠戸神」としか分かりません。
もちろん、「天糠戸命」=「天糠戸神」では無いので、
時代を知る手がかりになりそうもありません。
あと、参照11のサイトには、「天糠戸」の子に「己凝戸辺」をあげていますが、
日本書紀の原文を確認しても、該当の場所に、その名がありません。
参照10: 鏡作伊多神社
参照11: 天糠戸者 - れきち
大麻神社(善通寺市)、櫟原北代比古神社(合祀)、鏡作麻氣神社(神名帳に記載)、
鏡作坐天照御魂神社
神部神社(寺部)、中山神社(津山市)
原文:
科玉祖命 令作八尺勾之五百津之御須麻流之珠而
解読:
玉祖命而(に)八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠作りを科して令(うなが)す
第二章初めの場面で「八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠」、
五人の男の場面で「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」とあり、
今回で似た名は三回目となります。
前回、1回目と2回目の比較で「之」が無くなったと書きました。
今度は、「美」→「御」に変わり、「之」が復活しています。
「美須麻流」を
「滝の上から、「玉に似た美しい石」が流れて来るのを待つ」としましたが、
「美」→「御」に変わったことで、「玉に似た美しい石」ではなくなります。
参照12のサイトを見ると、「臨む( 風景・場所などを目の前にする)」、
「とどめる」、「ふせぐ」が関係ありそうですが、
「須=「待ち受ける」、「麻」=「崖」、「流」=「流れる」では、
「臨む」が適していると思います。
では、「臨」とは何か?を調べると、参照13のサイトには、
「直接、その場に出向く」、「出来事に直面する(目の前にする)」があり、
それまでは、担当者を決めて、その人物に任せていたのが、
緊急事態になったことで、「玉祖命」自ら探したので、
漢字表記が変わった可能性が高そうです。
参照12: 漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「御」という漢字
参照13: 漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「臨」という漢字
この人物については、情報がほとんどありません。
「神別系譜」の中にある「天祖高弥牟須比命ー伊狭経魂命ー天明玉命」の
「天明玉命」の注記に「玉祖命」がありますが、名を継承しただけだと思われます。
また、「安房国忌部家系」の「斎部宿祢本系帳」にある
「天背男命ー櫛明玉命」の「櫛明玉命」の注記に、「此者、玉作部祖也」とあるが、
そもそも、「玉祖命」=「玉作部」とは書いていないので、違うと思います。
門僕神社、玉作神社、玉祖神社
今後、新しい情報が入れば、その都度、考察します。