最終更新日 2025/07/01

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 第五章 邇邇藝命

第五章のまとめ

解説

03

天忍日命と天津久米命


天津日子番能邇邇藝命

「天津日子番能邇邇藝命」は、「天邇岐志國邇岐志」から生まれた
「天津日高日子番能邇邇藝命」の子の「日子番能邇邇藝命」が成長して、
新たに「天津」を付与された表記だと思っています。

この当時は、親の「天津日高日子番能邇邇藝命」が生存しているので、
「天津日子番能邇邇藝命」として、「天津」のみを継承したと思われます。

しかし、本文にも書きましたが、時期が異なれば、「日子番能邇邇藝命」の子が、
「天津日子番能邇邇藝命」の可能性がありますが、情報不足で分かりません。

天忍日命

「天忍日命」には「天押日命」という表記もあります。

しかし、同じ読みになる事から、生存した年代が異なる可能性が高いです。

「天忍日命」と「天押日命」が別人だと言う根拠として、
「新撰姓氏録」にある表記にあります。

374 左京  神別 天神 大伴宿祢   宿祢 高皇産霊尊五世孫天押日命之後也

629 河内国 神別 天神 家内連     連 高魂命五世孫天忍日命之後也

上記のように、「天忍日命」と「天押日命」が存在しています。

ですが、情報が混同していて、どちらの事を言っているのか不明です。

多くの人は、「高皇産霊尊」と「高魂命」を同一人物として扱っていますが、
表記が違うのは、別人の証拠でもあります。

もちろん、何個も違う名を持っている人がいるかも知れませんが、
その時には、慎重に慎重を重ねて、判断するべきだと思います。

時期的な事としては、どちらも「姓(かばね)」を得ているので、
西暦5世紀頃に「姓(かばね)」を配布したと考えて、
「高皇産霊尊」と「高魂命」も西暦2世紀頃の人間では無いかと考えています。

また、上記の「新撰姓氏録」には、「大伴宿禰」を、
「高皇産霊尊五世孫天押日命之後也」としていますが、古事記では、
「天忍日命此者大伴連等之祖」としていて異なります。

大伴連

「大伴連」について考えます。

色々と調べると、コトバンクでは
「姓は連(むらじ)で,684年(天武13)以後宿禰(すくね)となった」
と書かれていますが、本当に「連」だったのか、証拠がありません。

もう少し、掘り下げると、「大伴連忍勝」という人物を見つけました。

コトバンクには、下記の文が見えます。

日本霊異記(りょういき)」によれば,一族とともに信濃(しなの)(長野県)
小県郡(ちいさがたぐん)嬢(おんな)に氏寺をつくる。

宝亀(ほうき)5年(774)寺の物品を私的に流用したため,
一族の者に殺される が,5日後に生きかえり死後の様子をつたえたという。

上記の事が本当だとすると、「774年」まで「大伴連忍勝」は存在していた事になります。

その場合、「大伴連」と「大伴宿禰」は別の系統と考える事が出来ます。

この一族の者は、他のサイトでは「檀越」とあり、「同族(大伴連)」とあります。

そうなると、なおさら、「大伴連」と「大伴宿禰」は別系統という可能性が高まります。

他に探すと、参照9のサイトは、「日本書紀」の「天武天皇」の場面を訳していますが、
この中で「大伴連馬来田」とう人物が登場します。

また、「當是時、大伴連馬來田・弟吹負」とあるように、
「大伴連馬來田」と「吹負」が兄弟である事が分かります。

この系統は「天押日命」を祖として書かれている「大伴宿禰」系ですが、
途中までは、同じ「連」が「姓(かばね)」だったと思います。

「大伴連忍勝」以外に、「天忍日命」の系統と思われる人物がいない所を見ると、
あまり、表舞台には立っていないのだと思われます。

参照9:壬申の乱(現代語訳)

天津久米命

「天津久米命」の神社も少ないですし、人物像も分かっていません。

「日本書紀」では「帥來目部遠祖天槵津大來目」ですが、
「久米直」と「帥來目部」、「天津久米命」と「天槵津大來目」
のどちらも合っていません。

一部のサイトでは、同一と判断していますが、
なぜ、ここまで異なるのに信じるのか疑問です。

また、他に情報が無いか調べていたら、参照10のサイトを見つけました。

ここには、「大久米命」が「天津久米命の孫」や
「七拳脛命」が「大久米命の9世孫」などありますが、
色々と調べても見つかりませんでした。

何を根拠に書いているのでしょうか。

そもそも、「七拳脛命」は、古事記の「七拳脛」、日本書紀の「七掬脛」でも、
「命」の地位にはいないので、「七拳脛命」と「命」を書くのは間違いです。

参照10:久米氏・山部氏

氷上社家來目長稻系

参照11のサイトの中で、「氷上社家」についての考察を書いています。

ここで面白いのは、日本書紀にある「天槵津大來目」の系統だと言う事です。

参照12のサイトにある「熱田宮旧記」では、「天穂津大來目」としていて、
「天孫降臨の時、先駈と云々」と書いていますが、
日本書紀の表記が「天槵津大來目」なので、完全に間違いです。

ところが、参照11のサイトでも書いていますが、
太田亮博士の「姓氏家系大辞典」第二巻では「天槵津大來目」に変更しているそうです。

参照13のサイトの「17、尾張の久米氏」の場所を見ると、
確かに「天槵津大來目」とありますが、少々違和感もあり、入れ替えた様な気もします。

なので、もし、本来の記事が「天穂津大來目」だとすると、
日本書紀の「天槵津大來目」とは異なり、子孫だと思われます。

参照11:『熱田宮旧記』の中の久米氏について

参照12:熱田宮舊紀

参照13:姓氏家系大辞典第2巻(国立国会図書館デジタルコレクション)

波多門部造系

参照14のサイトに「「波多門部造」の系図には移受牟受比命の13世孫の矢口宿祢が
仁徳天皇の御代に国造へ定められたとされる。」とあります。

参照15のサイトの105コマを見ると、「矢口宿祢」の横に、
「難波高津朝」から「淡道國造」を賜ったと書いています。

この「淡道國造」ですが、Wikiには、
「『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、仁徳天皇の御世に、
神皇産霊尊の9世孫の矢口足尼を国造に定められたとされる」とあります。

確かに、「先代旧事本紀」の「国造本紀」を見るとその様に書かれていました。

しかし、参照15のサイトにある「矢口宿禰」の家系を見ても、
「神皇産霊尊」と関係ありそうには見えません。

なので、「矢口足尼」と「矢口宿禰」の二人が存在した可能性があります。

そうなると、「淡道國造」を二人に渡したのか、気になりますが、知る術がありません。

また、参照16のサイトに、
「神祝命10世孫味波波命」が「阿武國造」を賜ったとあります。

原文では「神祝命」となっていて、赤字で「神魂命」に訂正していますが、
本当にそれが正しいのか疑問です。

参照15のサイトにある「波多門部造」の系図にも、「味波波命」がいて、
「移受牟受比命十一世孫」が「味波波命」で、「押志岐毘古命」の子となっています。

「移受牟受比命系」の「味波波命」が「神祝命系」の養子になったと考えるのが、
一番有り得そうだと思います。

「神祝命」の子孫の系図があれば、もう少し、深堀出来ますが、現状では分かりません。

参照14:HD01波多門部意富支閉 - 天神系氏族

参照15:諸系譜. 第2冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参照16:国造4 - 米子(西伯耆)・山陰の古代史

新撰姓氏録

132 右京  皇別    久米朝臣 朝臣 武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也
223 大和国 皇別    久米臣   臣 柿本同祖
                     天足彦国押人命五世孫大難波命之後也
387 左京  神別 天神 久米直   直 高御魂命八世孫味耳命之後也
444 右京  神別 天神 久米直   直 神魂命八世孫味日命之後也

上記の様に、「久米」を冠する姓(かばね)は、色々と異なります。

「朝臣」は、684年に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(かばね)なので、
「稲目宿祢」は、近くに存在した人物だと思います。

「稲目宿祢」を検索すると、
「蘇我家」が出てきますが、こちらには「稲目宿祢」以外になく、
「蘇我稲目」なのかは不明です。

この場所には、「久米宿禰」がありませんが、参照16のサイトにある系図では、
「七掬脛命」から始まったとあります。

ここでは、「七掬脛命」ですが、古事記では「久米直之祖・名七拳脛」で、
日本書紀では「亦以七掬脛爲膳夫」とあるので、日本書紀に似ています。

しかし、「七掬脛」とはあっても、「命」の地位が無いので別人だと思います。

他に、「久米朝臣広縄」などがいるようですが、人物像は不明です。

参照17:久米宿祢の系図に記された伊牟多乃造と小竹子乃造

神阿多都比賣

「大山津見神之女名 神阿多都比賣」の後に「亦名、木花之佐久夜毘賣」がありますが、
こちらも、「木花之佐久夜毘賣」という人物が、
「神阿多都比賣」を継承したのだと思います。

なにより、地位が「比賣」と「毘賣」で異なるので、
もしかしたら、「比賣」が「毘賣」よりも上位なのかも知れませんが、情報がありません。

僕父大山津見神將白

「僕(やつがれ、使用人)の父大山津見神は將(まさに)白(もう)す」
と解読できますが、「僕(やつがれ、使用人)の父大山津見神」が問題となる場所です。

言い換えれば、「大山津見神」の子が「僕(やつがれ、使用人)」と言う事となります。

では、この「大山津見神」と「神阿多都比賣」の親の「大山津見神」が、
同一人物かと言うと、時代を知る情報が無いので不明です。

なので、次の文の
「故、其の父大山津見神之(これ)乞われて遣わす時、大歡喜而(に)、
其の姉石長比賣を副えて、机代之物から百を取るを令(うながして)
持って奉(たてまつる)に出る」の「其の父大山津見神」とも同一人物かは不明です。

弟木花之佐久夜毘賣

「唯留其弟木花之佐久夜毘賣 以一宿爲婚」の「弟木花之佐久夜毘賣」は、
「伊邪那美命」と「妹伊邪那美命」の関係と同じで
「弟(自分より年齢が下の男性)」が「木花之佐久夜毘賣」を
継承した事になりますが、どうなんでしょうか?

普通であれば、「妹」や「若」を使いますが、「弟」だと一つの解釈しか出来ません。

また、ほとんどのサイトでは「弟木花之佐久夜毘賣」を無視して、話を進めていますが、
「弟木花之佐久夜毘賣」の「弟」は避けて通れません。

想像としては、何代目かは不明ですが「木花之佐久夜毘賣」が亡くなり、
次代を用意しなければ行けないのに、女性が居なかったので、
「弟」にさせたとも解釈できます。

とはいえ、当時の状況が不明なので、良く分かりません。

変遷

第五章の変遷としては「木花之佐久夜毘賣」、「弟木花之佐久夜毘賣」、
「木花之佐久夜毘賣」、「木花之佐久夜毘賣」、「木花之佐久夜毘賣」、
「佐久夜毘賣」となっています。

また、「妾が妊(みごもる)身、今、產む時に臨む、是(これ)天神之御子、
私、不可產(うまず)」とあり、「火照命」ら三人を産んだとは思えません。

最後が「佐久夜毘賣、一宿で妊(はらむ)哉(なり)」とあり、
「木花」が無くなっている事により、
最後の「木花之佐久夜毘賣」の子か、もしくは違う系統の人物の可能性があります。

しかし、それを調べる術がありません。

若國神

先程の「佐久夜毘賣、一宿で妊(はらむ)哉(なり)」の後ですが、
「是、非我子(わがこあらず)、國神之子必ず、爾(なんじ)答えて白(もう)す」

生まれた、もしくは、妊娠中の子を「非我子(わがこあらず)」とあり、
その後に、「國神」が現れます。

以前にも「僕者國神 大山津見神之子焉 僕名謂足名椎 妻名謂手名椎 女名謂櫛名田比賣」
という様に、「大山津見神」を「國神」と書いています。

しかし、今回は「國神之子」とあるだけで、「大山津見神」の子とは判断できません。

なので、
「是、非我子(わがこあらず)、國神之子必ず、爾(なんじ)答えて白(もう)す」
の文が、「國神之子」が「非我子(わがこあらず)」と言っているのならば、
「佐久夜毘賣」を指すとは言えません。

そもそも、「國神」というならば、「猨田毘古神」もそうです。

そして、「吾、妊(はらむ)之(これ)の子、若國神之子者(は:短語)、
產むと不幸(しあわせこず)」と、「若國神之子」という言葉が現れます。

これは、先程の「國神」があったのだから、
「若國神」も挿入しようと言う事でしょうか。

また、「若國神之子者(は:短語)、產むと」とあるので、「女性」かも知れません。

「非我子(わがこあらず)」に限っては、誰でも言えると思うので、
性別の判断は出来ません。

次の「若天神之御子者(は:短語)幸せ」ですが、
「若天神之御子とは誰を指しているのでしょう。

「天神」とあるので、「天(あま)一族」の人物だと思いますが、
参考なる情報がありません。

火照命ら三人の親

「火照命」ら三人が登場する前の状況が、
「卽(すなわち)、戸が無い八尋殿を作り、其の殿に入り內に土を以って塗って塞ぐ」と
「而(すなわち)、方(まさに)產む時、火著を以って、而(すなわち)其の殿で產む也」
になります。

ここには、誰が「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」の三人を産んだのか?
については、一切書いていません。

ここにあるのは、産む時の状況でしかありません。

「母親」の一番候補は、 「佐久夜毘賣」ですが、先程見たように、
「非我子(わがこあらず)」と拒否しています。

また、「若國神之子者(は:短語)、產むと不幸(しあわせこず)」もありますし、
「若天神之御子者(は:短語)幸せ」に至っては、
「天津日高日子番能邇邇藝能命」の事を指しているのかは不明です。

これにより、「佐久夜毘賣」が「母親」というのも違うように思います。

つまりは、「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」の三人の、
「父親」、「母親」が不在という事になります。

多分に「天津日高日子穗穗手見命」が「火遠理命」を継承したので、書いただけで、
勢力としては、小さいから情報も無かったのかも知れません。

しかし、この三人の子と子孫は、
「天津日高日子穗穗手見命」に目をつけられたおかげで、
長い事、歴史の表舞台に残る事になるので、幸運だったと思います。

系図

第五章を通しての系図ですが、まず、「太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」とあるので、
「天照大御神」の子で間違い無いと思います。

次の親の「天津日高日子番能邇邇藝命」は、一見、
「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の子の様に思えますが、表記がありません。

母親は「天邇岐志國邇岐志」だと思われます。

ただ、もし、「天津日高日子番能邇邇藝命」が「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の子
では無いとすると、「御子」はおかしいので、多分、間違いなく子だと思いますが、
証拠がありません。

次に、「天津日高日子番能邇邇藝命」が「萬幡豐秋津師比賣命」と結婚し、
「天火明命」と「日子番能邇邇藝命」が誕生しますが、
父親の地位を継承したのは次男です。

次男である「日子番能邇邇藝命」は、「天津日子番能邇邇藝命」になって「天津」
を継承し、「天津日高日子番能邇邇藝能命」でさらに「日高」を継承したと思われます。

この次が、三人兄弟の「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」となりますが、
決定的な両親の証拠がありません。

今、言われているのは、日本書紀などにかかれている内容なので、
真偽については不明です。

しかし、「娶〇〇、生〇〇」という情報が無いので、
「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」は、
元々無関係だったけど、「火遠理命」が「天津日高日子穗穗手見命」を継承したのを
きっかけに、「天(あま)一族」の情報に載る事になったのだと思います。

なので、「天津日高日子穗穗手見命」は、「天(あま)一族」と、
完全に血の繋がりは無いだろうと思っています。

まとめ

第五章は、「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」、親の「天津日高日子番能邇邇藝命」、
子の「天津日高日子番能邇邇藝能命」、「天津日高日子穗穗手見命」の四世代の話でした。

しかし、この章で一番の謎は、三人兄弟の「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命」の
両親が誰なのかです。

三人が生まれる場面では、「天津日高日子番能邇邇藝能命」も「木花之佐久夜毘賣」も
登場していないので、なおさら、分かりません。

もしかすると、「天(あま)一族」と無関係だったので、
情報が無かったのかも知れません。

ただ、そうだとしても、「火遠理命」を「天津日高日子穗穗手見命」が
簡単には変える事は出来ないでしょう。

なにより、「天津日高日子穗穗手見命」は、「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」から続く、
直系なので、この人物に関しては、情報があったと思います。

なぜ、それを記載しなかったのか、非常に疑問です。

とはいえ、これ以上、調べる事が出来ず残念です。

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