目次
次に成る神名、國之常立神(亦、常立の訓は上の如く)。次に豐雲野神。
此の二柱神、亦、獨り神(ひとりがみ)而(に)成りて坐り隱れる身也。
次に成る神名、宇比地邇神。次に妹須比智邇神。(此の二神の名は、音を以ってす。)
※次妹須比智邇(声注:去)神【此二神名以音】の「音」が、
「国宝真福寺本」では、「旁」に変わる。
次に角杙神。次に妹活杙神。(二柱)
次に意富斗能地神。次に妹大斗乃辨神。(此の二神の名は、亦、音を以ってす。)
次に淤母陀流神。次に妹阿夜訶志古泥神。(此の二神の名は、皆、音を以ってす。)
次に伊邪那岐神。次に妹伊邪那美神。(此の二神の名は、上の如く、亦、音を以ってす。)
※「伊邪那岐神」の「邪」が、「国宝真福寺本」では、抜けていて、
「妹伊邪那美神」の「邪」も「耶」に変わっている。今後も同様に置き換わる。
上の件、自ら國之常立神以下、伊邪那美神以前を并(あわ)せて神世七代と称える。
上の二柱獨り神(ひとりがみ)で各一代と云う。
次に雙(ならぶ)十神、各二神合わせて一代と云う也。
國之常立神を祀る神社と神名
國之常立神を祀る神社は下記の通りです。
建勲神社 境内 義照稲荷社
伊達神社(四竈字町)
伊和神社 境内 五柱社
額東神社、秋川神明神社
大縣神社 境内 大国恵比須神社
潮田神社
上記の様に、一部の神社を調べました。
この人名は、横浜市潮田町にある「潮田神社」の祭神の中にいます。
その祭神の中には「国常立尊」もあり、区別している様に感じます。
神社の表記を見ても、「立」を変化させる例は無く、
「國之常立神」の親族と思われますが、判断できません。
ただ、「國」ではなく「国」としている事から、時代は下って、
「國」と「国」の違いが風化した時代の人物だと推測します。
この表記は、「號國常立尊 亦曰國底立尊」とある日本書紀の表記に通じます。
しかし、基本形である「國之常立神」と同じ形式であり、
「常」→「底」に変えた人名なので、
日本書紀の時代よりも「前」に存在した人名だと思われます。
変遷としては、
國之底立命ー国底立神ー国底立命ー國底立尊
だと思いますが、「國底立尊」は「國」となっているので、
「國之常立神」の系統は、「列島(神・命)」系統と
「南朝鮮(尊)」系統に分かれたとも解釈出来ます。
「大神」になっていますが、真偽は不明です。
この表記は「常」→「床」になっていますが、「底」の前の時代だと思われます。
その理由として、前回、Wikiに「常」は元々、「長さの単位」だった事を
紹介しましたが、その関連ではないかと思っています。
「長さの単位(常)」と「床」と「底」を比較すると、
「國之常立神」は、「長さ」を必要とする物を「立たせる」のが仕事だから、
後世に、「諱忌避」等で変更する際、関連性のある「床」や「底」に
改めたのではないか?と解釈しました。
「常」が「長さ」を指すのであれば、
「天之常立神」と「國之常立神」は「測量技術」を所持していた為、
大いに活躍し、1人では手が足りないので、「高天原」と「その他の國」に分けた事で、
「天之」と「國之」が付与されたのだと思います。
「國常立之命」と「国常立乃命」は、基本形の「國之常立神」の様に前ではなく、
後ろに持って来ているので、変化を求められて、前ではなく後ろにしたと思われます。
國之常立神ー国常立神ー国常立命ー国常立尊
國之底立命ー国底立神ー国底立命ー國底立尊
国床立大神
上記の様になると考えています。
後世に、「國」が「国」に変化していると思いますが、
それは、「國」と「国」の区別が付かなくなった時代に変更したのかも知れません。
「天之常立神」で書きましたが、「常立」とは、戦時中「投石機」を意味し、
遠距離攻撃をしていたと考察しました。
この人物も、守備すべき場所があると思いますが、
問題は、「國」の指す場所が不明だと言う点です。
普通に考えれば、「後衛」となります。
「高天原」が「連合国家」の様な体制だったり、
色々と考えてみましたが、分かりませんでした。
ただ、「非戦闘員」を守護する立場だったと考える事は出来そうです。
「國之底立命」と「国床立大神」を分家と考えました。
「國之底立命」は「國之」が付いていますし、
日本書紀に「國底立尊」が登場していますので、長い歴史がありそうです。
また、日本書紀の記事の「號國常立尊 亦曰國底立尊」は、
「國常立尊」が「國底立尊」の家に養子に入ったりする関係だと解釈しました。
分家した経緯としては、「専門化」があると思っています。
本家の初代「國之常立神」の時代は、高度な技術を有しているのが、
「常立」一族しか無く、いわゆる、「なんでも屋」の様な感じだったと思われます。
しかし、徐々に技術が高度で無くなると、
「得意分野」を持つようになったのではないか?と考えています。
そこで生まれたのが「國之底立命」家と「国床立大神」家なのだと思います。
例えば、「底」は、家の大黒柱などの「柱」、
「床」は、家具などとイメージしています。
「国常立尊」は、「國之常立神」と違って、中臣氏などの先祖で名を残しています。
その事については、今後、日本書紀の「国常立尊」編で、
今回、書かなかった事も含めて、検証して行きます。
参照1のサイトに、「船岡妙見社」の「境内案内板」の記事がありますが、
子孫と思われる「国常立尊」数世代の足跡を見る事が出来ます。
船岡妙見社は船岡山の地の神・ 玄武大神を祭る。
今より千二百年昔、平安遷都に 際し風水が相される、
船岡山は 大地の生気のほとばしり出る 玄武の小山と卜され、
ここを 北の基点として平安京が造営 された。玄武信仰は古くから広く行われ 宝永四年(一七〇七年)発行の「霊符縁起集説」に
「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。
玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と見える。船岡妙見は船岡山の地の神として
諸厄消除・万病平癒・家宅守護 の御神徳が讃えられている。
「玄武の大元は国常立尊なり。」とあり面白いです。
これは、「国常立尊」が「玄武」と讃えられる大偉業を行ったのだと思います。
「宅神」は、住宅の建築には「長さ」は重要なので納得出来ます。
「水の神」は、「治水」や「井戸」の設置等が有り得そうです。
「病魔退散」は、当時の流行病の治療が考えられます。
当然、1世代で行ったのではなく、数世代にかけての大偉業なのだと思いますが、
時代を特定出来る情報が無いのが残念です。
参照1:建勲神社