豐玉毘賣と豐玉毘賣命
「爾(なんじ)海神之女豐玉毘賣之從婢(じゅうひ)」が、
一番最初に「豐玉毘賣」の名を登場させています。
しかし、これは、「海神」とありますが、「綿津見神」とは書いていません。
なので、同一人物と考えるのは間違いです。
ただ、「新撰姓氏録」では、「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」とあり、
「海神」と「綿津見神」が合体した様な名になっています。
ですが、見て分かる様に、「海神綿積豊玉彦神」は「積」とあり、
「津見」の「一字一音」ではなく、「一字二音」になっているので、
「綿津見神」とは同じではありません。
「一字二音」は、主に「日本書紀」で採用されているので、
その系統の可能性がありそうです。
477 右京 神別 地祇 安曇宿祢 宿祢 海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
478 右京 神別 地祇 海犬養 海神綿積命之後也
479 右京 神別 地祇 凡海連 連 同神男穂高見命之後也
481 右京 神別 地祇 八木造 造 和多羅豊命児布留多摩乃命之後也
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 連 安曇宿祢同祖
綿積命六世孫小栲梨命之後也
611 摂津国 神別 地祇 阿曇犬養連 連 海神大和多羅命三世孫穂己都久命之後也
678 河内国 神別 地祇 安曇連 連 綿積神命児穂高見命之後也
「安曇宿祢」については、表記が違いますが、第一章に下記の様にあります。
次於水底滌時 所成神名 底津綿津見神 次底筒之男命 於中滌時 所成神名
中津綿津見神 次中筒之男命 於水上滌時 所成神名 上津綿津見神
【訓上云宇閇】、次上筒之男命。
此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神以伊都久神也【伊以下三字以音 下效此】
故 阿曇連等者 其綿津見神之子 宇都志日金拆命之子孫 也【宇都志三字以音】
「穂高見命」を検索すると、「AI による概要」に、「穂高見命は、伊邪那岐命が黄泉国から
帰還した後に日向の瀬で禊をした際に生まれた綿津見神の子の一人です。」とありますが、
「其綿津見神」とは、「底・中・上」の綿津見神を指しているのか不明なので、
当てはまりません。
そして、「新撰姓氏録」では「安曇」なのですが、
第一章では「阿曇」と書き異なっています。
この検索の「AI による概要」では、
「穂高見命」=「宇都志日金拆命」と考えていますが、
なぜ、その様な結果になるのか、疑問しかありません。
「穂高神社」などの神社でも、その様に書いていますが、その様な証拠はありません。
あと、検索しても、「阿曇」は出ますが、「安曇」は出てきません。
「安曇宿祢」は「姓(かばね)」が「宿禰」なので、「八色の姓」で新たに登場したので、
「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」とありますが、
西暦以上の紀元前という事は無いと考えています。
他に、「安曇宿祢」の「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」と、
「安曇連」の「綿積神命児穂高見命之後也」は、
同じ「穂高見命」という表記を使っていますが、
親が「海神綿積豊玉彦神」と「綿積神命」で異なるので、同じでは無いです。
これだけでは、時代を知る事が出来ないので、分かりませんが、
こちらも両法が「積」を使っているので、
西暦に入って存在した可能性が高いと思っています。
これらの様に、細々とした部分による考察は出来ますが、
検索しても「阿曇」と「安曇」が混同されて書かれている例も多く、
残念ながら、深堀する事はできそうもありません。
「新撰姓氏録」には「姓(かばね)」が掲載されていないので、
「海犬養氏」の事を指すのか不明です。
「海犬養宿禰」も存在するらしく、「海犬養岡麻呂」が奈良時代に存在した様です。
参照42のサイトに面白い事が書かれています。
丹後海部氏の勘注系図によれば、
始祖彦火明命の十九世孫になる丹波国造海部直都比には児が二人あって、
兄は丹波国造海部直縣といい、弟が凡海連眞磯という。凡海連眞磯の注文に
「凡海連等祖、雄朝津間稚子宿祢天皇(19代允恭天皇)御宇移二于
当国加佐郡凡海郷一。故改二賜姓二云二凡海連一矣」とある。凡海連眞磯-凡海連小橋-凡海連磯住-凡海連磯嶋と続いている。
これらの系譜は「古代海部氏の系図」という本に書かれていません。
なぜか、途中で途切れたり、他の支族の系図は削除していたり、
「勘注系図」の「すべて」が書かれていません。
なので、他のサイトで「凡海連磯嶋」について書いてあるサイトを探して、
参照43のサイトを見つけました。
それによると、倭宿祢命ー笠水彦命ー笠津彦命ー建諸隅命ー日本得魂命
ー意富那彦命ー乎縫命ー小登與命ー建稲種命ー志理都彦命ー川上眞椎命ー丹波大夫田彦
ー丹波国造大蔵岐命ー建振熊宿祢ー丹波国造海部直都比ー凡海連眞磯と続いています。
そして、凡海連眞磯ー小橋ー磯住ー磯嶋とあり、正しいようです。
「允恭天皇」は、「5世紀前半」に存在したと言われている様です。
さて、では、「凡海連磯嶋」以降の名が見えませんが、どうなったのでしょうか?
調べても何も出てきませんでした。
一番考えられるのが、継承者が存在しなかったので、絶家したというものです。
しかし、「凡海麁鎌」など数人の名が、以降に登場しているので、
「凡海連磯嶋」の関係かは不明ですが、絶家したとは思えません。
次に考えられるのが、情報源が消失もしくは焼失した可能性です。
さすがに著者の人も見つけられなかったのかも知れません。
もしくは、「凡海連」は二系統あり、「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」と
「綿積命六世孫小栲梨命之後也」のどちらかが生き残った可能性もあります。
とはいえ、「凡海連眞磯ー小橋ー磯住ー磯嶋」は、
どちらの系統にも属している様には思えないので、もしかすると、
2つの内の一つに吸収されたと考える事も出来ますが、情報がありません。
多くの人は、同じ人物と考えていると思いますが、
「命」という地位がある人と、無い人では異なります。
第六章の中で、「豐玉毘賣」が2回、「豐玉毘賣命」が5回登場しています。
その中で、親の名があるのが2回あり、
「海神之女、豐玉毘賣之從婢」と「海神之女・豐玉毘賣命」となります。
これを見て、同じ「海神」の子だから同じと考える人もいると思いますが、
これらは時代を考えていません。
「海神之女、豐玉毘賣之從婢」と「海神之女・豐玉毘賣命」の間には、
「豐玉毘賣」が2回、「豐玉毘賣命」が4回登場します。
分かりやすくすると、「豐玉毘賣ー豐玉毘賣命ー豐玉毘賣命ー豐玉毘賣ー豐玉毘賣命
ー豐玉毘賣命ー豐玉毘賣命」となります。
仮に同じ名は統合して考えると「豐玉毘賣ー豐玉毘賣命ー豐玉毘賣ー豐玉毘賣命」の
4つに集約されて、もしかすると、最初の「豐玉毘賣」と「豐玉毘賣命」とでは3世代、
ずれていると解釈する事も可能です。
違う名を挟むという事は、編纂者の手元には、情報源があり、
世代等についての情報もあったと思います。
だから、別の名を挟むという事は、世代や血統などが異なると考えられます。
もし、本当に、一人ならば、この様な事をせずに、一人の名を書けば良いはずです。
しかし、それをしていないという事は、簡単に世代が異なると考えられます。
「爾海神自出見云 此人者 天津日高之御子 虛空津日高矣」を解読すると、
「爾(なんじ)海神自(より)出て見て云う」と
「此の人者(は:短語)、天津日高之御子と虛空津日高矣(矢が当って止まり)」
になります。
「虛空津日高」は、第二段落で「何虛空津日高之泣患所由」と、
この後の「今天津日高之御子虛空津日高 爲將出幸上國」があります。
「天津日高之御子」は、今回と、
この後の「今天津日高之御子虛空津日高 爲將出幸上國」があります。
「正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」は「太子」として仕事していて、
この「正勝吾勝勝速日」は変化していません。
この次の世代である「日子番能邇邇藝命」から「天津日高家」は始まっています。
この次が、二男の「日子番能邇邇藝命」で、
最終的には「天津日高日子番能邇邇藝能命」になったのだと思われます。
この次は、「火遠理命 亦名 天津日高日子穗穗手見命」の
「天津日高日子穗穗手見命」です。
上記の情報は、第五章のですが、
第六章では「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」まで、名は登場しません。
そのため、「天津日高之御子」の「天津日高日子穗穗手見命」の子、
もしくは、この「天津日高日子穗穗手見命」の次世代の子の可能性があります。
多分に、名を書いていない事から、
「天津日高日子穗穗手見命」の次世代の子の可能性があるように思えます。
しかし、なぜ、名を書かなかったのでしょうか?
もしかして、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」と繋がらないから、
削除したのでしょうか?
真相は分かりません。
また、第七段落では「今天津日高之御子虛空津日高爲」とあり、
「天津日高之御子」と「虛空津日高」が一緒になる、
つまり、一つの称号となると解釈する事が出来ますが、情報が無く、追求出来ません。
「而美智皮之疊敷八重 亦絁疊八重敷其上」を解読すると、
「而(すなわち)、美智皮之(これ)八重に疊(かさねて)敷き、
亦、八重敷に絁(あしぎぬ)を疊(かさねて)其の上に坐す」となります。
「美智皮」には注記がありませんが、検索すると「AI による概要」に、
「「みち」という言葉は、「道」や「路」を意味する他に、動物の「海豹(あざらし)」を
指す場合もあります。また、「皮」は動物の皮膚を指します。」とあります。
ただ、本当なのか?と調べましたが、見つかりませんでしたが、
検索を「美智皮 海豹」とすると、同じ様な情報が出てきます。
この情報の根源は、どうやら、「古事記伝」にある、
「美智(みち)の皮(かは)、書紀に海驢と作て、此雲美知とあり、釈に海馬也と注し、」
から来ている様です。
しかし、こちらは「アシカ」であり、「海豹」の「アザラシ」とは別物です。
その時の状況を知る事は出来ませんが、「アシカ」もしくは「アザラシ」を、
多分輸入して、「皮」を利用していたと思われます。
「アシカ」を奈良時代に「みち」と読んでいるという情報もあり、
最初は「アザラシ」のみの言葉だったのが、「アシカ」にも拡大されたのかも知れません。
あと、「八重に疊(かさねて)」とある事から、多くの皮を利用していたのが分かります。
「故 至三年 住其國」を解読すると「故、三年に至り、其の國に住む」とあります。
この「其の國」とはどの國でしょうか?
参考にできる情報が何もありません。
前文は「卽令婚其女豐玉毘賣」なので、「豐玉毘賣」の婚約した人の國か、
それとも、自分の故郷の國かの二択になりそうです。
本文の「婚した相手」で、
「単に「豐玉毘賣」という名があったから書いたという事なのだと思います。」
と書きましたが、情報の少なさからして、可能性が高そうです。
この時点で「海神之女、豐玉毘賣」が適用されそうですが、
この間に「豐玉毘賣命」が二回登場している事を考えると、
「海神之女、豐玉毘賣」と同じと考えるのは違うように思います。
なにより、この時点で「海神之女、豐玉毘賣」以外に親の名を書いているのは無く、
「海神之女、豐玉毘賣」と思わせたい感じもあるように思います。
しかし、先程も書きましたが、「豐玉毘賣命」が二回登場しているので、
世代が異なる可能性もあります。
なんにしろ、情報不足でこれ以上の考察は出来そうもありません。
「其の父」とあるのは、
「白其父曰 吾門有麗人」と「故豐玉毘賣命、聞其歎以、白其父言」と
「故其父大神」の三回ですが、人物を特定できそうな情報は「故其父大神」だけです。
しかし、「大神」という地位の人物は登場しないので、誰を指しているのかは不明です。
また、「故其父大神」の後に「問其聟夫曰」とあり、
「其の聟夫(むこおっと)」と読めますが、ここにも人物名はありません。
そんなに知られては困る人物名なのでしょうか。
あと、第五段落には、他に「其の大神」や「其の兄」がありますが、
名が無いので、誰なのかは不明です。
でも、先程の「故其父大神」の様に、「豐玉毘賣」や「豐玉毘賣命」の父であれば、
「其の父」と書くと思うので、別の人物の可能性が高そうです。
他にも、第六段落では「其の兄」が4回登場しますが、
前後に名は無く、三人兄弟の事を指していると考えるのは間違いです。
第六段落で突然、「其綿津見大神誨曰之」と「綿津見大神」が出てきます。
「海神」繋がりだと思いますが、第六章ではここ以外になく、突然感が強いです。
これにより、古事記の編纂者達は、
「海神」と「綿津見大神」を同列に扱っていると思われます。
しかし、「綿津見大神」は、今までで一度も登場していません。
多分に「綿津見」だけを見て、「海神」と同じと考えているのかも知れませんが、
時代の事を考えていないのだと思います。
ただ、ここに「綿津見大神」が出てくるという事は、
「海神之女、豐玉毘賣」の記事よりも、数世代ずれている可能性が出てきそうです。
「卽悉召集和邇魚問曰」とあり、解読すると、
「卽(すなわち)、魚と和邇を悉く召集し問いて曰く」になります。
この「和邇魚」何を指しているのでしょうか?
「和邇魚」を検索すると、「AI による概要」によると、下記の様に書いています。
和邇 (わに) 魚とは、琵琶湖固有の魚で、
特に「氷魚(ひうお)」と呼ばれる鮎の稚魚を指すことが多いです。和邇は、琵琶湖西岸の地名であり、
この地域で多く獲れることから「和邇の魚」として知られています。
上記の様に出ましたが、
そもそも、この場面は、古代九州での話なので、根拠としては乏しいです。
「古代九州」を足して検索すると、
「和邇」を「爬虫類のワニではなく、サメ」と考えていたりしますが、
第三章の「和邇」は人物ですが、こちらは「人物」なのか、
それとも、「魚類」なのか不明です。
とはいえ、「悉く召集し問いて曰く」は、
普通に考えれば、「魚類」は話す事出来ないので、
この場面も「人物」の可能性が高いと考えています。
ただ、この後の文が、「今、天津日高之御子、虛空津日高と爲す」なので、
繋がりが無いと感じられます。
それに、「卽(すなわち)、魚と和邇を悉く召集し問いて曰く」が、
第七段落の始めなので、この前の文に、「和邇魚」が何か?を書いていると思われます。
ちなみに、「和邇魚」は、「和邇家」から派生した一族は、
「魚」の名を付けていたとも解釈できますが、どの様な名?などの疑問はあります。
「一尋和邇白(一尋和邇に白(もう)す)」と、
「故爾告其一尋和邇(故爾(ゆえに)、其の一尋和邇に告げる)」と、
「故其一尋和邇者 於今謂佐比持神也(故、其の一尋和邇者(は:短語)、今に於いて、
佐比持神と謂う也」と三回登場しています。
「申す」を使っている事から考えて、
「一尋和邇」という人物がいたのではないか?と思っています。
「一尋」を調べると、「1尋は5尺すなわち約1.515メートル、
ないし6尺すなわち約1.816メートル」らしく、当時でも、高身長だったのが分かります。
古墳時代で163cmだった様なので、紀元前700年頃の当時では180cm越えは、
「高身長」に見えたでしょうし、
もしかすると、他の地域から移ってきた人なのかも知れません。
多分に「五尺」だと小さい人になって違和感が無いので、
「六尺」の事を指していると思います。
一応、「ヨーロッパ」の「紀元前700年頃」 の「身長」は、
「一般的には、男性で160cm台前半、女性で150cm台後半程度」らしいので、
180cmなんて大きく見えたんでしょう。
そして、「和邇」一族の人だったのは分かりましたが、人名がありません。
色々と検索すると、参照44のサイトが見つかりました。
「龍山文化(またの名は黒陶文化)」の発掘調査で、
「身長約180センチ以上の集団」がいたようです。
これらの集団のうち、少数が列島に移住した可能性はありそうです。
あと、「佐比持神」に関しては、情報がありません。
ただ、「佐」が建築系なので、新しい建築物を作っていたから、
この名が与えられたのかも知れません。
ですが、「一尋和邇」が
一人しか居なかったのか?継承者はいないのか?などの疑問があり、
もしかすると、初代「一尋和邇」と「佐比持神」の名をもらった「一尋和邇」とでは、
世代などは異なる可能性があります。
それと、第十段落に「八尋和邇」という言葉があり、
今回のように「人物」と考えるのは難しそうです。
「八尋」は、先程書いた様に「5尺」だと「5尺×8」なので「約12m」、
「6尺」だと「6尺×8」なので、「約14m」になります。
ここまで大きいという事は、一番考えられるのが、木材があります。
「八尋和邇」は、他の人が行っている「木材の加工」ではなく、違う方法だったから、
「八尋和邇」という名が残ったのかも知れません。
参照44:5000年前の中国では身長約180センチ越えの集団が存在し ...
「僕者自今以後 爲汝命之晝夜守護人而仕奉」の解読は、
「僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)今自(より)以後、
汝の命之晝夜守護人而(に)仕奉(つかえたてまつる)と爲す」となります。
この「命之晝夜守護人」とは何でしょうか?
「汝」とあるので、ここに名の無い人物がいて、
その人物の「晝夜守護人」と思われます。
もしくは、上記では「汝の」としていますが、もし、「汝」とした場合、
「命」という立場の人物が雇っていると思われる人物が「晝夜守護人」と言えそうです。
残念ながら、どちらが正しいかは不明です。
あと、この後の文ですが、すごく意味不明です。
「故至今 其溺時之種種之態 不絶仕奉也」の解読は、
「故、今に至り、
其の溺れた時之種種之態を不絶(たえず)に仕奉(つかえたてまつる)也」
となります。
「僕者自今以後〜」の話の、どこに「溺れた話」があるのでしょうか。
明らかに、別の文が存在した事が分かります。
この人物の両親についても書いていません。
「乃生置其御子而白(乃(すなわ)ち、
其の御子而(に)置生(おきいけ?)し白(もう)す)」と数文前にありますが、
この「其の御子」が気になります。
もしかすると、この「其の御子」の子が、
「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」の可能性もあります。
しかし、「天津日高日子穗穗手見命」にしろ、今回にしろ、
なぜ、両親を書かないのでしょうか?
これは、「天津日高日子番能邇邇藝能命」の系統から外れたので、
余計な情報は消したのでしょうか?
それとも、焼失もしくは消失していたのでしょうか?
この様に考えると、「太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」の系統は、
「天津日高日子番能邇邇藝能命」で終わっていて、
その時々で、能力がある人材に、「天(あま)一族」の名を冠させたのでは?と思います。
「附其弟玉依毘賣而 獻歌之」の解読は、
「其の弟玉依毘賣而(に)附き、之(これ)歌を獻(たてまつる)」になります。
前回の第五章でも
「其弟木花之佐久夜毘賣」と「弟」がついた「毘賣」が存在していますが、
今回も「弟玉依毘賣」とあり、「弟」でありながら「毘賣」が付いています。
なぜ、二件もあるのか、疑問になります。
もちろん、この二件は時代が異なると思いますが、
「弟」が女装して「毘賣」の地位につく事は、
当時、当たり前に行われていたのでしょうか?
検索してみましたが、見つかりませんでした。
「爾其比古遲【三字以音】答歌曰」の解読は、
「爾(なんじ)其の比古遲【三字以音】の答え歌いて曰く」になります。
「比古遲」は、第一章から存在しています。
第一章「宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】」と第三章「故其日子遲神〜」と
今回の3つがあります。
しかし、第三章では表記が異なり、「比古遲」ではなく「日子遲」を使っています。
第三章では「神」とあり、第一章の「宇摩志阿斯訶備比古遲神」は、
同一の系統では無いと考えていて、今回の【三字以音】は、なぜ付けたのでしょうか?
なければ、普通に第一章に繋げて考えると思いますが、
わざわざ、注記を書いた理由が知りたいです。
「比古遲」には「三字以音」の注記があるので「「音読み」指定」になります。
「比」:呉音:ヒ 、ビ、漢音:ヒ
「古」:呉音:ク、漢音:コ
「遲」:呉音:ジ(ヂ)、漢音:チ
上記により、呉音「ひくじ、びくじ」、漢音「ひこち」になりそうです。
「ひく」だと分かりませんが、「びく」だと「魚籠」を連想できます。
ただ、なぜ、「宇摩志阿斯訶備比古遲神」の様な名ではなく、
「比古遲」という中途半端な名だったのでしょうか?
今回は「神」への地位も無いので、人物かは不明ですが、
個人的には「人物」だと思っています。