无間勝間之小船
「卽造无間勝間之小船 載其船 以教曰」と「无間勝間之小船」の名があります。
「小船」とありますが、「船」は大型船を表すので、
本当に小さい船なのだとすると、「小舟」とするべきところです。
検索すると、小型船でも「船」を使うとありますが、この情報源の時代に、
その様な事を考えていたのかは疑問です。
多分に、この「舟」と「船」の漢字の字形が完成した頃から、
「船」は「大型船」を指していたと思います。
「无間」を「無間」として、検索では出ますが、本当にそうなのでしょうか?
参照11のサイトを見ると、「無」ではなく「亡」の異体字とあります。
これが正しいのであれば、「无」=「無」ではなく、「无」=「亡」という事になります。
そして、「无」=「無」は単なる読みが共通しているだけという事になります。
もちろん、「无」=「亡」も「異体字」だけなので、意味としては違うと思います。
また、この「无」=「亡」とは違う意見が参照13のサイトに載っています。
「会意。据甲骨文字形,象一个人持把在跳舞。卜辞、金文中“无、舞”同字。本义:乐舞」
とあり、こちらでは、「无」=「舞」としています。
ところが、参照14のサイトにある「字源」には、「古代無、舞最初本一字」とあり、
先程の参照13のサイトとは異なっています。
確かに、「無」と「舞」は似ていますが、「无」は似ていないので、
無関係だったのに、「む」と読む事から混同されたのではないか?と考えています。
参照11:无とは?意味や使い方
参照12:无: zi.tools
参照14:舞: zi.tools
字形ですが、比較できるサイトが無かったのですが、Wikiで出来そうです。
参照15のサイトと参照16のサイトの「甲骨文字(殷)」で比較すると、
人の様な形が、参照15のサイトの「無」は「一つ」だけど、
参照16のサイトの「舞」では「2つ」になっています。
参照14のサイトにある「金文西周早期」ですが、
参照16のサイトにある「金文西周」と少々異なり、
数パターンがあり、それぞれに意味があったとすると、
漢民族が「説文解字」を作りましたが、
別の民族が使っていた形だったのでは?と思っています。
あと、金文でも、微妙に異なり、参照14のサイトにあった「古代無、舞最初本一字」は、
間違っている可能性があります。
これにより、元々「無」と「舞」が同じだったのではなく、
別々に意味のある形を作ったら、似てしまったのだと思います。
また、なにより、「无」と「無」では、字画でも異なっているので、
同じと考えるのは間違っていると言えそうです。
それから、参照17と参照18のサイトにある、「甲骨文」と「金文」を比較しても、
確かに似ていますが、似ているだけであり、
これを同一とするには間違っていると思います。
参照15:無 - ウィクショナリー日本語版
参照16:舞 - ウィクショナリー日本語版
参照17:無(ム)とは? 意味や使い方
参照18:舞(ブ)とは? 意味や使い方
字形で書いたように、「无」=「無」は違うと思います。
また、参照19のサイトにある「亡」と比較しても、
同じ一種と判断するのは違う様に思います。
あと、参照12のサイトの中盤にある「說文解字」を見ると分かりますが、
「從亡橆聲(亡と橆の聲に従う)」と「説文解字」では書いています。
しかし、「亡」や「橆」の漢字と「无」が通じる形が無いので、
違う漢字と間違えたのでは無いか?と思っています。
他に、「无」を「奇字」と書き、
「{舞の上+木+亡+木)通於元者 虛{舞の上+木+亡+木)道也」と書きますが、
この「{舞の上+木+亡+木)」が問題で、「木と木の間に亡」があるという事は、
戦場だったのでは?と解釈する事も出来ます。
「戦場」で戦う事を「舞う」と解釈すれば、ありえないとは思いません。
「說文解字繫傳」には、「臣鍇曰:「无者,虛無也」とあり、これが「虚」が無くなり、
「无」=「無」になったのかも知れませんが、そもそも、漢字の字形からして、
違うと思いますが、なぜ、そこに目が行かなかったのでしょうか?
でも、いろいろな事が書かれているという事は、これらを考えた皆さんも、
本当にそれが正しいのか?と疑問に思ったからなのかも知れません。
もし、確実にこれが意味だという証拠があれば、あれほどに書く必要はないはずです。
参照19:亡: zi.tools
最後に「勝間」について考えます。
コトバンクでは「勝間」=「堅間」と書いています。
しかし、第一章「根之堅洲國」、第二章「天安河之河上之天堅石」、
第三章「須佐能男命所坐之根堅州國」など、普通に使われているのに、
わざわざ、「勝間」とする理由があるのでしょうか?
他にも探すと、「目の細かい竹で編んだかごを指す言葉」とありますが、
本当なのでしょうか?
この様に、疑問しか出てきません。
多分に「勝間」=「堅間」では無いのでしょう。
もし、そうであるならば、普通に「堅間」と書けば良いだけです。
2つの漢字を深堀していきます。
参照20のサイトに、意味が書いていて、そこには「たえる」と「相当する」があります。
今回の場合、そのどちらかの意味があるのでは無いか?と思っています。
字形〜「舟+灷」〜
字形を見ると、参照21のサイトの「説文解字」には、
「从力(舟+灷)聲」とありますが、「舟+灷」がなぜ関係あるのか不明です。
確かに、参照24のサイトの「月+小+夫」は元「舟+小+禾」とありますが、
その根拠があいまいだと思います。
ただ、参照21のサイトにある冒頭の「漢多」を見ると、
「戰國晉系和楚系文字從「力」,「乘」聲。秦系文字從「力」,
「朕」聲,為《說文》小篆所本。本義是能承擔、勝任。」とあり、
どうやら、「力と乘」、「力と朕」で原義を迷っている様です。
「說文新證」では、
「戰國晉系、楚系文字從「力」「乘」聲,《戰典》疑為「勝」之異文」とあり、
「戦典、勝之異文を疑うと爲す」と書かれていますが、
「戰國晉系」の事を指しているのかは不明です。
字形〜舟か月(にく)か〜
ここで考えておきたいのは、参照21のサイトにある「勝」の「説文解字」の形は、
参照25のサイトにある「朕」の「説文解字」の形と同一と考える事は出来そうです。
しかし、参照21、参照22、参照23の各サイトを見比べると、
参照21のサイトにある「勝」の偏を「舟」と「月(にく)」で
混同している様に思えます。
例えば、参照21のサイトの「秦簡帛睡虎地」の形の偏は「舟」と似ていますが、
参照22のサイトの同じ形は無いので、
「春秋篆書石鼓文」と「戰國金文戰國」と比較すると、
「春秋篆書石鼓文」で上に飛び出ている場所がありますが、
参照21のサイトの「秦簡帛睡虎地」の形には、その様な部分はありません。
参照22のサイトにある「戰國金文戰國」では、その上に飛び出ている場所が、
無くなった様に思えますが、痕跡はあります。
その痕跡も見つからない参照21のサイトの「勝」は、「月(にく)」だと思われます。
ところが、参照21のサイトの「漢簡帛張家山」では、縦線があり、
「舟」を意識している可能性があります。
ですが、次の「漢篆書馬王堆帛書」では、縦線が無くなり、
「月(にく)」の可能性が高いです。
ちなみに、参照21のサイトの「漢說文小篆」では、「舟」と書いています。
「舟」と「月(にく)」は別物ですが、
もしかすると、「舟」と「月(にく)」の2つのバージョンが存在していた。
だから、混同しているのではないか?と考えています。
他のサイトで、「勝」の形を見ると、やはり、2つのバージョンがあったのだと思います。
どちらがかは不明ですが、多分に、別の民族が使っていたのが、
使われていたと解釈する事は出来ますが、その辺りの詳しい情報が無いので不明です。
あと、「朕」が基礎になっていると書いている件ですが、
「朕」は、参照25のサイトにあるように「商甲骨文𠂤組」から存在していますが、
残念ながら、参照21のサイトの「勝」に関しては
「甲骨文」や「金文」が存在していないので判断できません。
参照20:勝 - ウィクショナリー日本語版
参照21:勝: zi.tools
参照22:舟: zi.tools
参照23:肉: zi.tools
参照24:勝(ショウ)とは? 意味や使い方
参照25:朕: zi.tools
参照26のサイトを見ると、「「閒」の「月」部分が「日」に変化した異体字」とあり、
「閒」を見ると、「門の間から月が見えるさまを象る」とあります。
もし、本当に「閒」が本字で、「間」が異体字だとすると、いつ頃変化したのでしょうか?
そこで、「漢字 字源 間 甲骨文字」で検索すると、違う答えが帰ってきました。
AI による概要
漢字「間」の字源は、甲骨文字では門の中に日が沈む様子を表しており、
そこから「へだたり」や「ひま」の意味が生じました。時が経つにつれて、門は場所を表すようになり、場所や時間における隔たりや距離、
ひいては関係性や中間の状態を表すようになりました。詳細:
甲骨文字:「間」の甲骨文字は、門(門構え)の中に日(太陽)が描かれた形をしています。
これは、日が門をくぐって沈んでいく様子を表しており、
時間の経過や隔たりを表す象形文字として使われました。意味の変化:
時間の隔たりを表す「間」は、やがて場所の隔たり、
つまり「へだたり」や「空間」を表すようになり、
さらに「ひま」や「あいだ」といった意味にも広がりました。現在:
現在の漢字「間」は、時間、空間、関係性など、様々な意味を持つようになりました。
例:
時間:「一週間後」
空間:「二つの建物の間」
関係:「人間関係」まとめ:
「間」という漢字は、元々、門の中に太陽が沈む様子を表す象形文字から始まり、
時間の経過や隔たり、ひいては空間や関係性へと意味が発展した漢字です。
書き出すと上記の様になりますが、「間」の「甲骨文字」は見つけられませんでした。
検索に引っかかるのは、「閒」です。
ここで、気になるのは、古事記や日本書紀などにある「間」は、
編纂時にあった原文が「閒」だったのかという事です。
また、「あいだ」を示すだけでなら、「閒」でなくても問題ないはずです。
「あいだ」なら「門」だけ十分でしょう。
つまり、似た漢字がいつの間にか消滅したが、
「あいだ」という読みだけ残ったのでは?とも思っています。
そもそも、「閒」の「月」と「間」の「日」は別物なので、似て非なる物だと思います。
参照26:間 - ウィクショナリー日本語版
これは、考察したように「无」=「無」ではないが、本義は不明です。
そこで、色々と考えて、「无(何も無い、虚無)間(場所)」では無いかと思います。
「船」なので、寝泊まりできる場所など、数箇所あると思いますが、
それを無くしたのでは無いか?と考えました。
「勝」は「たえる」、「相当する」とも読めますが、他の辞典サイトを見ると、
「たえる」はありますが、「相当する」は無いので、「たえる」で考えたいと思います。
「耐える間」と解釈すると、「間」を「船全体」と考える事が出来そうです。
もしくは、まだ少し残っている間(場所)もガタが来て、
いつ壊れるか分からないという状況とも解釈できます。
この様に、「无間勝間之小船」とは、
「无(何も無い)間(場所)」と「耐える間」のある小船となりそうです。
この次の文が、「載其船 以教曰 我押流其船者 差暫往」で、解読すると、
「其の船者(は:短語)我の押す流れの差で暫(しばらく)往く」となります。
このままの状況だったとすると、
この船には、本来あるはずの「オール」が存在していなかったと解釈でき、
船全体が、最善な状態では無かったと考えられます。
「乃乘其道往者 如魚鱗所造之宮室」と突然「宮室」という言葉が登場します。
「乃(すなわ)ち、其の道に乘り往く者(は:短語)
魚の鱗の所の如く造る之(これ)宮室」と解読できますが、
「魚の鱗の所の如く造る」とはどこを指しているのでしょう。
「魚の鱗の所の如く」という事は、「魚の鱗の様な形」と解釈できますが、
調べると、参照27のサイトに「三角形をうろこが重なり並んだような形に配列した文様」
という「鱗形」という文様があるようです。
もしかして、この事を指しているのでしょうか?
それで、「宮室」とは、何を指しているのか?ですが、
次の文に「其綿津見神之宮者也(其れ者(は:短語)綿津見神之宮也)」とあります。
しかし、ここでも、仮に「綿津見神之宮」の事を指しているとしても、
場所の指定に繋がるような情報がありません。
ちなみに、次の文で「海神之女」とはありますが、
「綿津見神ノ女」とは書いていないので、
「綿津見神」と「海神」は別人なのだろうと思います。
もし、同じなら、例えば、「海神、亦の名綿津見神」とでもすれば良かったはずですが、
そうなっていないので、別人だと考えています。
参照27:鱗形(ウロコガタ)とは? 意味や使い方
「宮室(綿津見神之宮)」の参考になりそうな言葉が「湯津香木」になりそうです。
「到其神御門者 傍之井上 有湯津香木」とあり、解読は、
「其の神に到る御門者(は:短語)、
傍(かたわら)之(これ)井(井戸)の上に湯津香木有る」となります。
ただ、「訓香木云加都良、木」の注記が、
「故坐其木上者 其海神之女 見相議者也 【訓香木云加都良 木】」の様に、
「湯津香木」の後ろに注記が無いのが、すごく気になります。
なぜ、この様な配置にしたのでしょうか?
普通であれば、「湯津香木」の後ろに「【訓香木云加都良 木】」と注記を書く所です。
ところが、実際にそうなっていないという事は、注記の「香木」は、
「湯津香木」に対してでは無い可能性が高いと思っています。
本題ですが、「湯津香木」の「香木」ですが、調べると、
九州に存在した痕跡がないようで、本格的に取り入れたのは、仏教伝来以降の様です。
では、ここにある「湯津香木」は「香木」では無いのでしょうか?
「古代九州 香木 紀元前」で検索すると「AI による概要」に、
「香料や香木が東ユーラシアに流通し始めたのは、紀元1世紀頃とされています。
この時期は、ソグド人の東方進出と重なります。」とあります。
今回の場面は、紀元前700年頃なので、「古代九州 香木 紀元前700年頃」と検索すると、
「AI による概要」に、下記の様な事が書かれています。
香木の種類:
どのような種類の香木が使用されていたかについては、
具体的な記録や出土遺物が少ないため、特定は困難です。しかし、この時代には、大陸から 様々な物品が交易を通じて伝わっていたため、
沈香や白檀などの香木が輸入されていた可能性は考えられます。
上記の様に書かれるという事は、
輸入品として列島に到着していた可能性が高いのだと思います。
しかし、「傍(かたわら)之(これ)井の上に湯津香木有る」の「井上」を
「井戸の上」と解釈すると、「湯津香木」は「木」として存在している可能性が高いです。
そうなると、「【訓香木云加都良 木】と注記がある様に、
「かつら」や以外の「香木」になりそうな木を指していた可能性はあります。
ちなみに、「香木」になりそうな木で検索すると、参照28のサイトには
「沈丁花(じんちょうげ)」、「くちなし」、「金木犀」、「蝋梅」が紹介されています。
他にも、「ジャスミン」、「ライラック」、「セファランサス シュガーシャック」
があります。
今度は、「古代九州 紀元前700年頃 樹木」で検索してみました。
すると、「池上曽根遺跡(大阪府和泉市、泉大津市)」で、
紀元前700年代の柱が、発掘されたようです。
残念ながら、この柱の木材が何か?については、情報がありませんでした。
でも、「AI による概要」では、
「ヒノキやクスノキなど、複数の樹木が利用されていました。」
とあり、「ヒノキ」も「クスノキ」も調べると「香木」として、使われている様です。
なので、「湯津香木」も、元々存在していた木を使って、
「香木」として楽しんでいたのだろうと思います。
この「香木」は、別に「かつら」に限らず、「匂いのする木、もしくは、花の咲く木」を
利用していたのだと思います。
非常に残念なのは、
これにより、場所のヒントになるかと思いましたが、なりませんでした。
参照28:いい香りの花木10選 三大香木や四大香木もご紹介 - PW
其の香木
「卽登其香木以坐(卽(すなわち)其の香木に登るを以って坐す)」と、
「其の香木」とありますが、どの「香木」でしょうか?
「湯津香木」だとすると、前文が繋がらないので違うと思います。
前文は「故 隨教少行 備如其言
(故、少なく教えを行くに隨(したがい)備(そなえる)に如く、其れを言う)」です。
この前文が、「故、其の木に坐し、上者(は:短語)、
其れ者(は:短語)海神之女の見相を議(はかる)也【訓香木云加都良 木】」です。
前文と前前文の繋がりがあるように思えませんし、
前文と今回の場面も繋がりがあるようには思えません。
これにより、「其の香木」=「湯津香木」では無いと言えそうです。
また、「木に登り座る」という状況は、
木の上が切られていて、座る事ができるという事で、
予め、決められた行為だったと思われます。
これが儀式なのか?どうかは不明ですが、
もしかしたら、見張り台などを建築するために、木を切り、座る場所を用意し、
そこから材料を持ち上げて作ったという解釈も出来そうです。
その木が、香木としても使われていたので、
「其の香木」という表現になったと考えています。
井上香木
「爾見其璵 問婢曰 若人有門外哉 答曰 有人 坐我井上香木之上」と
この場面のもう少し後に、この場面が登場します。
ここでは、「井(井戸)の上の香木」と解釈できますが、
場面が異なるので、別の場所だと思います。
この「我」に関する人は、この場面に登場していないので不明です。
ここも「坐」とあるので、木を伐採し、座れるようにしたのだと思います。