最終更新日 2025/07/29

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 第六章 海佐知毘古と山佐知毘古

第六章のまとめ

解説

05

神倭伊波禮毘古命


稻氷命

「稻氷命」に関して、本文以上の情報が無いと思っていましたが、
もう一つありました。

「百家系図稿」の内容を「古代氏族系譜集成」に載せている様です。

内容としては、下記に書きます。

新羅王の初代王たる赫居世の先代に
「飯氷命-朴巫牙-提炎-力(糸偏+乞)-波羅那-玄若-伽留-担述留-閼斤-
健達-麻留」という系譜

第4代脱解王の先代に
「知古(天日矛の弟)―沙莫―麻智-烏流-解布留(―脱解)」という系譜

『新撰姓氏録』には
「脱解は稲氷命が神武東征で死なずに海外に落ち延び脱解になったという記事があり」(原文ママですが、樹童 註:これは誤解です)、
その真偽は別にしてこの記事は神武帝が『日本書紀』のいう前七世紀の天皇ではなく、
前五〇年頃つまり脱解と同時代の天皇たることを示す記事と考えれば、
その後の百歳を超える天皇を基にして構成される日本古代年表に修正を迫る記事
として注目に 値すると考えられます。

まず、最初の「新羅王の初代王〜」と「第4代脱解王」の話ですが、
検索しても見つけられません。

次の「脱解」の話も、全く見つかりませんでした。

これにより、「前五〇年頃の天皇」が「神武天皇(仮)」という事も信用できません。

そもそも、「新撰姓氏録」の「脱解」は、どの姓(かばね)に書いているのか?などの、
重要な情報が無く、真実とは言えそうもありません。

「姓(かばね)」が不明なのに、調べる事は難しいでしょう。

なにより、検索にかからないという事は、無いと一緒だと思います。

上記にあるのは、質問なので、答えがありますが、その中で、
「脱解」の話について、説明しています。

それが、下記の内容になります。

加えて、『姓氏録』には、新良貴(右京皇別。カバネの「公」が脱漏か)という姓氏が
あげられ、「彦波瀲武草葺不合尊の男の稲飯命の後」で、
稲飯命が新羅国王の祖となるとという記事もあって、
これも「朴氏一派」の祖くらいに考えれば、一概に否定できない事情がある。

といって、年代的に朴赫居世が飯氷命の後裔になるはずがなく、
どこかに混乱があると考えたほうが自然である。

上記の様に書いていますが、なぜ、「新良国」=「新羅国」になるのか疑問です。

確かに同じ読みですが、きちんと資料を調べた上で、その様に考えるのならば、
検証に値しますが、この書き方では、
単に「新良国」=「新羅国」と思ったとしか考えられません。

そもそも、その「姓(かばね)」には「脱解」の話は登場しません。

ちなみに、その「姓(かばね)」には、
「是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合」という記事があります。

たぶん、これが間違った理由だと思います。

解読すると、「是(これ)新良国に於いて出る。即ち、国主と爲す。
新羅国王者(は:短語)組合に於いて稲飯命出る。」となります。

ただ、前半の「是出於新良国。即為国主。」と、
後半の「稲飯命出於新羅国王者組合」は、
本来は別の話を一つにしたように感じています。

そして、後半の話は、「爲」となっていないので、
「新羅国王者(は:短語)組合に於いて稲飯命出る。」と解釈すると、
「新羅国王」は別にいて、「稲飯命」は「国王」にはなっていないと解釈出来ます。

そうなると、先程も書いたように、これらの話は、本来は一つの話ではなく、
単に「稲飯命」という共通項があるから、どこからか引っ張り出したと考えています。

また、「新羅国王」=「南朝鮮」と考えている人もいますが、
本当にそうなるのでしょうか?

「時代」に関しては、何も書かれていません。

例えば、「垂仁天皇の時代」などの「時代」を知る情報があれば良いですが、
こちらには、その様な情報はありません。

もし、本当に「新羅国王」=「南朝鮮」ならば、
西暦4世紀中頃に「新羅」が成立している様なので、その事を証明する必要があります。

参照45:新羅王家朴氏の系図

若御毛沼命

この人が四人兄弟の最後になります。

そして、「亦名豐御毛沼命」と「亦名神倭伊波禮毘古命」があります。

これは、当然、「亦の名」ではなく、継承者だと思います。

三男の「御毛沼命」からして「若い」から「若御毛沼命」だと解釈すると、
三男と四男の母親は同じでは無いか?と考えています。

また、「豐御毛沼命」も同じ一族の可能性がありそうです。

それから、「亦名豐御毛沼命」と「亦名神倭伊波禮毘古命」を世代として考えると、
「若御毛沼命」の孫が「神倭伊波禮毘古命」という解釈も出来ますが
情報がありません。

仮に「豐御毛沼命」が「若御毛沼命」の甥だとすれば、
「神倭伊波禮毘古命」の世代は、子の世代になるでしょう。

そして、長男と二男が先妻の「其姨(おば)玉依毘賣命」から生まれて、
三男と四男が後妻の女性という解釈も可能だと考えています。

それから、一番気になるのが、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」と
「其姨(おば)玉依毘賣命」が「若御毛沼命」の親だとすると、
「神倭伊波禮毘古命」の親は誰なのでしょうか?

日子穗穗手見命

「日子穗穗手見命」は第六章で一度しか登場しません。

同じ名としては「天津日高日子穗穗手見命」が一番近いですが、
なぜ、ここで登場したのでしょうか?

「故日子穗穗手見命者 坐高千穗宮 伍佰捌拾歲 御陵者 卽在其高千穗山之西也」
の解読は、「故、日子穗穗手見命者(は:短語)、高千穗宮に坐し、伍佰捌拾歲(580歳)、
御陵者(は:短語)、卽(すなわち)其の高千穗山之西に在る也」となります。

ここで登場した理由ですが、もしかすると、「日子穗穗手見命」一族の管理地域を、
「若御毛沼命」もしくは「神倭伊波禮毘古命」に移譲するので、
わざわざ、ここに登場させたのでは無いか?と思っています。

そうでなければ、ここで登場しないでしょう。

伍佰捌拾歲

疑問もあって、「伍佰捌拾歲」=「580歳」ですが、なぜ、「八」を使わなかったのか?
という事もあります。

「八」は、今までにも何回も登場していますし、使わない意味は無いと思います。

そこで、調べてみると、どうやら、「大字(数字)」が関係しているようです。

「大字(数字)」の歴史ですが、参照46のサイトに色々と書かれています。

1・唐以前、庶民の間で大字が使われていた。
でも、誰かが大字を発明したのは記録されていない。

2・唐・武则天(624年-705年)は庶民の間で使われた大字を踏襲して普及した。

3・明・朱元璋 (1328年-1398年)。

ある官吏が年貢・地租の数字を改竄して横領したのはばれた。

朱元璋はそんなことを聞いて、烈火のごとく怒った。

この後財務の分野で、数字を大字で書かなければならないと命令した。


原文:

相传,明初郭桓通过篡改数字侵吞钱粮累计高达2400万石
(接近当时全国秋粮实征总数)。

朱元璋对此大为震怒,下令将郭桓等众多同案犯人斩首示众,
同时制定了惩治经济犯罪的严格法令,
并在财务管理上进行技术防范——把汉字中的数字改为难以涂改的大写
(即:“一二三四五六七八九十百千万”改为“壹贰叁肆伍陆柒捌玖拾佰仟萬”等)。

据明末清初考据家顾炎武考证,武则天不但把国号“唐”改为“周”,
也制造出很多汉字,当时所立的石碑上面就多有大写数字,并且诗文中也常能见到,
如宋版《白氏长庆集》载:“况其军一月之费,计实钱贰拾漆(柒)捌万贯。
”顾炎武在《金石文字记•岱岳观造像记》
中明确表露了自己的推断:“凡数字作壹、贰、叁、肆、伍、陆、柒、捌、玖等,
皆武后所改及自制字。”由此可见,
武则天自制的汉语大写数字要比朱元璋早近700年。

然而,上世纪六七十年代,
新疆吐鲁番出土带有零星大写数字的文物记录却都在武则天之前。

如《高昌延昌二十七年(公元587年)六月兵部条列买马用钱头数奏行文书》
有“都合买马壹匹,用银钱肆拾伍文”字样;
《北凉玄始十一年(公元422年)马受条呈为出酒事》中有“合用酒柒斛”字样。

这都说明约在东晋末年时期,人们已开始在券契中使用大写数字。

可见,大写数字是劳动人民在长期的实践中发明出来的,陆续应用于日常生活之中,
后来武则天承袭了民间的写法,大量使用大写数字,
使之广泛普及。朱元璋出于对经济领域的整饬,
下令在全国范围内大规模强制性实施完整的大写数字,
从而完善并规范了大写数字的应用。

如今,银行票证、流动支票、实用发票、合同协议、
账目单据等各类经济文本必须标明大写数字,已经成为“约定俗成”的规则,
并且随着科技的发展,金融机构又开发应用了电子支付密码、指纹智能验证、
特定身份识别等更为复杂的防伪技术,
从而进一步增强了国家财产和私人资金的保密性与安全性。


解読(翻訳):

伝説によると、明代初期、郭歓は数字を改ざんして2400万石もの穀物を横領した
(これは当時の全国の秋の穀物収穫量にほぼ匹敵する)。

朱元璋は激怒し、郭歓をはじめとする多くの共犯者を公開処刑するよう命じた。

同時に、経済犯罪を処罰するための厳格な法律を制定し、
財政管理においても技術的な対策を講じた。

例えば、「一二三四五六七八九十百萬」という漢字を、
消しにくい大文字に書き換えた(例えば、「壹贰叁肆伍六七八九拾佰仟萬」など)。

明代末期から清代初頭にかけての文献研究者、顧延武の研究によると、
武則天は国号を「唐」から「周」に改めただけでなく、多くの漢字を創製した。

当時建立された石碑には大文字の数字が多く記されており、
詩や随筆にもしばしば見られる。

例えば、宋本『白石長慶集』には
「しかも一ヶ月の軍事費は二千万束と推定される」と記されている。

顧延武は『金石銘記・太悦寺仏像記』の中で、
「一、二、三、四、五、六、七、八、九などの数字はすべて武后によって改められたか、
あるいは自ら創製された」と明確に推論している。

これは、武則天が作った大文字の中国語数字が、
朱元璋が作ったものより約 700 年も前のものであることを示しています。

しかし、1960年代から70年代にかけて、
新疆ウイグル自治区トルファンで出土した文物には、
散発的に首都番号が記されていましたが、それらはすべて武則天以前の記録でした。

例えば、「延昌27年(587年)6月兵部馬買金枚数記」には
「馬一頭購入 銀貨45枚」と記されており、
「北梁宣旨11年(422年)酒発給報告馬票」には「酒合計7斤」と記されています。

これは、東晋末期頃から、人々が証票に首都番号を使い始めたことを示しています。

資本数(キャピタルナンバー)は労働者階級によって長年の実践の中で発明され、
徐々に日常生活に応用されていったことが分かります。

後に武則天は民間の表記法を継承し、多くの資本数を用いて広く普及させました。

朱元璋は経済分野を是正するため、
全国規模で完全な資本数の使用を強制的に実施するよう命じ、
資本数の使用法の改善と標準化を図りました。

現在では、銀行券、モバイル小切手、実務請求書、契約書、会計書類など、
あらゆる経済文書に大文字を表記することが「慣例」となっています。

さらに、科学技術の発展に伴い、金融機関は電子決済パスワード、指紋スマート認証、
特定身分認証など、より複雑な偽造防止技術を開発・応用し、
国有財産と個人資金の機密性と安全性をさらに強化しています。

上記の内容ですが、「唐以前、庶民の間で大字が使われていた。
でも、誰かが大字を発明したのは記録されていない。」というのは本当でしょうか?

最低でも、紀元前700年頃の列島史の一部である「古事記」に使われている事は、
他の場所でも使われていた事でしょう。

そうなると、紀元前700年頃でも列島で使っているのだから、
当然、古代中国でも使われていたと思います。

この様な「大字(数字)」を、検索すると、「AI による概要」には、
「8世紀初頭に編纂された大宝律令では、
すでに公式文書に大字を使用することが定められていました」とあります。

ですが、それでは、「古事記」は公式文書では無いのか?という疑問が残ります。

色々と検索しましたが、歴史と思われる事を調べる事は出来ませんでした。

しかし、今回の様に、「伍佰捌拾歲」も「大字(数字)」と考えれば、
場合によっては、紀元前1000年以上前から使われていたのかも知れません。

「唐以前」となっているのは、資料が消失もしくは焼失したのだと思います。

参照46:大字(漢数字)の起源・由来について教えてください。

御陵

他の章で書く「御陵」と同じ「墓に埋葬する」という記事は、
第一章「葬出雲國與伯伎國堺比婆之山」の一つですが、
今回の様に「其の高千穗山之西」と大雑把ではなく、土地名が書かれています。

そもそも、「高千穗山之西」は範囲が広いので、どこなのか不明です。

しかも、検索しても「高千穗山」はありません。

なぜ、この様な書き方をしたのでしょうか?

もしかして、ここには葬っていないとか?なんでしょうか。

疑問しかありません。

580歳

「伍佰捌拾歲」とあり、「580歳」と読めますが、
当然、人間は「580年」も生きられません。

なので、これは、世代数を「平均年齢30歳」で割って考えます。

計算すると、「19.333333333」となるので、「約20代」となりそうです。

では、どこから20代なのかですが、今回の「日子穗穗手見命」を最後と判断します。

日子穗穗手見命

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

天津日高日子穗穗手見命

天津日高日子番能邇邇藝能命

天津日高日子番能邇邇藝命

正勝吾勝勝速日天忍穗耳命

天照大御神

〜→第三、四章の範囲

大國主神

天之冬衣神

淤美豆奴神

深淵之水夜禮花神

布波能母遲久奴須奴神

兄八嶋士奴美神

速須佐之男命

伊邪那伎命

於母陀流神・妹阿夜上訶志古泥神

國之常立神

宇摩志阿斯訶備比古遲神

天之御中主神

上記に分かりやすい様に、世代と思われる人名を書きました。

上記では19名ですが、「第三、四章の範囲」によっては、
「大國主神」以前は必要なくなるでしょう。

其姨(其のおば)

「五瀬命」、「稻氷命」、「御毛沼命」、「若御毛沼命」の母親として、
「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 娶其姨・玉依毘賣命」とあります。

「姨(おば)」は、参照47のサイトの「説文解字」を見ると、
「妻之女弟同出爲姨」とあり、「説文解字」の時点で
「妻の弟の女」を指していたと思われます。

しかし、紀元前660年頃において、同じ考えだったのかは不明です。

意味としては、Wikiに「母の姉妹。妻の同母姉妹。」、
他の辞書サイトでは「めかけ。父のめかけ」も見かけます。

今回の意味としては、「母の姉妹」が近いかなと思っています。

仮に「妻の姉妹」となると、複数人いたと思いますので、
どの人の「姨(おば)」なのか分からなくなりそうです。

次に、多くの女性がいた中で、なぜ、「姨(おば)」を選んだのでしょう?

非常に疑問です。

これは、もしかすると、「姨(おば)」と「甥?」いう関係ではあったが、
「姨(おば)」が生まれたのが遅かったので、
若い「姨(おば)」を選んだという解釈も出来そうです。

参照47:姨: zi.tools

まとめ

これらの様に考察してきましたが、疑問としては、
「天津日高之御子と虛空津日高」、「神倭伊波禮毘古命」の両親、
「日子穗穗手見命」の存在など、色々と考える事が多かったですが、
結局、あまり、深堀出来ませんでした。

情報が残っているのが少なく、残念です。

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