目次
次に風の神名志那都比古神生まれる(此の神の名、音を以ってす。)
次に木の神名久久能智神生まれる(此の神の名、音を以ってす。)
次に山の神名大山津見神生まれる
次に野の神名鹿屋野比賣神生まれて、亦の名、野椎神と謂う
志那都比古神自(より)鹿屋野比賣神に至る并(あわ)せて四神
此の大山津見神と野椎神の二神
山因り野を分けて持つ神名而(に)天之狹土神生まれる(土の訓は豆知と云う)
次に國之狹土神、次に天之狹霧神、次に國之狹霧神、次に天之闇戸神
次に國之闇戸神、次に大戸惑子神(惑の訓は麻刀比と云う)
次に大戸惑女神
天之狹土神自(より)大戸惑女神に至る并(あわ)せて八神也
次に神名鳥之石楠船神が生まれる、亦の名、天鳥船と謂う
次に大宜都比賣神が生まれる(此の神の名、音を以ってす。)
次に火之夜藝速男神が生まれる、(夜藝の二字は音を以ってす。)
亦の名、火之炫毘古神と謂う、
亦の名、火之迦具土神と謂う(迦具の二字は音を以ってす。)
因って此の生まれる子
美蕃登(此三字は音を以ってす。みばんと?)を炙って見て病而(に)臥せると在り
※蕃は万葉仮名で「ほ」
多具理邇(此四字は音を以ってす。たぐりに)の神名金山毘古神生まれる
(金の訓は迦那と云う。此れ下も效(なら)う。)
次に金山毘賣神
次に屎に於いて成る神名波邇夜須毘古神(此の神の名、音を以ってす。)
次に波邇夜須毘賣神(此の神の名、音を以ってす。)
次に尿に於いて成る神名彌都波能賣神
次に和久産巣日神此大山津見神野椎神二神 因山野持別
此の神の子豐宇氣毘賣神(宇自(より)以下四字は音を以ってす。)と謂う
故、伊邪那美神者(は:短語)火の神の生まれに因り、遂に坐するを避ける也
天鳥船自(より)豐宇氣毘賣神に至る并(あわ)せて八神
伊邪那岐・伊邪那美二神と共に、凡ての生まれた所は
嶋壹拾肆(114)嶋、又神參拾伍(35)神
(是、伊邪那美神が未だ神を避ける以前に生まれた所、
唯(ただ)意能碁呂嶋者(は:短語)生まれる所では非ず、
亦、姪子と與(ともに)淡嶋は不入(はいら)ずの例)
狹土と狹霧
原文:
此大山津見神野椎神二神 因山野持別
解読:
此の大山津見神と野椎神の二神、山因り野を分けて持つ
「野椎神」とは誰でしょうか?
「鹿屋野比賣神」の所で、「野神名鹿屋野比賣神 亦名謂野椎神」と
「野椎神」を亦の名にしていますが、本名ではありません。
「大山津見神野椎神二神」と亦の名を使用するのではなく、
「大山津見神鹿屋野比賣神二神」と本名を使うべきです。
では、なぜ、その様になっていないか?と考えると、
代替わりをした可能性が高いように思います。
前回、「鹿屋野比賣神が父?親の野椎神を継承した」と解釈しましたが、
この場面の「野椎神」が「鹿屋野比賣神」なのか?と考えると、
そうとも言えないと考えています。
例えば、「父?親」の「兄弟姉妹」が「野椎神」を継承したり、
「鹿屋野比賣神」の兄弟姉妹の可能性もあります。
つまり、3パターンの可能性があり、
判断する情報が現時点では無いので、見つかった時に再考します。
「山」から「野」を分けて命名された最初の組が、
「天之狹土神」と「國之狹土神」になります。
「天之狹土神【訓土云豆知下效此】」と
「狹土」の「土」に注記が付いています。
近場だと「石土毘古神」がありますが、「土」の箇所には記述がありません。
「石土毘古神」の「土」は「つち」と読まないという事なのか、
天之狹土神の「土」は「づ(ず)ち」と濁るから異なるという事なのか不明です。
御厨神明社、安積八幡神社
御厨神明社
能義神社(合祀)
西外城田神社、淺間神社(合祀、八柱神社祭神)
二荒山神社 境内 十二社
石武雄神社(合祀、字柄鋤鎮座・村社大国主社祭神)、野見神社 境内 八王子社
蜂前神社 境内 右脇宮、色來神社、海津天神社 境内 国狹槌神社
川添神社、諸岡比古神社、熊野速玉大社(第十殿)、生馬神社(合祀)
駒形神社
荒橿神社、穂見諏訪十五所神社、磐坂神社、忌部神社、稲村神社、岡太神社、
宇奈岐日女神社
熊野那智大社(第十殿)、物部神社 境内 神代七代社
上記の様に、調べた限りでは、「天之狹土神」は古事記の表記、
「國之狹土神」は古事記の表記が無く、少しずつ異なります。
「天之狹土神」は、祀られている神社が少ないので、
仕事の領域以外に出歩く事が少なかったのかも知れません。
逆に「國之狹土神」は、活発に活動して、一族を派遣などしていたので、
「諱忌避」等により、表記を変化させていたのだと考えられます。
「國」と「国」についてですが、以前にも書いているかも知れませんが、
「國」は「武力による國」、「国」は「玉(ぎょく)を身に着けた王の国」と言えます。
検索すると、「国」は「國」の略字とするサイトが多く、
どの様にしたら、「或」→「玉」に省略されるのか、疑問です。
「くずし字」も確認しましたが、「点」が「上」にあり、
「下」にある「玉」と解釈することは出来ません。
これらにより、元々別な意味であり、成り立ちも別の漢字が、
「武力による維持」か「玉による維持」かの違いしか無いので、
後世の人が、その事情を考慮せずに、同じ意味なんだからという事で、
現在の様な認識になったのではないかと考えています。
「鹿屋野比賣神」の「「椎」と「槌」」でも考察しました。
前回は「野椎」と「野槌」の関係性で、成り立ちや意味が似ているので、
子孫の人が変化させても問題ないと思いました。
しかし、今回は「土」と「槌」なので、無関係とまでは言いませんが、
意味が完全に異なってしまいます。
「狭土」は「狭い土地」と解釈できますが、
「狭槌」は「幅が狭い槌」となり、話が通じなくなります。
でも、「土」→「槌」に表記を変えた子孫の環境が、
初代「國之狹土神」の時と大きく変化した結果と受け取る事が出来ます。
残念ながら、その理由を知る情報は見つかりませんでした。
「山」から「野」を分けて命名された二番目の組が、
「天之狹霧神」と「國之狹霧神」になります。
天之闇戸神・國之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神の四名は、
情報が無いので、省略します。
こちらは、「天之狹土神」と「國之狹土神」の時とは逆に、
「天之狹霧神」が多く、「國之狹霧神」が少ないという印象です。
神社の表記と「先代旧事本紀」では、古事記の表記が使われていました。
しかし、「新撰姓氏録」には違う表記があるようです。
608 摂津国 神別 天孫 羽束 天佐鬼利命三世孫斯鬼乃命之後也
1182 和泉国 未定雑姓 山田造 造 新羅国天佐疑利命之後也
上記の二点が、「天之狹霧神」と関係がありそうな情報です。
「天佐鬼利命」も「天佐疑利命」も「あまのさぎり」と読む事が可能です。
しかし、「天佐鬼利命」は「天孫」とあり、
「天佐疑利命」は「新羅国」からの「渡来者」と大きく異なります。
時代を知る情報が無いので、判断が難しいですが、
「南朝鮮(本家)」と「天孫(分家)」と系統が違うと考える事が出来ます。