目次
左の御美豆良(みづら)、八尺(やさか)に勾(ま)がる璁(いし)之、
五百津(いおつ)之美須麻流珠の而(ひげ)を纏(まと)う所で、
天照大御神、速須佐之男命に乞うを度す。
奴那登母母由良邇(ぬなとももゆらに)振り、天之眞名井而(に)滌(あら)う。
佐賀美邇迦美(さがみにかみ)而(に)、吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る
所の神の御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。
亦、右の御美豆羅(みづら)の珠而(に)、纏(まと)う所で乞うを度す。
佐賀美邇迦美(さがみにかみ)而(に)、吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る
所の神の御名、天之菩卑能命。(菩自(より)下三字、音を以ってす。)
亦、御𦆅(かずら?)の珠而(に)、纏(まと)う所で乞うを度す。
佐賀美邇迦美(さがみにかみ)而(に)、吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る
所の神の御名、天津日子根命。
又、左の御手の珠而(に)、纏(まと)う所で乞うを度す。
佐賀美邇迦美(さがみにかみ)而(に)、吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る
所の神の御名、活津日子根命。
亦、右の御手の珠而(に)、纏(まと)う所で乞うを度す。
佐賀美邇迦美(さがみにかみ)而(に)、吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る
所の神の御名、熊野久須毘命。(久自(より)下三字、音を以ってす。)
天津日子根命
「天」:あま
「津」:呉音・漢音:シン、訓読み:つ、表外:ち、と、ず
「日」:呉音:ニチ、ニッ、漢音:ジツ、訓読み:ひ、か、
表外:たち、す、こう、くさ、いる、あき、び、へ
「子」:呉音・漢音:シ、唐音:ス、訓読み:こ、ね
「根」:呉音・漢音:コン、宋音:ゲン(表外)、訓読み:ね
上記により、呉音「あましんにちしこん」、
漢音「あましんじつしこん」となりそうです。
この読みに関して、多くのサイトでは「あまつひこね」となっていますが、
「正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命」でも書いた通り、
「訓読み」のみというのは、明らかに不自然です。
なぜ、そうなったのか?というのは、
読み方を後世に正しく伝えてこなかったからだと思います。
災害などの影響によって、古文献が消失したのもあるでしょう。
結局、正しい情報が無い為に、後世の人達は、
自分達が知っている「読み」で読んでしまったのでしょう。
「津」は「港」に置き換えられますが、「日子根」は何を指すのでしょうか?
まず、「天子思想」から誕生したのが、「天(阿麻)家」だと考えています。
この思想は、Wikiには下記のようにあります。
起源:
王は天(天帝)の子であり天命により天下を治める
とする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって
「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。
王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という
「天人相関説」が唱えられ、
天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、
Wiki
天子の称は用いられなくなったが、漢代に至り儒教精神の復活をみると、
再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。
上記により、「天子」=「天帝の子」と置き換わります。
この思想とは別に、エジプトの「太陽神」の様な位置づけにいるのが、
「日帝の子」=「日子」ではないか?と推測しています。
古事記の中で、「日子」の初見は「速秋津日子神」で、
「日子根」で言えば、「天津日子根命」が初見です。
これらにより、九州に滞在する人や、他の國に移動する人など、
「日子」を冠する人達は多くいたが、土着する人はいなかった。
しかし、時代が変わり、
「天津日子根命」と「活津日子根命」が土着したので、
「根」が追加されていると解釈しました。
「阿遲鉏高日子根神」も出雲土着の人物なので「根」があります。
また、なぜ、土着することになったのかについては、
「弥生の小氷期(寒冷化)」が関係していると考えています。
それまで、温暖な気候で、海の水量も豊富だったが、
安全な陸地が少なかったので、水害などにならない土地で生活し、
用事がある時に移動する様にしていた。
ところが、大陸から流れて来た「寒冷化」の波は、
九州南部まで飲み込み、
「建速須佐之男命」の治める地域まで侵食することになります。
悪い事だけでなく、陸地が増えるというメリットも生み出します。
「天(あま)家」としては、生活水準を上げるためにも、
大八嶋國の安定化のためにも、多くの人員が必要だった。
この話を聞き、「日子」族の中で、土着した人物には「根」を追加のかも知れません。
参照13: 天子