最終更新日 2022/08/23

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 第二章 天照大御神と速須佐之男命

故爾各中置天安河而 宇氣布時 天照大御神 先乞度 建速須佐之男命所佩十拳劍 打折三段而
奴那登母母由良邇【此八字以音 下效此】振滌天之眞名井而 佐賀美邇迦美而
【自佐下六字以音 下效此】於吹棄氣吹之狹霧所成神御名 多紀理毘賣命【此神名以音】
亦御名謂奧津嶋比賣命 次市寸嶋(声注:上)比賣命 亦御名謂狹依毘賣命 次多岐都比賣命
【三柱、此神名以音】
解読

故爾(ゆえに)各(おのおの)天安河の中而(に)置いて、宇氣布(うけふ)の時、
天照大御神が先に度するを乞う。

建速須佐之男命、十拳劒を佩(お)びる所で三段而(に)折り、
奴那登母母由良邇(此の八字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。ぬなとももゆらに)
振って打ち、天之眞名井而(に)滌(あら)う。

佐賀美邇迦美(佐自(より)下六字、音を以ってす。
此れ下も效(なら)う。さがみにかみ)而(に)、
吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る所の神の御名、多紀理毘賣命。

亦、御名を奧津嶋比賣命と謂う。

次に市寸嶋比賣命。亦、御名を狹依毘賣命と謂う。

次に多岐都比賣命。(此の神の名、音を以ってす。)

解説

05

多紀理毘賣命


読み

「此神名以音」とあるので、「音読み」指定になります。

「多」:呉音・漢音:タ

「紀」:呉音:コ(表外)、漢音:キ

「理」:呉音・漢音:リ

「毘」:呉音:ビ、漢音:ヒ

「賣」:呉音:メ、漢音:バイ、慣用音:マイ

上記により、呉音「たこりびめ」、漢音「たきりひばい」となりそうです。

意味

「多」:

「「夕(=肉)」を重ねて数多いこと」が字源なのは、
Wikiなどで記載があり、ある程度納得していましたが、
今回、改めて検索して探すと、別の見解を見つけました。

原文

读音:duō

“多” 字源自古祭祀形式。“多” 是数量大,与 “少” 相对,又重叠的“重” 。

《说文》: “多, 重也。

” 甲骨文写作“” , 像切好的两块肉形,用一块又一块来会意增多。

金文、“说文古文” 、石鼓文及小篆与甲骨文字形近似,都是叠加(肉块)的形状。

即是已成今文的隶书(汉《尹宙碑》 )也仅在笔画上成方折,基本结构未变。

图为 “象形字书画” 造形


解読:

発音:デュオ

「多くの」という言葉は、古代の儀式に由来しています。

「多」は「少」に対して「多」であり、「重」と重なります。

雙葉文の「杜」は「重い」という意味です。

"神託の骨文字で2つの肉を切り分けたものと書かれており、
増えるという意味で次々と使われている。

ジンウェン、シュオウエン・グウェン、シグウェン、シャオズワンは、
重ね合わせるという点でオラクルボーン文字と似ている。

現代文字となったもの(漢代の殷図碑)でも、
画数が四角くなったり折れたりしているだけで、基本的な構造は変わっていない。

写真は「絵文字書画」形式

字源查询

翻訳がおかしい箇所もありますが、
「甲骨文字」と「金文」以降では、違う字源と捉える事が出来るように思います。

・甲骨文字:「2つの肉を切り分けたもの」→「増える」

・金文以降:「重ね合わせる」

もし、「甲骨文字」と「金文」の字源が異なるとなると、
別字の可能性を視野に入れる必要があるように思えます。

また、参照24のサイトには、「甲骨文字」の形が掲載されていますが、
現在の「多」が左向きであるのに対し、「右向き」の形があり、
同一の形とするのには、疑問が出て来ます。

参照24:字源查询-多

「紀」:

「紀」の漢字の甲骨文字や金文を探しましたが、
「小篆」以降の字体しか見つかっていないようです。

次に、「紀」を「糸」+「己」に分けて考えて行きます。

「糸」は、甲骨文字から判明していて、Wikiにある形の変遷を見ても、
不思議な点はありません。

また、参照25のサイトにある「紀」の「篆体字」を見ても、
納得できない形は無く、問題は無さそうです。

ところが「己」になると、「己」・「弓」・「その他」の3系統に分かれます。

参照26のサイトにある形を見ると、
「甲骨文字(殷)」の時点で、既に「己」の形であり、
なぜ、わざわざ、「弓」の様に下へと付け足したのか不思議です。

また、「甲骨文字(殷)」・「戦国時代(簡帛文字)」、
「金文(西周)」・「小篆(説文・漢)」・「六書通(明)」で、
お互いに継承サれていると考える事が可能な程似ているので、
もしかすると、片方は「己」では無い可能性もありそうです。

参照25を見ると、「甲骨文字(殷)」系、「金文(西周)」系、
「その他」系の3系統がありますが、しっかりと「己」とあるのは3個だけで、
他の形は「金文(西周)」系に属しているように思われます。

形から判断すると、「己」の終着点が下に伸びているのは、
「ヘビ」などのニョロニョロ動く生物を意識したのでは?と考えています。

ただ、「へび」は「巳」の漢字を使いますが、仮に「へび」だとしても、
「赤」と「朱」の様になんらかの区分けをしていたと思われます。

参照25:字源查询-紀

参照26:己 - ウィクショナリー日本語版

まとめ

この様に、「紀」を分解して考察しましたが、「己」=「紐」の可能性もありそうです。

実際に、参照27と参照28のサイトでも、「己」=「紐」で考察されています。

しかし、「甲骨文字(殷)」系、「金文(西周)」系で異なっている事を考えると、
最初から「己」=「紐」なのではなく、
最終的に「金文(西周)」系が生き残ったのかも知れません。

また、参照28のサイトには、下記のようにあり、
正確な字源は不明ですが、現在の意味として「多紀理」は、
「多くの法律などを作った」と解釈することが可能です。

もし、そうであるなら、知識人であり、
九州にて起こった「弥生の小氷期」という「寒冷化」に対応するために、
別の国もしくは地域から、助っ人として来たのかも知れません。

つなは人民をコントロールする意があり、転じて、
統治するための、のり・きまりの意となった。

また、紐の初めの意から、
紀元という語で年代の意となり、
さらにその年代の出来事をしるす意ともなる。

漢字の音符

参照27:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「紀」という漢字

参照28:己キ<ひもの象形>

「理」:

この漢字も、「紀」と同じく甲骨文字や金文が判明していないようです。

「紀」と「理」は、「篆書」の時代以降は判明しているようですが、
調べると「大篆」と「小篆」に分かれ、
参照29のサイトには下記の様に書いています。

大篆と小篆の二種があり、
大篆は周の宣王の時、史籀(しちゅう)が作ったと伝えられ、
小篆は秦代に丞相李斯が大篆を整理したものという。

精選版 日本国語大辞典

「小篆」が「秦代に丞相李斯が大篆を整理」されたのが重要で、
過去から使われている字体であれば、少々の変化はあっても、
大きな変化はなく、字源としても大きな影響は無いと考えられます。

ところが、別の時代に整理したとなれば、
当然、支配者側が知っている字体が優先され、
本来の意味とは異なる見解に変更されている可能性もあります。

だからこそ、「甲骨文字」と「金文」の字体が必要なのですが、
判明していないようで残念です。

次に、「王偏」と「里」に分けて考察します。

参照29:篆書とは - コトバンク

調べると、「理」の偏は「玉」だと書いています。

なぜ、「玉」の様に点を付けなかったのでしょうか?

それに、甲骨文字や金文が判明していないのに関わらず、
「王」ではなく、「玉」とする考え方に違和感があります。

多分に、「説文解字」の影響が大きいと思いますが、
この書は、「後漢(西暦25〜220)」に作られた物なので、
そもそも、甲骨文字の時代(紀元前1400年~前1150年)の情報が、
改変されずに継承されているのか、疑問になります。

なにより、「邇」にしても字体が「篆書」までの間に変化しているので、
「後漢」に存在した形から、字源を考えるのは、
本来の字源を知らないからでは無いか?と思います。

王と玉

検索して、「王」と「玉」の甲骨文字や金文を比較検証すると、
「玉」は甲骨文字の時期から「王」に近い形になっていますが、
「王」は、「簡帛文字」の時期に「王」の形になっています。

また、「王」の「春秋時代」と「戦国時代」の金文では、
「上二本線」は間隔が短く、最後の線まで長く間隔を取り、
「玉」との差別化が図られて、
そのまま、継承されていれば、混同される事は無かったと思われます。

ところが、「簡帛文字」の時期に、「王」と「玉」の形が変化します。

それまで、「王」の形を継承していた「玉」は、
二段目に「右向きの点」と「、」が加わり、
逆に「王」は間隔を変える事で、「王」を表していたのが、
同じ間隔の現存する「王」へと変更されてしまいます。

これにより、「戦国時代」の「簡帛文字」の時期に、
大きな変化が起こり、形を変更せざるを得ない状況があったのだと推測します。

ただ、その後、「玉」は「簡牘文字」の時期に「王」の形に復しますが、
「王」の形は変わらずに継承されていきます。

ここで一番の問題が解決できていない事が分かります。

「玉」の「、」はいつ付けられたのかという事です。

「明代」には、「玉」は「王」を使い、「王」は別の形を使用しています。

多分に、明治に入り、近代化を進める時に、
「王」に「、」を付加した可能性が高そうです。

この様に考察すると、「王」の形は本来は「玉」の物だったが、
後世の人によって、変化させられて、
「王」と「玉」が混同するようになった様に思います。

しかし、「漢代」の「古文」とある時代には、
「玉」には「王」の形を含めるが、「王」には含めていない事から、
「玉」=「王」は正解なのかも知れません。

参照30:王 - ウィクショナリー日本語版

参照31:玉 - ウィクショナリー日本語版

國と国

「國」は旧字、「国」が新字と現代ではされていますが、本当でしょうか?

調べると、「「國」のくずし字が「国」の様に見えた」と書くサイトもありますが、
この「見えた」だけで、本来の意味がある字体を変更させたのでしょうか?

仮にそうだとするならば、「或」にある上の「、」を、
「玉」の様に下の「、」に、なぜ、置き換えたのでしょう?

明治に入って、創作したのでしょうか?

疑問は深まるばかりですが、「國」=「国」の情報しかありません。

字源辞典で追求していきたいと思います。

「里」に関しては、調べた限り、
「金」以降「里」の形が固定しているようです。

「甲骨文字」は見つかりませんでした。

「田」と「土」に分けて、調べてみましたが、
特に問題となるような箇所はありませんでした。

まとめ

この様に、「理」という漢字を色々な角度から考察しました。

その結果、「王(玉)偏」+「里」で問題ないと思われます。

意味としては、参照32のサイトにある、
「ケ:「正(ただ)す」、「整える」(例:管理)」が合っているように思います。

参照32:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「理」という漢字

「多紀理」の意味

1文字ずつ考察して来ましたが、
「多紀理」として考えると、どの様な意味があるのでしょう?

「多」:増える、重ねる

「紀」:秩序、法律

「理」;正す、整える

上記の様に考えると、「多紀理」というのは、
「高天原」などにおいて、過去から継承された秩序などを、
内部の考えではなく、外部から見て整理し、
現在の状況(寒冷化)に対処出来るようにしたという解釈が出来ます。

人物名が「多紀理毘賣命」と「命」が付与している事からも、
この女性の知識や知恵による貢献度が高かったとも受け取れます。

もし、この人物の様な考え方をする者が存在していれば、
「天照大御神」や「速須佐之男命」が苦慮する事は無かったと思うので、
「多紀理毘賣命」の能力が高かったのだと思われます。

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