故爾(ゆえに)各(おのおの)天安河の中而(に)置いて、宇氣布(うけふ)の時、
天照大御神が先に度するを乞う。
建速須佐之男命、十拳劒を佩(お)びる所で三段而(に)折り、
奴那登母母由良邇(此の八字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。ぬなとももゆらに)
振って打ち、天之眞名井而(に)滌(あら)う。
佐賀美邇迦美(佐自(より)下六字、音を以ってす。
此れ下も效(なら)う。さがみにかみ)而(に)、
吹いて棄て、気を吹く狹霧(さぎり)で成る所の神の御名、多紀理毘賣命。
亦、御名を奧津嶋比賣命と謂う。
次に市寸嶋比賣命。亦、御名を狹依毘賣命と謂う。
次に多岐都比賣命。(此の神の名、音を以ってす。)
多岐都比賣命を祀る神社と神名
市比賣神社(京都市下京区)、八社神社(久万高原町黒藤川)、總社大神宮、
赤蔵神社、佐那神社、相生神社(多気町)
日向大神宮内宮、三崎八幡神社、蘭宇氣白神社、夜須神社、善知鳥神社
迩幣姫神社
両社明神社
阿良須神社(舞鶴市)、畠田神社(明和町)、松尾八王子神社
厳島神社(松山市枝松)
久麻久神社(合祀)、佐毘賣山神社
厳島神社(東照寺)
宗像神社(新居浜市)
佐伯神社(神西沖町、合祀)、多伎神社(今治市)
真名井神社(今治市)
大須伎神社、宇爾櫻神社
阿禰神社(合祀)
津田神社(井内林)
朝日八幡神社、松原八社神社、二宮赤城神社、大村神社(伊賀市、合祀)
市比賣神社
金山神社(長戸井町)、八幡神社(世羅町)
石清水八幡宮、植木神社
厳島神社(八幡浜市神城)
宇佐神宮本殿、萩森八王神社、惣河内神社、二名神社(伊方町)、和田八幡宮
多岐神社(多伎山)
宗像神社(京都市上京区)
四所神社(豊岡市)
丹生都比賣神社 境内 八王寺神社
厳島神社(南宇和郡愛南町)
國司神社(新見市)、師岡熊野神社 境内 水神社、郡瀬神社、敏太神社(松阪市)
須原大社、阿波神社(伊賀市)
都野神社
護國八幡宮(小矢部市)
薦神社、五社神社(直瀬)、三社神社(中組)
石部神社(加西市)、八雲神社(三木市)、三宮神社(神戸市中央区)、
御井神社(養父市)、八坂神社(別府市)、生石八幡神社、川添神社、西外城田神社、
伊佐和神社(合祀)、諏訪神社(新居、合祀)、石神社(大久保山)
須倍神社(合祀)、高向大社本殿
日吉大社 境内 巌滝社
八幡神社(八幡浜市)、八幡神社(喜多郡内子町)
三女神社(別府市内竈)、櫟原北代比古神社
伊佐爾波神社、田島神社
八坂神社(伊方町)
江島神社、宗形神社(赤磐市)
大亀八幡大神社、山口八幡社、大目神社、重蔵神社、鳥墓神社、西照神社、
北岡神社(熊本市)、宗像神社(外山)
来阪神社
厳島神社(八幡浜市)、静間神社
田寸神社
※信仰によって祀られている、神社の多くは割愛しています。
古事記:多岐都比賣命
日本書紀:湍津姫、湍津姫命
上記の様に、日本書紀では、地位である「命」の有無がありますが、
古事記も日本書紀も、表記は1つとなっています。
ここで疑問になるのは、「多岐」=「湍」と、なぜ、なったのかです。
「湍(はやせ)」を調べると、「急流」を意味しているようです。
前回の「
意味」に書きましたが、
「道路の整備」が主な仕事ではないだろうか?と推察しました。
「多岐」=「湍」の構図があるのであれば、
「道路の整備」が進んで、昔に比べると早く目的地に着く事が可能になった。
公式の場では「多岐都比賣命」などを使うが、
以外では、號(呼び名、通称)として「湍」を使っていたとも解釈できます。
この表記が基本形となっています。
「多岐都毘賣命」、「多岐都姫命」、「多岐都比女命」と、
「比賣」の表記のみを変化させています。
この表記は「岐」→「紀」に変化しています。
派生の表記には「多紀都姫命」があります。
「多紀」と言えば、「多紀理毘賣命」を思い浮かべますが、
なぜ、この様に変化したのかは謎です。
この表記は「岐」→「伎」に変化しています。
派生の表記として、
「多伎都毘売命」、「多伎都姫命」、「多伎都比女命」があります。
「たぎつ」の「つ」に「岐」、「紀」、「伎」の三種類があることが分かり、
「三柱、此神名以音」へと繋がります。
「
三柱」の時には分かりませんでしたが、
「岐」、「紀」、「伎」の三家が存在したのであれば、
「三柱」=「多紀理毘賣命」、「市寸嶋比賣命」、「多岐都比賣命」ではなく、
「三柱」=「多岐都比賣命」、「多紀都毘賣命」、「多伎都比賣命」を
指していたと言えるように思えます。
意味としては、
「岐」家が「設計」、「伎」家が施工、「紀」家が「記録」となると考えます。
この表記は、「都」→「津」に変化させています。
派生の表記として「多岐津比賣」、「多岐津毘賣命」、「多岐津姫命」、
「多岐津島姫命」、「多岐津媛命」があります。
この表記は、「紀」→「紀」に変えています。
派生の表記として「多紀津毘賣命」、「多紀津姫命」があります。
この表記は、「岐」→「伎」に変化しています。
上記の様に、「多岐津」表記も「岐」、「紀」、「伎」の三家が存在しています。
「多岐都」は「都」、「多岐津」は「津」を目的地に定めて、
「道路整備」を進めていったのだと考えられます。
問題として、「多岐都」と「多岐津」の集団は同時期に存在したのか、
それとも、「都」を先行し、「津」は後回しにしたのかです。
神社を調べた限り、表記が固まっていない印象があるので、
同時期に存在していても不思議ではないと思っています。
日本書紀の資料よりも数世代前と考えられます。
派生の表記として「湍津姫命」、「湍津媛命」、「湍津姫尊」があり、
類似する表記として、「湍津嶋姫命」、「湍滞津比女命」があります。
「湍津嶋姫命」は「嶋」、「湍滞津比女命」は「滞」が追加されていますが、
「湍滞」に関しては、「湍(急流)」が「滞る」と解釈出来ます。
もしかして、「滝」だったり、「古代ダム」を作っていたのでしょうか?
この表記は、「寸」=「き」としていると思われる事から、
西暦3世紀近くに存在した人物と考えられます。
ただ、この後の古事記の記事に、「次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮」とあり、
「多岐都比賣命」と近い時代と推測できます。
そうすると、「寸」=「き」の構図は、
この当時には既に存在していたとも解釈できます。
しかし、万葉仮名が、紀元前900年頃に存在しているというのは、
違うと思うので、他の音読みに「寸」=「き」が存在したのかも知れません。
この後の「 胸形」でも考察していますので、参照して下さい。
派生の表記として「田寸津比賣尊」、「田寸津姫命」があります。
他に、「田」を使う表記として「田岐都比売命」、「田岐津姫命」があり、
「多岐都」と「多岐津」の集団に1つ見つかっています。
「田寸津比賣命」のみなら、後世の人物で済みますが、
「田岐都比売命」と「田岐津姫命」の表記を見ると、違うように思います。
「多岐都」は「都」までに行く道、「多岐津」は「津」までに行く道、
「田岐都」は「都」付近の「田」までに行く道、
「田岐津」は「津」付近の「田」までに行く道と考えると、
「田岐都」と「田岐津」は「用水路」を作っていたとも解釈できます。
では、「田寸津」はどんな仕事をしていたのでしょうか?
「寸」を「測量」とすると、「津」付近の「田」へ「水」を流すための
「用水路」の設計をしていた可能性があり、
「田寸都」の表記も存在していたのかも知れません。