最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

最後 其妹伊邪那美命 身自追來焉 爾千引石 引塞其黄泉比良坂 其石置中 各對立而 度事戸之時
伊邪那美命言 愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭 爾伊邪那岐命詔 愛我那邇妹命汝爲然者 吾一日立千五百産屋 是以一日必千人死 一日必千五百人生也 故號其伊邪那美神命
謂黄泉津大神 亦云以其追斯伎斯【此三字以音】 而號道敷大神 亦所塞其黄泉坂之石者
號道反大神 亦謂塞坐黄泉戸大神 故其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲國之伊賦夜坂也
是以伊邪那伎大神詔 吾者到於 伊那志許米(声注:上)志許米岐【此九字以音】 穢國而在祁理
【此二字以音】故吾者爲御身之禊而 到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而 禊祓也
故於投棄御杖所成神名 衝立船戸神 次於投棄御帶所成神名 道之長乳齒神
次於投棄御嚢所成神名 時量師神 次於投棄御衣所成神名 和豆良比能宇斯能神【此神名以音】
次於投棄御褌所成神名 道俣神 次於投棄御冠所成神名 飽咋之宇斯能神【自宇以下三字以音】
次於投棄左御手之手纒所 成神名 奧疎神【訓奧云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此】
次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音下效此】 次奧津甲斐辨羅神
【自甲以下四字以音下效此】 次於投棄右御手之手纒所成神名 邊疎神 次邊津那藝佐毘古神
次邊津甲斐辨羅神 右件自船戸神以下 邊津甲斐辨羅神以前十二神者 因脱著身之物所生神也
解読

最後は其妹伊邪那美命自らの身で焉(これ)追って来て
爾(なんじ)千引石(ちびきいし)を引いて、其の黄泉比良坂を塞ぐ

其の石を置き、中で各(おのおの)對(なら)び立ち
而(なんじ)戸の事を度(はかる)之(この)時、伊邪那美命言う

此れ者(は:短語)我が愛しの那勢(なせ)命の如しの為

汝、国の人草は一日千頭絞め殺す

爾(なんじ)伊邪那岐命詔(みことのり)す

我は妹命の那邇(なに)を愛す

汝の為に然る者(は:短語)、吾、一日千五百の産屋を立てる。

是を以って一日千人必ず死に、一日千五百人必ず生まれる也

故、其の伊邪那美神、命を號して黄泉津大神と謂う

亦、其の斯伎斯(此の三字、音を以ってす。しきし)追うを以って、
而(なんじ)道敷大神を號すと云う

亦、其の黄泉坂を塞ぐ所の石者(は:短語)道反大神と號す

亦、黄泉戸大神坐りて塞ぐと謂う

故、其の所者(は:短語)黄泉比良坂と謂う

今、出雲國之伊賦夜坂と謂う也

是を以って伊邪那伎大神詔(みことのり)す

吾者(は:短語)、
伊那志許米(声注:上)志許米岐(此の九字、音を以ってす。いなしこまいしこまいき)に
到るに於いて國の穢れ祁理(此の二字、音を以ってす。ぎり)而(に)在り

故、吾者(は:短語)御身の禊(みそぎ)の為而(に)
竺紫日向之橘小門之阿波岐(此の三字、音を以ってす。あはき)原而(に)到りて、
坐り禊(みそぎ)を祓う也

故、御杖於(お)投棄した所から神名衝立船戸神成る

次に御帯於(お)投棄した所から神名道之長乳齒神成る

次に御嚢(ふくろ)於(お)投棄した所から神名時量師神成る

次に御衣於(お)投棄した所から
神名和豆良比能宇斯能神(此の神名は音を以ってす。)成る

次に御褌(ふんどし)於(お)投棄した所から神名道俣神成る

次に御冠於(お)投棄した所から神名
飽咋之宇斯能神(宇自(より)以下三字、音を以ってす。)成る

次に左の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から
神名奧疎神成る(奧の訓は淤伎と云う、此れ下も效(なら)う。
疎の訓は奢加留と云う、此れ下も效(なら)う。)

次に奧津那藝佐毘古神(那自(より)以下五字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

次に奧津甲斐辨羅神(甲自(より)以下四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

次に右の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から神名邊疎神成る

次に邊津那藝佐毘古神、次に邊津甲斐辨羅神

右の件、船戸神以下自(より)邊津甲斐辨羅神以前の
十二神者(は:短語)脱するに因り身の物著す所生まれる神也

解説

05

竺紫日向之橘小門之阿波岐原

「伊邪那伎大神」は、自分の國に「祁理」と呼ばれる神聖な場所が穢れたので、
「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」に移動して、穢れを禊しようとします。

では、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」とは、どこでしょうか?

「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而」と、
原文には「阿波岐」の三文字のみが「音読み」指定になっています。

竺紫と筑紫

色々なサイトを見ていると、
「竺紫」と「筑紫」を同一として扱っているのを見ますが、
本当にそうなのでしょうか?

検証します。

呉音・漢音:チク、トク、慣用音:ジク(ヂク)、訓読み:あつし

厚い竹

呉音・漢音:シ、訓読み:表内:むらさき、表外:ゆかり、さい

くちばしのような色

呉音・漢音:チク、訓読み:づき、つく

竹製の楽器

解釈

まず、読みですが、「竺紫」と「筑紫」の双方が「ちくし」だと思います。

次に、「竺」と「筑」では、由来が異なっていますので、
同一と考えるのは早いです。

「竺」は「厚い竹」で、竹そのものですが、
「筑」は竹を加工して作られた楽器となります。

あと、「紫」は、本来は「紫草」を指していた言葉のようです。

これにより、

竺紫

地域的に「厚い竹」が豊富で、
「紫」の原料である「紫草」も多く採取されていた土地と考える事が出来ます。

筑紫

「竺紫」と同じく「紫草」を採取する事の出来る地域では一致しますが、
「厚い竹」の「竺」と「竹の楽器」の「筑」では異なります。

疑問

また、「大八嶋國」において、「筑紫嶋」が存在し、なおかつ、
「筑紫國」も存在し記載があり、「竺紫」=「筑紫」となるのであれば、
わざわざ、「筑」→「竺」に変更する必要があるでしょうか?

他にも、「大八嶋國」の「筑紫嶋筑紫國」と記載があるが、
「竺紫日向」では「嶋」も「國」の記載がありません。

現代でも、例えば、「札幌から東京に行く」と書く場合、わざわざ、
「日本国の札幌から」とは記載しないので、同じ様な状況だったのでは?と思います。

これらにより、この該当地域は、「伊邪那伎大神」の管理する「國」の中にあり、
「大八嶋國」の「筑紫嶋筑紫國」とは別の地域であると言えると思っています。

参照13:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「竺」という漢字

参照14:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「紫」という漢字

参照15:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「筑」という漢字

参照16:

日向

以前「筑紫嶋」の「肥國建日向日豐久士比泥別」内の「日向」を考察しましたが、
「向」の本来の意味が「家の北側に付いている窓」なので、「日向」とは、
「北に付いているたかまどから日が差す」と言えるかも知れません。

地域名に使うという事は、
デメリットではなくメリットと当時の人達は捉えていたのでしょう。

竺紫日向

「竺紫日向之」とあるので、地域名なのだと思います。

そして、
「「厚い竹」が多くあり、「紫草」が採取出来て、北向きであまり日が入らない土地」
と考えると、紀元前1000年頃の地図が出来れば、場所の特定をする事が出来そうです。

橘小門

「橘」:

本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に
近い山地にまれに自生する

Wiki

「橘」を調べると上記の様にあり、紀元前1000年頃の九州にも同じ様に
自生していたと考えると、現在の「雲仙岳」周辺の可能性もあるように思えます。

もちろん、同様に条件にあう地域はあると思います。

では、この「橘」は自生なのか?

検索して調べても、垂仁天皇(俗称)の記事を引用して、
輸入では?とするサイトなど、詳細な事は分かっていないようです。

仮に、古代中国などから輸入したのであれば、当然、その土地では、
以前より栽培の技術などが確立し、書物の記事等で記載があるはずです。

参照17のサイトには下記の様に書かれています。

ミカン類の原産地は約3000万年前のインド、タイ、ミャンマー(ビルマ)
あたりとされています。

しかし最初に栽培を始めたのは、やはり中国のようで、
紀元前22世紀の文献にその記述が残っています。

カンキツ品種の概念もやはり中国が最初で、
なんと約4000年前の栽培史(橘誌)には、
カンキツ品種を柑、橘、橙に分け、柑18品種、橘14品種、橙5品種とし、
その特性までもが詳細に書かれているそうです。

古代中国の「紀元前22世紀の文献」にあるのならば、
最低でも、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」の存在した時代に、
古代中国には存在した事は確定と言えそうです。

ただ、自生種を移動したのか、それとも、古代中国から持ち込んだのかについては、
紀元前1000年頃の墓などから、橘の化石等を入手して、
比較検証しなければ分からないと思います。

また、適応気温について調べると、「橘」の栽培については書かれていませんでした。

しかし、Wikiに「ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種である。」とあり、
寒い地域では育たない事を考えると、「弥生の小氷期」以前なので、
以外に「出雲国」でも自生や栽培されていたのかも知れません。

「小門」:

ネットにある辞書では、
「小さい門。大門のわきなどにある小さな門。」で共通しています。

「大門」は、馬車や騎馬隊などの為にあったと考えているので、
「小門」は、人が1人通れる程だと思われます。

「橘小門」:

「橘」と「小門」の2つを合わせて考えると、「伊邪那伎大神」邸宅の「小門」の近くに
「橘」があり、「橘小門」と呼ばれていたと推測出来ます。

参照17:みかんの話

阿波岐原

原文では「阿波岐【此三字以音】原」とあり、「音読み」指定になっています。

「阿」:呉音・漢音:ア

「波」:呉音:漢音:ハ

「岐」:呉音:ギ(表外)、漢音:キ

上記により、呉音「あはぎ」、漢音「あはき」となりそうです。

「あわき」とするサイトもありますが、
上記の様に、音読みで読む限り「わ」ではないと考えています。

次に、「阿波岐」の漢字から場所を推測します。

「阿」:良い、丘の曲がった所「くま(湾曲して入りくんだ所)」

「波」:波?、毛皮のようになみうつ水

「岐」:分ける

上記から、「丘の曲がった所からは波(海)が見えて、
片方の道は海へ、片方は原っぱへ分かれている」と考える事が出来ます。

「波」を「海」ではなく、原っぱには「小高い丘が多くある」と解釈すると、
「波」の様に波打っているように見えたのか知れません。

この様に、色々と考えましたが、古代と現代の地形が異なるので、
比較検証出来ないのは残念です。

参照18:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「阿」という漢字

参照19:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「波」という漢字

参照20:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「岐」という漢字

まとめ

「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」を調べて来ました。

「竺紫日向」:

「厚い竹」が多くあり、「紫草」が採取出来て、北向きで、あまり、日が入らない土地

「橘小門」:

「伊邪那伎大神」邸宅の「小門」の近くに「橘」があり、「橘小門」と呼ばれていた

「阿波岐原」:

「丘の曲がった所からは波(海)が見えて、
片方の道は海へ、片方は原っぱへ分かれている」

もしくは、「小高い丘が多くある」ので、波打っているように見えた。

上記に、検証結果を載せましたが、もう少し、詳しく考えて行きます。

タケの分布

「タケは気候が温暖で湿潤な地域に分布」とあります。

「竺」の竹の種類によっては、範囲を狭める事も可能だと思いますが、
副葬品として、墓に埋めていれば、比較検証出来ますが、
宮内庁が拒んでいるので、調査は行われないと思います。

多分に現代に残る、古代史が覆るのが嫌だからと考えています。

エジプトでは、発掘調査は普通に行われ、
古代の真実を知る上で、重要不可欠な調査だと認識されているのですから。

紫草

参照21のサイトが詳しく調べています。

「竺紫」=「筑紫」が同じ土地かは不明ですが、
最低でも同じ様な特徴を持つ土地であるはずなので、
「天(あま)一族」や伊姓の人達は、南朝鮮もしくはユーラシア大陸に、
住んでいた時期に、「紫草」を使用していたのかも知れません。

また、古くから「紫」という色は、「高貴」な人達が使うイメージがありましたが、
参照22のサイトに書いている事が本当であれば、間違っているようです。

中国・前漢の武帝(在位BC141~BC87)は紫を好み、
天帝の色として「禁色きんじき」とし、

参照22のサイトには、上記の様に書かれています。

逆に考えれば、「前漢の武帝」以前は、
「天帝の色」として違う色もしくは設定していなかったと捉える事が出来て、
今までの認識とは異なっています。

ちなみに、「聖徳太子」は、「天(あま)一族」本家の子孫と考えられ、
古代中国に属して活動していたと思われるので、
「紫色」を「高貴」と考えるのは当然だと思います。

参照21:古代から高貴な色の紫の素となる紫草が太宰府に生えていた

参照22:日本の伝統色 ミニ知識「紫」

「厂」(石)+「泉」で、石の隙間から水がわくことを表す。

「源」の原字。

同音の別語に音を借りて、「はら」の意も表す。

Wiki

上記はWikiですが、参照23のサイトでも
「わきはじめたばかりの泉」という表現がされています。

「原」という漢字を、日常、意識する事は無いですが、今回、調べてみると、
以外にイメージしていた場所と違うと思いました。

「原」=「源」となると、平地などに「泉」によって「水源」が出来て、
次第に水が溢れて、川になり、それが海に流れ着く様な地形となりそうです。

でも、該当しそうな地域が多くありそうなので、見つけるのは難しいと思います。

参照23:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「原/厡」という漢字

「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」には、「之」が二箇所あります。

「竺紫日向」・「橘小門」・「阿波岐原」の3つの言葉を繋いでいますが、
「阿波岐原」の場所は、最低でも「竺紫日向之橘小門」以外にも存在したと思われます。

なぜなら、「伊邪那伎大神」の国内において、「阿波岐原」が一つしか無いのであれば、
わざわざ、「之」を入れて言葉を繋げる必要はありません。

そして、他の人の為にわざわざ、記載したとしても、
「國」や「嶋」などが記載されていないので、その地点を探すのは大変でしょう。

「阿波岐原」は複数あり、「竺紫日向」と「橘小門」も考察したとおりだとすると、
あまり、特徴的な名ではないので、他の地域に存在した傍証になると思います。

この様に見て行くと、「竺紫日向」・「橘小門」・「阿波岐原」の3つの言葉を
繋げなければ、辿り着けない様な土地という事は、この國は、住民が多く、
開発されて、当時としては、平和な場所だったのではないかと考えます。

ただ、ではこの場所がどこか?となると、「伊那志許米志許米岐」という地域に到着後、
「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」に「御身の禊の為に」移動しています。

「伊那志許米志許米岐」は「禊」をするには適していなかったのだと思われます。

「禊」一文字での成り立ちが無かったので、「示」+「契」で考えます。

「神にいけにえをささげる台」の象形から、
「祖先の神」を意味する「示」という漢字が成り立ちました。

また、「指(シ)」に通じ
(同じ読みを持つ「指」と同じ意味を持つようになって)、
「しめす」の意味も表すようになりました。

OK辞典

これにより、「示」は本来、
「神にいけにえをささげる台」を「祖先」に見せる意だと解釈出来ます。

「示」を「しめす」としたのは、漢字(甲骨文字含む)が完成した後となります。

「刻み付ける」象形と「刀」の象形と
「両手両足を伸びやかにした人」の象形から、
人の肌や骨に符号に刻み付ける事を意味し、
そこから、「きざむ」、「ちぎる(約束する)」、「しるし」を意味する
「契」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

これにより、「契」は本来、「人の肌や骨に符号に刻み付ける事」の意味の様です。

この様に考えると、「禊」を水辺で行うと言うのは、
本来の意味からかけ離れていると感じます。

古代の人達の中には、「契」の成り立ちで「人の肌や骨に符号に刻み付ける事」と
現代に残る事から、その様な行いをしていたと言えるでしょう。

「人の肌」であれば、現代でもタトゥー(入れ墨)があるので、分かりますが、
「人の骨」に刻み付けるとは、どの様な手法なんでしょう。

閑話休題

「禊」という漢字は、「神にいけにえをささげる台」を「祖先」に見せて、
先祖を忘れていない事を宣言し、「人の肌や骨に符号に刻み付ける事」で、
覚悟を示すのだと、解釈が出来るので、「水辺」で身体を洗ったりしたところで、
何の意味があるのでしょうか?

最初は、「人の肌や骨に符号に刻み付ける事」の儀式を行っていたが、後世になり、
廃れてしまい、一番楽な「水辺で身体を洗う」になったのではないかと考えます。

もしくは、儀式を行う前に「水辺で身体を洗う」事をして挑んだが、
後世に儀式の部分だけ、省略された可能性も否定出来ません。

関連として、「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而 禊祓也」とあり、
「祓う事で禊(みそぎ)が完了した」のか「禊(みそぎ)の前に祓ったのか」は
判断する材料が無いので分かりません。

前者の場合、「禊(みそぎ)が完了」しているので、
今後の話は、「禊(みそぎ)」とは無関係です。

後者の場合、完了していないので、今後の話に関連性が出て来ます。

今後の話で、「所到其穢繁國之時」の一度のみ「穢」の漢字を使いますが、
他に、「禊(みそぎ)」の漢字も無く、これらから考えると、
前者の「祓う事で禊(みそぎ)が完了した」が正しいと解釈出来ます。

「祓う事で禊(みそぎ)が完了した」が正しいとすれば、現代にも残る
「水辺で身体を洗う事」は、「禊(みそぎ)」とは無関係であるとなります。

もちろん、古事記に記載されない箇所にあったかも知れませんが、
掲載されていない以上、現代人が知るすべがありません。

歴史は、多分に伝言ゲームの様に、正しい事が伝わらずに、
歪曲されていたり、真逆だったりするものですから、当然かも知れませんが。

参照24:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「示」という漢字

参照25:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「契/契」という漢字

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