最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

最後 其妹伊邪那美命 身自追來焉 爾千引石 引塞其黄泉比良坂 其石置中 各對立而 度事戸之時
伊邪那美命言 愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭 爾伊邪那岐命詔 愛我那邇妹命汝爲然者 吾一日立千五百産屋 是以一日必千人死 一日必千五百人生也 故號其伊邪那美神命
謂黄泉津大神 亦云以其追斯伎斯【此三字以音】 而號道敷大神 亦所塞其黄泉坂之石者
號道反大神 亦謂塞坐黄泉戸大神 故其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲國之伊賦夜坂也
是以伊邪那伎大神詔 吾者到於 伊那志許米(声注:上)志許米岐【此九字以音】 穢國而在祁理
【此二字以音】故吾者爲御身之禊而 到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而 禊祓也
故於投棄御杖所成神名 衝立船戸神 次於投棄御帶所成神名 道之長乳齒神
次於投棄御嚢所成神名 時量師神 次於投棄御衣所成神名 和豆良比能宇斯能神【此神名以音】
次於投棄御褌所成神名 道俣神 次於投棄御冠所成神名 飽咋之宇斯能神【自宇以下三字以音】
次於投棄左御手之手纒所 成神名 奧疎神【訓奧云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此】
次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音下效此】 次奧津甲斐辨羅神
【自甲以下四字以音下效此】 次於投棄右御手之手纒所成神名 邊疎神 次邊津那藝佐毘古神
次邊津甲斐辨羅神 右件自船戸神以下 邊津甲斐辨羅神以前十二神者 因脱著身之物所生神也
解読

最後は其妹伊邪那美命自らの身で焉(これ)追って来て
爾(なんじ)千引石(ちびきいし)を引いて、其の黄泉比良坂を塞ぐ

其の石を置き、中で各(おのおの)對(なら)び立ち
而(なんじ)戸の事を度(はかる)之(この)時、伊邪那美命言う

此れ者(は:短語)我が愛しの那勢(なせ)命の如しの為

汝、国の人草は一日千頭絞め殺す

爾(なんじ)伊邪那岐命詔(みことのり)す

我は妹命の那邇(なに)を愛す

汝の為に然る者(は:短語)、吾、一日千五百の産屋を立てる。

是を以って一日千人必ず死に、一日千五百人必ず生まれる也

故、其の伊邪那美神、命を號して黄泉津大神と謂う

亦、其の斯伎斯(此の三字、音を以ってす。しきし)追うを以って、
而(なんじ)道敷大神を號すと云う

亦、其の黄泉坂を塞ぐ所の石者(は:短語)道反大神と號す

亦、黄泉戸大神坐りて塞ぐと謂う

故、其の所者(は:短語)黄泉比良坂と謂う

今、出雲國之伊賦夜坂と謂う也

是を以って伊邪那伎大神詔(みことのり)す

吾者(は:短語)、
伊那志許米(声注:上)志許米岐(此の九字、音を以ってす。いなしこまいしこまいき)に
到るに於いて國の穢れ祁理(此の二字、音を以ってす。ぎり)而(に)在り

故、吾者(は:短語)御身の禊(みそぎ)の為而(に)
竺紫日向之橘小門之阿波岐(此の三字、音を以ってす。あはき)原而(に)到りて、
坐り禊(みそぎ)を祓う也

故、御杖於(お)投棄した所から神名衝立船戸神成る

次に御帯於(お)投棄した所から神名道之長乳齒神成る

次に御嚢(ふくろ)於(お)投棄した所から神名時量師神成る

次に御衣於(お)投棄した所から
神名和豆良比能宇斯能神(此の神名は音を以ってす。)成る

次に御褌(ふんどし)於(お)投棄した所から神名道俣神成る

次に御冠於(お)投棄した所から神名
飽咋之宇斯能神(宇自(より)以下三字、音を以ってす。)成る

次に左の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から
神名奧疎神成る(奧の訓は淤伎と云う、此れ下も效(なら)う。
疎の訓は奢加留と云う、此れ下も效(なら)う。)

次に奧津那藝佐毘古神(那自(より)以下五字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

次に奧津甲斐辨羅神(甲自(より)以下四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

次に右の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から神名邊疎神成る

次に邊津那藝佐毘古神、次に邊津甲斐辨羅神

右の件、船戸神以下自(より)邊津甲斐辨羅神以前の
十二神者(は:短語)脱するに因り身の物著す所生まれる神也

解説

09

奥三神


奧疎神

原文:

次於投棄左御手之手纒所 成神名 奧疎神【訓奧云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此】
次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音下效此】次奧津甲斐辨羅神
【自甲以下四字以音下效此】

解読:

次に左の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から
神名奧疎神成る(奧の訓は淤伎と云う、疎の訓は奢加留と云う)
次に奧津那藝佐毘古神、次に奧津甲斐辨羅神

と今まで、一人ずつだったのに、三神がひとまとめになっています。

訓み

奧疎神【訓奧云淤伎 下效此 訓疎云奢加留 下效此】

「奥」を「淤伎」と訓むとあります。

「淤」:呉音:オ、漢音:ヨ、訓読み:どろ

「伎」:呉音:ギ(表外)、漢音:キ、訓読み:表外:わざ、わざおぎ

上記により、呉音「おぎ」、漢音「よき」となりそうです。

ただ、「淤」ではなく「於」の書物があるようで、少々異なります。

「於」:呉音:ウ、オ、漢音:オ(ヲ)、ヨ、訓読み:おい、お、ああ、より

上記だと、呉音と漢音で「オ」が共通し、呉音に「ウ」が追加されます。

この場合、「奥=うぎ」も可能となり、どれが正しいのか分からなくなります。

混乱するので、このサイトでは「奥=おぎ」で考えます。

サイトによっては、「奥=おき=沖」とするところもあるようですが、
読みが似るのは、多くあるので、簡単には判断できません。

「疎」を「奢加留」と訓むとあります。

「奢」:呉音・漢音: シャ、訓読み:おご

「加」:呉音:ケ、漢音:カ、訓読み:くわ

「留」:呉音:ル、漢音:リュウ(リウ)、訓読み:と、
    表外:とど、とめ、どめ、るーぶる

上記により、呉音「しゃける」、漢音「しゃかりゅう」となりそうです。

奧疎

「奥」:

「宀(屋根・屋内)」+「釆(「播」の原字、細々としたもの)」+
「大(人が手を広げた様)」で、
暗い屋内で手を広げ細々したものを探る様子。

Wiki

Wikiには他にも、

(原義)
部屋の西南の隅。神棚がまつられ、家長の座すところとされ、
家屋において最も神聖な場所とされた。

Wiki

とも書かれていて、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」から見て「左手」の場所で、
「西南」の方角が正しければ、北を背にして「左手」の方向に、神聖な場所が存在し、
その場所の管理を任されたリーダーと考える事が出来ます。

「疎」:

「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」
(「足」の意味だが、ここでは、「疏(ソ)」に通じ
(同じ読みを持つ「疏」と同じ意味を持つようになって)、「離す」の意味)と
「たきぎを束ねた」象形(「束ねる」の意味)から、
「束ねたものを離す」を意味する「疎」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

この「束ねたものを離す」のが正しいのならば、「奥」という神聖な場所へ、
この人物は、お供えなどを携えて、奥に出向き、纏めて持って来た物を分けたりする
仕事をしていたと考える事が出来ます。

参照46:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「疎/疏」という漢字

まとめ

三神で「奧疎神」という人物のみ「津」が入っていないので、
神聖な場所に籠もりながら、その地を守っていたのかも知れません。

他の2人は、奥に行かせないガーディアンの役目と解釈出来ます。

神社

鹿島御嶽神社 栃木県足利市助戸仲町479

検索すると、この神社のみしか無く、しかも、神社の案内板などの情報も無く、
「神社史研究会」が作製した、ページのみでした。

この為、現在、この神社が無くなっている可能性がありそうです。

祭神は下記の様に多いようです。

《主》建御雷男命,国常立命,

《配》船戸神,長乳歯神,時置師神,煩乃宇須神,道俣神,飽咋之宇須神,
奥疎神,奥津那芸佐姫神,奥津那芸佐毘古神,辺津甲斐辺羅神,軻具土神,
大日貴,菅原道真,辺疎神,辺津那芸佐毘古神

最初、「奥疎神」が「配祀」にありますが、表記の違うもなく、
簡単に終わらそうと考えていましたが、他の名の表記が異なっています。

長乳歯神

本来は「道之長乳齒神」で「道之」が省略されていますが、
日本書紀の「長道磐神」や先代旧事本紀の「長道盤神」よりも、
後裔の可能性が高くなります。

煩乃宇須神

この名は「和豆良比能宇斯能神」をイメージしているように思えますが、
「神名以音」と「音読み」指定があり、「わずらい」にならないのに、
その様に考えるのは、後世と言えるように考えています。

たぶん、「「良」:呉音:ロウ(表外)、漢音:リョウ、慣用音:ラ(表外)」の
「慣用音:ラ」が出回った時期で、本来は「ろう」か「りょう」なのに、
「ら」で読んでしまったが為に、「音」が似ている「煩(わずら)う」に
変化させられたと思います。

ただ、「宇斯能」→「宇須」へ伝言ゲームの要領で後世に伝わったとすると、
長い時間がかかっているように思えます。

飽咋之宇須神

この名も「宇斯能」→「宇須」へと変化していますが、
「飽咋之」と原型が残っているので、
日本書紀にある「開囓神」と同じ系統とするのは無理な気がします。

奥津那芸佐姫神

記紀には「奥津那芸佐姫神」は登場しません。

先代旧事本紀

次於投棄左御手之纏(纏の別字)所成神名奧踈神
号曰奥津那藝佐彦神

先代旧事本紀

「先代旧事本紀」を見ると、「奧踈神」と「号曰奥津那藝佐彦神」と
記紀には無い記載があります。

「踈」は「疎」の「異体字」とありますが、本当にそうなのか?と調べましたが、
成り立ちなどの詳細が見つからないので、本当かは不明です。

次の「号曰奥津那藝佐彦神」は、現時点ではどの書物にも無いように思えます。

「疎」と「踈」

「疎」と「踈」を考察して行きます。

「疋」:

「足」の象形から「足」を意味する
「疋」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

『疋(ソ・ヒキ)』shū、pǐは、左右の相対する足を表す象形文字です。

漢字の部首は『疋・ひき』、漢字の意味は『左右の相対する足』、
転じて『一組』、その他に足のある動物を数える『匹(ひき)』があります。

音読みは二通りあります。

左右の相対する足を表す場合は、呉音が『ショ』、漢音が『ソ』です。

左右の相対する足を表します。

参照47:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「疋」という漢字

参照48:漢字の覚え方 疋

「足」:

「人の胴体」の象形と「立ち止まる足」の象形から、
「あし(人や動物のあし)」を意味する「足」という漢字が成り立ちました。

また、本体にそなえるの意味から、
「たす(添える、増す)」の意味も表すようになりました。

OK辞典

『足(ソク)』zúは、膝から足先までを描いた象形文字です。

漢字の部首は『足・あし』、漢字の意味は『足(あし)』、
『足』から転じた『足りる(たりる)』、『距離を縮める』です。

白川・藤堂は象形文字とし、鎌田は指事文字としています。

参照49:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「足」という漢字

参照50:漢字の覚え方 足

「疎」と「踈」が偏として使っている「疋」と「足」を比較検証すると、
「足」に関しては一致しますが、「疋」の「左右の相対する足」に対して、
「足」は「立ち止まる足」であり、似て非なる関係と受け取れます。

また、「束」を追加して見た時、「何を束ねた」のかで、意味合いが変化します。

「疎」は「左右の相対する足を束ねる」、
「踈」は「立ち止まる足を束ねる」と置き換える事が出来ると思います。

「疎」は「左右の足」が「拘束」されているイメージとなり、
「その地に住んでいる」事を指すように感じています。

一方、「踈」の「立ち止まる足」は、「移住者」をイメージ出来て、
「疎」の一族から、地位などを引き継いだと考える事が出来ます。

情報が少ないので、推測でしか書けませんが、
漢字を考える時、可能な限り、後世に付いた尾ひれを取り除いて、
本来の意味を考える事が大事だと思います。

「と同じ意味を持つようになって」の考え方は、長い期間を要すのだと思うので、
明らかに、漢字が創られた当初ではなく、後世の考え方だと考えています。

まとめ

上記の様に、「疎」と「踈」を比較検証すると、同一名と考えるには問題がありますし、
「号曰奥津那藝佐彦神」の「号曰」からしても、古事記より、後世の情報だと思います。

日本書紀では、古事記の名が載っている「一書」を掲載していましたが、
「奥三神」と「邊三神」の記載がありません。

ところが、日本書紀を基本としている先代旧事本紀に、情報があるという事は、
一時断絶していて、別の一族が復活させたのかも知れません。

奧津那藝佐毘古神

原文:

次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音 下效此】

解読:

次に奧津那藝佐毘古神
(那自(より)以下五字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

「那」:呉音:ナ、漢音:ダ(表外)

「藝」:呉音:ゲ、漢音:ゲイ

「佐」:呉音・漢音:サ

「毘」:呉音:ビ、漢音:ヒ

「古」:呉音:ク、漢音:コ

上記により、呉音「なげさびく」、漢音「だげいさひこ」となりそうです。

「那藝」と「毘古」は以前に
「以音(音読み)で下效此(下もならえ)」と記載があります。

以前は、「沫那藝神(那藝二字以音、下效此)」と指定され、
「頰那藝神」以外に「那藝」の漢字を使用する事がありませんでした。

つまり、「那藝=音読み」は、「奧津那藝佐毘古神」の「那藝」においても有効で、
わざわざ、この場面で「下效此」と書く必要がありません。

また、「毘古」に関しても、
「次生石土毘古神訓石云伊波、亦毘古二字以音。下效此也」の場面で指定があり、
「波邇夜須毘古神(此神名以音)」以外には、改めて指定する事はありませんでした。

「波邇夜須毘古神(此神名以音)」については、「自波至須以音」と書くよりは、
「此神名以音」とすれば、面倒が無いので理解出来ますし、「下效此」とはありません。

この様に、「那藝」と「毘古」は、
既に「以音(音読み)で下效此(下もならえ)」とあるので、
「佐」に関してだけ「以音」とすれば良いと考えています。

確かに、話が離れていたりと、改めて、「指定」する気持ちは分からなくも無いですが、
「いじゃなぎ(いざなぎ)」と「いじゃなみ(いざなみ)」は、
古事記の最初に記載があるだけです。

そうなると、時系列は分かりませんが、指定を崩さなければ行けない場面が存在し、
古事記には掲載されていないと言えます。

削除された話は、編纂時に消失していたのか、それとも、故意に掲載しなかったのか、
分かりませんが、痕跡がある以上、存在していたのは確定でしょう。

那藝佐

訓み

「なげさ」の可能性が高そうですが、検索しても、「なぎさ」しかありません。

「藝」は「音読み」なので、「げ」を「ぎ」と聞き間違いもあると思いますが、
当時の人達は、現代の様に、紙などに記すのではなく、
記憶する事を鍛えていたと思うので、聞き間違いをするだろうか?と疑問になります。

もし、発音が「ぎ」なら、別の漢字を使っていただろうと考えています。

「いじゃなぎ(いざなぎ)」では、「岐」や「伎」を使っています。

これから考えても、「なげさ」なのだと考えられます。

意味

漢字から推測します。

「那」:

「ほおひげが伸びて垂れた」象形(「しなやか」の意味)と
「特定の場所を示す文字と座り寛(くつろ)ぐ人の象形」(「村」の意味)から
「しなやかな村」、「美しい村」、「上品な村」を意味する「那」という
漢字が成り立ちました。

(借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、
「なんぞ」等の意味も表すようになりました。)

OK辞典

「藝」:

「並び生えた草の象形と雲が立ち上る象形」(「香りの強い草」の意味)と
「人が若木を持つ」象形から園芸技術を意味し、
そこから、「げい・わざ」を意味する「芸」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「佐」:

「横から見た人」の象形と「左手の象形と工具の象形」
(左右の手が相互に助け合う事から、「たすける」の意味)から、
「人が助け合う」を意味する「佐」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

まとめると

「那」:「しなやかな村」、「美しい村」、「上品な村」

「藝」:園芸技術

「佐」:人が助け合う

となります。

上記により、「那藝佐(なげさ)」とは、
「「しなやかな村」で「園芸技術」を「助け合いながら」向上させる」と言えそうです。

参照54のサイトには、「藝」について、もう少し詳しく書いています。

『芸・藝(ゲイ)』yìは、
自然の植物に手を加えて栽培する様子を表す漢字です。

漢字の足し算では、
艹(植物)+埶(手を加えて植物を育てる)+云(もやもやした雑草)=
藝・芸(雑草を取って手を加えて栽培する。

形よく仕上げる。転じて、技術。わざ)です。

ここから、「奥」と言う神聖な場所が存在し、「奥」の前には「津(港)」が存在した。

「奥」でお供え等で使う為の、植物の「栽培」を担っていたと受け取れます。

参照51:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「那」という漢字

参照52:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「芸/藝」という漢字

参照53:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「佐」という漢字

参照54:漢字の覚え方 埶

神社

杉原神社 富山県富山市婦中町浜子3197

當所神社(当所神社) 徳島県阿南市伊島

前者は「奥津那藝佐彦神」、後者は「奧津那藝佐毘古神」となっています。

当然、「毘古」が正しいわけですが、「彦」に変わったのは、
古事記の時代(仮紀元前1000年頃〜)と日本書紀の時代(仮紀元前670年頃〜)
の間に何かの変化があり、「毘古」などの「二文字」が廃れて、
「彦」という「一文字」が主流になったのだと、推察しています。

當所神社

この神社には、逸話が遺されているようです。

阿波志に
「伊島祠、伊島にあり、石を以て主となす。島を挙げて之を祀る」とある。

昔、漁師の網に奇岩がかかり、何度捨てても網に入った。

不思議に思って持ち帰ったが、触れると海が荒れた。

占うと「我は 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさひこ ) 神、
奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべら ) 神、 奥疎 ( おきざかる ) 神なり」
とのことだったので、氏神として祀ったという。

伊島神社、あるいは伊島大明神と呼ばれていたが、
明治になって当所神社と名を改めた。

参照55のサイトには、上記の様にありますが、
「阿波志」には、「伊島祠 在伊島以石爲/主舉島祀之」としか書かれていません。

解読としては「伊島に在り、石を以て為す。/島を挙げて、主、之(これ)を祀る」
となると思います。

昔話は、「阿波志」に掲載されていないので、「当所神社」の社伝なのだと思われますが、
「当所神社」はどこの神社なのでしょうか?

調べると「当所神社(當所神社)」と呼ぶ神社は二箇所あります。

當所神社 福岡県朝倉郡筑前町当所213−1

當所神社(当所神社) 徳島県阿南市伊島

ただ、福岡県の神社は、本来、「熊野神社」と言うそうですが、
地名に「当所」があり、古い歴史があるとすれば、過去に「当所神社」が
存在していた可能性がある様に思います。

次に、徳島県伊島の神社ですが、「伊島」は「阿波」にしか無かったのでしょうか?

「いじゃなぎ(いざなぎ)」達の時代には「伊(聖職者)の島」と名付けた島が、
存在していても不思議ではないですし、島民が移住した島かも知れません。

奇岩の話

この話は、「奇岩」は網に入る事から始まっていますが、
「岩場」で漁をしていれば、自然に入ってくるのではないか?と思います。

そして、「奇岩」の形は分かりませんが、
何も、「一つしか無い」わけでは無いのではないか?とも思います。

一番、奇妙なのが、夢に出て来たのなら、理解出来ますが、
どんな占いかは不明ですが、普通であれば、
「この奇岩には、〇〇神が宿っているから、祀ったほうが良いですよ。」
と言う感じになるように考えます。

しかし、

我は 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさひこ ) 神、
奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべら ) 神、 奥疎 ( おきざかる ) 神なり

と、「我ら」ではなく、「我」とあります。

この占い師は、「3人の神の霊」を宿したのでしょうか?

この様に、所々に不自然さがあり、是非とも原文を見たいと思います。

話の本質

断片的にでも、3人の神が「伊島」に来た事に発祥していると考えています。

元々、「伊島」は古代九州の「博多湾〜有明海」内に存在し、
「弥生の小氷期」で「島」と呼べる形になったが、
「小氷期」の終了後の温暖化により、海の水位が上昇し、
島が形を維持出来なくなり、移住先が現在地だと推察しています。

つまり、古代の記憶の断片が、物語に組み込まれたと解釈しています。

この様に思う理由として、「表記」が古事記で使用され、
子孫であれば、表記の一部変更になりそうですが、そうではありません。

しかし、「いじゃなぎ(いざなぎ)」の様に、同じ表記を継承している場合、
時代は、異なるかも知れませんが、大筋では同じだと思います。

次に、順番についてですが、古事記とは違い、「奥疎神」が最後に来ているのは、
3人の中で、世代交代した為、若いからだと推測しています。

参照55:阿南寺社めぐり 伊島を追加

奧津甲斐辨羅神

原文:

次奧津甲斐辨羅神【自甲以下四字以音 下效此】

解読:

次に奧津甲斐辨羅神(甲自(より)以下四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

この神名の「甲斐辨羅」が「以音」で「音読み」指定になります。

「甲」:呉音:キョウ、漢音:コウ(カッ、入声、後に続くものが無声子音の場合)、
    慣用音 : カン

「斐」:呉音・漢音:ヒ

「辨」:呉音:ベン、漢音:ヘン

「羅」:呉音・漢音:ラ

上記により、呉音「きょうひべんら」、漢音「こうひへんら」となりそうです。

検索すると、「音読み」をせずに、「甲斐=かい」としている人が多いです。

これを、訓読みしても「甲(きのえ)」と「斐(あや)」にしかならず、
戦国時代に存在した「甲斐国」が「かい」と読むのは、
隠された事柄があったからだと思われます。

可能性としては、単純に、元々「〇〇」で「かい」としていたけれど、
願掛けなどにより、「甲斐」=「かい」にしたのだと考える事が出来ます。

例えば、「東海林(しょうじ)」と似た理由が存在したのかも知れません。

意味

「甲」:

「尾をひいた亀の甲羅」の象形から
「甲羅」、「殻」を意味する「甲」という漢字が成り立ちました。

(借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、
「きのえ(木の兄)(十干の第一位)」の意味も表すようになりました。)

OK辞典

「斐」:

「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を描く」象形(「あや(模様)」)の意味)
と「互いに背を向けて左右にひらく」象形(「そむく」の意味だが、ここでは、
「賁(ヒ)」に通じ(同じ読みを持つ「賁」と同じ意味を持つようになって)、
「あや(模様)」の意味)から、「あやがあって美しいさま」を意味する
「斐」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「辨」:

「入れ墨をする為の針、2本」と「刀」の象形から、
刃物と刀で「わける」を意味する「辨/辧」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「羅」:

「網」の象形と「より糸の象形と尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を
手にした象形(のちに省略)」(「鳥をつなぐ」、
「一定の道筋につなぎ止める」の意味)から、
「鳥を捕える網」を意味する「羅」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

まとめると、

「甲」:「甲羅」、「殻」

「斐」:「あやがあって美しいさま」

「辨」:わける

「羅」:鳥を捕える網

となります。

上記から、「「津(港)」で見つけた「甲羅」や「貝殻」が「あやがあって美しく」、
それをわけて使って、網で捕まえる」と解釈出来ます。

つまり、現代のルアーの様に、
「甲羅や貝殻を使い、魚の形に加工して、網で捕まえる」と考えます。

参照56:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「甲」という漢字

参照57:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「斐」という漢字

参照58:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「弁/辨/辧/瓣/辯」という漢字

参照59:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「羅」という漢字

まとめ

色々と考察して来ました。

「奧疎神」:奥にある神聖な場所の管理

「奧津那藝佐毘古神」:奥に関係者以外近づけない&作物栽培

「奧津甲斐辨羅神」:奥に関係者以外近づけない&魚の獲得

3人は、上記の様な関係があったのだと推測しました。

そして、「那藝佐毘古」と「甲斐辨羅」の名が一体となっていると感じたので、
代々継承される神名だと言えそうなので、「奧疎神」も継承名なのかも知れません。

神社

熊野神社 千葉県成田市宝田1333

この神社では、「奥津甲斐弁羅神」の表記を使っていて、
本来の「奧津甲斐辨羅神」の「辨」が「弁」に変更されています。

「弁」の成り立ちについて、参照57のサイトには、下記の様にあります。

「両手で冠をかぶっている」象形で
「かんむり」の意味を表す「弁」という漢字が成り立ちました。

※一部変更

OK辞典

とあり、「辨」の様に「刃物と刀で「わける」を意味」を持っていません。

ですが、時代が進むと「「辨/辧/辯/瓣」の略字として用いられるようになりました。」
とある様に、全く意味が異なる漢字が、「略字」として使われるようになります。

「辨」が「弁」に変更されたきっかけを探しましたが、見つからず、
同じ様な意味や成り立ちであれば、ある程度納得できますが、
全く意味が異なり、なおかつ、成り立ちも異なるのに、変更された裏に、
思考の変化や違う文化などの影響があるように思えます。

ちなみに、この表記が「奧津甲斐辨羅神」よりも、後世なのは確実ですが、
神社関係者が書き換えたのか、それとも、この表記が存在したのかなど、
不明な点が多いので、現時点では、子孫とは考えていません。

先代旧事本紀

  次奧津甲斐辨羅神
(ふりがな:カヒワケラ)

先代旧事本紀

表記を重要視していたので、ふりがなは、あまり、見ていませんでした。

多くのサイトで「辨」を「弁」として、読みも「べら」とするのですが、
ところが、「甲斐辨羅」のふりがなに「カヒワケラ」と記載されています。

後で、赤字で「ワケ」を「ベ」に変えています。

完成年

先代旧事本紀の「完成年」は、諸説あるようですが、序文の

大臣蘇我馬子宿禰等奉、勅(くずし字)修撰
夫先代舊事本紀者聖徳太子且所(くずし字)撰也

于時小治田豊浦宮御宇豐御食炊屋姫天皇即位廿八年歳
次庚辰春三月甲午朔戊戌攝政上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊命
大臣蘇我馬子宿禰等奉

(中略)

勅(くずし字)可撰録于時丗年歳次壬午春二月朔巳丑(くずし字)是也

先代旧事本紀

にある、「豐御食炊屋姫天皇」と「丗年歳次壬午」から、
「推古30年(622年)完成」したとする説が、Wikiに載っていました。

この説でなくても、
「延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。」ようです。

「先代旧事本紀」の原文確認に「国立国会図書館デジタルコレクション」を
使わせて貰っていますが、この原本は
「寛永21出版、前川茂右衛門著 先代旧事本紀 10巻」という本のようで、
「根岸信輔」さんが寄贈したとあります。

ここで、ふりがなの話に戻すと、前川茂右衛門さんが作製した時は、
「甲斐辨羅」を「カヒワケラ」と読むのが、通常だったと思われます。

しかし、たぶん、明治以降になぜか、「辨羅」が「弁羅」になり、
「ワケラ」から「ベラ」に変わったと考えられます。

情報収集している時に、「新字」制定時に、
「辨・辧・瓣・辯」が「弁」の旧字とされたとあり、不思議でしかありません。

「豐」と「豊」の様に、漢字の形や意味等が大差ないのであれば、
理解出来ますが、「辨・辧・瓣・辯」と「弁」では根本的に違っています。

これにより、現在、多くのサイトで「辨」→「弁」に置き換え、
読みも「ワケ」ではなく、「ベ」を使うのは間違っていますし、
明治以降に改変されたとも言えるように思います。

聖徳太子尊

最初、スルーしようかと考えていましたが、詳細については今後にして、
「聖徳太子」と「上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊」を少し、考えます。

「大臣蘇我馬子宿禰」は、二度の登場の際に同じ表記を使用しています。

しかし、「聖徳太子」は、一回目と二回目で表記が異なっています。

多くの方は、同じだろうと考えると思いますが、
同じであれば、同じ表記を書けば良いだけなのに、そうではありません。

そこで、「上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊」を良く観察していると、
「聦」の漢字が、「聡」の旧字と考えられる「聰」と異なっている事を見つけました。

調べると、「聦」=「聡」=「聰」ではない様に感じています。

悤:窓に空気がまとめて通る様子・あわてる様子を表す形声文字です。

怱:忙(いそが)しい様子を表す形声文字です。

匆:空気の突き抜ける窓(まど)を表す象形文字です。

参照60と61のサイトから、「耳編」を抜いた「旁」の意味を抜き出しました。

他にも、2つは「原字」は「囱」で共通するが、
「匆」は派生したと受け取れる記載があります。

つまり、仲間であるけれど、別字であると言えます。

「異体字」と書く、漢字を取り扱うサイトもありますが、
そもそも、漢字は「形」が異なれば、成り立ちや意味も違うと思うので、
最近では「異体字」=「別字」と考えるようになりました。

閑話休題

「上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊」は、「聖徳太子」の「後継者」で、
家督を継承した「聖徳太子の子」の「攝政」なのではないか?と
現時点では考えています。

「攝政」は、政務を行えないトップに代わり政務を行う役職なので、
「小治田豊浦宮」において「豐御食炊屋姫天皇」が30年も
政務を行っていないとは考えづらいです。

ただ、年齢や病気等で政務を行えない状況が、
即位30年当時、「豐御食炊屋姫天皇」にあったのかは、
他の文献と比較検証しなければ分かりません。

今後、該当箇所で、情報収集して、詳しく検証したいと思います。

参照60:漢字の覚え方 忩・悤

参照61:漢字の覚え方 匆

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