最後は其妹伊邪那美命自らの身で焉(これ)追って来て
爾(なんじ)千引石(ちびきいし)を引いて、其の黄泉比良坂を塞ぐ
其の石を置き、中で各(おのおの)對(なら)び立ち
而(なんじ)戸の事を度(はかる)之(この)時、伊邪那美命言う
此れ者(は:短語)我が愛しの那勢(なせ)命の如しの為
汝、国の人草は一日千頭絞め殺す
爾(なんじ)伊邪那岐命詔(みことのり)す
我は妹命の那邇(なに)を愛す
汝の為に然る者(は:短語)、吾、一日千五百の産屋を立てる。
是を以って一日千人必ず死に、一日千五百人必ず生まれる也
故、其の伊邪那美神、命を號して黄泉津大神と謂う
亦、其の斯伎斯(此の三字、音を以ってす。しきし)追うを以って、
而(なんじ)道敷大神を號すと云う
亦、其の黄泉坂を塞ぐ所の石者(は:短語)道反大神と號す
亦、黄泉戸大神坐りて塞ぐと謂う
故、其の所者(は:短語)黄泉比良坂と謂う
今、出雲國之伊賦夜坂と謂う也
是を以って伊邪那伎大神詔(みことのり)す
吾者(は:短語)、
伊那志許米(声注:上)志許米岐(此の九字、音を以ってす。いなしこまいしこまいき)に
到るに於いて國の穢れ祁理(此の二字、音を以ってす。ぎり)而(に)在り
故、吾者(は:短語)御身の禊(みそぎ)の為而(に)
竺紫日向之橘小門之阿波岐(此の三字、音を以ってす。あはき)原而(に)到りて、
坐り禊(みそぎ)を祓う也
故、御杖於(お)投棄した所から神名衝立船戸神成る
次に御帯於(お)投棄した所から神名道之長乳齒神成る
次に御嚢(ふくろ)於(お)投棄した所から神名時量師神成る
次に御衣於(お)投棄した所から
神名和豆良比能宇斯能神(此の神名は音を以ってす。)成る
次に御褌(ふんどし)於(お)投棄した所から神名道俣神成る
次に御冠於(お)投棄した所から神名
飽咋之宇斯能神(宇自(より)以下三字、音を以ってす。)成る
次に左の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から
神名奧疎神成る(奧の訓は淤伎と云う、此れ下も效(なら)う。
疎の訓は奢加留と云う、此れ下も效(なら)う。)
次に奧津那藝佐毘古神(那自(より)以下五字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)
次に奧津甲斐辨羅神(甲自(より)以下四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)
次に右の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から神名邊疎神成る
次に邊津那藝佐毘古神、次に邊津甲斐辨羅神
右の件、船戸神以下自(より)邊津甲斐辨羅神以前の
十二神者(は:短語)脱するに因り身の物著す所生まれる神也
奥三神
原文:
次於投棄左御手之手纒所 成神名 奧疎神【訓奧云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此】
次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音下效此】次奧津甲斐辨羅神
【自甲以下四字以音下效此】
解読:
次に左の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から
神名奧疎神成る(奧の訓は淤伎と云う、疎の訓は奢加留と云う)
次に奧津那藝佐毘古神、次に奧津甲斐辨羅神
と今まで、一人ずつだったのに、三神がひとまとめになっています。
奧疎神【訓奧云淤伎 下效此 訓疎云奢加留 下效此】
「奥」を「淤伎」と訓むとあります。
「淤」:呉音:オ、漢音:ヨ、訓読み:どろ
「伎」:呉音:ギ(表外)、漢音:キ、訓読み:表外:わざ、わざおぎ
上記により、呉音「おぎ」、漢音「よき」となりそうです。
ただ、「淤」ではなく「於」の書物があるようで、少々異なります。
「於」:呉音:ウ、オ、漢音:オ(ヲ)、ヨ、訓読み:おい、お、ああ、より
上記だと、呉音と漢音で「オ」が共通し、呉音に「ウ」が追加されます。
この場合、「奥=うぎ」も可能となり、どれが正しいのか分からなくなります。
混乱するので、このサイトでは「奥=おぎ」で考えます。
サイトによっては、「奥=おき=沖」とするところもあるようですが、
読みが似るのは、多くあるので、簡単には判断できません。
「疎」を「奢加留」と訓むとあります。
「奢」:呉音・漢音: シャ、訓読み:おご
「加」:呉音:ケ、漢音:カ、訓読み:くわ
「留」:呉音:ル、漢音:リュウ(リウ)、訓読み:と、
表外:とど、とめ、どめ、るーぶる
上記により、呉音「しゃける」、漢音「しゃかりゅう」となりそうです。
「奥」:
「宀(屋根・屋内)」+「釆(「播」の原字、細々としたもの)」+
Wiki
「大(人が手を広げた様)」で、
暗い屋内で手を広げ細々したものを探る様子。
Wikiには他にも、
(原義)
Wiki
部屋の西南の隅。神棚がまつられ、家長の座すところとされ、
家屋において最も神聖な場所とされた。
とも書かれていて、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」から見て「左手」の場所で、
「西南」の方角が正しければ、北を背にして「左手」の方向に、神聖な場所が存在し、
その場所の管理を任されたリーダーと考える事が出来ます。
「疎」:
「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」
OK辞典
(「足」の意味だが、ここでは、「疏(ソ)」に通じ
(同じ読みを持つ「疏」と同じ意味を持つようになって)、「離す」の意味)と
「たきぎを束ねた」象形(「束ねる」の意味)から、
「束ねたものを離す」を意味する「疎」という漢字が成り立ちました。
この「束ねたものを離す」のが正しいのならば、「奥」という神聖な場所へ、
この人物は、お供えなどを携えて、奥に出向き、纏めて持って来た物を分けたりする
仕事をしていたと考える事が出来ます。
参照46:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「疎/疏」という漢字
三神で「奧疎神」という人物のみ「津」が入っていないので、
神聖な場所に籠もりながら、その地を守っていたのかも知れません。
他の2人は、奥に行かせないガーディアンの役目と解釈出来ます。
検索すると、この神社のみしか無く、しかも、神社の案内板などの情報も無く、
「神社史研究会」が作製した、ページのみでした。
この為、現在、この神社が無くなっている可能性がありそうです。
祭神は下記の様に多いようです。
《主》建御雷男命,国常立命,
《配》船戸神,長乳歯神,時置師神,煩乃宇須神,道俣神,飽咋之宇須神,
奥疎神,奥津那芸佐姫神,奥津那芸佐毘古神,辺津甲斐辺羅神,軻具土神,
大日貴,菅原道真,辺疎神,辺津那芸佐毘古神
最初、「奥疎神」が「配祀」にありますが、表記の違うもなく、
簡単に終わらそうと考えていましたが、他の名の表記が異なっています。
本来は「道之長乳齒神」で「道之」が省略されていますが、
日本書紀の「長道磐神」や先代旧事本紀の「長道盤神」よりも、
後裔の可能性が高くなります。
この名は「和豆良比能宇斯能神」をイメージしているように思えますが、
「神名以音」と「音読み」指定があり、「わずらい」にならないのに、
その様に考えるのは、後世と言えるように考えています。
たぶん、「「良」:呉音:ロウ(表外)、漢音:リョウ、慣用音:ラ(表外)」の
「慣用音:ラ」が出回った時期で、本来は「ろう」か「りょう」なのに、
「ら」で読んでしまったが為に、「音」が似ている「煩(わずら)う」に
変化させられたと思います。
ただ、「宇斯能」→「宇須」へ伝言ゲームの要領で後世に伝わったとすると、
長い時間がかかっているように思えます。
この名も「宇斯能」→「宇須」へと変化していますが、
「飽咋之」と原型が残っているので、
日本書紀にある「開囓神」と同じ系統とするのは無理な気がします。
記紀には「奥津那芸佐姫神」は登場しません。
次於投棄左御手之纏(纏の別字)所成神名奧踈神
先代旧事本紀
号曰奥津那藝佐彦神
「先代旧事本紀」を見ると、「奧踈神」と「号曰奥津那藝佐彦神」と
記紀には無い記載があります。
「踈」は「疎」の「異体字」とありますが、本当にそうなのか?と調べましたが、
成り立ちなどの詳細が見つからないので、本当かは不明です。
次の「号曰奥津那藝佐彦神」は、現時点ではどの書物にも無いように思えます。
「疎」と「踈」を考察して行きます。
「疋」:
「足」の象形から「足」を意味する
OK辞典
「疋」という漢字が成り立ちました。
『疋(ソ・ヒキ)』shū、pǐは、左右の相対する足を表す象形文字です。
漢字の部首は『疋・ひき』、漢字の意味は『左右の相対する足』、
転じて『一組』、その他に足のある動物を数える『匹(ひき)』があります。音読みは二通りあります。
左右の相対する足を表す場合は、呉音が『ショ』、漢音が『ソ』です。
左右の相対する足を表します。
参照48:漢字の覚え方 疋
「足」:
「人の胴体」の象形と「立ち止まる足」の象形から、
「あし(人や動物のあし)」を意味する「足」という漢字が成り立ちました。また、本体にそなえるの意味から、
OK辞典
「たす(添える、増す)」の意味も表すようになりました。
『足(ソク)』zúは、膝から足先までを描いた象形文字です。
漢字の部首は『足・あし』、漢字の意味は『足(あし)』、
『足』から転じた『足りる(たりる)』、『距離を縮める』です。白川・藤堂は象形文字とし、鎌田は指事文字としています。
参照50:漢字の覚え方 足
「疎」と「踈」が偏として使っている「疋」と「足」を比較検証すると、
「足」に関しては一致しますが、「疋」の「左右の相対する足」に対して、
「足」は「立ち止まる足」であり、似て非なる関係と受け取れます。
また、「束」を追加して見た時、「何を束ねた」のかで、意味合いが変化します。
「疎」は「左右の相対する足を束ねる」、
「踈」は「立ち止まる足を束ねる」と置き換える事が出来ると思います。
「疎」は「左右の足」が「拘束」されているイメージとなり、
「その地に住んでいる」事を指すように感じています。
一方、「踈」の「立ち止まる足」は、「移住者」をイメージ出来て、
「疎」の一族から、地位などを引き継いだと考える事が出来ます。
情報が少ないので、推測でしか書けませんが、
漢字を考える時、可能な限り、後世に付いた尾ひれを取り除いて、
本来の意味を考える事が大事だと思います。
「と同じ意味を持つようになって」の考え方は、長い期間を要すのだと思うので、
明らかに、漢字が創られた当初ではなく、後世の考え方だと考えています。
上記の様に、「疎」と「踈」を比較検証すると、同一名と考えるには問題がありますし、
「号曰奥津那藝佐彦神」の「号曰」からしても、古事記より、後世の情報だと思います。
日本書紀では、古事記の名が載っている「一書」を掲載していましたが、
「奥三神」と「邊三神」の記載がありません。
ところが、日本書紀を基本としている先代旧事本紀に、情報があるという事は、
一時断絶していて、別の一族が復活させたのかも知れません。
原文:
次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音 下效此】
解読:
次に奧津那藝佐毘古神
(那自(より)以下五字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)
「那」:呉音:ナ、漢音:ダ(表外)
「藝」:呉音:ゲ、漢音:ゲイ
「佐」:呉音・漢音:サ
「毘」:呉音:ビ、漢音:ヒ
「古」:呉音:ク、漢音:コ
上記により、呉音「なげさびく」、漢音「だげいさひこ」となりそうです。
「那藝」と「毘古」は以前に
「以音(音読み)で下效此(下もならえ)」と記載があります。
以前は、「沫那藝神(那藝二字以音、下效此)」と指定され、
「頰那藝神」以外に「那藝」の漢字を使用する事がありませんでした。
つまり、「那藝=音読み」は、「奧津那藝佐毘古神」の「那藝」においても有効で、
わざわざ、この場面で「下效此」と書く必要がありません。
また、「毘古」に関しても、
「次生石土毘古神訓石云伊波、亦毘古二字以音。下效此也」の場面で指定があり、
「波邇夜須毘古神(此神名以音)」以外には、改めて指定する事はありませんでした。
「波邇夜須毘古神(此神名以音)」については、「自波至須以音」と書くよりは、
「此神名以音」とすれば、面倒が無いので理解出来ますし、「下效此」とはありません。
この様に、「那藝」と「毘古」は、
既に「以音(音読み)で下效此(下もならえ)」とあるので、
「佐」に関してだけ「以音」とすれば良いと考えています。
確かに、話が離れていたりと、改めて、「指定」する気持ちは分からなくも無いですが、
「いじゃなぎ(いざなぎ)」と「いじゃなみ(いざなみ)」は、
古事記の最初に記載があるだけです。
そうなると、時系列は分かりませんが、指定を崩さなければ行けない場面が存在し、
古事記には掲載されていないと言えます。
削除された話は、編纂時に消失していたのか、それとも、故意に掲載しなかったのか、
分かりませんが、痕跡がある以上、存在していたのは確定でしょう。
「なげさ」の可能性が高そうですが、検索しても、「なぎさ」しかありません。
「藝」は「音読み」なので、「げ」を「ぎ」と聞き間違いもあると思いますが、
当時の人達は、現代の様に、紙などに記すのではなく、
記憶する事を鍛えていたと思うので、聞き間違いをするだろうか?と疑問になります。
もし、発音が「ぎ」なら、別の漢字を使っていただろうと考えています。
「いじゃなぎ(いざなぎ)」では、「岐」や「伎」を使っています。
これから考えても、「なげさ」なのだと考えられます。
漢字から推測します。
「那」:
「ほおひげが伸びて垂れた」象形(「しなやか」の意味)と
「特定の場所を示す文字と座り寛(くつろ)ぐ人の象形」(「村」の意味)から
「しなやかな村」、「美しい村」、「上品な村」を意味する「那」という
漢字が成り立ちました。(借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、
OK辞典
「なんぞ」等の意味も表すようになりました。)
「藝」:
「並び生えた草の象形と雲が立ち上る象形」(「香りの強い草」の意味)と
OK辞典
「人が若木を持つ」象形から園芸技術を意味し、
そこから、「げい・わざ」を意味する「芸」という漢字が成り立ちました。
「佐」:
「横から見た人」の象形と「左手の象形と工具の象形」
OK辞典
(左右の手が相互に助け合う事から、「たすける」の意味)から、
「人が助け合う」を意味する「佐」という漢字が成り立ちました。
まとめると
「那」:「しなやかな村」、「美しい村」、「上品な村」
「藝」:園芸技術
「佐」:人が助け合う
となります。
上記により、「那藝佐(なげさ)」とは、
「「しなやかな村」で「園芸技術」を「助け合いながら」向上させる」と言えそうです。
参照54のサイトには、「藝」について、もう少し詳しく書いています。
『芸・藝(ゲイ)』yìは、
自然の植物に手を加えて栽培する様子を表す漢字です。漢字の足し算では、
艹(植物)+埶(手を加えて植物を育てる)+云(もやもやした雑草)=
藝・芸(雑草を取って手を加えて栽培する。形よく仕上げる。転じて、技術。わざ)です。
ここから、「奥」と言う神聖な場所が存在し、「奥」の前には「津(港)」が存在した。
「奥」でお供え等で使う為の、植物の「栽培」を担っていたと受け取れます。
参照52:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「芸/藝」という漢字
参照54:漢字の覚え方 埶
前者は「奥津那藝佐彦神」、後者は「奧津那藝佐毘古神」となっています。
当然、「毘古」が正しいわけですが、「彦」に変わったのは、
古事記の時代(仮紀元前1000年頃〜)と日本書紀の時代(仮紀元前670年頃〜)
の間に何かの変化があり、「毘古」などの「二文字」が廃れて、
「彦」という「一文字」が主流になったのだと、推察しています。
この神社には、逸話が遺されているようです。
阿波志に
「伊島祠、伊島にあり、石を以て主となす。島を挙げて之を祀る」とある。昔、漁師の網に奇岩がかかり、何度捨てても網に入った。
不思議に思って持ち帰ったが、触れると海が荒れた。
占うと「我は 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさひこ ) 神、
奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべら ) 神、 奥疎 ( おきざかる ) 神なり」
とのことだったので、氏神として祀ったという。伊島神社、あるいは伊島大明神と呼ばれていたが、
明治になって当所神社と名を改めた。
参照55のサイトには、上記の様にありますが、
「阿波志」には、「伊島祠 在伊島以石爲/主舉島祀之」としか書かれていません。
解読としては「伊島に在り、石を以て為す。/島を挙げて、主、之(これ)を祀る」
となると思います。
昔話は、「阿波志」に掲載されていないので、「当所神社」の社伝なのだと思われますが、
「当所神社」はどこの神社なのでしょうか?
調べると「当所神社(當所神社)」と呼ぶ神社は二箇所あります。
ただ、福岡県の神社は、本来、「熊野神社」と言うそうですが、
地名に「当所」があり、古い歴史があるとすれば、過去に「当所神社」が
存在していた可能性がある様に思います。
次に、徳島県伊島の神社ですが、「伊島」は「阿波」にしか無かったのでしょうか?
「いじゃなぎ(いざなぎ)」達の時代には「伊(聖職者)の島」と名付けた島が、
存在していても不思議ではないですし、島民が移住した島かも知れません。
この話は、「奇岩」は網に入る事から始まっていますが、
「岩場」で漁をしていれば、自然に入ってくるのではないか?と思います。
そして、「奇岩」の形は分かりませんが、
何も、「一つしか無い」わけでは無いのではないか?とも思います。
一番、奇妙なのが、夢に出て来たのなら、理解出来ますが、
どんな占いかは不明ですが、普通であれば、
「この奇岩には、〇〇神が宿っているから、祀ったほうが良いですよ。」
と言う感じになるように考えます。
しかし、
我は 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさひこ ) 神、
奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべら ) 神、 奥疎 ( おきざかる ) 神なり
と、「我ら」ではなく、「我」とあります。
この占い師は、「3人の神の霊」を宿したのでしょうか?
この様に、所々に不自然さがあり、是非とも原文を見たいと思います。
断片的にでも、3人の神が「伊島」に来た事に発祥していると考えています。
元々、「伊島」は古代九州の「博多湾〜有明海」内に存在し、
「弥生の小氷期」で「島」と呼べる形になったが、
「小氷期」の終了後の温暖化により、海の水位が上昇し、
島が形を維持出来なくなり、移住先が現在地だと推察しています。
つまり、古代の記憶の断片が、物語に組み込まれたと解釈しています。
この様に思う理由として、「表記」が古事記で使用され、
子孫であれば、表記の一部変更になりそうですが、そうではありません。
しかし、「いじゃなぎ(いざなぎ)」の様に、同じ表記を継承している場合、
時代は、異なるかも知れませんが、大筋では同じだと思います。
次に、順番についてですが、古事記とは違い、「奥疎神」が最後に来ているのは、
3人の中で、世代交代した為、若いからだと推測しています。
参照55:阿南寺社めぐり 伊島を追加
原文:
次奧津甲斐辨羅神【自甲以下四字以音 下效此】
解読:
次に奧津甲斐辨羅神(甲自(より)以下四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)
この神名の「甲斐辨羅」が「以音」で「音読み」指定になります。
「甲」:呉音:キョウ、漢音:コウ(カッ、入声、後に続くものが無声子音の場合)、
慣用音 : カン
「斐」:呉音・漢音:ヒ
「辨」:呉音:ベン、漢音:ヘン
「羅」:呉音・漢音:ラ
上記により、呉音「きょうひべんら」、漢音「こうひへんら」となりそうです。
検索すると、「音読み」をせずに、「甲斐=かい」としている人が多いです。
これを、訓読みしても「甲(きのえ)」と「斐(あや)」にしかならず、
戦国時代に存在した「甲斐国」が「かい」と読むのは、
隠された事柄があったからだと思われます。
可能性としては、単純に、元々「〇〇」で「かい」としていたけれど、
願掛けなどにより、「甲斐」=「かい」にしたのだと考える事が出来ます。
例えば、「東海林(しょうじ)」と似た理由が存在したのかも知れません。
「甲」:
「尾をひいた亀の甲羅」の象形から
「甲羅」、「殻」を意味する「甲」という漢字が成り立ちました。(借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、
OK辞典
「きのえ(木の兄)(十干の第一位)」の意味も表すようになりました。)
「斐」:
「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を描く」象形(「あや(模様)」)の意味)
OK辞典
と「互いに背を向けて左右にひらく」象形(「そむく」の意味だが、ここでは、
「賁(ヒ)」に通じ(同じ読みを持つ「賁」と同じ意味を持つようになって)、
「あや(模様)」の意味)から、「あやがあって美しいさま」を意味する
「斐」という漢字が成り立ちました。
「辨」:
「入れ墨をする為の針、2本」と「刀」の象形から、
OK辞典
刃物と刀で「わける」を意味する「辨/辧」という漢字が成り立ちました。
「羅」:
「網」の象形と「より糸の象形と尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を
OK辞典
手にした象形(のちに省略)」(「鳥をつなぐ」、
「一定の道筋につなぎ止める」の意味)から、
「鳥を捕える網」を意味する「羅」という漢字が成り立ちました。
まとめると、
「甲」:「甲羅」、「殻」
「斐」:「あやがあって美しいさま」
「辨」:わける
「羅」:鳥を捕える網
となります。
上記から、「「津(港)」で見つけた「甲羅」や「貝殻」が「あやがあって美しく」、
それをわけて使って、網で捕まえる」と解釈出来ます。
つまり、現代のルアーの様に、
「甲羅や貝殻を使い、魚の形に加工して、網で捕まえる」と考えます。
参照58:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「弁/辨/辧/瓣/辯」という漢字
色々と考察して来ました。
「奧疎神」:奥にある神聖な場所の管理
「奧津那藝佐毘古神」:奥に関係者以外近づけない&作物栽培
「奧津甲斐辨羅神」:奥に関係者以外近づけない&魚の獲得
3人は、上記の様な関係があったのだと推測しました。
そして、「那藝佐毘古」と「甲斐辨羅」の名が一体となっていると感じたので、
代々継承される神名だと言えそうなので、「奧疎神」も継承名なのかも知れません。
この神社では、「奥津甲斐弁羅神」の表記を使っていて、
本来の「奧津甲斐辨羅神」の「辨」が「弁」に変更されています。
「弁」の成り立ちについて、参照57のサイトには、下記の様にあります。
「両手で冠をかぶっている」象形で
「かんむり」の意味を表す「弁」という漢字が成り立ちました。※一部変更
OK辞典
とあり、「辨」の様に「刃物と刀で「わける」を意味」を持っていません。
ですが、時代が進むと「「辨/辧/辯/瓣」の略字として用いられるようになりました。」
とある様に、全く意味が異なる漢字が、「略字」として使われるようになります。
「辨」が「弁」に変更されたきっかけを探しましたが、見つからず、
同じ様な意味や成り立ちであれば、ある程度納得できますが、
全く意味が異なり、なおかつ、成り立ちも異なるのに、変更された裏に、
思考の変化や違う文化などの影響があるように思えます。
ちなみに、この表記が「奧津甲斐辨羅神」よりも、後世なのは確実ですが、
神社関係者が書き換えたのか、それとも、この表記が存在したのかなど、
不明な点が多いので、現時点では、子孫とは考えていません。
次奧津甲斐辨羅神
先代旧事本紀
(ふりがな:カヒワケラ)
表記を重要視していたので、ふりがなは、あまり、見ていませんでした。
多くのサイトで「辨」を「弁」として、読みも「べら」とするのですが、
ところが、「甲斐辨羅」のふりがなに「カヒワケラ」と記載されています。
後で、赤字で「ワケ」を「ベ」に変えています。
先代旧事本紀の「完成年」は、諸説あるようですが、序文の
大臣蘇我馬子宿禰等奉、勅(くずし字)修撰
夫先代舊事本紀者聖徳太子且所(くずし字)撰也于時小治田豊浦宮御宇豐御食炊屋姫天皇即位廿八年歳
次庚辰春三月甲午朔戊戌攝政上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊命
大臣蘇我馬子宿禰等奉(中略)
勅(くずし字)可撰録于時丗年歳次壬午春二月朔巳丑(くずし字)是也
先代旧事本紀
にある、「豐御食炊屋姫天皇」と「丗年歳次壬午」から、
「推古30年(622年)完成」したとする説が、Wikiに載っていました。
この説でなくても、
「延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。」ようです。
「先代旧事本紀」の原文確認に「国立国会図書館デジタルコレクション」を
使わせて貰っていますが、この原本は
「寛永21出版、前川茂右衛門著 先代旧事本紀 10巻」という本のようで、
「根岸信輔」さんが寄贈したとあります。
ここで、ふりがなの話に戻すと、前川茂右衛門さんが作製した時は、
「甲斐辨羅」を「カヒワケラ」と読むのが、通常だったと思われます。
しかし、たぶん、明治以降になぜか、「辨羅」が「弁羅」になり、
「ワケラ」から「ベラ」に変わったと考えられます。
情報収集している時に、「新字」制定時に、
「辨・辧・瓣・辯」が「弁」の旧字とされたとあり、不思議でしかありません。
「豐」と「豊」の様に、漢字の形や意味等が大差ないのであれば、
理解出来ますが、「辨・辧・瓣・辯」と「弁」では根本的に違っています。
これにより、現在、多くのサイトで「辨」→「弁」に置き換え、
読みも「ワケ」ではなく、「ベ」を使うのは間違っていますし、
明治以降に改変されたとも言えるように思います。
最初、スルーしようかと考えていましたが、詳細については今後にして、
「聖徳太子」と「上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊」を少し、考えます。
「大臣蘇我馬子宿禰」は、二度の登場の際に同じ表記を使用しています。
しかし、「聖徳太子」は、一回目と二回目で表記が異なっています。
多くの方は、同じだろうと考えると思いますが、
同じであれば、同じ表記を書けば良いだけなのに、そうではありません。
そこで、「上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊」を良く観察していると、
「聦」の漢字が、「聡」の旧字と考えられる「聰」と異なっている事を見つけました。
調べると、「聦」=「聡」=「聰」ではない様に感じています。
悤:窓に空気がまとめて通る様子・あわてる様子を表す形声文字です。
怱:忙(いそが)しい様子を表す形声文字です。
匆:空気の突き抜ける窓(まど)を表す象形文字です。
参照60と61のサイトから、「耳編」を抜いた「旁」の意味を抜き出しました。
他にも、2つは「原字」は「囱」で共通するが、
「匆」は派生したと受け取れる記載があります。
つまり、仲間であるけれど、別字であると言えます。
「異体字」と書く、漢字を取り扱うサイトもありますが、
そもそも、漢字は「形」が異なれば、成り立ちや意味も違うと思うので、
最近では「異体字」=「別字」と考えるようになりました。
閑話休題
「上宮厩戸豐聦耳聖徳太子尊」は、「聖徳太子」の「後継者」で、
家督を継承した「聖徳太子の子」の「攝政」なのではないか?と
現時点では考えています。
「攝政」は、政務を行えないトップに代わり政務を行う役職なので、
「小治田豊浦宮」において「豐御食炊屋姫天皇」が30年も
政務を行っていないとは考えづらいです。
ただ、年齢や病気等で政務を行えない状況が、
即位30年当時、「豐御食炊屋姫天皇」にあったのかは、
他の文献と比較検証しなければ分かりません。
今後、該当箇所で、情報収集して、詳しく検証したいと思います。
参照60:漢字の覚え方 忩・悤
参照61:漢字の覚え方 匆