最後は其妹伊邪那美命自らの身で焉(これ)追って来て
爾(なんじ)千引石(ちびきいし)を引いて、其の黄泉比良坂を塞ぐ
其の石を置き、中で各(おのおの)對(なら)び立ち
而(なんじ)戸の事を度(はかる)之(この)時、伊邪那美命言う
此れ者(は:短語)我が愛しの那勢(なせ)命の如しの為
汝、国の人草は一日千頭絞め殺す
爾(なんじ)伊邪那岐命詔(みことのり)す
我は妹命の那邇(なに)を愛す
汝の為に然る者(は:短語)、吾、一日千五百の産屋を立てる。
是を以って一日千人必ず死に、一日千五百人必ず生まれる也
故、其の伊邪那美神、命を號して黄泉津大神と謂う
亦、其の斯伎斯(此の三字、音を以ってす。しきし)追うを以って、
而(なんじ)道敷大神を號すと云う
亦、其の黄泉坂を塞ぐ所の石者(は:短語)道反大神と號す
亦、黄泉戸大神坐りて塞ぐと謂う
故、其の所者(は:短語)黄泉比良坂と謂う
今、出雲國之伊賦夜坂と謂う也
是を以って伊邪那伎大神詔(みことのり)す
吾者(は:短語)、
伊那志許米(声注:上)志許米岐(此の九字、音を以ってす。いなしこまいしこまいき)に
到るに於いて國の穢れ祁理(此の二字、音を以ってす。ぎり)而(に)在り
故、吾者(は:短語)御身の禊(みそぎ)の為而(に)
竺紫日向之橘小門之阿波岐(此の三字、音を以ってす。あはき)原而(に)到りて、
坐り禊(みそぎ)を祓う也
故、御杖於(お)投棄した所から神名衝立船戸神成る
次に御帯於(お)投棄した所から神名道之長乳齒神成る
次に御嚢(ふくろ)於(お)投棄した所から神名時量師神成る
次に御衣於(お)投棄した所から
神名和豆良比能宇斯能神(此の神名は音を以ってす。)成る
次に御褌(ふんどし)於(お)投棄した所から神名道俣神成る
次に御冠於(お)投棄した所から神名
飽咋之宇斯能神(宇自(より)以下三字、音を以ってす。)成る
次に左の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から
神名奧疎神成る(奧の訓は淤伎と云う、此れ下も效(なら)う。
疎の訓は奢加留と云う、此れ下も效(なら)う。)
次に奧津那藝佐毘古神(那自(より)以下五字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)
次に奧津甲斐辨羅神(甲自(より)以下四字、音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)
次に右の御手の手纒(たまき)於(お)投棄した所から神名邊疎神成る
次に邊津那藝佐毘古神、次に邊津甲斐辨羅神
右の件、船戸神以下自(より)邊津甲斐辨羅神以前の
十二神者(は:短語)脱するに因り身の物著す所生まれる神也
千頭と産屋
「汝國之人草 一日絞殺千頭」を含めた話が展開されます。
今までは、あまり、分かっていませんでしたが、少しずつ分かって来ました。
まず、生き残ったのは「妹伊邪那美命」でありますが、
この話では、「伊邪那美命」とあり「妹」が無くなっています。
「伊邪那美神」と書いている事から考えて、脱字ではなく、
元々の本にはその様に書かれていたのだと思います。
となると、「妹伊邪那美命」→「伊邪那美命」→「伊邪那美神」と
時間の流れが出来て、「伊邪那美命」の時の話が、
千引石で黄泉比良坂を塞いだ時の話ではない可能性が出て来ます。
「汝國之人草 一日絞殺千頭」(汝、国の人草は一日千頭絞め殺す)
「伊邪那美命」が話している事から、
「伊邪那岐命」の国の事を指していると言えそうです。
「伊邪那岐命」の国で「一日千頭」を絞殺しているのが本当であれば、
国民が多くいて、畜産業が盛んなのだと思われます。
「千頭」の配分は書かれていませんが、「牛」、「豚」、「鶏」の他に、
紀元前1000年頃の人達は、どの様な肉を食べていたのでしょう。
あと、この文を見ると、「伊邪那美命」から見て、
「一日千頭」の家畜を絞殺することに、良く思っていなかった可能性もあります。
「伊邪那岐命」は、国民が多くいるし、家畜のコントロールが出来ているから、
問題ないと考えているが、「伊邪那美命」は「火山の恩恵」で生活していた為に、
当時、家畜が育たなかった事があり、
「肉」の大量消費を「悪」と考えていたとも受け取れます。
「汝爲然者 吾一日立千五百産屋 是以一日必千人死 一日必千五百人生也」
(汝の為に然る者(は:短語)、吾、一日千五百の産屋を立てる。
是を以って一日千人必ず死に、一日千五百人必ず生まれる也)
先程の「一日千頭絞殺」と「一日千五百の産屋」では、話が噛み合っていません。
たぶん、この間に類する話があったように思えます。
普通に考えると、
「1日1500の産屋を建設」、「1日1000人が死亡」、「1日1500人誕生」
となりますが、「産屋」を「1人に付き1つ」作る必要があるのでしょうか?
どうも、文は正しいかも知れませんが、
その背景が現代人がイメージする映像とは、違っているように思えます。
この後の文は、「故、其の伊邪那美神、命を號して黄泉津大神と謂う」となり、
何が、「故に」なのか、こちらも、話が繋がっていません。
「1日1000人が死亡」、「1日1500人誕生」ならば、国民の数は+500とはなりますが、
この様な状況は、何があればそうなるのでしょう?
黄泉津大神
原文:
故號其伊邪那美神命謂黄泉津大神
解読:
故、其の伊邪那美神、命を號して黄泉津大神と謂う
上記の原文の様に記載され、
この後に、「亦」が3つ続きますので、一つずつ考えて行きます。
まず、「伊邪那美神」とありますが、地上に戻って来れたのは、
「妹伊邪那美命」であって、「伊邪那美神」ではありません。
生き残った「妹伊邪那美命」が、後に「神へ昇進」するための課題に合格し、
「伊邪那美神」と名を変えたのだと思われます。
もしくは、次世代かですが、判断が出来ません。
当然、「神へ昇進」するのは、大変だと思うので、
黄泉比良坂を千引石で塞いでから、月日が流れていると解釈できます。
同時に、「妹伊邪那美命」は先代「伊邪那美神」から継承した、
「黄泉國」の再建を模索したと思います。
それら、全ての事を片付けて、「黄泉津大神」の號(よびな)を貰ったとするなら、
「黄泉國大神」ではないでしょうか?
この、「黄泉津」の「津」はどこから来たのでしょう?
考えられるのは、代々継承して来た「黄泉國」が大きな被害を受けたので、
再建する際に、今まで、作って来なかった「津」、つまり、「港」を作った事です。
もしかしたら、別方向で流れていた、溶岩流や火砕流が海に到達し、
道を作ったので、「津」を作ったとも考えられます。
原文:
亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而 號道敷大神
解読:
亦、其の斯伎斯(しきし)追うを以って、而(なんじ)道敷大神を號すと云う
最初の「亦」です。
ここでは、「其の斯伎斯(しきし)追う」ので「道敷大神」とあります。
「道敷大神」と「道」を「敷く」とあるので、「其の斯伎斯」は、
溶岩流や火砕流、土石流によって「道」が出来たので、有効活用するべく、
跡地に道を敷いて、通行出来るようにした事からだと考えられます。
「斯伎斯」とは何でしょうか?
ネットで探して見ましたが、言及しているサイトがありませんでした。
「斯」:呉音・漢音:シ、宋音:ス
「伎」:呉音:ギ(表外)、漢音:キ
上記により、呉音「しぎし」、漢音「しきし」となりそうです。
「斯」:
「農具:箕(み)」の象形(「穀物を振り分ける」の意味)と
「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、
「斧で切り分ける」を意味する「斯」という漢字が成り立ちました。また、「此(シ)」に通じ(同じ読みを持つ「此」と同じ意味を持つようになって)
OK辞典
「これ」の意味も表すようになりました。
「伎」:
「横から見た人」の象形と「竹や木の枝を手にする」象形
OK辞典
(「枝を支え持つ」の意味)から、枝を持って演ずる事を意味し、
そこから、「わざおぎ(映画・演劇などで、劇中の人物を演ずる人)」を
意味する「伎」という漢字が成り立ちました。
「斯」が「斧で切り分ける」、「伎」が「才能や技術」と考えると、
上記の解釈の様に「溶岩流や火砕流、土石流によって「道」が出来た」が、
利用できる状態では無いので、道を整備したと言えると思われます。
「亦所塞其黄泉坂之石者 號道反大神」
(亦、其の黄泉坂を塞ぐ所の石者(は:短語)道反大神と號す)
「亦」の2つ目ですが、これは、生き残った「妹伊邪那美命」を指すのではなく、
「助けてくれてありがとう」と言う意味を込めて、石に贈ったのでしょう。
「亦謂塞坐黄泉戸大神」(亦、黄泉戸大神坐りて塞ぐと謂う)
最後の「亦」です。
「黄泉」は「黄泉國」で、「戸」を探すと、塞ぐとあるので、
「度事戸之時」の「戸」ではないかと思います。
火砕流であれば、燃えてしまうはずなので、土石流を防いだという事でしょうか。
最低でも、塞いだ場所には、「千引石」と「戸」が存在した事は確かなようです。
原文:
故其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲國之伊賦夜坂也
解読:
故、其の所者(は:短語)黄泉比良坂と謂う。今、出雲國之伊賦夜坂と謂う也
「故、其の所者(は:短語)黄泉比良坂と謂う」とうまく纏めていますが、
しかし、「比良」に関しては書かれていないので、「故」とするのには不十分です。
「出雲國之伊賦夜坂」を検索すると、色々なサイトなどで紹介されています。
3000年近く経つので、当時の状況が残っているとは思えませんが、
本当に現在地がそうなのかは、不明です。
もう少し調べて行くと、「松江市東出雲町揖屋平賀」が現在地のようですが、
参照5のサイトの記事が本当であれば、
「出雲國之伊賦夜坂」がこの地ではない可能性が高そうです。
もう少し、付け加えると、「今〇〇謂う」と言う形式は、古事記編纂時にそうであって、
問題発生当時、その場所なのかどうかは不明だと思われます。
なぜなら、現代の様に、情報がしっかりと残る時代なら問題ないですが、
問題が発生したと思われる、紀元前1000年頃と古事記編纂の西暦700年頃、
1700年近く前の情報が正しく、後世に伝わっていたのか?と思うからです。
ある程度の時期で、古い情報を新しい素材に書き写す作業があり、
霞んでいたり、見えなくなっていたり、使われなくなった言葉があれば、
当然、その当時の時代の言葉を使うと考えられます。
しかし、それが、本当に正しいのかは、比較しなければ分かりません。
場合によっては、伝言ゲームのように全く異なる事もあると思います。
「松江市東出雲町揖屋平賀」は、「出雲国風土記」の「意宇郡」管轄の様ですが、
原文で調べてみると「伊布夜社」が2社見つかりますが違います。
「神祇官不在(あら)ず」とあり、管理者不在の様です。
とは言え、「熊野大社」が一番前にあるので、
敷地内に式内社として存続していたと思われます。
結局、「意宇郡」の記事内に、
「出雲國之伊賦夜坂」と思われる場所を見つける事が出来ませんでした。
ちなみに「伊布夜」と「伊賦夜」は似ていますが、
「布」と「賦(古代中国の韻文における文体の一つ)」では、意味が大きく異なるので、
由来は分かりませんが、似た言葉が存在していたのだと思われます。
「出雲郡美談郷」に「黄泉之坂」・「黄泉之穴」と呼ばれる場所があると記載され、
「黄泉比良坂」が長い年月の経過により、「黄泉之坂」と省略したと考えています。
他にも、この「美談郷」には、「神名火山」が記載されているので、
「伊邪那美」の「黄泉國」は、
「神名火山」の中腹辺りに存在していた可能性があります。
「伊邪那美」の記事で、「火神」ともあるので、可能性が高そうです。
この様に考えて行くと、「出雲國之伊賦夜坂」と本当に呼ばれていたのでしょうか?
もし、古事記編纂時に、その様に呼ばれていたのならば、当然、
出雲国風土記にも過去に「黄泉比良坂」と呼ばれていた地だと、
記載されていても不思議ではないはずですが、「黄泉之坂」と曖昧です。
片方が正しいのか、それとも、両方が間違っているのか、現代では判断できません。
ただ、「出雲國之伊賦夜坂」と「黄泉比良坂」の両方が存在していたのかも知れません。
参照5:80年前に造られた伝説地