最終更新日 2022/08/23

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古事記 へようこそ Welcome to Japanese History

 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

神世7代までのまとめと時代考証

解説

03

高天原

今回は、「高御產巢日神」の人物像を考察します。

高天原

「高地」に定住した「天(あま)一族」に移住して初めての戦闘が起きます。

「紀元前1000年頃」と考えていますが、
それよりも前の「紀元前1050年頃」かも知れません。

「初めて戦闘した」と解釈出来る、「初發」の記述しか無く、詳細が分かりませんが、
「八拳須」の状況を「紀元前900年頃」とすると、
「天地初發之時」の時期は、「紀元前1050年頃」の方が適している様にも思えます。

戦闘相手

では、戦った相手は誰だったのでしょうか?

最初、「高御產巢日神」率いる軍と考えていましたが、
「高御產巢日神」のいる土地には、他にも色々な部族が住んでいたとすると、
「天なる地」の近くに住んでいた部族が、
「天(あま)一族」に対して攻撃をしたと考える事も出来そうです。

そして、「天(あま)一族」がその相手を倒した所を見た「高御產巢日神」が、
他の部族に先駆けて、「天(あま)一族」の傘下に入ったと推測しています。

これにより、「高御產巢日神」は「天(あま)家」内での地位を手に入れ、
最低でも「神武天皇(俗称)」の時代までは、
一族を存続させる事が出来たのだと思われます。

「高御產巢日神」に先見の明があったのでしょう。

もし、戦闘して負けて傘下に入ったとしても、
信用されない可能性が高いと思えます。

しかし、古事記を見る限り、絶大な信頼により、
大きな権力を与えられていた様に感じます。

組織

「高天原」の名は、「天(あま)一族」の「高原」と考えられます。

移住後の「初戦闘」に勝ち、「高御產巢日神」が自ら配下に入った事で、
「高原」では、「天(あま)家」につくのか、
それとも、敵対するのかを迫られたのだと思います。

その中で、古事記の「神世七代」までが、傘下に入る決断をしたのでしょう。

しかし、当然、敵対する勢力もいて、その勢いが強く、
「天之御中主神」達は、部族単位で動いては効率が悪いと考え、
「高天原」という「組織」を設立したのではないかと推測しています。

高御產巢日神

「高御產巢日神」の一族とは何か?を考え、調べると、
古代中国の「黄帝(こうてい、紀元前2510年~紀元前2448年)」の時代に、
「高夷族」の「高元」という人物が登場します。

高夷族

「高夷族」は「夷」とある事から、中原の「東」にいた民族だと思われます。

調べると、「濊貊」に名が登場します。

濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、
貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。

Wiki

「高夷族」が元々、「濊貊系」なのか、
「濊貊系」と接触し、同化した事で、その様に分類されたのかは不明です。

この「濊貊系」の人達が居た地域が下記になります。

濊貊(わいはく、かいはく)は、
中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、
北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族

Wiki

現在の「北朝鮮の北東部ロシアとの国境地域〜北朝鮮」となります。

これにより、地理的に考えて、「高夷族」が南下し、
一部が「高御產巢日神」になった可能性が出て来ます。

逸話

「高夷族」の逸話について、Wikiでは下記の様に書いています。

『呂氏春秋』勿躬篇によれば「高元作室」とあり、
高元なる人物が黄帝のために家屋を発明し、
人類史上で穴居時代を終了させた貢献者であると伝えられている。

Wiki

上記の「人類史上」は確実な誇大解釈で、
「古代エジプト」では、クフ王などの時代で王朝を築いているし、
インダス文明など、既に「穴居時代」では無いです。

この「室」は、「黄帝」が「医師」としても有能だという事から、
「薬」作りを、それまで、洞窟などの「穴」で行っていて、不便に見えたので、
「高元」という人物が、「作業部屋」を建築したのだと思われます。

また、「医師」の仕事に執着し、研究もあって、
作業する穴で寝泊まりしていたのかも知れません。

神產巢日神

「高御產巢日神」が「濊貊系」の「高夷族」出身で、
「建築」の能力があったとすると、「御」=「治める」も納得出来ます。

では、「神產巢日神」は、「高御產巢日神」と「同族」なのか、
それとも、「別族」なのかの判断が、「神」しか無く、難しいです。

ただ、「神」の漢字から、少し推測する事も出来そうです。

「神」の旁「申」は、「雷」を指し、「申」だけで「かみ」と読んでいた様です。

関連して、「雷が多い年は豊作」という言い伝えがあります。

そこから、「神產巢日神」が所有する土地は「農地」で、
「農地」付近では「雷」が多く発生し、豊作なので、
「神」の名になったのだと思います。

また、「神產巢日神」は「農地」で採れる作物で、
「高御產巢日神」の後ろ盾としての役目を果たしていたと考えています。

つまり、「高御產巢日神」の「建築」と、「神產巢日神」の「作物」で、
不足分を補うという利害が一致し、
傘下ではなく、「対等」の関係だったと思われます。

もし、傘下であるならば、代表は「高御產巢日神」だけで良いはずですが、
「高御產巢日神」と「神產巢日神」の二代表制を採用しています。

もしかしたら、先見の明があったのは「神產巢日神」で、
促される形で「高御產巢日神」が同意したのかも知れません。

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