最終更新日 2024/06/30

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 第三章 大國主神

故爾追至黄泉比良坂遙望呼 謂大穴牟遲神曰 其汝所持之生大刀 生弓矢以而
汝庶兄弟者追伏坂之御尾 亦追撥河之瀬而 意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而
其我之女須世理毘賣 爲嫡妻而 於宇迦能山【三字以音】之山本 於底津石根
宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】 而居 是奴也 故持其大刀弓
追避其八十神之時毎坂御尾追伏 毎河瀬追撥而 始作國也 故其八上比賣者
如先期美刀阿多波志都【此七字以音】 故其八上比賣者雖率來 畏其嫡妻須世理毘賣而
其所生子者刺狹木俣而返 故名其子云木俣神亦名謂御井神也 此八千矛神
將婚高志國之沼河比賣幸行之時 到其沼河比賣之家歌曰

夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖
登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖
久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇
阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母
伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比
和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇
奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理
迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母
宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能
加多理其登母 許遠婆

爾其沼河比賣 未開戸 自內歌曰

夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆
和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米
能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾
伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆

阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能
惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳
多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志
夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆

故其夜者 不合而 明日夜 爲御合也

又其神之嫡后須勢理毘賣命 甚爲嫉妬 故其日子遲神 和備弖【三字以音】 自出雲將上坐倭國而
束裝立時 片御手者 繋御馬之鞍 片御足 蹈入其御鐙而 歌曰

奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比
淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受
幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠
麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐
波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖
夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇
斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理
牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能
伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能
和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能
比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能
疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆

爾其后 取大御酒坏 立依指擧而歌曰

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波
遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流
伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與
賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖
都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻
爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐
多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇
伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

如此歌 卽爲宇伎由比【四字以音】而 宇那賀氣理弖【六字以音】至今鎭坐也 此謂之神語也
解読

故爾(ゆえに)黄泉比良坂に追い至り、遥かに望み呼ぶ

大穴牟遲神謂い曰(いわ)く

「其の汝(なんじ)が持つ所の之(この)生大刀と生弓矢以って而(しかるに)、
汝(なんじ)者(は:短語)庶兄弟を坂之御尾に追い伏せ、亦、河之瀬而(に)追い撥(おさ)めよ」

意禮(いらい)大國主神と爲(なり)亦宇都志國玉神而(に)爲(なる)

其の我(われ)之女須世理毘賣、嫡妻而(に)爲(なる)

宇迦能山(うけのやま※呉音)之山の本(ふもとの意)に於(お)いて
底津石根(そこついわね)於(お)宮柱(みやはしら)の
布刀斯理(ふとしり)に高天原の氷於(お)多迦斯理(たけしり※呉音)
而(に)居す 是(これ)奴(やつこ※臣と同義)也

故、其の大刀弓持ち、其の八十神追って避けれない時、坂之御尾毎(ごと)に追い伏せ、
河の瀬毎(ごと)而(に)撥(おさ)め國を作り始める也

故、其の八上比賣者(は:短語)、先の期美刀阿多波志都(みとあたはしつ)の如く

故、其の八上比賣者(は:短語)率いて來たと雖(いえども)
其の嫡妻須世理毘賣而(に)畏れる

其の所で生んだ子者(は:短語)狹(せま)い木俣而(に)刺し返す

故、其の子の名木俣神と云い、亦の名御井神と謂(い)う也

此の八千矛神將(まさ)に高志國之沼河比賣と婚し行幸之時
其の沼河比賣之家に到りて歌曰(いわ)く


夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖

やちほこの かみのみことは  やしまくに   つままきかねて
八千矛の  神の命は       八島国    妻まきかねて

登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 
とほとほし  こしのくにに   さかしめを  ありときかして
遠遠し    高志の国に   賢し女を   在りと聞かして

久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇
くはしめを   ありときこして   さよばひに  ありたたし  よばひに
麗し女を   在りと聞こして   さよばひに  あり立たし  呼ばひに
持つ所

「さよばひに」は古代、呼び続ける→求婚に変化し
この詩の影響があったのでは云われている。

阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母
ありかよばせ  たちがをも  いまだとかずて  おすひをも
あり通ばせ   大刀が緒も  未だ解かずて    襲をも

伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比
いまだとかねば  をとめの  なすやいたとを  おそぶらび
未だ解かねば   乙女の  寝すや板戸を   押しゆるがし

和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇
わがたたせれば ひこづらひ  わがたたせれば  あをやまに
我が立たせれば 引こづらひ  我が立たせれば 青山に

奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理
ぬえはなきぬ  さのつとり   きぎしはとよむ   にはつとり 
鵺は鳴きぬ   さ野つ鳥    雉は響む      庭つとり

迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 
かけはなく   うれたくも  なくなるとりか   このとりも
鶏は鳴く    心痛くも   鳴くなる鳥か    この鳥も

宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能 
うちやめこせね  いしたふや  あまはせづかひ  ことの 
打ち止めこせね   いしたふや   天馳使い      事の

加多理其登母 許遠婆
かたりごとも   こをば
語りごとも    此をば


爾(なんじ)、其の沼河比賣、戸を未だ開けず、歌を內自(より)曰く


夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆

やちほこの かみのみこと ぬえくさの めにしあれば

和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米

わがこころ うらすのとりぞ いまこそば わどりにあらめ

能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾

のちは などりにあらむを いのちは なしせたまひそ

伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆

いしたふや あまはせつかひ ことの かたりごとも こをば

阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能

あをやまに ひがかくらば ぬばたまの よはいでなむ あさひの

惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能

ゑみさかえきて たくつなの しろきただむき あわゆきの

和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳

わかやるむねを そだたき たたきまながり またまで

多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志

たまでさしまき ももながに いはなさむを あやに なこひきこし

夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆

やちほこの かみのみこと ことの かたりことも こをば


故、其夜者(は:短語)不合(あわず)而(に)、明日の夜、御合(みあい)爲(なす)也

又、其神之嫡后須勢理毘賣命、甚だ嫉妬爲す。

故、其の日子遲神 和備弖(わびて)【三字以音】、
出雲自(より)將(まさに)上の倭國而(に)坐す

束の間に立つ時装い、片の御手者(は:短語)御馬之鞍を繋ぎ、
片の御足は其の御鐙而(に) 蹈み入れて、歌曰く


奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比

ぬばたまの くろきみけしを まつぶさに とりよそひ

淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受

おきつとり むなみるとき はたたぎも これはふさはず

幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠

へつなみ そにゆきうて そにとりの あおきみけしを

麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐

まつぶさに とりよそひ おきつとり むなみるとき

波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖

はたたぎも こもふさはず へつなみ そにぬきうて

夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇

やまがたに まきし あたねつき そめきがしるに

斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理

しめころもを まつぶさに とりよそひ おきつとり

牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能

むなみるとき はたたぎも こしよろし いとこやの

伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能

いものみこと むらとりの わがむれいなば ひきとりの

和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能

わがひきいなば なかじとは なはいふとも やまとの

比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能

ひともとすすき うなかぶし ながなかさまく あさあめの

疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆

ぎりにたたむぞ わかくさの つまのみこと ことの かたりごとも こをば

※参考にしているサイトでは、「疑理邇多多牟叙」ですが、
 「佐疑理迩多多牟叙」という写本もあるようですが、確認できませんでした。


爾(なんじ)其の后、大御酒坏を取って立ち、
指で依って擧(あ)げて而(すなわち)、歌曰く

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波

やちほこの かみのみことや あがおほくにぬし なこそは

遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流

をにいませば うちみる しまのさきやき かきみる

伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與

いそのさきおちず わかくさの つまもたせらめ あはもよ

賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖

めにしあれば なをきて をはなし なをきて

都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻

つまはなし あやかきの ふはやがしたに むしぶすま

爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能

にこやがしたに たくぶすま さやぐがしたに あわゆきの

和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐

わかやるむねを たくづぬの しろきただむき そだたき

多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇

たたきまながり またまで たまでさしまき ももながに

伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

いをしなせ とよみき たてまつらせ


此の歌の如く、卽、宇伎由比【四字以音】と爲す。

而(すなわち)、宇那賀氣理弖【六字以音】、今、鎮えに坐すに至る也。

此れ、神之語りと謂う也。

解説

07

宇那賀氣理弖


宇那賀氣理弖

原文:

如此歌 卽爲宇伎由比【四字以音】而
宇那賀氣理弖【六字以音】至今鎭坐也 此謂之神語也

解読:

此の歌の如く、卽、宇伎由比【四字以音】と爲す。

而(すなわち)、宇那賀氣理弖【六字以音】、今、鎮えに坐すに至る也。

此れ、神之語りと謂う也。

宇那賀氣理弖

宇那賀氣理弖【六字以音】と注記があり、「音読み」指定となります。

「宇」:呉音・漢音:ウ

「那」:呉音:ナ、漢音:ダ(表外)、宋音:ノ(表外)

「賀」:呉音:ガ、漢音:カ(表外)

「氣」:呉音:ケ、漢音:キ

「理」:呉音・漢音:リ

「弖」:音読み無し

上記により、呉音「うながけり」、漢音「うだかきり」となりそうです。

意味

Wikiでは「原義は古代中国に存在した国の一つ」とあります。

この「古代中国に存在した国」が、いつの時代なのか?や、
どの様な場所に存在していたのか?を探しましたが検索では全然、見つかりませんでした。

気になるのが「支那」という言葉で、
Wikiでは「中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称」とあり、
「一部の地域」というのは、「那國」の事ではないか?と考えています。

「支那」の原義も諸説あり、「那國」起源でも不思議では無いと思います。

他に参考にできる情報が無いかを検索すると、参照124のサイトが見つかりました。

こちらでは、「〔説文〕に陝西の地名とする。」とあったので、「説文解字」を調べてみました。

参照125のサイトが見つかり、下記のように書いています。

説文解字

西夷國。从邑冄聲。安定有朝那縣。諾何切


説文解字注

西夷國。其地當在今四川之西。史記。自筰以東北。君長以什數。冄駹冣大。

在蜀之西。又謂牂柯爲南夷。邛筰爲西夷。葢卽冄駹之冄字。 古今字也。

按文王之子耼季。賈逵、韋昭皆云。耼、國名。但其地闕。

史記作冄。索隱云。冄或作。終莫詳其地也。左傳。莊十八年有處。

杜 云。處、楚地。凡若此等異地同名者。今皆不引以茲䋣蕪。从邑。

冄聲。諾何切。按冄聲本在七八部。雙聲合韵也。小雅、商頌毛傳曰。、多 也。

釋詁曰。、於也。左傳。棄甲則。杜云。猶何也。今人用字皆爲柰何之合聲。

越語。吳人之不榖。亦又甚焉。韋 注。、於也。此釋詁之 證。郭失其解。

又魚藻箋云。、安皃。安定有朝縣。安定郡朝、二志同。

今陜西平涼府府東南有朝故城。許意葢謂與朝異處。

如上文鄖與鄖關 之例。如淳朝音株。

※「那」と読める漢字が「画像」になっているので、ここでは復元していません。

「説文解字」では、「西夷國」としか書いていません。

「説文解字注」には色々と書いていますが、「段玉裁」が「清代」に書いた注釈書なので、
どこまで正しいのかについては不明です。

ですが、「西夷」について、Wikiには下記のように書いています。

西夷(せいい)は、殷王朝時代の異民族の一つであり、
周王朝時代になると西戎に改名した。

○概要

西夷とは、西方に住んでいた夷狄のことである。

殷王朝時代には、西夷および北狄と東夷の区別があった。

周人は西夷に囲まれて暮らしていたが、
西夷のなかの一種族である混夷(中国語版)が最も精強だった。

その後、周人は混夷(中国語版) を退けて西夷の覇者となり、
周文王は西夷の諸侯を率いて殷王朝に反抗し、
紂王を撃破して周王朝を建国した。

孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、
鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷 の人だ」
として、舜は「東夷」の人、周文王は「西夷」の人であると述べている。

清王朝の第5代皇帝である雍正帝は、華夷思想により満州人の支配を良しとせず
明の復活を唱える思想家に対しては自ら論破し、
討論の経 緯を『大義覚迷録』という書物にまとめ、
「本朝が満州の出であるのは、中国人に原籍があるようなものだ。

舜は東夷の人だったし、文王 は西夷の人だったが、
その聖徳は何ら損なわれてはいない」と強調している。

Wiki

言葉だけだと分かりづらいので、地図を探していると、
参照126のサイトが見つかり、「中国地図無料ダウンロード」とあったので、
使わせてもらいました。

参照124:那(漢字)とは? 意味や使い方

参照125:“那”字的基本解释

参照126:中国まるごと百科事典

まとめ

「説文解字」では「西夷國」、「説文解字注」では追加で「其地當在今四川之西」とあります。

ちなみに、「四川」は、三国時代の「蜀」の地を指すようです。

しかし、「周人は西夷に囲まれて暮らしていた」というWikiの情報から、
「周」の西も「西夷」、「蜀」の西も「西夷」と認識していたのでは無いか?と考えています。

「西」と言っても、範囲については見つけることは出来ませんでした。

あと、参照124のサイトに、「〔説文〕に陝西の地名とする。」とありますが
参照125のサイトにある「説文解字」を見ると分かりますが「西夷國」としかありません。

なぜ、「西夷=陝西」と思ったのでしょうか?

「那國」が「西夷」であると仮定すると、「周」では「西戎」に改名したとあるので、
「殷代」に存在した國の可能性が高くなります。

残念ながら、情報源が無いという事は、「小國」の可能性がありますが、
単に情報が、消失しただけかも知れませんし、真相は闇の中です。

現在の「賀」は縦に並んでいますが、金文では「貝+加」となっています。

参照127のサイトにある、字形の変遷が分かりやすいです。

現在、「戦国時代の金文」の字形しか発見されていない様ですが、
「戦国時代の金文」で「貝+加」となっているのに、
「説文解字」では、現在の字形になっているのは、何があったのでしょうか?

「貝」の字形について調べましたが、
「説文解字」で「海介虫也。居陆名猋,在水名蜬。象形」とあり、
「貝とは、海介虫の事」としているのが、すごく不可解です。

もしかして、「貝」の様に見えるけど、
「海の虫」を指す字形が存在したのだろうか?と思っています。

理由として、参照127のサイトにある、字形の変遷ですが、
番号があって、「1〜4」までは角の様な突き出る字形です。

ところが、「5」以降、二本線は継承しているけど、
曲線が無くなり、四角形の様な字形になります。

仮に、「貝=海の虫」とすれば、「貨幣」の意味に捉えるのは難しいと思います。

※「天佐具賣(現在制作中)」も参照

参照127:賀_百度百科

「加」について調べてみると、簡単ではなかったです。

多くの字形を載せているサイトには、「西周」時代の「金文」がありますが、
参照128のサイトには「甲骨文」が載っていました。

他に例が無いので、判断は難しいですが、
こちらに載っているのは「女+鋤」が「加」だと言うことです。

「那」は「殷」もしくは「周」と繋がっているので、
意外と当時は「女+鋤=加」を指していたとしても不思議では無いです。

そもそも、「くわえる」という意味では無いかも知れません。

あと、「女+鋤」は、別に不思議な構成ではなくて、
「殷代」に「母系制」から「父系制」へと移行したと云われています。

それは、「戦争時に兵を効率的に集める為」とも云われています。

狩猟採取時代であれば、男性は狩り、女性は採取で役割分担出来ていますが、
男性は「狩り」ではなく、「戦場」に行く事が多くなると、
女性は「採取」の代わりとなる「畑」を耕すなどの維持管理をする様になります。

もしかすると、「女+鋤」とは、その事を指しているのでは無いか?とも思えます。

参照128:漢字「加」の甲骨文字から金文のへ劇的な変化

まとめ

参照127のサイトには、「説文解字」として「胡箇切以礼相奉庆也」とあり、
翻訳すると「胡謝琦は礼儀正しくお互いを祝う」となります。

参照129のサイトにも、下記のように書いています。

声符は加。加は耜(力)を祓い清めて、その生産力を高めるための儀礼。

貝も生産力を高め、 魂振り的な呪能をもつとされるもので、両者を併せて、
生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である。

金文の〔大豊設〕に鋤に作る字があり、耜に貝を加えている形。

耜の生産力を鼓舞する意がある。嘉も加に従う字で、賀と声義が近い。

この考察が正しいと思いますが、やはり「貝」が、本当に「財力」なのか疑問が残ります。

参照129:漢字「賀」の由来

今まで、「水蒸気」などの「気体」を指す漢字と思っていましたが、
深堀すると、どうも違うという事が分かりました。

最初、Wikiに「「食べ物を贈る」を意味する漢語」とあったので、
全然、信用できずに疑心暗鬼でした。

検索して見たサイトの9割は、「気体」と書いていましたが、
参照130のサイトを見て、考えが変わりました。

解字の場所の「落合」さんの考察には、下記の様にあります。

甲骨文は橫劃を三つ竝べた形。

字を後代に空氣、雲氣の意に用ゐるので、その象形とする説が有力だが、
甲骨文にその用法はなく、字源は確實ではない。

甲骨文字では貢納物が至ることを意味する用法が多く、
物資を積み重ねたさまを抽象的に表した字とする説もある。

气、乞、迄は同源の字。

甲骨文での用義は次のとほり。(補註: 落合は釋字に迄に當てる。)

1.いたる。占卜に用ゐる牛骨などが齎されること。また人や降雨などが到來すること。
  《合集補編》184・貢納記錄甲申、迄自雩十屯。
  《合集》12532・後半驗辭…貞…。王占曰、疑、茲迄雨。之日、允雨。三月。

2.いたす。貢納物を納入すること。
  《合集補編》10890・貢納記錄乙丑、[⿻矢口]迄骨三。[⿻矢口]は矢が口を貫く形。
  《甲骨拼合集》42甲午卜賓貞、令周迄牛、多…。

3.いたる。日附が至ること。迄至ともいふ。
  《甲骨拼合集》295・驗辭迄至七日己丑、允有來㛸。自西微戈…告曰、
           𢀛方征于我奠…。

4.動詞。軍隊を率ゐることであらう。迄以ともいふ。
  《合集》795辛未卜㱿貞、我廾人迄、在黍不[冊曰]、受…。

後に借りて請ふことを表す(補註: 乞に當たる)。
古文で意符に辵を加へて迄につくり、至るの意を表す。

「甲骨文字では貢納物が至ることを意味する用法が多く、
物資を積み重ねたさまを抽象的に表した字とする説もある。」という考察は初めて知り、
「気体」というのは、諸説の中の1つだったのを、初めて知りました。

また、「説文解字」にも「餼,氣或從食」とありますし、
参照131のサイトの説明に「氣”字的本義是贈送人的糧食」と
Wikiの「食べ物を贈る」と同じと受け取れる文もあります。

あながち間違っていないと思います。

参照130:气 - 漢字私註

参照131:氣_百度百科

「玉を加工する」を意味する漢語なんですが、
参照132のサイトにある「西周晚期金文」の形で、左側が「王」と認識できるでしょうか?

見ると上に「王」、下に「右手?」、右側は「里の横棒が少ない字形」と解釈できます。

「右手」の字形の様なのは、必要だったのでしょうか?

なぜ、「里」ではなく、横棒が一本足りないのでしょうか?

また、「傳抄古文字」にある字形の1番と2番は「王」ではなく「人」ですし、
5番以降の字形も「理」と判断できません。

参照132:古今文字集成-理-

まとめ

「宇」:建物内で楽器を奏でる事で、神事を行う

「那」:西夷(周と蜀を直線で結ぶラインより西)の國

「賀」:礼儀正しくお互いを祝う

「氣」:食べ物を贈る

「理」:玉を加工する

「弖」:準備完了

上記の様に考えると、大掛かりなお祭りを指している様に思えます。

「玉」を使ったと仮定すると、王の世代交代といった行事かも知れません。

「宇伎由比」も「神事」に関与している可能性がありますし、
「宇那賀氣理弖」も、似たような事を指しているので、
大規模であるのは間違いが無いと思いますが、
実際に、どの様な事が行われたのかについては、想像も出来ません。

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