最終更新日 2024/06/30

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 第三章 大國主神

故爾追至黄泉比良坂遙望呼 謂大穴牟遲神曰 其汝所持之生大刀 生弓矢以而
汝庶兄弟者追伏坂之御尾 亦追撥河之瀬而 意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而
其我之女須世理毘賣 爲嫡妻而 於宇迦能山【三字以音】之山本 於底津石根
宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】 而居 是奴也 故持其大刀弓
追避其八十神之時毎坂御尾追伏 毎河瀬追撥而 始作國也 故其八上比賣者
如先期美刀阿多波志都【此七字以音】 故其八上比賣者雖率來 畏其嫡妻須世理毘賣而
其所生子者刺狹木俣而返 故名其子云木俣神亦名謂御井神也 此八千矛神
將婚高志國之沼河比賣幸行之時 到其沼河比賣之家歌曰

夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖
登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖
久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇
阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母
伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比
和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇
奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理
迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母
宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能
加多理其登母 許遠婆

爾其沼河比賣 未開戸 自內歌曰

夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆
和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米
能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾
伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆

阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能
惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳
多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志
夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆

故其夜者 不合而 明日夜 爲御合也

又其神之嫡后須勢理毘賣命 甚爲嫉妬 故其日子遲神 和備弖【三字以音】 自出雲將上坐倭國而
束裝立時 片御手者 繋御馬之鞍 片御足 蹈入其御鐙而 歌曰

奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比
淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受
幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠
麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐
波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖
夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇
斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理
牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能
伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能
和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能
比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能
疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆

爾其后 取大御酒坏 立依指擧而歌曰

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波
遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流
伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與
賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖
都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻
爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐
多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇
伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

如此歌 卽爲宇伎由比四字以音而 宇那賀氣理弖六字以音 至今鎭坐也 此謂之神語也
解読

故爾(ゆえに)黄泉比良坂に追い至り、遥かに望み呼ぶ

大穴牟遲神謂い曰(いわ)く

「其の汝(なんじ)が持つ所の之(この)生大刀と生弓矢以って而(しかるに)、
汝(なんじ)者(は:短語)庶兄弟を坂之御尾に追い伏せ、亦、河之瀬而(に)追い撥(おさ)めよ」

意禮(いらい)大國主神と爲(なり)亦宇都志國玉神而(に)爲(なる)

其の我(われ)之女須世理毘賣、嫡妻而(に)爲(なる)

宇迦能山(うけのやま※呉音)之山の本(ふもとの意)に於(お)いて
底津石根(そこついわね)於(お)宮柱(みやはしら)の
布刀斯理(ふとしり)に高天原の氷於(お)多迦斯理(たけしり※呉音)
而(に)居す 是(これ)奴(やつこ※臣と同義)也

故、其の大刀弓持ち、其の八十神追って避けれない時、坂之御尾毎(ごと)に追い伏せ、
河の瀬毎(ごと)而(に)撥(おさ)め國を作り始める也

故、其の八上比賣者(は:短語)、先の期美刀阿多波志都(みとあたはしつ)の如く

故、其の八上比賣者(は:短語)率いて來たと雖(いえども)
其の嫡妻須世理毘賣而(に)畏れる

其の所で生んだ子者(は:短語)狹(せま)い木俣而(に)刺し返す

故、其の子の名木俣神と云い、亦の名御井神と謂(い)う也

此の八千矛神將(まさ)に高志國之沼河比賣と婚し行幸之時
其の沼河比賣之家に到りて歌曰(いわ)く


夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖

やちほこの かみのみことは  やしまくに   つままきかねて
八千矛の  神の命は       八島国    妻まきかねて

登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 
とほとほし  こしのくにに   さかしめを  ありときかして
遠遠し    高志の国に   賢し女を   在りと聞かして

久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇
くはしめを   ありときこして   さよばひに  ありたたし  よばひに
麗し女を   在りと聞こして   さよばひに  あり立たし  呼ばひに
持つ所

「さよばひに」は古代、呼び続ける→求婚に変化し
この詩の影響があったのでは云われている。

阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母
ありかよばせ  たちがをも  いまだとかずて  おすひをも
あり通ばせ   大刀が緒も  未だ解かずて    襲をも

伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比
いまだとかねば  をとめの  なすやいたとを  おそぶらび
未だ解かねば   乙女の  寝すや板戸を   押しゆるがし

和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇
わがたたせれば ひこづらひ  わがたたせれば  あをやまに
我が立たせれば 引こづらひ  我が立たせれば 青山に

奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理
ぬえはなきぬ  さのつとり   きぎしはとよむ   にはつとり 
鵺は鳴きぬ   さ野つ鳥    雉は響む      庭つとり

迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 
かけはなく   うれたくも  なくなるとりか   このとりも
鶏は鳴く    心痛くも   鳴くなる鳥か    この鳥も

宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能 
うちやめこせね  いしたふや  あまはせづかひ  ことの 
打ち止めこせね   いしたふや   天馳使い      事の

加多理其登母 許遠婆
かたりごとも   こをば
語りごとも    此をば


爾(なんじ)、其の沼河比賣、戸を未だ開けず、歌を內自(より)曰く


夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆

やちほこの かみのみこと ぬえくさの めにしあれば

和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米

わがこころ うらすのとりぞ いまこそば わどりにあらめ

能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾

のちは などりにあらむを いのちは なしせたまひそ

伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆

いしたふや あまはせつかひ ことの かたりごとも こをば

阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能

あをやまに ひがかくらば ぬばたまの よはいでなむ あさひの

惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能

ゑみさかえきて たくつなの しろきただむき あわゆきの

和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳

わかやるむねを そだたき たたきまながり またまで

多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志

たまでさしまき ももながに いはなさむを あやに なこひきこし

夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆

やちほこの かみのみこと ことの かたりことも こをば


故、其夜者(は:短語)不合(あわず)而(に)、明日の夜、御合(みあい)爲(なす)也

又、其神之嫡后須勢理毘賣命、甚だ嫉妬爲す。

故、其の日子遲神 和備弖(わびて)【三字以音】、
出雲自(より)將(まさに)上の倭國而(に)坐す

束の間に立つ時装い、片の御手者(は:短語)御馬之鞍を繋ぎ、
片の御足は其の御鐙而(に) 蹈み入れて、歌曰く


奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比

ぬばたまの くろきみけしを まつぶさに とりよそひ

淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受

おきつとり むなみるとき はたたぎも これはふさはず

幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠

へつなみ そにゆきうて そにとりの あおきみけしを

麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐

まつぶさに とりよそひ おきつとり むなみるとき

波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖

はたたぎも こもふさはず へつなみ そにぬきうて

夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇

やまがたに まきし あたねつき そめきがしるに

斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理

しめころもを まつぶさに とりよそひ おきつとり

牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能

むなみるとき はたたぎも こしよろし いとこやの

伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能

いものみこと むらとりの わがむれいなば ひきとりの

和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能

わがひきいなば なかじとは なはいふとも やまとの

比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能

ひともとすすき うなかぶし ながなかさまく あさあめの

疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆

ぎりにたたむぞ わかくさの つまのみこと ことの かたりごとも こをば

※参考にしているサイトでは、「疑理邇多多牟叙」ですが、
 「佐疑理迩多多牟叙」という写本もあるようですが、確認できませんでした。


爾(なんじ)其の后、大御酒坏を取って立ち、指で依って擧(あ)げて而(すなわち)、歌曰く

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波

やちほこの かみのみことや あがおほくにぬし なこそは

遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流

をにいませば うちみる しまのさきやき かきみる

伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與

いそのさきおちず わかくさの つまもたせらめ あはもよ

賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖

めにしあれば なをきて をはなし なをきて

都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻

つまはなし あやかきの ふはやがしたに むしぶすま

爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能

にこやがしたに たくぶすま さやぐがしたに あわゆきの

和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐

わかやるむねを たくづぬの しろきただむき そだたき

多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇

たたきまながり またまで たまでさしまき ももながに

伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

いをしなせ とよみき たてまつらせ


此の歌の如く、卽、宇伎由比【四字以音】と爲す。

而(すなわち)、宇那賀氣理弖【六字以音】、今、鎮えに坐すに至る也。

此れ、神之語りと謂う也。

解説

03

沼河比賣


沼河比賣

「此の八千矛神將(まさ)に高志國之沼河比賣と婚し行幸之時
其の沼河比賣之家に到りて歌曰(いわ)く」といった風に、
突然、「八千矛神」と「高志國之沼河比賣」の話が始まります。

しかも、歌付きです。

非常に不思議です。

多分ですが、情報量が多いという事は、「天(あま)なる國」に近い場所で、
定期的に交流していたのだと思っています。

だから、情報量が多いのだと思われます。

古事記は、「天(あま)一族」の話なので、本来であれば、省略しても問題ないはずです。

「天(あま)なる國」から遠い程、「天(あま)なる國に入る情報が少なくなり、
近くなれば、交流などで色々な情報が入ってくるので、
「八千矛神」と「大國主神」が別人である可能性が高いでしょう。

神社と神名

沼河比賣

府中八幡宮

沼河比賣命

青澤神社

沼河比売命

美保神社 大后社

高志沼河比賣神

諏訪大社下社春宮 境内 子安社、諏訪大社下社秋宮 境内 子安社

高志沼河比売

天水沼間比古神社、天水塞比売神社

高志沼河姫神

御射山神社、御座石神社

奴奈加波比賣命

氣多神社

奴奈川比賣命

白山神社、奴奈川神社

奴奈川姫命

阿比多神社(阿比多神社略縁記)、天津神社 境内 奴奈川神社

奴奈川姫

居多神社

手速比咩神

手速比咩神社 下社、手速比咩神社 上社

沼河
府中八幡宮 新潟県上越市西本町3-5-15

今回は、「沼河比賣」を祭神としましたが、
なぜか、サイトによっても、サイト内によっても異なります。

比賣と姫

参照78のサイトですが、最初の表記は「配祀 沼河比賣」ですが、
平成祭データの蘭には「相殿祭神 沼河姫命」となっています。

「比賣」と「姫」では、存在した時代が異なっていると考えられるので、
別人と考えたほうが良いです。

また、「沼河姫命」は「命」の地位にいますが、「沼河比賣」は無位です。

これだけでも大きな違いです。

平成祭データとは、参照79のサイトを見ると、
「神社本庁」で纒められている、「全国8万の神社の祭礼行事など」のデータの中から、、
主な神社約8500社の由緒書などのデータを「平成祭データ」という様です。

であるならば、平成祭データの蘭にある「相殿祭神 沼河姫命」は、
その様に書かれた情報が存在していたのだと思われます。

平成7年に纒められた様なので、本来「沼河姫命」を祀っていたのだと思います。

「姫」は「ひめ」という言葉を「一文字」にした表記です。

しかし、古事記にある古い表記は「一音一字」となっているので、
「姫」ではなく、「比賣」と2文字になるのです。

そのため、基本的には、2つの表記の人物が同一人物ではないと考えています。

この辺りは、今後、詳しく調べ公開したいと思います。

参照78:府中八幡宮

参照79:神社研究とパソコン

高志沼河姫命

参照80のサイトでは、
「祭神は品多別尊で,合殿に高志沼河姫命と健御名方命を祭る。」とあります。

参照78のサイトでは、「應神天皇 配祀 沼河比賣 建御名方神」、
平成祭データでは、「誉多別尊(応神天皇) 相殿祭神 沼河姫命 建御名方命」です。

全てが、参照78のサイトの内容とは異なります。

参照80のサイトの運営者は、この情報をどこで手に入れたのでしょうか?

神社内に書かれていたのでしょうか?

今回は「高志沼河姫命」と「高志」が頭にあります。

普通に考えて、頭に地名を入れるのは、「同じ地域にいなかったから」と考えられます。

「沼河姫命」の存在していた時代は分かりませんが、
「姫」とあることから、「高志」という地名は長い間生き残ったのだろうと思います。

ただ、多くの人は「高志」=「越」と考えているようですが、
「こし」と本当に読むのかも、検討する必要があります。

現代と古代で同じ読みをしていたのかが不明だからです。

次の参照81のサイトでも平成祭データと同じ表記で載っています。

現時点では、参照80のサイトの情報が異なっていますが、
この情報の出処が気になります。

異なっているのは参照80のサイトだけかと思っていましたが、
参照82のサイトでも異なっています。

こちらでは、「品多別尊 [相殿] 高志沼河姫命 建御名方命」と、
「高志沼河姫命」は参照80のサイトと同じですが、
「建御名方命」が、参照78のサイトの「建御名方神」、
参照80のサイトの「健御名方命」と表記が異なります。

もしかすると、それぞれ、祀っていた時代が異なっているとすると、
参照80のサイトと参照82のサイトにある「高志沼河姫命」も、
同一人物を指していない可能性も出てきます。

さて、どれが正しいのでしょうか?

これらは、時代が異なっているとは思いますが、
ヒントになる情報が無いので、今後、関連情報を見つけた時に、改めて考察します。

参照80:上越市西本町の八幡宮(にいがた百景2) - Niigata-u.com

参照81:八幡宮

参照82:府中 フチュウ 八幡宮 ハチマングウ - 上越市

奴奈

先程の考察は「沼河」でしたが、ここからは「奴奈」となります。

読みは「ぬまかわ」と「ぬな」で、全く異なりますが、
なぜか、同じとして扱っているのが、すごく不思議です。

「ぬま」が時代が降るごとに、「ぬな」に変化したのだと思います。

そうなると、変化させた人達は、「ま」が「な」に聞こえたのでは無いでしょうか?

だとすると、海外からの移住者の可能性も出てきそうです。

現代でも、日本人が、外国語を学ぶ時、発音で苦労すると言いますし、
古代においても、同じ様な事が起きていても不思議では無いです。

今後、発音に関して調べてみようと思います。

手速比咩神社 上社 石川県羽咋郡宝達志水町上田出外(宝達山頂)
手速比咩神社 下社 石川県羽咋郡宝達志水町東間ラ2

まず、参照83のサイトには、下記のようにあります。

祭神は手速比咩神。
またの名を奴奈宜波比売命、あるいは沼河比売神とも称し
大己貴命の妻で、建御名方命の母神であるという。

この文を基礎にして、他の文を見ます。

次に、境内由緒石碑の文が載っていて、下記になります。

祭神又の御名を奴奈宜波比売命 或は 沼河比売命と伝へる

ここでは、前者の記事と比較すると、「沼河比売神」→「沼河比売命」に変更されています。

次に、平成祭データの記事は下記になります。

手速比咩神社の御祭神は手速比咩命と申し、
またの御名は沼河姫(ぬなかはひめの)命と申します、

而して大巳貴命の妻神様におはします、

「あづま」の地名は之に起つたので即ち大巳貴命が
日本國土全部を御平定の後出雲の國に凱旋せらるるに當り
吾妻の地名を遺された次第です、

手速比咩命は大凡三千年の昔越の國の
國津神奥津久辰爲(おきつくしゐの)命の姫神にて賢女にましませし事は
古事記の沼河姫命の記事にておして知る可しであります。

この文では、何点か気になる箇所があります。

参照83:手速比咩神社 上社、手速比咩神社 下社

表記

「沼河比売神」→「沼河比売命」→「沼河姫命」と変化しています。

古事記では、第三章において「沼河比賣」の表記しか無いので、
後に無位から、「神」の地位を得たことになります。

情報が無いので真偽不明です。

この様に表記が変化するのは、やはり、時代が異なっていると考えられます。

己と巳

最初の記事では、「大己貴命の妻」とあり「己」を使用していますが、
三番目の記事では、「大巳貴命の妻」と「巳」を使用しています。

この「己」と「巳」ですが、他の史書でも書き分けている箇所が存在しています。

なので、「己」と「巳」の人物は別人と考えたほうが良いと考えています。

なにより、「己」は離れているのだから、わざわざ、繋げる必要性が無いです。

三千年

「手速比咩命は大凡三千年の昔越の國の
國津神奥津久辰爲(おきつくしゐの)命の姫神」の「三千年」は興味深いです。

「平成祭データ」を作成した人物が、どこから得た情報なのか気になります。

「平成祭データ」は、平成7年(1995年)に作成された様なので、
普通に読めば、「1995年」より三千年前なので、「紀元前1000年頃」となります。

「國津神奥津久辰爲(おきつくしゐの)命の姫神」が
「手速比咩命」であると書いているので、物的証拠でも無ければ書けないでしょう。

「紀元前1000年頃」には既に「手速比咩命」や「奥津久辰爲命」が
存在したというのは、日本の歴史とって大きな発見ですが、騒がれていません。

この情報源を手に入れて、解読してみたいものです。

別サイト

参照84のサイトでは、先程、考察した情報と微妙に異なります。

【祭神】手速比咩神
   『三州式社記』奴奈宜置波比咩命

ここでは、「またの名を奴奈宜波比売命、あるいは沼河比売神」と書く、
最初の記事とは「命」か「神」かの違いがありますが、
またの名に書かれる「奴奈宜波比売命」と「奴奈宜置波比咩命」と異なります。

「手速比咩神」に関しては情報が無いので、どの地位が正しいかは判断できません。

しかし、「奴奈宜波比売命」と「奴奈宜置波比咩命」とでは、一部同じですが、
この2つの人物名が誕生した時期に、あまり差が無いと考えています。

「奴奈宜波比賣命」が「出雲国風土記」に記されているので、こちらが正しいです。

「奴奈宜置波比咩命」に関しては、「置」が追加され、
「比賣」の後と考えられる「比咩」が使われています。

「比咩」の表記に関しては、情報があまり多くなく、存在時期が分かっていません。

なので、血の関係は不明ですが、ほぼ同時期に、名を与えれたのだろうと推測しています。

あと、「手速比咩神」と書いているので、「奴奈宜置波比咩命」を当てはめたのでしょうが、
たぶん、神社創建当時は、現代に残る名では無い可能性が大いにありそうです。

参照84:手速比咩神社(下社)

奴奈川

先程は「奴奈」でしたが、ここからは「奴奈川」になります。

白山神社 新潟県糸魚川市大字能生宮の上7239

この神社は「奴奈川比賣命、伊佐奈伎命、大己貴命」の3人を祀っています。

「比賣」の地位を持つ「奴奈川比賣命」は古代初期の人物、
「伊邪那伎命」の子孫である「伊佐奈伎命」は古代晩期(紀元後〜西暦700年)の人物です。

それぞれ、もちろん、推測です。

大己貴命に関しては、継承名と思われるので、存在時期を探すのは難しいです。

奴奈川神社 新潟県糸魚川市田伏南村569

この神社は参照85のサイトによると、
「奴奈川比賣命、大日孁命、八千矛命」と書いていますが、
社伝の記事を載せている場所には「奴奈川姫命」を使用していて一貫性がありません。

社伝として、下記の話があるようです。

社伝によると、成務天皇の御宇、
市入命が越後国の国造となって当地に来られ、
奴奈川姫命の子・建沼河男命の裔長比売命を娶り、
当社を創祀したという。

「建沼河男命」を検索すれば、時代が分かるかと思いましたが、情報がありませんでした。

しかし、「市入命」が「越後國造」であり、「奴奈川姫命の子が建沼河男命」、
後裔の「長比売命」が「市入命」と同時代なので、
この「奴奈川姫命」が存在した時代は、「長比売命」の時代の「200年程前」と
解釈することが出来ますが、情報がありません。

参照85:奴奈川神社

神社明細帳

参照86のサイトには「神社明細帳」の全文が載っていますが、
長いので、重要な場所を抜き出して考察します。

社記二載ル趣ハ上古高皇産霊尊ノ子意支都久辰爲命高志國二天降給ヒ
其子稗都久辰爲命其子奴奈川比売命高志國ヲ領シ給ヒシ時
八千矛神豊葦原水穗國ヲ造リ給ハント奴奈川比売命ノ許二至リ共二議リテ國造リ
意給ヒテ営郡沼川郷多市布勢ノ神沼山二岩隠給フ

故二沼河郷ト號スト又成務天皇ノ御宇市入命越國ノ國造ト成テ當地二來リ

奴奈川比売命ノ子建沼川男命ノ商長比売命ヲ嬰リ
奴奈川比売命ノ社ヲ建テ神田神戸ヲ寄附セリト

参照85のサイトには、「奴奈川姫命の子・建沼河男命」と記載がありました。

ところが、「神社明細帳」には「奴奈川姫命」ではなく、「奴奈川比売命」とあります。

また、「建沼河男命」も「建沼川男命」とあり、「河」→「川」に変化しています。

この親子の表記が異なるのは、各々存在したのか、
もしくは、片方が間違った情報を記載したのかだと思います。

普通に考えるなら、両方は存在し、時代のみが異なると解釈できます。

この辺りは、今後、新しい情報を見つけた時に、改めて考察します。

参照86:奴奈川神社

豊葦原水穗國

この國の名は、第四章の冒頭に登場する「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」の
真ん中の「之」で挟まれた範囲を抜いた名です。

その後、第六章に「豊葦原水穗國」が登場します。

「是以隨白之 科詔日子番能邇邇藝命
此豐葦原水穗國者 汝將知國 言依賜 故隨命以可天降」

第四章に登場した名は、二箇所ありますが、両方が短縮していません。

しかし、第六章で一度登場するのは「豊葦原水穗國」とあり、今回の國名と同じです。

もう一つ、注目すべきは、「八千矛神豊葦原水穗國ヲ造リ」の文です。

「八千矛神」が「豊葦原水穗國」を造ったと解釈できます。

「日子番能邇邇藝命」の為とすると、
「八千矛神」に依頼が来て大仕事を引き受けたのでしょう。

それは、時間がかかると思うので、生まれる前に既に依頼者と話し合い、
少しずつ、國造りをしていたのだと思います。

そうなると、「神社明細帳」に登場する「八千矛神」は、
「日子番能邇邇藝命」の1世代上の可能性が出て来ます。

第三章に登場した「大國主神」とは時代が違うことになるので、
後継者で、名を継ぐ事が決定しているから、依頼者も頼んだのだと思われます。

では、「奴奈川比売命ノ許二至リ共二議リテ」の文は、
共同で國造りしていることから、「奴奈川比売命」が存在した時代が分かります。

また、「高皇産霊尊」から見て、「奴奈川比売命」は曾孫なので、
「神社明細帳」には「上古」とありますが、そこまで古い人物で無いのは確かでしょう。

特選神名牒

祭神:沼川比賣命

今按越後風土記節解によるに、
祭神地津神 奴奈川彦命の女奴奈川姫命母黒媛命三座とあれど、
古事記に八千矛神高志國の沼河比賣に娶ませる故事によりて、
沼河比賣を祭るに附て、其父母の神二座を合せ、祭れるものなるべし附て、
後考をまつ

上記の特選神名牒には、この様に記載されている「奴奈川神社」ですが、
以前は「沼川比賣命」を祀っていたと思われます。

この「特選神名牒」は、「明治9年(1876年)に一応の完成を見て」と
Wikiには書かれているので、現在の祭神とは異なるようです。

また、古事記の話とは違うから困惑していますが、
そもそも、「沼河」と「奴奈川」では、大きく異なるのに、読みが似ていると言って、
同じだと考えるようになった弊害でしょう。

まとめ

ここまで考察したように、複数の話に「沼河」と「奴奈川」が登場します。

ちなみに、天津神社(西頸城郡糸魚川町)の境内にある奴奈川神社では、
奴奈川媛命と八千矛命を祀っているようです。

当然、「奴奈川媛命」と「沼河比賣」は同一人物ではありません。

「特選神名牒」の中に残る「奴奈川彦命の女奴奈川姫命母黒媛命」の文もまた、
「沼河比賣」とは同一人物ではありません。

改めて考えると、「沼河比賣」と「奴奈川比賣命」は揃って「比賣」という、
「ひめ」の最上位と思われる地位を手にしています。

つまり、やはり、同時期に存在した可能性が高いように思います。

「奴奈川」で、一番古いと思われるのが、
「豊葦原水穗國」を「八千矛神」と共同で造ったという話です。

「日子番能邇邇藝命」の話で登場する「豊葦原水穗國」が、
「神社明細帳」に登場する「豊葦原水穗國」が同じと仮定すると、
「奴奈川比賣命」が「奴奈川」においては最古の人物と言えると考えています。

ただ、残念ながら、時代考証に必要な情報が乏しく、
これらの断片では、時代順に並べ替えるのは難しいです。

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