最終更新日 2024/06/30

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 第三章 大國主神

故爾追至黄泉比良坂遙望呼 謂大穴牟遲神曰 其汝所持之生大刀 生弓矢以而
汝庶兄弟者追伏坂之御尾 亦追撥河之瀬而 意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而
其我之女須世理毘賣 爲嫡妻而 於宇迦能山【三字以音】之山本 於底津石根
宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】 而居 是奴也 故持其大刀弓
追避其八十神之時毎坂御尾追伏 毎河瀬追撥而 始作國也 故其八上比賣者
如先期美刀阿多波志都【此七字以音】 故其八上比賣者雖率來 畏其嫡妻須世理毘賣而
其所生子者刺狹木俣而返 故名其子云木俣神亦名謂御井神也 此八千矛神
將婚高志國之沼河比賣幸行之時 到其沼河比賣之家歌曰

夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖
登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖
久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇
阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母
伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比
和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇
奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理
迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母
宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能
加多理其登母 許遠婆

爾其沼河比賣 未開戸 自內歌曰

夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆
和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米
能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾
伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆

阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能
惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳
多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志
夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆

故其夜者 不合而 明日夜 爲御合也

又其神之嫡后須勢理毘賣命 甚爲嫉妬 故其日子遲神 和備弖【三字以音】 自出雲將上坐倭國而
束裝立時 片御手者 繋御馬之鞍 片御足 蹈入其御鐙而 歌曰

奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比
淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受
幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠
麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐
波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖
夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇
斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理
牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能
伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能
和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能
比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能
疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆

爾其后 取大御酒坏 立依指擧而歌曰

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波
遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流
伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與
賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖
都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻
爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐
多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇
伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

如此歌 卽爲宇伎由比四字以音而 宇那賀氣理弖六字以音 至今鎭坐也 此謂之神語也
解読

故爾(ゆえに)黄泉比良坂に追い至り、遥かに望み呼ぶ

大穴牟遲神謂い曰(いわ)く

「其の汝(なんじ)が持つ所の之(この)生大刀と生弓矢以って而(しかるに)、
汝(なんじ)者(は:短語)庶兄弟を坂之御尾に追い伏せ、亦、河之瀬而(に)追い撥(おさ)めよ」

意禮(いらい)大國主神と爲(なり)亦宇都志國玉神而(に)爲(なる)

其の我(われ)之女須世理毘賣、嫡妻而(に)爲(なる)

宇迦能山(うけのやま※呉音)之山の本(ふもとの意)に於(お)いて
底津石根(そこついわね)於(お)宮柱(みやはしら)の
布刀斯理(ふとしり)に高天原の氷於(お)多迦斯理(たけしり※呉音)
而(に)居す 是(これ)奴(やつこ※臣と同義)也

故、其の大刀弓持ち、其の八十神追って避けれない時、坂之御尾毎(ごと)に追い伏せ、
河の瀬毎(ごと)而(に)撥(おさ)め國を作り始める也

故、其の八上比賣者(は:短語)、先の期美刀阿多波志都(みとあたはしつ)の如く

故、其の八上比賣者(は:短語)率いて來たと雖(いえども)
其の嫡妻須世理毘賣而(に)畏れる

其の所で生んだ子者(は:短語)狹(せま)い木俣而(に)刺し返す

故、其の子の名木俣神と云い、亦の名御井神と謂(い)う也

此の八千矛神將(まさ)に高志國之沼河比賣と婚し行幸之時
其の沼河比賣之家に到りて歌曰(いわ)く


夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖

やちほこの かみのみことは  やしまくに   つままきかねて
八千矛の  神の命は       八島国    妻まきかねて

登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 
とほとほし  こしのくにに   さかしめを  ありときかして
遠遠し    高志の国に   賢し女を   在りと聞かして

久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比邇 阿理多多斯 用婆比邇
くはしめを   ありときこして   さよばひに  ありたたし  よばひに
麗し女を   在りと聞こして   さよばひに  あり立たし  呼ばひに
持つ所

「さよばひに」は古代、呼び続ける→求婚に変化し
この詩の影響があったのでは云われている。

阿理迦用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母
ありかよばせ  たちがをも  いまだとかずて  おすひをも
あり通ばせ   大刀が緒も  未だ解かずて    襲をも

伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比
いまだとかねば  をとめの  なすやいたとを  おそぶらび
未だ解かねば   乙女の  寝すや板戸を   押しゆるがし

和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇
わがたたせれば ひこづらひ  わがたたせれば  あをやまに
我が立たせれば 引こづらひ  我が立たせれば 青山に

奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理
ぬえはなきぬ  さのつとり   きぎしはとよむ   にはつとり 
鵺は鳴きぬ   さ野つ鳥    雉は響む      庭つとり

迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 
かけはなく   うれたくも  なくなるとりか   このとりも
鶏は鳴く    心痛くも   鳴くなる鳥か    この鳥も

宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能 
うちやめこせね  いしたふや  あまはせづかひ  ことの 
打ち止めこせね   いしたふや   天馳使い      事の

加多理其登母 許遠婆
かたりごとも   こをば
語りごとも    此をば


爾(なんじ)、其の沼河比賣、戸を未だ開けず、歌を內自(より)曰く


夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆

やちほこの かみのみこと ぬえくさの めにしあれば

和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米

わがこころ うらすのとりぞ いまこそば わどりにあらめ

能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾

のちは などりにあらむを いのちは なしせたまひそ

伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆

いしたふや あまはせつかひ ことの かたりごとも こをば

阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能

あをやまに ひがかくらば ぬばたまの よはいでなむ あさひの

惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能

ゑみさかえきて たくつなの しろきただむき あわゆきの

和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳

わかやるむねを そだたき たたきまながり またまで

多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志

たまでさしまき ももながに いはなさむを あやに なこひきこし

夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆

やちほこの かみのみこと ことの かたりことも こをば


故、其夜者(は:短語)不合(あわず)而(に)、明日の夜、御合(みあい)爲(なす)也

又、其神之嫡后須勢理毘賣命、甚だ嫉妬爲す。

故、其の日子遲神 和備弖(わびて)【三字以音】、
出雲自(より)將(まさに)上の倭國而(に)坐す

束の間に立つ時装い、片の御手者(は:短語)御馬之鞍を繋ぎ、
片の御足は其の御鐙而(に) 蹈み入れて、歌曰く


奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比

ぬばたまの くろきみけしを まつぶさに とりよそひ

淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受

おきつとり むなみるとき はたたぎも これはふさはず

幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠

へつなみ そにゆきうて そにとりの あおきみけしを

麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐

まつぶさに とりよそひ おきつとり むなみるとき

波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖

はたたぎも こもふさはず へつなみ そにぬきうて

夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇

やまがたに まきし あたねつき そめきがしるに

斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理

しめころもを まつぶさに とりよそひ おきつとり

牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能

むなみるとき はたたぎも こしよろし いとこやの

伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能

いものみこと むらとりの わがむれいなば ひきとりの

和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能

わがひきいなば なかじとは なはいふとも やまとの

比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能

ひともとすすき うなかぶし ながなかさまく あさあめの

疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆

ぎりにたたむぞ わかくさの つまのみこと ことの かたりごとも こをば

※参考にしているサイトでは、「疑理邇多多牟叙」ですが、
 「佐疑理迩多多牟叙」という写本もあるようですが、確認できませんでした。


爾(なんじ)其の后、大御酒坏を取って立ち、
指で依って擧(あ)げて而(すなわち)、歌曰く

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波

やちほこの かみのみことや あがおほくにぬし なこそは

遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流

をにいませば うちみる しまのさきやき かきみる

伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與

いそのさきおちず わかくさの つまもたせらめ あはもよ

賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖

めにしあれば なをきて をはなし なをきて

都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻

つまはなし あやかきの ふはやがしたに むしぶすま

爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能

にこやがしたに たくぶすま さやぐがしたに あわゆきの

和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐

わかやるむねを たくづぬの しろきただむき そだたき

多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇

たたきまながり またまで たまでさしまき ももながに

伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

いをしなせ とよみき たてまつらせ


此の歌の如く、卽、宇伎由比【四字以音】と爲す。

而(すなわち)、宇那賀氣理弖【六字以音】、今、鎮えに坐すに至る也。

此れ、神之語りと謂う也。

解説

04

間違った漢字


淤と於

詩については、解釈が難しいし、多くの人が当てている漢字が正しいのか、
判断する事が難しいので、詳しく考察しませんが、
一点だけ、不自然な箇所を見つけました。

「奴婆多麻能」から始まる詩の中に1つだけ「於岐都登理」と「於」が使われています。

一応、参考にしているサイトが、打ち間違ったのかと思い、
検索して見ると、他のサイトでも同じ様になっていました。

「淤」は「どろ」であるのは、過去に第一章でも考察しました。

では、「於」は何を原義としているのでしょうか?

まず、Wikiで調べると、下記の様な記載がありました。

「烏」の略体。

烏の羽を解いて縄に掛け渡した形という解釈や、
「㫃」+「=」から構成される会意文字という解釈があるが、
これらは根拠のない憶測に基づく誤った分析である。

Wiki

確認のために調べてみると、参照88のサイトが見つかりました。

・说文解字

【卷四下】【乌部】哀都切(wū)

(乌)孝鸟也。象形。孔子曰:“乌,𥃳呼也。”取其助气,
故以为乌呼。凡乌之属皆从乌。
於,像古文乌省。

【注释】臣铉等曰:今俗作呜,非是。 [12]

・说文解字注

(乌)孝鸟也。谓其反哺也。

《小尔雅》曰:“纯黑而反哺者谓之乌。”象形。鸟字点睛,乌则不,
以纯黑故不见其睛也。哀都切。五部。

孔子曰:“乌,亏呼也。”亏①,各本作盱,今正。亏,於也。象气之舒。亏呼者,
谓此鸟善舒气自叫,故谓之乌。

取其助气,故以为乌呼。此许语也。

上記に参照88のサイトの一部を抽出しましたが、
こちらでも、「鳥」を「於」と表記していたと書いてあります。

参照87:汉典“淤”字的基本解释

参照88:於_百度百科

まとめ

この様に、「淤(どろ)」と「於(鳥)」では大きく違いますし、
なにより、詩の場合、当て字なのだから、「淤」→「於」に変化させる必要がありません。

それなのに、1つだけ変えたという事は、なにかを伝える意図があったのではないか?
と考えてしまいます。

ただ、どんな意図があったのか?については、推察するには、情報が乏しすぎます。

考えるとすれば、別の詩を繋げた可能性ですが、推測の域を出ません。

嫉妬

原文:

又其神之嫡后須勢理毘賣命 甚爲嫉妬 故其日子遲神 和備弖【三字以音】
自出雲將上坐倭國而 束裝立時 片御手者 繋御馬之鞍 片御足 蹈入其御鐙而 歌曰

解読:

又、其神之嫡后須勢理毘賣命、甚だ嫉妬爲す。

故、其の日子遲神 和備弖(わびて)【三字以音】、
出雲自(より)將(まさに)上の倭國而(に)坐す

束の間に立つ時装い、片の御手者(は:短語)御馬之鞍を繋ぎ、
片の御足は其の御鐙而(に) 蹈み入れて、歌曰く

嫉妬

「甚爲嫉妬(甚だ嫉妬爲す。)」と解読しましたが、
「爲す」があり、「為す」の原義を「行動する」と考えると、
「感情」として存在する「嫉妬」とは、大きく異なるのではないか?と思い、調べてみました。

この漢字は、そもそも、篆文の「説文解字」では、
参照90のサイトを見てもらうと分かるとおり、「㑵」が正しい表記でした。

ところが、参照89のサイトにあるように、
「説文解字注」の頃に、なぜか、「嫉」が追加されました。

参照89のサイトでは、「篆文の[説文解字]は、正字が「イ(人)+疾(意味(3)の、にくむ)」の
㑵シツで、人が相手をにくむ意。また、ねたむ・そねむ意ともなる。」と書いています。

そこで本当にそうなのか、「疾」を調べました。

参照91のサイトに甲骨文字が載っていますが、
「29合20768𠂤組」の字形は分かりづらく、「乙35合21052𠂤組」が分かりやすいです。

字形を見ると、甲骨文字の段階では「疒(やまいだれ)」はありません。

「十三年上官鼎戰國晚期集成2590」の金文から現れます。

戦国時代は「紀元前5世紀〜紀元前221年」なので、
「戦国晩期」というと、紀元前250年頃かも知れません。

という事は、第三章を紀元前800年頃と仮定すると、
その頃の「嫉」は「人+矢」だった可能性が出てきます。

「人+矢」だった場合、当然「女性」とは無関係となります。

参照89:嫉的意思|漢典“嫉”字的基本解釋

参照90:音符「矢シ」<や> と 「疾シツ」「嫉シツ」「雉チ」

参照91:疾的字源字形

「妬」については、全くわかりませんでした。

ただ、参照92のサイトの「石」の字形変化を見た後に、
参照93のサイトの「説文解字」の「石」を見ると、おかしくないでしょうか?

「説文解字注」の字形の方が「妬」らしいです。

参照92:石 - ウィクショナリー日本語版

参照93:

まとめ

「嫉妬」の漢字を調べて考察しました。

古事記編纂時の情報にあった漢字は、「嫉妬」ではなかったが、
存在した字形を当時の漢字に変換したら、
本来の意味と異なってしまったのではないでしょうか?

「嫉」の甲骨文字が「人+矢」である以上、「病」や「女性」とは無関係ですし、
「妬」の字形も、左が「女」と仮定しても右が「石」とは言い切れません。

また、参照93のサイトの字形は、「説文解字」であり、
時代としては「後漢」の「西暦100年以降」に完成した文献なので、
甲骨文字の時代よりも大きく外れています。

では、元々、どの様な事を指していたのか?と推察すると、
「嫉」は「人+矢」で「腋」に「矢」が刺さっていると考えれます。

これは、戦争なのか、それとも喧嘩など軽いものなのかによって変わりますが、
共通なのは、怪我人を治療するだと思います。

「妬」は、参照93のサイトにある字形を観察すると、
右側が「門」の左側に似ているので、女性が門を開けたとイメージできます。

これらにより、古事記では「嫉妬」と悪い漢字になっていますが、
もしかしたら、男性が戦場に出て帰って来るのを、女性が待っていて、
声が聞こえたから、開門して、男性を迎え入れて、治療したという事なのかも知れません。

あと、「甚」という漢字ですが、一応調べてみると、下記のような記載がありました。

「かまどの上に水をいっぱいに入れた器を載せ、
下で火をたく」象形から、
「おきかまど」の意味を示しました

OK辞典

この「甚」の漢字の原義も、推察を後押ししている様に感じます。

参照94:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「甚」という漢字

「又其神之嫡后須勢理毘賣命 甚爲嫉妬」と「又」という漢字を使っています。

古事記では、「又」の他に「亦」も使っていて、検索すると「亦」が多い様です。

「亦」の原義は「腋」ですが、「又」は何かと調べると、
参照95と96のサイトに、記載されていました。

右手を象る。「みぎ」を意味する漢語を表す字Wiki

っっk

「右手」の象形から、「右手」、「手」を意味する
「又」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

上記の字源を見ると、「又」は「右手」を指すとあります。

「又其神之嫡后須勢理毘賣命 甚爲嫉妬」の解釈としては、
「右手」を使って、「嫡后須勢理毘賣命」が
「かまどの上に水をいっぱいに入れた器を載せ、下で火をたく」環境を作り、
戦場から帰ってきた男性たちを、治療する時の場面ではないか?と推測しています。

ちなみに、「其神之嫡后」とあるので、「複数人の后・妃」が存在したとすると、
須勢理毘賣命の夫である「神」の地位にいる人物は、権力者であり、
国王、もしくは、準ずる地位の可能性も出てきます。

「神」と書かれた人物の名は、「故其夜者 不合而 明日夜 爲御合也」の後に存在した、
前文に記載されていたのかも知れません。

できれば、神の名も記載しておいて欲しかったと思います。

多分、名が残っていては困る「大國主神」とは無関係な人物名だったから、
消したのだろうと思われます。

参照95:又- ウィクショナリー日本語版

参照96:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「又」という漢字

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