最終更新日 2024/06/30

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 第三章 大國主神

故其菟白大穴牟遲神 此八十神者必不得八上比賣 雖負帒 汝命獲之 於是八上比賣答八十神言
吾者不聞汝等之言 將嫁大穴牟遲神 故爾八十神忿欲殺 大穴牟遲神共議而
至伯岐國之手間山本云 赤猪在此山 故和禮【此二字以音】共追下者 汝待取 若不待取者
必將殺汝云而 以火燒似猪大石而轉落 爾追下取時 即於其石所燒著而死 爾其御祖命哭患而
參上于天 請神産巣日之命時 乃遣𧏛貝比賣與蛤貝比賣令作活 爾𧏛貝比賣岐佐宜【此三字以音】
集 而蛤貝比賣待承 而塗母乳汁者 成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】而出遊行 於是八十神見
且欺率入山而 切伏大樹 茹矢 打立其木 令入其中 即打離其氷目矢而 拷殺也
爾亦其御祖命哭乍求者得見 即拆其木而取出活 告其子言汝有此間者 遂爲八十神所滅
乃違遣於木國之大屋毘古神之御所 爾八十神覓追臻而 矢刺乞時 自木俣漏逃而云
可參向須佐能男命所坐之根堅州國 必其大神議也
解読

故(ゆえ)、其の菟、大穴牟遅神に白(もう)す

「此の八十神者(は)必ず八上比賣を不得(えず)。
帒を負(おう)とは雖(いえども)汝が之(これ)命(めい)を獲(え)る。」

是於(これお)八上比賣答えて、八十神に言わく

「吾(あれ)者(は:短語)、汝(なんじ)等(ら)之(の)言うこと不聞(きかず)
將(まさ)に大穴牟遲神へ嫁ぐ」

故爾(ゆえに)、八十神忿(いか)り、大穴牟遲神と共而(に)議(はかり)殺すを欲す

伯岐国手間山の本(もと)に至りて云わく

「此の山に赤き猪在り、故、和禮(われ)と共に下に追い汝(なんじ)者(は:短語)待って取れ。

若(も)し不待(またず)に取れ者(ば:短語)將(まさ)に必ず殺せ」

汝(なんじ)而(に)伝える。

火を以って焼き、大石を猪而(に)似せて轉(ころ)がし落とす

爾(なんじ)下に追って取る時、即ち其の石の所に於いて、著(あらわ)而(に)焼かれて死す

爾(なんじ)其の御祖命哭き患い、而(すなわ)ち天于(に)參(まい)り上(のぼ)る

神産巣日之命請けた時、乃(すなわ)ち、
𧏛貝比賣と與(ともに)蛤貝比賣遣わし活かした作りを令(うながす)

爾(なんじ)𧏛貝比賣は岐佐宜(きさぎ?)を集め、而(すなわち)蛤貝比賣が承(う)けて待つ

母乳汁塗れ者(ば:短語)、麗(うるわ)しい壯夫(袁等古(をとこ))に成る

而(なんじ)出て遊びに行く

是於(これお)八十神見て、且(か)つ山而(に)率(ひき)いて入り大樹を切り伏せて欺き、
矢を茹(ゆで)り、其の木に打ち立て其の中に入るを令(うながす)

即ち其の氷目矢を打ち離れて、而(すなわち)拷(う)ち殺す也(なり)

爾(なんじ)亦(また)其の御祖命者(は:短語)哭(な)き乍(なが)ら求め見て得る

即ち其の木、取り而(に)出て活かすために拆(さく)

其の子告げて言う

「汝(なんじ)、此の間(ま)に有る者(は:短語)遂に八十神滅す所爲(なり)」

※「汝者有此間者」と「者」が入る一書もある。

「乃(すなわ)ち木國之大屋毘古神之御所於(お)違(そむ)き遣わす

爾(なんじ)八十神追い覓(もと)める而(に)臻(いた)り
矢を刺し乞(こ)う時、木の俣自(より)漏(も)れ、而(すなわち)逃げて云う

「須佐能男命の坐(ざ)す所之根堅州國に参り向かう可(べ)き
必ず其の大神、議(はかる)也」

解説

06

木國之大屋毘古神2


大屋毘古神

第一章で「天之吹男神」の次に「 大屋毘古神」の神名が誕生してい ますが、
当然ですが、「木國之大屋毘古神」と同一人物ではありません。

「大國主神」が「速須佐之男命」の「六世孫」である事を考えれば、
同一人物と考えるほうが難しいです。

他にも、「 大屋毘古神」でも書きましたが、「木國」=「紀國」と なるかは慎重に判断すべきです。

確かに、「き」という発音で一致していますが、「木」は訓読みで、「紀」は「漢音」で違いますし、
成り立ちも、「樹木」と「より糸+糸巻き」で異なります。

今までにも何度も書いていますが、
「発音」が同じなら「イコール」という考えは、非常に危険です。

なぜなら、同じ発音でも、意味が全く異なる事が通常だからです。

現在は、古代史ですが、現代でも同じで、例えば「いちろー」一つとっても、
「数字」の「1」なのかどうかや、そうではなく「一字一音」の場合もありますし、
同姓同名も多い苗字の場合なら、別人の可能性は十分にあります。

神社と神名
大屋毘古神

田野衣美須神社、倭文神社(富士宮市、合祀)

大屋毘古命

出雲祝神社(合祀)

大屋比古命

大神社(田辺市)摂社 西神社

大屋彦神

立神社(有田市)、那須加美乃金子神社、那須加美乃金子神社(志多賀)

大屋津比古命

岩木原神社

立神社 和歌山県有田市野700番地

参照59のサイトには、由緒の書かれた案内板の内容が書かれています。

「往昔ヨリ大屋彦命ヲ祀リテ立神社ト稱ス」と明治の調査の時には記載があったようです。

ところが、その下には「主祭神は大屋毘古命(素盛鳴命の御子、五十猛命の別称)」
とあり、「大屋彦命」と「大屋毘古命」で異なっています。

また、日本書紀の表記の「素戔嗚尊」ではなく「素盛鳴命」を使用している点、
古事記にも日本書紀にも記載がない「大屋毘古命」を「五十猛命の別称」としている点に
問題があります。

ただ、「大屋毘古命」が「神」ではなく「命」の地位であるので、「大屋毘古神」とは別人です。

なので、何代目かは不明ですが「五十猛命」を継承した人物が、
「大屋毘古命」を継承した可能性は十分にありえると思っています。

付随する情報は、時代とともに消えたけど、
根本的な「五十猛命」が「大屋毘古命」を名乗ったという情報が残ったのかも知れません。

この情報が正しいとすると、
「素盛鳴命」の子に「五十猛命」を名乗った人物がいたのは確実だと思うので、
「素盛鳴命」の情報が見つかれば、時代を知るヒントになるかも知れません。

ちなみに、時代的には「大屋毘古命」が古く「大屋彦命」が西暦700年に近いと考えられます。

あと、明治の調査で「大屋彦命」を「往昔ヨリ」祭神として祀っていたという事は、
「大屋彦命」を長い間使用してきたのだと思われます。

しかし、近代になり、「大屋彦命」→「大屋毘古命」へと変更したのは、なぜでしょうか?

問題が無ければ、変更する必要が無いので、どんな問題があって変更したのか気になります。

参照59: 立 神社 たてじんじゃ

那須加美乃金子神社 長崎県対馬市峰町志多賀字中原290

参照60のサイトに面白い事が書かれています。

明細帳 大屋彦神、大己貴命。

『特撰神名帳』は祭神を明記してゐないが、この明細帳 の祭神を疑つてゐる。

それには、今按長崎縣式内社記に祭神須佐男命 大屋彦命とありて
由緒書(省略)…とある時は、
此祭神よしなきにあ らねど那須加美乃金子神と云神は此二神にはあるべか らず。

とある。対馬の神社では、ことさらに素戔嗚尊や神功皇后 に付会して、
本来の祭神を不明にした例が多く見られる が、当社の所傳もそれに近い。
-『式内社調査報告』-

「特撰神名帳」は、明治9年(1876年)に完全ではないが、完成したようです。

「明細帳」は、「1872年(明治5年)に神祇省から地方庁に神社の調査が命じられ、
翌年、その進達にもとづいて社格の決定をした結果によるという。」
「神社明細帳」を指していると思われます。

「今按長崎縣式内社記」は、「長崎縣」とあるので、「明治」に調査した資料と思われます。

時系列としては、
「長崎縣式内社記」→「神社明細帳」→「特撰神名帳」→「式内社調査報告」
と考えていますが、「今按長崎縣式内社記」の入る位置が違うかも知れません。

参照60: 那 須加美乃金子神社

明細帳と特撰神名帳

「特撰神名帳」には祭神が明記されていないからなのか、
「神社明細帳」の祭神を疑っているとあります。

しかし、「特撰神名帳」は、関係書類が焼失した事により、とりあえず、完成としたようです。

焼失した範囲にもよりますが、信用としては「神社明細帳」の方があるように思えます。

なので、「『特撰神名帳』は祭神を明記してゐないが、この明細帳 の祭神を疑つてゐる。」
は疑うだけの理由が存在していたのか、逆に疑問になります。

長崎縣式内社記

「祭神須佐男命 大屋彦命」と記載とありますが、
原文が見つからなかったので、確認できませんでした。

しかし、参照61のサイトにある表記が異なっていて、どちらが正しいのかは不明です。

参照61のサイトの最後の方に、「特選神名牒」の内容を紹介していますが、
「国立公文書館デジタルコレクション」もある、
「『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂」を参考にしているようです。

こちらには、「長崎県式内社記に祭神須佐之男命・大屋彦命とありて」とあります。

「式内社調査報告」では、「祭神須佐男命・大屋彦命」とあるのに、
「特選神名牒」では、「祭神須佐之男命・大屋彦命」としています。

「大正14年(1925)出版」なので、
「須佐男命」は「之」を脱字したと判断したのかも知れません。

ですが、「 建速須佐之男命 神社」で調べたように、「須佐男命」を 祀っている神社は、
「常宮神社 境内社、厳原八幡宮神社 境内 宇努刀神社、須智荒木神社(合祀)、
幡井神社、和田八幡宮、大荒比古鞆結神社(合祀)、坂城神社、須倍神社(合祀)」
が存在しているので、覆すだけの情報があれば別ですが、
「式内社調査報告」の方が正しいと思われます。

参照61: 那 須加美乃金子神社(対馬 志多賀)

大屋神社 滋賀県蒲生郡日野町杉228

この神社、祭神が「五十猛神」とされていますが、神社名が「大屋神社」なので、
「大屋津姫命」もしくは「大屋比古命」が本来、祭神だったと思われます。

神名帳考証

大屋津姫命宇? 姓氏録云屋

旧事紀五十猛神亦大屋彦神大屋姫神

神名帳考証

「神名帳考証」には、上記の様に記載がありますが、
「大屋津姫命宇?」という風に、「宇」のくずし字に見える漢字が載っています。

「宇」なのか、別の漢字なのかは不明ですが、「大屋津姫命」の後にあるのは謎です。

「先代旧事本紀」は、後ほど検証します。

参照62: 神 名帳考証

神社覈録

大屋は於保夜訓べし

祭神大家首祖神歟

在所詳ならず

姓氏録、右京神別下大家首、天道尼乃命孫比古麻夜眞止乃命之後也

神社覈録

「祭神大家首祖神」とありますが、最後に「歟」という「疑問・反問を表す助辞」があるので、
「神社覈録」の調査時には、「大家首祖神」を祀っていたのかは微妙だったのだと思います。

「大屋」と「大家」は「おおや」で発音が同じですが、2つの家の繋がりが不明ですし、
「天道尼乃命」と「大屋」との繋がりも確認できません。

なので、今後、情報が見つかった時に考察したいと思います。

参照63: 神社覈録 下編

まとめ

参照64のサイトには、「『地理志料』「大屋比古ノ命」」とありますが、確認できませんでした。

また、参照64のサイトには記載がありませんが、参照65のサイトには、
「末社」に「奥津神社 大屋比咩命」と「若宮神社 大屋彦命」が載っています。

「大屋彦命」は「大屋彦神」の系統と言えますが、
「大屋比咩命」は情報がなく、関係を知ることは出来ません。

参照64: 大屋 神社

参照65: 大屋神社

大家神社 兵庫県美方郡新温泉町二日市558-1

この神社は、「大己貴命」を祭神としているようですが、他の書物では祭神が異なっています。

神名帳考証

大家神社 大屋彦神

安芸國多家神社

旧事紀云五十猛神亦云大屋彦神

神名帳考証
特選神名牒

今按社伝祭神大屋彦命とあれど大家神と申すによりて
妄りに付会せるものなるべし大家臣の祖先を祭れるにやあらん
姓氏録に大家臣建内宿禰男之後也天智夷午年依居大家負大宅臣とある是也

特選神名牒

ここで注目すべきは、「神名帳考証」では「大屋彦神」としていますが、
「社伝」では「祭神大屋彦命」としている点です。

多くの人は「神」も「命」も同じと考えていると思いますが、地位として異なっています。

「神名帳考証」の「大屋彦神」は、
「旧事紀云五十猛神亦云大屋彦神」に引っ張られた可能性が高そうです。

次に「今〜やあらん」の文は「妄り」が「みだりに」と読むので、
「大屋彦命」は「大家」の神では無いのに、「大家の神」となってくれた。

だから、「大家臣」の祖先として祀ったと解釈しました。

つまり、元々、「大家」には神が存在していなかったと考えられます。

「大家神と申すによりて」とあるので、「大屋彦命」は自ら進んで受け入れたのだと思います。

ですが、「姓氏録に大家臣は建内宿禰男之後也」と書いていますが、
別系統の可能性が高いように思います。

もしくは、衰退していたので「建内宿禰男」が継承したのかだと思います。

まとめ

参照66のサイトによると、上記の「神名帳考証」の他に、「特選神名牒」は「大家臣の祖先」、
「但馬神社系譜伝」は「祭神 彦真倭命(大家首の祖)」とあります。

また、他にも「但馬故事記」には「天道根命の孫」が「彦真倭命」と記載があるようです。

多くの方は、「姓氏録、右京神別下大家首、天道尼乃命孫比古麻夜眞止乃命之後也」
から、「彦真倭命=比古摩夜真止乃命」と考えると思います。

自分のサイトでは以前から「音の継承」を伝えてきました。

「彦真倭命」と「比古摩夜真止乃命」も「音の継承」をしていると言えるので、
同一人物ではなく、「比古摩夜真止乃命」が古く、「彦真倭命」が新しいと考えています。

時代考証については、情報が無いので出来ません。

これにより、2つの家系が確定します。

「天道尼乃命孫比古麻夜眞止乃命」→「天道尼乃命ー◯ー比古麻夜眞止乃命」、
「天道根命の孫彦真倭命」→「天道根命ー◯ー彦真倭命」

今後、親の名が判明できれば良いなと思っています。

参照66: 大家神社(新温泉町二日市)

参照67: 国 司文書 但馬神社系譜伝 第八巻・二方郡

大與比神社 兵庫県養父市三宅字大与比392-1

この神社、現在の祭神とは無関係ですが、
「社伝」や「神名帳考証」には異なる情報があったので考察します。

神名帳考証

大与比神社 大屋彦命

播磨国宍栗郡与比神社

大屋比古神倭名抄云養父郡大屋

旧事紀云素戔烏尊子五十猛神亦云大屋彦神、屋与音訓通

神名帳考証

確定事項として、「大屋彦命」、「大屋比古神」、「大屋彦神」は別人です。

また、参照68のサイトには、日本書紀に「素戔嗚尊」と記載がありますが、
「素戔烏尊」と「鳴」ではなく「烏」と解釈できる漢字になっています。

さすがに「口編」を忘れたとは思えないので、
「素戔烏尊」と云う人物が存在したのだと思われます。

先代旧事本紀を確認すると「素戔烏尊」となっています。

日本書紀の表記「素戔嗚尊」の「嗚」から「口編」を省略するだけの変更なので、
「素戔嗚尊」と近い関係者だと思われます。

参照68: 神 名帳考証

社伝

社伝によると、推古天皇十五年十月三日、
三宅首が祖神・大屋彦命を祀ったのが創祀。

上記のように、創立時期が社伝に残っているのであれば、
「大屋彦命」が祭神だったのだと思います。

しかし、社伝が残っているのであれば、祭神を変更する理由が無くなりますが、
現在「葺不合尊、彦火火出見尊、玉依姫命、木花開耶姫命」を祭神としているようです。

不思議です。

また、「大屋彦命」が「三宅首(おびと)」の先祖とありますが、
「三宅連」や「三宅史」は確認できましたが「三宅首(おびと)」は確認できませんでした。

「新撰姓氏録」が編纂された815年(弘仁6年)当時には、
既に「大屋彦命ー(略)ー三宅首」の系統が存在していなかったのだと思われます。

参照69: 大與比神 社 (養父市)

與位神社 兵庫県宍粟市山崎町与位129

與位神社 大屋彦命

但馬国養父郡大与比神社

旧事紀云素戔烏尊子大屋彦命

屋与音訓通

神名帳考証

「旧事紀」は今までにも多く記載がありましたが、今回は異なる箇所があります。

「旧事紀云素戔烏尊子五十猛神亦云大屋彦神」の様に、
「五十猛神」の亦の名が「大屋彦神」と書かれていました。

ところが、今回は、「旧事紀云素戔烏尊子大屋彦命」とあり、
「五十猛神」が無く、「大屋彦神」が「大屋彦命」へと変わっています。

「素戔烏尊」が何代目なのか、誰と同世代なのか、などの情報が無ければ判断できません。

今後に期待します。

多家神社 広島県安芸郡府中町宮の町2091

多家神社

今在府中称三宮 五十猛神 大屋津彦神

旧事紀云素戔烏尊子五十猛神亦大屋彦神

土佐国安芸郡多家神社

神名帳考証
土地

この神社は、「土佐国安芸郡多家神社」と関係性があるようですが、
調べても、現在の多家神社との関係性は分かりませんでした。

また、上記の「神名帳考証」は「安芸國安芸郡」の情報として載っています。

しかし、多家神社の詳細が書かれたサイトを見て回りましたが、
「神名帳考証」で「五十猛神」と「大屋津彦神」が
祭神と記載されているとするサイトはありませんでした。

同じ、神社であれば、現在の祭神がどうであれ、
過去の祭神についての記述があっても不思議では無いですが、見つかりませんでした。

社伝は焼失などで無いようですが、「神名帳考証」に載っている事を考えると、
「今在府中称三宮 多家神社」は消滅したが、
「多家神社」という名は継承されたと考えられます。

ちなみに、「明治神社誌料 府県郷社 下」で調べてみると、
「五十猛神」と「大屋津彦神」を祭神とする「多家神社」は既に消滅していたようです。

たぶんに「多家神社」自体が複数存在していたのではないか?と考えています。

読み

「神名帳考証」では「たけ」とふりがなが付いていたので、
「たけじんじゃ」と読んでいましたが、参照70のサイトを見ると、どうも違うらしいです。

社名は、現在、「タケ」と読むが、
昔は、「オホイエ」と読んでいた。
総社神主・大呑氏との関連らしいが、
今は、「オホイエ」という訓は否定されている。

この情報を見て、今回の食い違いの原因だと思いました。

「多家(たけ)神社」、「多家(おおいえ)神社」が存在していたが、
「多家(たけ)神社」は没落し消滅。

「多家(おおいえ)神社」が現代に残ったのだが、
同じ漢字を使っていることもあり、色々と混同したのだと思われます。

参照70: 多家神社 - 広島県安芸郡府中町宮の町3

祭神

あと、「大屋津彦神」が祭神とありますので、
「素戔烏尊子五十猛神亦大屋彦神」の情報は全くの無意味です。

この情報だけで、「五十猛神」=「大屋彦神」=「大屋津彦神」とするのは、
あまりにも不釣り合いです。

この記事を書いた人は、「大屋彦」で共通しているので載せたのだと思いますが、
「大屋津彦神」と「津」があるので、同一人物とする根拠はありません。

「岩木原神社」で「大屋津比古命」が祭神となっているので、
「大屋津彦神」は子孫などの関係者だと思いますが、調べても不明でした。

まとめ
先代旧事本紀

神社等で参照されている旧事紀は、「先代旧事本紀」だと思われます。

当然、古事記も日本書紀も完成している時期なので、参照されていると思います。

スサノオ

ところが、「先代旧事本紀」では、「スサノオ」の表記が、
日本書紀の表記の「素戔嗚尊」ではなく、「素戔烏尊」となっています。

多くの人が日本書紀の表記を見ながら、書いていると思われるので、
「鳴」→「烏」に変化することは、普通であれば無いと考えています。

ということは、わざわざ表記を変更しているので、
「日本書紀」と「先代旧事本紀」では別人と考えることも出来ます。

次に、子の「五十猛」についてですが、「五十猛神」と「五十猛命」が存在します。

このサイトでは何回も書いていますが、「神」と「命」では地位が異なるので、
他の時代考証や場所の考察を抜きにして、同一人物と決めることは出来ません。

それは、古代でも現代でも同じだからです。

日本書紀の該当箇所で改めて考察します。

五十猛

乃速遣於紀國之大屋彦神御所

先代旧事本紀

「大屋彦神」の横に「五十猛命の別名」とあり、「五十猛神」の別名ではないと書いてあります。

「彦」は日本書紀での表記ということもあり、古事記よりも後世と解釈しているので、
当時の「五十猛命」が「大屋彦神」を名乗ったのか、もしくは逆だと考えています。

ランクとしては、「素戔烏尊」の子の「五十猛命」より、
古事記の初期から継承されている「大屋彦」の系統が上だと思うので、
「大屋彦神」もしくは後継者が、「五十猛命」を継承した可能性が高いように思えます。

次五十猛握神 亦云大屋彦神

先代旧事本紀

次は「五十猛握神」と「握」が入っています。

「先代旧事本紀」では、「握」を赤い色で訂正して修正していますが、
誤字ではなく、その表記が存在したのだと思います。

脱字なら分かりますが、わざわざ、一文字多く書くということは、
当時、そういう情報が存在していたのだと思われます。

上記の情報が正しいとすると、「五十猛」家と「大屋彦」家は、
養子に入ってもらい存続する関係だったのかも知れません。

その他

「神名帳考証」では、他にも、「播磨国赤穂郡八保神社」の祭神が「保食神」なのに、
「旧事紀云素戔烏尊子五十猛神亦大屋彦神」と記載があったり、
逆に「播磨国揖保郡家嶋神社」の祭神が「大屋彦命」なのに、
「旧事紀云素戔烏尊子五十猛神亦大屋彦神」の記載が無かったりしています。

伊多太神社

「神名帳考証」を調べていると、「大屋彦神」と名乗った理由と思われる情報を見つけました。

山城国愛宕郡伊多太神社

今在大原井出村江文社 多奈尾社

今大原坐江文明神乎江興尾言通文興祇語渉
五十猛神播樹種有民安居故称大屋彦神

神名帳考証

重要なのが「五十猛神播樹種有民安居故称大屋彦神」の箇所です。

「五十猛神が樹の種類を播き、安らぐ民の居有り、故大屋彦神と称える」とした場合、
「五十猛神」が功績によって、「大屋彦神」という名をもって称えられたと解釈できます。

「旧事紀云素戔烏尊子五十猛神亦大屋彦神」の文と一致していますし、
その様な状況が存在したのだと思います。

それと同時に、この情報では「大屋彦神」ですが、
「大屋毘古神」と命名された人物の家系が廃絶していたので、
「大屋毘古神」の名に相応しい人物に贈られるようになったと解釈できます。

今までの状況から、「大屋毘古神」→「大屋毘古命」→「大屋比古命」→「大屋彦神」
と継承されて来たと思われます。

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