最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

まとめ

解説

04

いじゃなぎの子孫

「いじゃなぎ(いざなぎ)」は単純に継承された名では無いような気がします。

継承名の変遷

「いじゃなぎ(いざなぎ)」という継承名の変遷を確認します。

伊邪那岐神ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐神ー
伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー伊邪那岐命ー
伊邪那岐命ー伊邪那伎大神ー伊邪那伎命ー伊邪那岐大御神ー伊邪那岐大御神ー
伊邪那岐大神

ちなみに「いじゃなみ(いざなみ)」という継承名の変遷は下記になります。

妹伊邪那美神ー伊邪那美神ー伊邪那美命ー妹伊邪那美命ー伊邪那美命ー
伊邪那美命ー妹伊邪那美命ー伊邪那美神ー伊邪那美神ー伊邪那美神ー
妹伊邪那美命ー伊邪那美命ー妹伊邪那美命ー妹伊邪那美命ー伊邪那美命ー
伊邪那美神

系図に関しては、「一章終了後の系図」を見て下さい。

この様に、比較すると「いじゃなみ(いざなみ)」の方が
「妹」や「神」などの変化が著しく現れていて、分かりやすいと思います。

なぜ、この様に、変化があるかと言うと、当然、同一人物ではなく、
時代毎に選ばれた人物が、継承名を名乗っていいるからだと考えています。

そこで、年代はいつか?という問題ですが、
「淤能碁呂嶋」の話で既に「寒冷化」の影響が出始めている事から、
「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」は、
最低でも「紀元前1000年頃〜950年頃」の人だと推測しています。

「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」の2人の前には、
「伊邪那岐神」と「妹伊邪那美神」・「伊邪那美神」がいます。

2人が「紀元前950年頃」の人物として考えると、
「伊邪那美神」の時代は「紀元前980年頃」、
初代の「伊邪那岐神」と「妹伊邪那美神」が、「紀元前1010年頃」となります。

ただ、「上件 自國之常立神以下伊邪那美神以前 幷稱神世七代」に、
「伊邪那岐神」と「伊邪那岐命」のどちらが含まれているのか、判断は難しいです。

年代の推定は、
「神世7代までのまとめと時代考証」の「年代」を見て下さい。

例えば、「親→子→兄弟」だと、「親→子」では「30歳」の離れがありますが、
「子→兄弟」であれば、年齢差は少なくなります。

他にも、早く亡くなったり、長寿だったり、
古事記に記載が無い箇所で大きく変化しますが、
残念ながら、現時点で追跡出来るだけの情報がありません。

出雲国風土記

「いじゃなぎ(いざなぎ)」の音を持つ人物名が登場します。

伊弉奈枳:子:熊野加武呂乃命

「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」は、
「伊弉奈枳乃麻奈子」の「熊野加武呂乃命」が坐すと解読出来るので、
ひとまとめにする事では無いと考えています。

伊差奈枳命:子:都久豆美命

該当箇所で、今後、考察します。

伊弉弥命

検索で「伊弉弥命」を「いじゃなみ(いざなみ)」とするサイトがあったので、
追加しましたが、本当にそうなのかは不明です。

読み

「伊弉奈枳」と「伊差奈枳命」が登場し、「奈枳」で共通するので、
親族の可能性もありそうですが不明です。

読みとしては、「伊弉」=「伊差」であるならば、「いさなき」になると思います。

しかし、以前「伊邪那岐神」で検証した結果、「音読み」指定があるので、
「いじゃなぎ」とはなりますが、「いざなぎ」にはならない事が分かっています。

これにより、「伊弉」=「伊差」で「いさ」と読むのであれば、
「いじゃ」→「いしゃ」→「いさ」と時代が進む過程で、変化されたと言えるので、
「伊邪那岐」もしくは「伊邪那伎」の子孫と考える事が出来ます。

ただ、名の継承がされても、「血」が繋がっているかは不明です。

麻奈子

「伊弉奈枳乃麻奈子」とは何でしょうか?

調べてみると、「麻奈子」=「愛子」とするサイトが見つかりましたが、
他の人名では、「御子」とするのに、「伊弉奈枳」だけが書くものでしょうか?

漢字から推測します。

「麻」:

「切り立った崖」の象形と「あさの表皮をはぎとる」象形から
「あさ(クワ科の植物)」を意味する「麻」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「奈」:

「大地を覆う木」の象形と「神にいけにえを捧げる台」の象形から、
「神事に用いられる果樹」を意味する「奈」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「麻」の方は、成り立ちではなく、意味に

みことのり(天皇の命令、またその命令を直接伝える文書)。
唐代、国を治める人が命令を書く際、麻で作った紙を用いたことによる。

OK辞典

があり、これが関係しているように思います。

「奈」は、原意の「神事に用いられる果樹」が関係していると思います。

2つを繋げると、「みことのり」+「神事に用いられる果樹」となり、
「後継者」を意味しているのではないか?と考えています。

出雲国風土記では、古事記の様に注記が無いので、
そもそも、「麻奈子」が「まなこ」と読むのかさえ分かりません。

それと、当時、「愛子」を「麻奈子」と表記する必要があったのかも疑問ですし、
全員の名に「麻奈子」が入っていておかしくないと思います。

参照2:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「麻」という漢字

参照3:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「奈/柰」という漢字

熊野大社 島根県松江市八雲町熊野2451番

「熊野加武呂乃命」を調べていると、出雲の「熊野大社」に違う表記があるようです。

伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命

「伊邪那伎」表記は、古事記にも登場する表記です。

情報は、出雲国風土記よりも古い可能性が高く、「麻奈子」は「真名子」とあります。

もちろん、「熊野大社」と「出雲国風土記」の内容がイコールになるかは、
現時点では分かりませんが、研究素材としては大いに役に立ちます。

伊邪那伎

古事記に登場する表記ですが、いつまで、この表記を利用していたかは不明。

日真名子

当然、「愛子」ではなく、「真名(真なる名前)」を持つ子の意味。

他人に「真名」を知られると、操られたり良くない事が起きると言われていた時代、
「真名」を文書などに記すのは、危険な行為だったと思います。

ところが、この文では「真名子」とあり、「本名」だということを書いています。

また、「日」が付いているので、「日子」側の「真名」を付けられた子と言えそうです。

わざわざ、「日」を付けたのは、「天(あま)一族」とは違う、
「日子一族」に命名して貰ったからではないか?と考えています。

加夫呂伎熊野大神

「熊野加武呂乃命」と「加夫呂伎熊野大神」は当然、同一人物ではありませんが、
似ているので、何らかの関係性があるように思います。

しかし、「熊野加武呂乃命」は「熊野加武呂」の「命」ですが、
「加夫呂伎熊野大神」には、同じ様な特徴はありません。

読みは呉音優先で、「熊野加武呂」が「くまのけむろ」、
「加夫呂伎熊野大神」が「けふろぎくまのおおかみ」となります。

色々と調べてみましたが、「加武呂(けむろ)」と「加夫呂伎(けふろぎ)」が
何を指す言葉なのかは分かりませんでした。

「加夫呂伎(けふろぎ)」が時代が進み、「加武呂(けむろ)」に変化したとすると、
例えば「〇〇ソーラン」などのように、「熊野地方」特有の舞踊などの可能性が
あるかも知れません。

この名には、もう一つ、
「加夫呂伎」と「熊野大神」を分けるのかどうかという問題があります。

「大神」は、古事記の内容から「地位」だと思いますが、
「其黃泉坂之石者、號道反大神」から、
自然に対しても「大神」を付与する習慣が第一章後半では見られましたので、
人物に対してではなく、「熊野地方を守る大神(自然神?)」かも知れません。

結局、参考資料が少なく、比較検証も出来ないので、判断が難しいです。

櫛御気野命

これは人名だと思われますが、検索しても、今回の絡み以外に情報がありません。

「スサノオ」と同一視する人もいるようですが、「出雲国風土記」では、
きちんと表記を書き分けているので、もし、この名を名乗ったのであれば、
その様に書くはずですが、原文には記載がありません。

それにしても、「出雲」や「熊野大社」にしか残っていない「櫛御気野命」とは、
どの様な人物だったのか、それと、いつの時代の人なのか、気になります。

出雲國造神賀詞

「熊野大社」とは違う表記で書かれていて面白いです。

伊射那伎乃日真名子。加夫呂伎熊野大神。櫛御氣野命。

「熊野大社」のサイトでは、
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とありますが、
「伊射那伎乃日真名子」、「加夫呂伎熊野大神」、「櫛御氣野命」と記載されていて、
見方によれば、3人の人物名と受け取る事が出来ます。

そして、一番重要なのが、「熊野大社」が「伊邪那伎」としているのに対し、
「出雲國造神賀詞」では「伊射那伎」とあり、異なっています。

現時点では、どちらの情報が正しいかは不明ですが、
もし、「出雲國造神賀詞」が正しいのであれば、
「伊射那伎」は「伊邪那伎」の後世の子孫と考える事が出来ます。

以前に調べた「伊邪那岐神を祀る神社と神名」には、「伊射那伎」は登場しません。

また、「伊邪那伎」からの変化の順番としても、「邪」を「射」に変えただけなので、
「伊邪那伎」の時代から、遠くない時代の人物だという事が推測できます。

琅邪

その「邪」に悪い意味が使われる様になった時期を調べました。

「琅邪」の歴史ですが、参照4のサイトによれば、

春秋時代越王句践(こうせん)が現在の山東省膠南県南西の地に
黄海を望む台館を起こし,諸侯と会盟を行ったという。

という話が残っているようで、「諸侯と会盟」をした内容が、
「よこしま」な行為だったと考える事が出来ます。

「越王句践」は調べると、「勾践」と言う人物と同一視されているようで、
「紀元前465年」に亡くなったようです。

本当に同一人物か、疑問しかありませんが、
仮にこの件により、「よこしま」なる使われ方をしたとすると、
「伊射那伎」の使われた時期が分かるかも知れません。

「紀元前465年」に亡くなった様なので、「(平均寿命)30年」を足すと、
「紀元前495年頃」の生まれになり、「神武天皇(俗称)」の「紀元前660年」から、
「170年」経過していることになります。

「170年」を「(平均寿命)30年」で割れば「5代」となり、
「伊射那伎」はこの「5代」に入っている可能性があります。

参照4:琅邪とは - コトバンク

その他

「釋日本紀」5巻「天浮橋」:「丹後国風土記」逸文:伊射奈藝命

「延喜式」2巻「祝詞」:「鎮火祭」:神伊佐奈伎、伊佐奈美乃命妹背

「新撰姓氏録」:「1134 摂津国 未定雑姓 住道首 首 伊弉諾命男素戔嗚命之後也」

検索して、見つかった名を辿り、原文を見つけたのが、上記の3つです。

もしかしたら、他にもあるのかも知れませんが、現時点では3つ見つかりました。

この3つの名も表記が異なり、資料として大変ありがたいです。

重要なのは三番目の「新撰姓氏録」となります。

多くの方は、「伊奘諾命男素戔嗚命」の記述で、
「イザナギ」の子が「スサノオ」と思うかも知れませんが、
「住道首」という「姓(かばね)」を名乗った時代の始祖の家系なので、
この3つの名の中で一番新しい情報となります。

ただ、この「住道首」により、「伊邪那伎」もしくは「伊邪那岐」の系統と、
「伊弉諾命」の系統の2つが存在していた可能性が高くなりました。

神社の祭神名や今回の新しい情報を見ると、
日本書紀で使用されている「伊弉諾」の「弉」が「ある」と「なし」と「混合」の
三パターンに分ける事が出来ます。

特に「出雲国風土記」の「伊弉奈枳」の様に、「混合」している名が、
なぜ、「射」や「佐」などの明らかに「じゃ(しゃ、さ)」と読める漢字ではなく、
「呉音:ゾウ(ザゥ)、漢音:ソウ(サゥ)、訓読み:さかん」と、
同一とは思えない漢字を採用したのか、すごく、興味があります。

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