最終更新日 2022/08/23

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 第二章 天照大御神と速須佐之男命

爾速須佐之男命詔其老夫 是汝之女者奉於吾哉 答白 恐亦不覺御名 爾答詔
吾者天照大御神之伊呂勢者也【自伊以下三字以音】故今自天降坐也 爾足名椎手名椎神
白然坐者恐 立奉 爾速須佐之男命 乃於湯津爪櫛取 成其童女而 刺御美豆良 告其足名椎手名椎神
汝等釀八鹽折之酒 亦作迴垣 於其垣作八門 毎門結八佐受岐【此三字以音】毎其佐受岐置酒船而毎船盛其八鹽折酒而待 故隨告而 如此設備待之時 其八俣遠呂智 信如言來 乃毎船垂入己頭
飮其酒 於是飮醉留伏寢 爾速須佐之男命 拔其所御佩之十拳劔 切散其蛇者 肥河變血而流
故切其中尾時 御刀之刄毀 爾思怪 以御刀之前刺割而見者 在都牟刈之大刀 故取此大刀
思異物而 白上於天照大御神也 是者草那藝之大刀也【那藝二字以音】故是以其速須佐之男命
宮可造作之地 求出雲國 爾到坐須賀【此二字以音 下效此】地而詔之 吾來此地
我御心須須賀賀斯而 其地作宮坐 故其地者於今云須賀也 茲大神初作須賀宮之時
自其地雲立騰 爾作御歌 其歌曰

夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁

於是喚其足名椎神 告言 汝者任我宮之首 且負名號稻田宮主須賀之八耳神
故其櫛名田比賣以 久美度邇起而 所生神名謂八嶋士奴美神【自士下三字以音 下效此】
又娶大山津見神之女 名神大市比賣 生子 大年神 次宇迦之御魂神【二柱 宇迦二字以音】
兄八嶋士奴美神 娶大山津見神之女 名木花知流【此二字以音】比賣 生子
布波能母遲久奴須奴神 此神 娶淤迦美神之女 名日河比賣 生子 深淵之水夜禮花神
【夜禮二字以音】此神娶天之都度閇知泥神【自都下五字以音】生子 淤美豆奴神
【此神名以音】此神娶布怒豆怒神【此神名以音】之女 名布帝耳神【布帝二字以音】生子
天之冬衣神 此神 娶刺國大神之女 名刺國若比賣 生子 大國主神 亦名謂大穴牟遲神
【牟遲二字以音】亦名謂葦原色許男神【色許二字以音】亦名謂八千矛神
亦名謂宇都志國玉神【宇都志三字以音】并有五名
解読

爾(なんじ)速須佐之男命、其の老夫詔(みことのり)す

是、汝之女者(は:短語)吾於(お)奉る哉

答て白(もう)す

恐れながら、御名を不覺(おぼえられ)ず

※「恐亦不覺御名」のように「亦」が入る写本がある

爾(なんじ)答て詔(みことのり)す

吾者(は:短語)天照大御神之伊呂勢(伊自(より)以下三字、音を以ってす)の者也

故、今、天から自ら降り坐す也

爾(なんじ)足名椎と手名椎神、
然し、立つのを恐れる者(は:短語)奉(たてまつる)と白(もう)し坐す

爾(なんじ)速須佐之男命

乃ち湯津爪櫛於(お)取り、其の童女而(に)御美豆良(みづら)を刺して成る

其の足名椎と手名椎神に告げる

汝等、八つの鹽(しお)を折って之(これ)醸(かも)し酒にす

亦、垣を廻りて作る

其の垣に八門於(お)作る

毎門に八つの佐受岐(此三字、音を以ってす)を結び、其の佐受岐毎而(に)酒船を置き
毎船而(に)其の八つの鹽(しお)を折った酒を盛り待つ

故、此の如く而(に)備(つぶさ)に設けた之(この)時、随うを告げて待つ

其の八俣遠呂智信(まこと)の如く来て言う

乃ち船毎に己の頭を垂らして入れて其の酒を飲む

是於(これお)飲んで酔って留まり伏せて寝る

爾(なんじ)速須佐之男命

其の所で御佩(おんおびる)之(この)十拳劔を抜き、其の蛇を切り散る者(は:短語)
肥河を血の流れ而(に)變(かえ)る、故、中の尾を切る時、御刀之刄毀(こわ)れる

爾(なんじ)怪しく思い、御刀之前を以て刺して割り
而(なんじ)見れ者(ば:短語)都牟刈之大刀が在った

故、此の大刀を取り、異なる物の思い於(お)天照大御神而(に)上げると白(もう)す也

是者(は:短語)草那藝(那藝二字、音を以ってす)之大刀也

故、是を以て其の速須佐之男命

宮作る可(べ)き之(この)地を出雲国に求めて造る

爾(なんじ)須賀(此二字、音を以ってす 此れ下も效(なら)う。)の地而(に)
到り坐し之(これ)詔(みことのり)す

吾、此の地に来て、我の心須須賀賀斯く、其の地而(に)宮を作り坐す

故、其の地於(お)今者(は:短語)須賀と云う也

茲(ここ)に大神が初めて須賀宮作る之(この)時、其の地自ら雲立ち騰(あ)がり
爾(なんじ)御歌作り、其の歌曰く

夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
やくもたつ   いずもやへがき  つまごみに
八雲立つ    出雲八重垣   妻籠みに

夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
やへがきつくる   そのやへがきを
八重垣作る     その八重垣を

是於(これお)其の足名椎神を喚(よ)び告げて言う

汝者(は:短語)我の宮の頭(かしら)に任じ、且つ稻田宮主須賀之八耳神の名の號を負う

故而(に)其の櫛名田比賣を以て、久美度邇(くみどに:格子戸)起ち
生まれる所の神名
八嶋士奴美神(士自(より)下三字、音を以ってす 此れ下も效(なら)う。)と謂う

又、大山津見神之女の名神大市比賣娶って生む子 大年神、
次に宇迦之御魂神(宇迦二字以音)

兄八嶋士奴美神、大山津見神之女の名木花知流比賣(此二字、音を以ってす)娶って子、
布波能母遲久奴須奴神生む

此の神淤迦美神之女の名日河比賣娶って子、
深淵之水夜禮花神(夜禮二字、音を以ってす)生む

此の神天之都度閇知泥神(都自(より)下五字以音)娶って子、
淤美豆奴神(此の神の名、音を以ってす)生む

此の神布怒豆怒神(此の神の名、音を以ってす)之女の名
布帝耳神(布帝二字、音を以ってす)娶って子、天之冬衣神生む

此の神刺國大神之女の名刺國若比賣娶って子、大國主神生む

亦名大穴牟遲神(牟遲二字、音を以ってす)と謂う

亦名葦原色許男神(色許二字、音を以ってす)と謂う

亦名八千矛神と謂う

亦名宇都志國玉神(宇都志三字、音を以ってす)と謂う

幷(あわ)せて五名有り

解説

07

大國主神(表記)


神社

上が「古事記」にある「大國主神」の家系図で、
下が神社表記を変遷順に推測して並べてみました。

神社表記を見ると分かりますが、数パターンに絞られそうです。

大國主神

この表記は、「天照大御神」の様に階位のみ変化しているので、
基本的に、誰が継承したのかは不明となっています。

ただ、古事記では「大穴牟遲神」、「葦原色許男神」、「八千矛神」、
「宇都志國玉神」が、「日本書紀」では「大物主神」、「國作大己貴命」、
「葦原醜男」、「八千戈神」、「大國玉神」、「顯國玉神」が記載されているので、
これらは、「大國主神」を継承した人物名と考えています。

残念ながら、時代を知る情報が無いので、詳細については不明です。

「大国主尊」があるので、継承は長い間続いたと思われます。

大穴牟遲神

「亦の名」の最初に「大穴牟遲神」があります。

また、「牟遲」には「大穴牟遅神」、「大己牟遲神」、「大名牟遅神」、
「大那牟遅神」の四種類があるので、同時代と考えています。

「牟遲」→「持」へと変化していますが、
その中間には長い年月がかかっていることが、
「大名牟遅神」系の表記から知ることが出来ます。

牟遲

「牟遲二字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。

「牟」:呉音:ム、漢音:ボウ、唐音:メ

「遲」:呉音:ジ(ヂ)、漢音:チ

上記により、呉音「むじ」、漢音「ぼうち」となりそうです。

大穴持命

「大穴牟遲神」の子孫と思われます。

「出雲国風土記」では「所造天下大穴持命」と表記されていますが、
「所造天下大神命」と同一人物は不明です。

ただ、「所造天下大神 大穴持命」とはあるので、
全くの無関係では無いと思います。

妻子について書かれています。

詳しくは、「出雲国風土記」で考察します。

妻 娶高志國坐神、奴奈宜波比賣命
          妻 祖父 意支都久良為命
          妻 親  俾都久良為命
          御子御穂湏々美命

意支都久辰為命ー 俾都久辰為命

  湏佐能袁命 八野若日女命
        和加須世理比賣命

  神魂命   真玉著玉之邑日女命

        御子 山代日子命
           阿陀加夜努志多伎吉比賣命
           阿遅湏枳高日子命
            后天御梶日女命 御子多伎都比古命
                      塩治毘古能命
           和加布都努志命

海代

「大穴持海代比古命」、「大穴持海代比女命」は、
「久佐加神社」の祭神になっています。

境内由緒書きには「大穴持命に縁故のある神」と記載があります。

関連して、「来阪神社」の合祀してある、
「出雲國出雲郡 大穴持海代日古神社 海代日古尊」、
「出雲國出雲郡 大穴持海代日女神社 海代日女尊」があります。

「大穴持命の御子神」と書くサイトもありましたが、
情報が無いので、真偽は不明です。

大那牟遅神

この表記があることによって、
「おおあな」系と「おおな」系が存在した可能性が出て来ます。

この系統では「大那母智神」の表記があり、「母智」=「もち」と読め、
これが「持」へと変化したと思われます。

また、「大那牟知大神」から、「牟遅」→「牟知」→「母智」への変遷とすると、
「牟」→「母(む)」に変化したことにより、後世の人物が、
「母(む)」→「母(も)」へと変えた可能性があります。

そこから、「むじ」→「むち」→「もち」となり、
「持」の漢字を使用したのだと考えています。

大名牟遅神

この系統の表記から、多くの事を知ることが出来ます。

変遷として、「牟遅」→「牟智」→「牟知」→「牟持」→「貴」と変化し、
「大己貴神」に繋がったのではないか?と思っています。

「大那」と「大名」は「おおな」と読めるので、
同系統として考えると、どちらかが本家とも受け取れます。

大己貴神

日本書紀の表記なので、時代として「神武天皇(俗称)」と考えています。

「貴」=「むち」と考えた場合、「己」=「な」となりそうですが、
読みに「な」が無いので、他の漢字から変化したと考えられます。

「名」から「己」にしたのか、それとも、「大己牟遲神」からの継承かは不明です。

あと、「竹宇駒ケ嶽神社」の看板に、
「須佐之男命の子、大躬貴命が祭られています」とありますが、
たぶん、「大己貴神」など「貴」が付く人物と関係がありそうです。

葦原色許男神

「亦の名」の二番目に来るのが「葦原色許男神」です。

「葦原色男神」、「葦原志許男神」、「葦原醜男神」、「葦原醜男」の表記があるので、
能力によって「大國主神」を継承していた可能性が高いと思っています。

「大穴牟遲神」と「葦原色許男神」の繋がりについて知りたいですが、
調べても、有益な情報が無い様です。

文献に無いという事は、やはり、別系統と考えたほうが良さそうです。

ちなみに、日本書紀では「葦原醜男」、
播磨国風土記では「葦原志拳乎命(揖保郡)、」「葦原志許乎命(宍禾郡)」、
先代旧事本紀では「葦原色男(地祇本紀)」、「葦原色許男神(地祇本紀)、
「葦原醜雄命(地祇本紀)」が登場します。

見てわかる通り、表記が異なるので、
時代によって、表記を変えていたことが分かります。

時代に関しては、情報がありません。

色許

「色許二字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。

「色」:呉音:シキ、漢音:ショク

「許」:呉音:コ(表外)、漢音:キョ

上記により、呉音「しきこ」、漢音「しょくきょ」になりそうです。

「葦原色許男神」では、多くのサイトにある「あしはらしこお」ではなく、
正しくは、「あしはらしきこお」の様です。

後世には「しきこお」→「しこお」となったと思われます。

八千矛神

この系統は「矛」、「鉾」、「戈」の3つに分かれます。

Wikiにおいて、下記の様に記載があります。

矛、鉾(ほこ)は、槍や薙刀の前身となった長柄武器で、
やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。

日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。


石器時代に用いられた石槍(骨槍、木槍)に関して、槍の前段階として石矛と呼んだり、
漁に用いたものを特に石矛と称する場合もある。


矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。

材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、
銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。

Wiki

本来は「矛」と「槍」では明確な違いがあったが、
時代を経ることによって、徐々にその差が無くなったと思われます。

そうでなければ、「矛」と「槍」という漢字が作られません。

古事記にある「矛」が「青銅製」つまり、「銅矛」とすると、
時代も推測できるかも知れません。

ちなみに、「鉾」については次に考察しますが、
こちらは「鉄」で出来た武器と考えられるので、
「銅鉾」とするのは間違っていると思われます。

銅矛

日本大百科全書(ニッポニカ)「銅矛」の解説

中国殷(いん)代の銅矛は袋部の根元両側に半環状の耳がつく。
西周時代以降の銅矛には耳のつかないものが多いが、
河北省唐山雹神廟(はくしんびょう)出土の鋳型に刻まれた矛には片耳のものがある。

コトバンク

古事記には「天沼矛」が初期に登場するので、
この時期を「紀元前1000年頃」と考えると、
「殷代末期」にはすでに「矛」が九州に存在していることになります。

ただ、疑問もあります。

そもそも、「矛」の素材は何でしょうか?

「銅矛」は「青銅」ですが、「青銅器」以前から「矛」はあると思うので、
普通に考えれば、「木」が素材だと思われます。

もしかすると、現存していないだけで、別の素材があったのかも知れません。

「鉾」は「矛」と同じと考えられているようですが、「金偏」であり、
「青銅器」から「鉄器」に移行し始めた時代に作られた漢字だと思われます。

そうでなければ、わざわざ、「金偏」で区別はしないはずです。

「旁」の「牟」は、「牛の鳴き声」と言われていますが、参照19のサイトを見ると、
「大麦(イネ科の一年草)」、「おおきい(大)」があり、
「大きい鉄器」や「大麦に似た形の鉄器」という意味があるのかも知れません。

参照19: 漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「牟」という漢字

Wikiにおいて、下記の様に記載があります。

「戈」では穂先を柄の先端に垂直に取り付け、前後に刃を備える。


中原から中国東北部・朝鮮半島に広まった戈は、
刃が手元に向かって湾曲した「胡」と内の部分が縮小退化する一方、
刃身は大きく幅広となり、ちょうど矛をくの字に曲げたような姿に変化した。

日本で出土する戈もこの形態に準じる。

弥生時代に伝来し、当初は実用の武器であったと考えられるが、
次第に祭具としての用途が主となり、
銅鐸のように象徴的意義を追求して実用には適さない姿へ巨大化していき、
弥生時代の末期まで用いられた。

銅戈、鉄戈の他、
舶来の金属剣をかたどった石剣同様、石戈(せきか)も発見されている。

Wiki

「戈」は「矛」とは形状が異なります。

三種類の中では、一番新しいと思われます。

まとめ

「矛」→「鉾」→「戈」と思っていましたが、
もしかしたら、「矛」家から「鉾」家と「戈」家に分かれた可能性もあります。

ただ、日本書紀には「八千戈神」とあるので、
「神武天皇(俗称)」の時代には、「戈」が主流になっていたとも受け取れます。

宇都志國玉神

「亦の名」の中で最後に登場します。

「宇都志三字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。

「宇」:呉音・漢音:ウ

「都」:呉音:ツ、漢音:ト

「志」:呉音・漢音:シ

上記により、呉音「うつし」、漢音「うとし」となりそうです。

意味

「宇」=「辺り」、「都」=「都」、「志」=「しるし」と考えると、
「都の辺りの印」と解釈できますが、「國玉」をどう解釈するか難しいです。

大物主神

「大物主神」は、「日本書紀」、「出雲国造神賀詞」、
「播磨国風土記」には登場しますが、「古事記」には登場しません。

古事記の時代には、「大國主神」と「大物主神」とは関係が無かったが、
系統が断絶したのか、能力による継承に変わったのか不明ですが、
日本書紀の「神武天皇(俗称)」の時代には、
「大國主神」が「大物主神」の仕事を兼任する事があったのかも知れません。

「播磨国風土記」にある「大物主葦原志許」は、
「葦原色許男神」の系統が、「大物主」を継承したのだと思われます。

日本書紀の「倭大物主櫛甕魂命」と、
出雲国造神賀詞の「倭大物主櫛𤭖玉命」については、情報が無いので不明です。

大汝命

「播磨国風土記」で登場する表記です。

「おおなむち」とすると、「おおあな」系ではなく、
「おおな」系の子孫と考えられます。

「温泉石神社」の社頭掲示板の一つに「大汝貴命」の表記があり、
「大汝命」の先祖かも知れません。

「播磨国風土記」には、「大汝命」の妻子について、
「妻 弩都比賣」、「子 火明命」と記載があります。

他に「伊和大神」の妻子についての記述がありますが、
「大汝命」とイコールかは不明なので、カウントしていません。

その他

今回、神社の表記にはありませんでしたが、
参照20のサイトには、見たことも無い表記が存在していました。

「田島大国主命」、「辨辨大己貴尊」、「地津主大己貴神」の3つが気になりますが、
情報がありませんでした。

参照20: 大国主

素戔嗚尊との関係

「素戔嗚尊」は、日本書紀の表記で、
「乃相與遘合而生兒大己貴神」とはありますが、
「素戔嗚尊」と「奇稻田姫」の子かどうかは不明です。

「新撰姓氏録」の「摂津国 未定雑姓」にある「住道首」の祖には
「伊奘諾命男素戔嗚命之後也」とあります。

これがいつの時代の事を指しているかは分かりませんが、
日本書紀の時代にも同じ様に、継承されてきたと仮定すると、
「伊奘諾命ー素戔嗚命ー大己貴神」の関係が成立するかも知れません。

詳しくは、日本書紀編で考察します。

新撰姓氏録

左京  神別 地祇 石辺公  公  大国主[古記一云。大物主。]命男
                  久斯比賀多命之後也

山城国 神別 地祇 石辺公  公  大物主命子久斯比賀多命之後也

大和国 神別 地祇 大神朝臣 朝臣 素佐能雄命六世孫大国主之後也

                  初大国主神娶三島溝杭耳之女玉櫛姫。夜未曙去。
                  来曽不昼到。於是玉櫛姫績苧係衣。至明随苧尋。
                  経於茅渟県陶邑。直指大和国真穂御諸山。
                  還視苧遣。唯有三。因之号姓大三

大和国 神別 地祇 賀茂朝臣 朝臣 大神朝臣同祖 大国主神之後也

                   大田田祢古命孫大賀茂都美命
                   [一名大賀茂足尼。]奉斎賀茂神社也

大和国 神別 地祇 和仁古     大国主六世孫阿太賀田須命之後也
摂津国 神別 地祇 鴨部祝     賀茂朝臣同祖    大国主神之後也
摂津国 神別 地祇 我孫      大己貴命孫天八現津彦命之後也
摂津国 神別 地祇 神人      大国主命五世孫大田々根子命之後也
河内国 神別 地祇 宗形君     大国主命六世孫吾田片隅命之後也
和泉国 神別 地祇 長公   公  大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也
左京  未定雑姓  野実連  連  大穴牟遅命之後也

石辺公

「久斯比賀多命」の親が「大国主命」と「大物主命」で異なりますが、
「石辺公(左京)」において、「大国主[古記一云。大物主。]」とあるので、
「大国主命」=「大物主命」と兼任していたと思われます。

「久斯比賀多命」について、「櫛御方命」や「天日方奇日方命」などと
同一視しているサイトもありますが、
そもそも、時代考証されていないので、関係性は不明です。

そこでヒントになるのが「公」という「姓(かばね)」です。

定義として、Wikiには下記のようにあります。

「公」は主として、「息長公」・「多治比公」・「当麻公」など、
応神天皇以後、あるいは 継体天皇以降の 皇族の後裔と称する皇親氏族に与えられた。

大和政権の王が 大王(おおきみ)と称するようになると,
君・公は「姓」として位置づけられるようになり、
「大王」はその大なるものとして豪族を超越するものへと発展していった。

Wiki

「応神天皇(俗称)」は「4世紀後半」、「継体天皇(俗称)」は「507年(即位)」
の人物とWikiにはあります。

「櫛御方命」は、古事記に「大物主神」と「陶津耳命の娘・活玉依毘売」の
子として登場し、時代は紀元前680年頃と思われるので、時代が合いません。

「天日方奇日方命」も「神武天皇(俗称)」の「皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命」の
兄として登場しますので、こちらも時代が合いません。

粟鹿大明神元記

色々と調べていると、「粟鹿大明神元記」に、
「大國主命」と「溝杭耳之孫女活玉依姫」の子に「久斯比賀多命」がいます。

こちらが初代で、「石辺公(左京)」と「石辺公(山城国)」を賜った
「久斯比賀多命」は子孫であると言えると思います。

ただ、養子が継承した事もあると思うので、血統としては不明です。

一字も変化がないので、「天照大御神」の様に、
後継者は、表記をそのまま継承したと思われます。

久斯比賀多命子孫

他に、「久斯比賀多命」の子孫に関しての記述があります。

「児島系図」:「久斯比賀多命三世孫の久斯気主命(宇治土公祖)」

「神別系譜」:

「健速須佐之男命」の家系で、「天日方奇日方命」=「久斯比賀多命」とありますが、
三世孫に「久斯気主命」とあります。

この「児島系図」と「神別系譜」から、
「久斯比賀多命三世孫の久斯気主命」の情報は正しいと思われます。

問題は、時代がいつなのか?という事です。

「久斯気主命」が「宇治土公祖」として「姓(かばね)」を賜ったのなら、
「4世紀後半以降」ですし、初代「久斯比賀多命」であれば、
初代の時代を「紀元前680年頃」とすると、
「久斯気主命」は「紀元前580年頃」の人物となります。

石辺公

「石辺公」に関しては、情報が無かったので家系を知る事が出来ませんが、
「左京」にあることから、この家系は地位が高かった可能性があります。

大神朝臣

「朝臣」は、684年に制定された「八色の姓」で登場します。

「素佐能雄命六世孫大国主」の「大國主」が684年に存在した人と分かります。

「素佐能雄命」も「1代30歳(平均)」で単純計算すると、
180年前の人物となり、西暦500年頃の人物であるのが分かります。

和仁古

「大国主六世孫阿太賀田須命」ですが、似た表記に、
先代旧事本紀の第四巻に「大御氣主命」の子に「阿田賀田須命」がいます。

しかし、「大巳貴神」から見て「八世孫」とあり、
「大国主六世孫」とする「新撰姓氏録」の情報と合いません。

ここから考えても、「新撰姓氏録」の「阿太賀田須命」と、
「先代旧事本紀」の「阿田賀田須命」は同一人物とするのは難しいと思います。

関係性については、情報が無いので分かりませんが、
無関係ではないと思います。

神社
阿太賀田須命

大都加神社、朝宮神社(春日井市)、和爾良神社

阿田賀田須命

和爾坐赤阪比古神社、宗像大社 摂社 津加計志神社、両社宮神社

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