故(ゆえ)此(こ)の大國主神之(の)兄弟八十神坐(ざ)し、
然(しか)るに皆(みな)國の者は大國主神於(お)避(さ)ける
其の八十神、各(おのおの)が避ける所以(ゆえ)者(は:短語)、
婚(こん)する稲羽之八上比賣之心を欲(ほっ)すと有り
共に稲羽に行く時、大穴牟遅神、帒(ふくろ?)を負うに於いて、
從者を率(ひき)いて往くと爲す
是於(これお)氣多之前に到る時、裸の菟伏しき也
爾(なんじ)八十神に謂れ、其の菟に云う
「汝(なんじ)の將(まさ)に爲(ため)になる者(は:短語)、
此の海を浴びた鹽(しお)、吹く風而(に)當(あたり)、高山の尾の上に伏せること」
故(ゆえ)其の菟は八十神之(の)教(おし)え而(に)従ひて伏す
爾(なんじ)、其の鹽乾くに隨(したが)ひ、
其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹かれて見れば拆(さ)ける
故(ゆえ)に苦しく痛く泣いて者(は:短語)伏せ、
最後に大穴牟遅神之(これ)来て、其の菟を見て言はく
「汝(なんじ)は何由(なによし)泣き伏すや。」
菟答へて言はく
「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。 雖(いえども)此の地に度り無く度りを欲(ほっ)す」
故に因って、海の和邇(わに)を欺(あざむ)きて言はく
「吾(あれ)、汝の與(くみ)する族(やから)之(これ)多いか少ないか計(はか)り、競うを欲す」故、汝(なんじ)者(は:短語)其の族(やから)を、悉(ことごと)く率(ひき)いて来て隨(したが)うと在り
此の嶋自(より)氣多の前于(に)至(いた)り皆(みな)列(つらな)り度りに伏せる
爾(なんじ)、吾(あれ)踏み、其の上を走り乍(ながら)讀(づ)つ度る
是於(これお)吾(あれ)が與(くみ)する族(やから)と孰(いずれ)が多いかを知る
此の如(ごと)く言う者(は:短語)、
欺かれ列(つらな)り伏せし時而(に)之(これ)見て、吾(あれ)を蹈(ふ)み、
其の上を度り讀(づ)つ来て、今、将に地に下りようとした時、吾(あれ)云はく
「汝(なんじ)者(は:短語)、我(われ)を見て欺(あざむ)く」と言い竟(お)わる
即(すなわ)ち最端に伏した和邇(わに)我(われ)を捕まえ、
我(われ)の衣服を悉(ことごと)く剥(は)ぐ
此れに因って泣き患(わずら)う者(は:短語)、先に行(ゆ)きし
八十神之命(めい)を以って誨(おし)へ告(つ)げられ、海の鹽を浴び、風に當(あたり)伏しき
故、教えの如(ごと)く為(ため)し我(われ)者(は:短語)身を悉(ことごと)く傷(いた)める
是於(これお)大穴牟遅神、其の菟に教(おし)え告(つ)げる。「今急ぎ此の水門(みと)に往(ゆ)き、水を以(もち)て汝の身を洗え」
即(すなは)ち其の水門(みと)之(の)蒲黄(ほおう)を取り、散らして敷き、
而(なんじ)其の上を轉(ころ)がり輾(めぐ)る者(は:短語)
汝の身、本(もと)の如(ごと)きに必ず膚(はだ)を差(さ)す
故(ゆえ)教(おし)えの如く為(ため)し、其の身は本(もと)が如し也
此れ者(は:短語)稲羽之素菟(いなばのすうさぎ)也
今に於いて者(は:短語)菟の神と謂ふ也
菟の語り
原文:
何由汝泣伏 菟答言 僕在淤岐嶋 雖欲度此地 無度因 故欺海和邇【此二字以音 下效此】言
吾與汝竸 欲計族之多少 故汝者隨其族在悉率來 自此嶋至于氣多前皆列伏度 爾吾蹈其上
走乍讀度 於是知與吾族孰多 如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來 今將下地時 吾云
汝者我見欺 言竟 即伏最端和邇捕我 悉剥我衣服 因此泣患者 先行八十神之命以
誨告浴海鹽當風伏 故爲如敎者 我身悉傷
解読:
「汝(なんじ)は何由(なによし)泣き伏すや。」
菟答へて言はく
「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。雖(いえども)此の地に度り無く度りを欲(ほっ)す」
故に因って、海の和邇(わに)を欺(あざむ)きて言はく
「吾(あれ)、汝の與(くみ)する族(やから)之(これ)多いか少ないか計(はか)り、競うを欲す」
故、汝(なんじ)者(は:短語)其の族(やから)を、悉(ことごと)く率(ひき)いて来て隨(したが)うと在り
此の嶋自(より)気多の前于(に)至(いた)り皆(みな)列(つらな)り度りに伏せる
爾(なんじ)、吾(あれ)踏み、其の上を走り乍(ながら)讀(づ)つ度る
是於(これお)吾(あれ)が與(くみ)する族(やから)と孰(いずれ)が多いかを知る
此の如(ごと)く言う者(は:短語)、
欺かれ列(つらな)り伏せし時而(に)之(これ)見て、吾(あれ)を蹈(ふ)み、
其の上を度り讀(づ)つ来て、今、将に地に下りようとした時、吾(あれ)云はく
「汝(なんじ)者(は:短語)、我(われ)を見て欺(あざむ)く」と言い竟(お)わる
即(すなわ)ち伏した最端の和邇(わに)我(われ)を捕まえ
我(われ)の衣服を悉(ことごと)く剥(は)ぐ
此れに因って泣き患(わずら)う者(は:短語)、先に行(ゆ)きし
八十神之命(めい)を以って誨(おし)へ告(つ)げられ、海の塩を浴び、風に當(あたり)伏しき
故、教えの如(ごと)く為(ため)し我(われ)者(は:短語)身を悉(ことごと)く傷(いた)める
「何由汝泣伏(何で泣いているんですか?)」と大穴牟遅神が、
菟に対して問いかけますが、
なぜか、八十神とは関係の無い話を始めます。
これが小説のような読み物であれば、「なぜ、泣いているのか?」の問いかけには、
「八十神に教えて貰った方法を試したがダメだったから」と返せば良いのに、
聞かれてもいない「和邇」との話をします。
ここから、「氣多之前」で「八十神」に出会った「菟」と、
「大穴牟遅神」が出会った「菟」は別人なのではないか?と考えてしまいます。
「菟」と書いている事からも、同じ一族の可能性は高いと考えています。
「僕在淤岐嶋(僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。)」にある「淤岐嶋」ですが、
検索すると、「島根県隠岐郡」を推定としているサイトが多いように感じました。
しかし、そもそも、「大國主神」や「大穴牟遅神」は、現在の島根県に居たのでしょうか?
確かに、先祖である「速須佐之男命」は「出雲國」に行き「須賀宮」を造りましたが、
子孫である「大國主神」や「大穴牟遅神」が、「出雲國」に住んでいたとする証拠はありません。
なにより、第三章の一番最初が「故」で始まっている事から考えても、
第二章と第三章との間には、別の文章が存在していた可能性が高く、
もしかしたら、他の地名が記載されていたのかも知れません。
他にも、出雲國に仮に一時期在住していたとしても、
この第三章の場面が「出雲國」であると決定できる情報もありません。
なぜ、現在において、「第三章」が「出雲國」の話として残っているかと言えば、
後世の人による思い込みだろうと考えています。
「出雲國風土記」などにある人名と「古事記」にある人名を混同して考えていたのが、
大きな要因だと思われます。
人名の混同については、過去に調査した人名でも書いていますので省略します。
「淤岐嶋」が、現在云われている「島根県隠岐郡」でないとすると、どこでしょうか?
詳細については今後、改めて考察しますが、今回は「出雲國」の推定地を考察します。
古事記での「出雲國」の初見は「出雲國與伯伎國堺比婆之山」です。
「伊邪那岐命」が「伊邪那美神」の死を悲しむ場面ですが、
当時、「伊邪那岐命」には権力があり、出席しなければいけない会議などもあったと思います。
そうなると、長期の空白期間があると、「天(あま)なる國」としては困ったと思うので、
遠い場所に行く事は、簡単には許可が降りなかったと思われます。
なにより、現在の「島根県」に元々「出雲國」が存在していたとして、
「天(あま)なる國」のある九州中部から、どれだけの時間を要したのでしょうか?
他にも、以前、火山が関係したのではないか?という事を書きましたが、
九州であれば「火山」が多く存在するので、島根県とするよりは、
「出雲國」は元々、「九州中部」に存在したと考えるほうが良い気がします。
現在地の「島根県」に移住したのは、
「出雲国風土記」に「伊差奈枳命」が使われているので、
「紀元前後±100年」ではないかと推測しています。
あと、「出雲國」が元々「九州中部」に存在したと考えているのには、
「須佐一族」が「出雲」を重要な地と考えて「須賀宮」を造った事も関係しています。
「須佐一族」は、海運を生業としているとすると、
上海近域と九州古代有明海〜古代博多湾を繋ぐ海路で利益を出していたと思われます。
そうであれば、わざわざ、関係性の薄い「島根県」を往復する意味が無いと思います。
島根県にあるのは「隠岐島」ですが、「淤岐嶋」と比較検証します。
まず、読みですが、「穏」=「淤」=「お」と考えている人が多いと思いますが、
「穏」には「お」という読みは存在しません。
これは、調べてみると分かりますが、
Wikiのみ「常用漢字表外」に「お」を表記しています。
「隱伎之三子嶋」でも書きましたが、
「隱伎」は「おき」ではなく、「おんぎ」だとするのが適していると思われます。
これにより、「隠岐島」=「淤岐嶋」とするのは難しいと思います。
また、「隱伎之三子嶋」を「技術を修得する為の「訓練場」」と解釈しましたが、
「隠岐」は「岐」を「航路」と考えると、「航路から外れている隠れた名所」という、
解釈も出来るかも知れません。
では、本題の「淤岐」ですが、「淤」は「泥」でも「堆積した泥」を指します。
「淤能碁呂嶋」が「泥」で出来た嶋と解釈できるのと同じで、
「淤岐嶋」もまた、「泥」が堆積して、川や海の流れをせき止めて出来た「嶋」と思われます。
この考えが正しければ、時期は「弥生の小氷期」で、海退によって水が退いていき、
水の底だった場所が次々に陸地化していた事を指すのだと考えています。
そうであるならば、「淤岐嶋」は「寒冷期」は存在するが、
逆に「温暖期」には水の底に消えてしまうことを示唆しています。
「島根県」の「隠岐島」が現実に水の底になっていない事を考えると、
「淤岐嶋」には適していないと言えます。
「淤岐嶋」が、「泥が堆積して出来た嶋」とすると、
「干潟」のような地域だったのではないか?と思われます。
そうであるならば、何回も書いていますが、
崖が存在する「隠岐島」は、「淤岐嶋」では無いと考えられます。
存在した場所を考えると、九州古代有明海〜古代博多湾ではないかと考えています。
根拠として大きいのが、「大八嶋國」や「淤能碁呂嶋」です。
「日本書紀」では「寒冷期」→「温暖期」に変化した事で、
少しずつ、陸地化が解除されて、水底に戻っていく状態が描かれています。
九州古代有明海〜古代博多湾は、黄河のような大きな水路で繋がっていましたし、
海運を生業にしていたと思われる「須佐一族」だからこそ、
情報が残ったのではないかと思います。
「僕在淤岐嶋(僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。)」の「淤岐嶋」が、
現在の島根県の「隠岐島」と考えるには適していないというのは分かりました。
しかし、この場所にいたのは「菟」ではなく「僕」です。
以前にも書きましたが、「僕」と言うと、現代では一人称として使われていますが、
元々は「僕」=「使用人」という意味ですので、
「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。」を普通に読むと、
「僕(使用人)」が「淤岐嶋」に居たので、「菟」は滞留させてもらったとなります。
これにより、「僕(使用人)」は、「菟」が雇っていた人物と言えます。
「使用人」を雇うのですから、「菟」には、お金や地位もある人物と想像できます。
原文:
雖欲度此地 無度因 故欺海和邇【此二字以音 下效此】言
解読:
雖(いえども)此の地に度り無く度りを欲(ほっ)す
故に因って、海の和邇(わに)を欺(あざむ)きて言はく
「和邇」を一般的に「わに」と読みますが、調べると「呉音」で読んでいるようです。
和:呉音:わ、漢音:か、唐音:お
邇:呉音:に、漢音:じ
「和邇」という存在が一つしか無いのであれば、
「海和邇」とは書かないと思うので、もしかしたら、「陸の和邇」がいたのかも知れません。
その様に考えると、「陸の和邇」は出入り口を管理し、
「海の和邇」は現代のフェリーの様な役割だったのかも知れません。
「菟」が「氣多之前」という目的地に行くには、
渡らなければ行けない「海」が存在するのは文から分かります。
また、この後の文章には、周りにある嶋を経由したという描写があります。
それが、本当であるならば、半島と九州の間には、現在の対馬や壱岐という嶋があり、
距離的にも、安全なルートだったと思われます。
しかし、「氣多之前」を現在の「現島根県」と考えると、
休憩できる嶋がほぼ無く、半島から距離も遠いこともあり、「氣多之前」=「現島根県」ではなく、
「氣多之前」=「玄海町」もしくは「江北町」ではないか?と思っています。
原文:
吾與汝竸 欲計族之多少 故汝者隨其族在悉率來 自此嶋至于氣多前皆列伏度 爾吾蹈其上
走乍讀度 於是知與吾族孰多 如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來 今將下地時
吾云 汝者我見欺 言竟 即伏最端和邇捕我 悉剥我衣服
解読:
「吾(あれ)、汝の與(くみ)する族(やから)之(これ)多いか少ないか計(はか)り、競うを欲す」
故、汝(なんじ)者(は:短語)其の族(やから)を、悉(ことごと)く率(ひき)いて来て隨(したが)うと在り
此の嶋自(より)氣多の前于(に)至(いた)り皆(みな)列(つらな)り度りに伏せる
爾(なんじ)、吾(あれ)踏み、其の上を走り乍(ながら)讀(づ)つ度る
是於(これお)吾(あれ)が與(くみ)する族(やから)と孰(いずれ)が多いかを知る
此の如(ごと)く言う者(は:短語)、
欺かれ列(つらな)り伏せし時而(に)之(これ)見て、吾(あれ)を蹈(ふ)み、
其の上を度り讀(づ)つ来て、今、将に地に下りようとした時、吾(あれ)云はく
「汝(なんじ)者(は:短語)、我(われ)を見て欺(あざむ)く」と言い竟(お)わる
即(すなわ)ち最端に伏した和邇(わに)我(われ)を捕まえ、
我(われ)の衣服を悉(ことごと)く剥(は)ぐ
流れとしては、「菟」が「和邇」に対して、一族の多さを競う事を提案し、
「和邇」がそれに対して承諾します。
ある嶋から「氣多の前」までの距離で、勝負をして、「菟」が負けて、
「和邇」が勝ったから、報酬として、「菟」の着ていた衣服を持っていかれたとなります。
たぶんに、「菟」は「和邇」の一族が少ないと考えていたが、
予想に反して、自分達よりも多かったのだと思います。
当然、勝負をするのだから、勝った場合と負けた場合を決めていたでしょう。
「菟」は、勝てば運賃をタダにしてもらい、負ければ運賃相当の品を渡す。
「和邇」はその逆になります。
当時の価値観に関する情報が無いので、想像しか出来ませんが、
「菟」の衣服は、高価な物だったので、勝った報酬にしたのでしょう。
そうなると、やはり、半島経由で、「夏」や「殷」の王族の子孫が、
列島に移動してきたと考えたほうが納得できます。
今回の範囲で、「菟」も「和邇」も自分の事を「吾(あれ)」を使用しています。
しかし、「吾云」と「吾」を使っているのにも関わらず、
「汝者我見欺 言竟 即伏最端和邇捕我 悉剥我衣服」では「我」を使用しています。
「吾」を普通に使っているので、「我」に変える必要があるとは思えません。
この変化に、当時を知るヒントがありそうです。
参照26のサイトによると、下記のように区別されているようです。
【我】(ガ) 他の人を意識して自分を呼ぶのに用いる。私自身。自分自身。
【吾】(ゴ) 特に他を意識せず自分を呼ぶのに用いる。私一人。自分。
つまりは、
「吾」は「意識しない」事から、「家族や親しい友達」などとの会話で使用。
「我」は「他人を意識する」事から、「公の場」での会話で使用。
と言えそうです。
そうだとすると、「吾云 汝者我見欺 言竟 即伏最端和邇捕我 悉剥我衣服」の前後で、
場面が異なっている可能性が出て来ます。
そうでなければ、上にも書きましたが、変更する意味がありません。
今までは、「菟」と「和邇」の会話と考えていましたが、
もし、場面が異なるとすると、前提が崩れます。
参照26:【我】と 【吾】 はどう違いますか? - HiNative
原文:
因此泣患者 先行八十神之命以 誨告浴海鹽當風伏 故爲如敎者 我身悉傷
解読:
此れに因って泣き患(わずら)う者(は:短語)、先に行(ゆ)きし
八十神之命(めい)を以って誨(おし)へ告(つ)げられ、海の鹽を浴び、風に當(あたり)伏しき
故、教えの如(ごと)く為(ため)し我(われ)者(は:短語)身を悉(ことごと)く傷(いた)める
そもそも、「八十神」と「菟」が会った場面では、「於是到氣多之前時 裸菟伏也」とあり、
「裸の菟が伏している」とはありますが、「患者が泣いている」とは書いていません。
同じ場面であれば、同じ文を書けば良いのに、そうなっていません。
また、「先行」した「八十神」という表現も疑問があります。
「八十神」とありますが、「裸の菟」に会った「八十神」と同一人物なのでしょうか?
「故其菟從八十神之敎而伏」と2人が出会った場面では「教」の漢字を使っていますが、
この場面では「誨」と違う漢字を使っています。
なぜ、変えたのでしょうか?
しかも、不思議なのが、 「故爲如敎者」と、こちらでは「教」になっています。
参照27のサイトには下記のように書いています。
【字形] 形声
声符は(毎)(まい)。に(悔)・(かい)の声がある。
〔説文〕三上に「曉(さと)しふるなり」とあり、
コトバンク
金文の「誨(てうくわい)」は〔詩〕の「」、また「誨(くわいいう)」は「謀」の意で、
ともに神事に関する語。もと祭事を教える意であろう。
「神事」や「祭事」を教える事が、「誨」の本来の意味だと仮定すると、
「先行八十神之命以 誨告浴海鹽當風伏」の場面は、
「菟」との会話ではなく、「神事」や「祭事」を行う際の準備もしくは実習の可能性があります。
当時の「八十神」は「神事」や「祭事」の仕事をしていたのかも知れません。
参照27:誨(漢字)とは? 意味や使い方
「故爲如敎者 我身悉傷」の「我」とは誰の事でしょうか?
「菟」が「泣き患っている」とは無いですし、色々と考察した様に、
場面が変化している事から考えて、「我」=「菟」と考えるのは難しいと思います。
また、「身皮悉風見吹拆」とあり、仮に「拆」を「裂」に変えたとしても、
「裂ける」度合いでも違いますが、「裂ける」が普通の「傷」でしょうか?
ちなみに、「大穴牟遲神」は「痛苦泣伏者」と会っていますが、
「泣患者」とは書かれていないので、異なる可能性が高そうです。