最終更新日 2024/06/30

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 第三章 大國主神

故此大國主神之兄弟八十神坐 然皆國者避於大國主神 所以避者 其八十神各有欲婚
稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時 於大穴牟遲神負帒 爲從者率往 於是到氣多之前時 裸菟伏也
爾八十神謂其菟云 汝將爲者 浴此海鹽 當風吹而 伏高山尾上 故其菟從八十神之敎而伏
爾其鹽隨乾 其身皮悉風見吹拆 故痛苦泣伏者 最後之來大穴牟遲神見其菟言 何由汝泣伏
菟答言 僕在淤岐嶋 雖欲度此地 無度因 故欺海和邇【此二字以音 下效此】言 吾與汝竸
欲計族之多少 故汝者隨其族在悉率來 自此嶋至于氣多前皆列伏度 爾吾蹈其上 走乍讀度
於是知與吾族孰多 如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來 今將下地時 吾云 汝者我見欺
言竟 即伏最端和邇捕我 悉剥我衣服 因此泣患者 先行八十神之命以 誨告浴海鹽當風伏
故爲如敎者 我身悉傷 於是大穴牟遲神敎告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之蒲黄
敷散而 輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如敎其身如本也 此稻羽之素菟者也
解読

故(ゆえ)此(こ)の大國主神之(の)兄弟八十神坐(ざ)し、
然(しか)るに皆(みな)國の者は大國主神於(お)避(さ)ける

其の八十神、各(おのおの)が避ける所以(ゆえ)者(は:短語)、
婚(こん)する稲羽之八上比賣之心を欲(ほっ)すと有り

共に稲羽に行く時、大穴牟遅神、帒(ふくろ?)を負うに於いて、
從者を率(ひき)いて往くと爲す

是於(これお)氣多之前に到る時、裸の菟伏しき也

爾(なんじ)八十神に謂れ、其の菟に云う

「汝(なんじ)の將(まさ)に爲(ため)になる者(は:短語)、
此の海を浴びた鹽(しお)、吹く風而(に)當(あたり)、高山の尾の上に伏せること」

故(ゆえ)其の菟は八十神之(の)教(おし)え而(に)従ひて伏す

爾(なんじ)、其の鹽乾くに隨(したが)ひ、
其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹かれて見れば拆(さ)ける

故(ゆえ)に苦しく痛く泣いて者(は:短語)伏せ、
最後に大穴牟遅神之(これ)来て、其の菟を見て言はく

「汝(なんじ)は何由(なによし)泣き伏すや。」

菟答へて言はく

「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在りき。 雖(いえども)此の地に度り無く度りを欲(ほっ)す」

故に因って、海の和邇(わに)を欺(あざむ)きて言はく

「吾(あれ)、汝の與(くみ)する族(やから)之(これ)多いか少ないか計(はか)り、競うを欲す」

故、汝(なんじ)者(は:短語)其の族(やから)を、悉(ことごと)く率(ひき)いて来て隨(したが)うと在り

此の嶋自(より)氣多の前于(に)至(いた)り皆(みな)列(つらな)り度りに伏せる

爾(なんじ)、吾(あれ)踏み、其の上を走り乍(ながら)讀(づ)つ度る

是於(これお)吾(あれ)が與(くみ)する族(やから)と孰(いずれ)が多いかを知る

此の如(ごと)く言う者(は:短語)、
欺かれ列(つらな)り伏せし時而(に)之(これ)見て、吾(あれ)を蹈(ふ)み、
其の上を度り讀(づ)つ来て、今、将に地に下りようとした時、吾(あれ)云はく

「汝(なんじ)者(は:短語)、我(われ)を見て欺(あざむ)く」と言い竟(お)わる

即(すなわ)ち最端に伏した和邇(わに)我(われ)を捕まえ、
我(われ)の衣服を悉(ことごと)く剥(は)ぐ

此れに因って泣き患(わずら)う者(は:短語)、先に行(ゆ)きし
八十神之命(めい)を以って誨(おし)へ告(つ)げられ、海の鹽を浴び、風に當(あたり)伏しき

故、教えの如(ごと)く為(ため)し我(われ)者(は:短語)身を悉(ことごと)く傷(いた)める

是於(これお)大穴牟遅神、其の菟に教(おし)え告(つ)げる。

「今急ぎ此の水門(みと)に往(ゆ)き、水を以(もち)て汝の身を洗え」

即(すなは)ち其の水門(みと)之(の)蒲黄(ほおう)を取り、散らして敷き、
而(なんじ)其の上を轉(ころ)がり輾(めぐ)る者(は:短語)
汝の身、本(もと)の如(ごと)きに必ず膚(はだ)を差(さ)す

故(ゆえ)教(おし)えの如く為(ため)し、其の身は本(もと)が如し也

此れ者(は:短語)稲羽之素菟(いなばのすうさぎ)也

今に於いて者(は:短語)菟の神と謂ふ也

解説

06

大穴牟遅神と菟


大穴牟遅神

原文:

於是大穴牟遲神敎告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之蒲黄 敷散而 輾轉其上者
汝身如本膚必差 故爲如敎其身如本也 此稻羽之素菟者也 於今者謂菟神也

解読:

是於(これお)大穴牟遅神、其の菟に教(おし)え告(つ)げる。

「今急ぎ此の水門(みと)に往(ゆ)き、水を以(もち)て汝の身を洗え」

即(すなは)ち其の水門(みと)之(の)蒲黄(ほおう)を取り、散らして敷き、
而(なんじ)其の上を轉(ころ)がり輾(めぐ)る者(は:短語)
汝の身、本(もと)の如(ごと)きに必ず膚(はだ)を差(さ)す

故(ゆえ)教(おし)えの如く為(ため)し、其の身は本(もと)が如し也

此れ者(は:短語)稲羽之素菟(いなばのすうさぎ)也

今に於いて者(は:短語)菟の神と謂ふ也

水門

会話の中で「水門」とありますが、どこの「水門」でしょうか?

ここで気になるのが、「海の鹽」を浴びて、身を傷めたから、
消毒の意味合いもあって、「水門の水」で体をきれいにすると解釈できますが、
「治る」という言葉が会話にはありません。

「大穴牟遅神」が「菟」に教えた結果としては、「膚必差」と書かれています。

なぜ、「膚必差」の「差」が「治」で無かったのでしょうか?

「治」であれば、「膚(はだ)必ず治る」となり、「菟」が元気になったと解釈できます。

「差」を調べると、確かに「いえる(病気が治る)」の意味があるようですが、
原文を見ると「不治所」の様に「治」はありますが、「差」は今回しかありません。

他の意味を見ても、「治る」に関連性がありそうなのは無いので、特殊な例の様に思えます。

それらから考えると、会話は「菟」とは無関係の可能性もあります。

一見、繋がった話に思えますが、今まで考察したように、
「吾と我」の例の様に、色々と場面が異なると考える事も出来ます。

参照28:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「差」という漢字

蒲黄

検索すると、「菟」を「蒲黄」で治したとするサイトが多いようですが、
上記で考察したように、「差」の漢字を使っているので、
100%「治る」意味と考えるのは間違いだと思います。

そもそも、「蒲黄」で傷を治す事が可能なんでしょうか?

調べると「蒲黄」には「止血」作用があると書かれていますが、
「我身悉傷」の場面の「傷」とはどの程度だったのでしょうか?

「傷」と言っても、「出血」しない傷も存在しますので、
今回の文章から「止血」が必要だったのかは判断できません。

また、「水門之蒲黄」とあり、「水門」の近くには「蒲」が多く自生していたとすると、
群生の範囲は分かりませんが、体をきれいに出来る水は近くに存在したのでしょうか?

「今急往此水門 以水洗汝身」とあるので、適した水が無いからと遠ざかれば、
「水門の水」とは言えないので、近場だったのと思います。

この辺りの当時の状況を知る情報が無いので、気になるところです。

参照29:ガマ - Wikipedia

稻羽

「稲羽之八上比賣」や「稲羽之素菟」と「稻羽」という地域名と思われる名が登場します。

旧国名「因幡」と混同するサイトが多いですが、本当に「因幡」=「稻羽」なのでしょうか?

第三章始まってすぐに、「稻羽之八上比賣」と出て来ますが、「出雲」は出て来ません。

第三章の後半で「自出雲將上坐倭國而(出雲自(より)将に上に坐す倭國而(に))」と、
「出雲」にいると思われる文がありますが、
前半には記載がないので、出雲に住んでいるのか判断できません。

以前に他の場所で書いたと思いますが、「速須佐之男命」が出雲に宮を建築したからと言って、
子孫である「大國主神」が出雲に住んでいる理由にはなりません。

なので、「因幡」=「稻羽」とする根拠がほとんどありません。

因幡

読み

Wikiによると、
「稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽」が古代に使われていた漢字として紹介されています。

「稲葉」と「稲羽」は「いなば」と読む事は可能ですが、
「因幡」、「印旛」は「いんはた」、「印葉」は「いんば」では無いかと思っています。

「因」と「印」は両方「いん」、「幡」と「旛」は「はた」なので、
「いなば」と読ませたとすると、相当後世になってからなので、置き換えるのは疑問です。

また、「稲葉」と「稲羽」が「いなば」と読めるので、
最終的に「因幡」に吸収合併されたと考えることが出来ます。

ただ、それは、現在の鳥取県付近に存在したとする前提です。

現在でも、北海道開拓当時、故郷の地名を付けているので、
当時も違う地域に移動した時に、同じ名を付けた可能性があります。

その様に考えると、「稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽」が「いなば」として使われていたのでなく、
徐々に九州から東に移動してきた人々が、故郷の名を冠した村や町を作ったのではないかと
推測しています。

参照30:因幡国

場所

第二章の最後の方で少し触れましたが、
「出雲」が「現島根県」に元々存在したのかについては、そもそも、情報が無く不明です。

確かに、状況証拠から、「出雲」が「現島根県」に存在したと言えるでしょう。

しかし、「出雲國」が建国した当時から存在したとは、現時点では証明できていません。

情報が無い以上、憶測でしか無いわけです。

また、立地としても、「現島根県」と「九州」では距離があります。

「速須佐之男命」が当時、大陸との交易や政治の中枢として機能していた九州から、
わざわざ、遠い場所に宮殿を造るというのは考えづらいです。

これらにより、「出雲國」は元々、九州でも、
「速須佐之男命」達が行き来できる場所にあったと仮定すると、
近隣に「稻羽」という地域が存在していたのではないか?と考えています。

今後、ヒントになりそうな情報を見つけたときに改めて、考察したいと思います。

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