最終更新日 2022/08/23

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 第二章 天照大御神と速須佐之男命

於是天照大御神 告速須佐之男命 是後所生五柱男子者 物實因我物所成 故自吾子也
先所生之三柱女子者 物實因汝物所成 故乃汝子也 如此詔別也
故其先所生之神 多紀理毘賣命者 坐胸形之奧津宮 次市寸嶋比賣命者 坐胸形之中津宮
次田寸津比賣命者 坐胸形之邊津宮 此三柱神者 胸形君等之以 伊都久三前大神者也
故此後所生五柱子之中 天菩比命之子 建比良鳥命 此出雲國造 无邪志國造 上菟上國造
下菟上國造 伊自牟國造 津嶋縣直 遠江國造等之祖也 次天津日子根命者 凡川内國造
額田部湯坐連 茨木國造 倭田中直 山代國造 馬來田國造 道尻岐閇國造 周芳國造 倭淹知造
高市縣主 蒲生稻寸 三枝部造等之祖也
解読

是於(これお)天照大御神は速須佐之男命に告げる。

是、後に生まれた所の五柱の男子者(は:短語)、
我の物に因る所の物実(ものざね)成り。

亦、吾自らの子也。

先に生まれる所の三柱の女子者(は:短語)、汝の物に因る所の物実(ものざね)成り。

故、乃ち汝の子也。

此の詔(みことのり)の如く別れる也。

故、其の先に生まれる所の神多紀理毘賣命者(は:短語)胸形之奧津宮に坐り

次の市寸嶋比賣命者(は:短語)胸形之中津宮に坐り

次の田寸津比賣命者(は:短語)胸形之邊津宮に坐る

此の三柱の神者(は:短語)胸形君等之以て、伊都久三前(いつくみさき)大神の者也

故、此の後に生まれる所の五柱の中の天菩比命の子建比良鳥命は
此れ、出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・
遠江國造等之祖也

次の天津日子根命者(は:短語)

凡川内國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・
周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖

解説

04

天津日子根命の子孫


原文:

次天津日子根命者 凡川内國造 額田部湯坐連 茨木國造 倭田中直 山代國造
馬來田國造 道尻岐閇國造 周芳國造 倭淹知造 高市縣主 蒲生稻寸
三枝部造等之祖也

上記の様に、「天津日子根命」の子孫は大いに繁栄したとあります。

系図については、複雑なので、今後まとめていきます。

凡川内國造

Wikiには、「「先代旧事本紀」「国造本紀」では
神武朝に彦己曽保理命を国造に任命したとされる。」とあります。

「彦己曽保理命」に関しては、下記のようにあります。

この祖系については天津彦根命の子・
天之御影命(凡河内国造では天戸間見命と称する)
[1][2][3]が彦己曽保理命の祖父と伝える。

しかし、参照2と3の諸系譜では、「彦己曽保理命」ではなく「彦巳曽根命」です。

同一人物とするのは無理があります。

これにより、「彦己曽保理命」が初代で、
「彦巳曽根命」が数代後ではないか?と思います。

ちなみに、「國造本紀」を見ると
「彦己曽保理命」の「己」→「巳」になっているのが確認できます。

あと、気になる記事として、下記のようにあります。

ただし、『出雲国風土記』の飯石郡条には波多郷の地名起源として、
天之御影命の父である波多都美命が降臨した伝承が伝えられている。

根拠はなんでしょうか?

調べましたが、「天津彦根命」=「波多都美命」とする記事を見つけられませんでした。

多分に、「出雲国風土記」の意宇郡屋代郷にある
「天乃夫比命」に随伴した「天津子命」とイコールにした結果だと思います。

もし、そうであるなら、神社の表記にあったりしても良いですが、
そうなっていない事から、違うと考えます。

そもそも、「天津子命」だけで「天津彦根命」と判断するのはおかしいです。

ちなみに、「天乃夫比命」は「比」家の人と解釈しています。

最後に「彦巳曽保理命」の家系は不明で、
後に「彦巳曽根命」の家系へと継承されたと考えられます。

参照2: 御上祝家系図(三上氏)(コマ番号84-97)/諸系譜. 第28冊

参照3: 天津彦根命庶流 三枝部造 甲斐野呂氏後裔
    輿石氏家系図(コマ番号84-92) /諸系譜. 第6冊

額田部湯坐連

「新撰姓氏録」には、「天津彦根命子 明立天御影命之後也」とありますが、
「天津彦根命」は何代目でしょうか?

今までにも書いている通り、同じ名を継承する家系では、
同じ名だからと言って、同一人物とは限りません。

「凡川内國造」で「天津彦根命の子・天之御影命」とあるので、
別の時代ではないかと考えていますが、有力な情報がありません。

あと、「額田部湯坐連」には別系統が存在します。

「新撰姓氏録」の「河内国神別」に
「天津彦根命 五世孫 乎田部連之後也」とあります。

しかし、人物名は書かれていません。

情報源の消失があったのかも知れませんが、情報がありません。

茨木國造

「国造本紀」では、「茨木」ではなく「茨城」となっています。

また、「軽嶋豊明朝御世 天津彦根命孫 筑紫刀禰定賜國」とあります。

「軽嶋豊明朝」=「応神朝」と考えられているようで、
「筑紫刀禰」が「応神天皇」と同世代と考えると、
この「天津彦根命」は、「倭建命」と同世代と言えそうです。

「倭建命」の親である「景行天皇」が、西暦4世紀前期〜中期と云われているので、
本人も中期以降に存在したと推測できます。

ここだけ見ても、天津彦根命の名は長い間継承されてきたのが分かります。

ただ、「茨木」=「茨城」なのかは、現時点では不明ですし、
「天津彦根命孫」の「孫」が「子孫」を指す場合、解釈が変わって来ます。

「国造本紀」にある「筑紫刀禰」以外の家系もあるようです。

神功皇后時代(四世紀末頃)第一四代仲哀天皇(日本武尊の子)の皇后
第一五代応神天皇の母・茨城国造の初代多祁許呂の命が朝廷に仕えた。

その子息の一人は筑波使主と称し茨城郡湯座連の初祖となった。

上記の記事では、「茨城国造」の初代は「多祁許呂命」という人物です。

「建許呂命」と混同しているサイトが多く、本当の情報が見つかりませんでした。

他に、Wikiには「茨城国造筑波使主命」の孫に「努賀毘古・努賀毘咩」がいて、
那珂郡に住む建部氏の祖とあるが、関連が確認できませんでした。

参照4: 常陸風土記年表

山代國造

「茨木國造」と同じく、
「山代國造」の他に「山背國造」、「山城国造」があります。

1:山城國造

「国造本紀」には、「橿原朝御世 阿多根命 為山代國造」とあります。

しかし、「山城國造」の話なのに、「山代國造」とあるのは、
初代阿多根命は「山代國造」だったが、
後世に「山代」→「山城」へと改名したのかも知れません。

「阿多根命」の家系は、
「天津彦根命-天御影命-意富伊我都命-阿多根命」となっています。

2:山代國造

「国造本紀」には、
「凡川内國造 即凡川内忌寸祖 以天一目命 為山代國造 即山代直祖」とあります。

「天一目命」に関しては、色々と情報が錯綜しています。

「播磨国風土記」の「託賀郡荒田条」にて、
「道主日女命」の話がありますが、最後の方に「天目一命」という名が登場します。

「天一目命」ではなく、「天目一命」と「一」と「目」を逆にしているところから、
子孫だとは思いますが、時代を知る情報が無さそうです。

また、「山背忌寸」の「天麻比止都禰命」や「天目一箇命」などと
同一人物と考えるサイトがありますが、根拠に乏しいです。

「天目一箇神」を「天津彦根命」の子とする説があるようですが、
こちらも文献にて確認できません。

2つの山代國造

ここで注意する点として、
「阿多根命」と「天一目命」の双方が「山代國造」となっています。

当然、「山代國造」の初代は1人しかいません。

多分に「天一目命」の方が後なのだと考えています。

「国造本紀」では、
「凡川内國造」であり、「凡川内忌寸」の祖である「天一目命」が、
「山代國造」と為り「山代直」の祖となったとあるからです。

時代考証としては、「凡川内國造」の祖は、「国造本紀」には
「橿原朝御世以彦己曽保理命為凡川内國造」とあります。

「橿原朝」から継承されて来た「凡川内國造」の中に
「天一目命」がいたのだと思いますが、「国造本紀」には時代が載っていません。

「新撰姓氏録」では「山代直」の祖は、
「天御影命 十一世孫山代根子之後也」となっていて、「天一目命」が登場しません。

また、「山代根子」を調べると、「山背根子」が見つかりますが、
同一人物なのかは不明です。

もし、同一人物とすると、神功皇后摂政元年(西暦200年)の人の様なので、
「天御影命十一世孫」としても、問題は無さそうです。

この様に、「天一目命」と「山代根子」の関係性は不明ですが、
「源姓」と「平姓」が天皇ごとに賜姓しているのを考えると
どちらも「山代直」を名乗っていた可能性が高そうです。

3:山背國造

「国造本紀」には、「志賀高穴穂朝御世 以曽能振令 定賜國造」とあります。

「曽能振令」の「令」を「命」に変更していますが、
時代によっては、「命」という官位は廃れている可能性もあるので、
「曽能振令」が正しいのかも知れません。

ただ、「曽能振令」についての情報がありませんでした。

「志賀高穴穂朝」=「成務朝」との事なので、
「山代國造」の他に「山背國造」を新規に作った可能性があります。

仮に、「山代國造」が「山背國造」に改名したとしても、
基本的に「國造」は変わらないと思うのと、
地位を取り上げたとすると、大問題だと思うからです。

現時点で、検索しても、問題を起こして取り上げたという様な、
記事は見当たらないので、新設が正しいと思います。

その後の地域改編で、「山代國造」に吸収されたと考えています。

馬來田國造

「国造本紀」には、
「志賀高穴穂朝御世 茨城國造祖 遣許呂命 深河意弥命 定賜國造」とあります。

「遣許呂命」の「遣」を「建」に赤字で変えていますが、
「許呂命を遣わした」と解釈すれば、問題があるとは思えません。

「茨城國造」の祖である「許呂命」を派遣し、
「深河意弥命」は「馬來田國造」を賜り定めたと解釈できます。

「茨城國造」は、
「軽嶋豊明朝の御世、天津彦根命の孫、筑紫刀禰定賜國」とあり、
「軽嶋豊明朝」=「応神朝」ならば、「志賀高穴穂朝」=「成務朝」と
逆転現象を起こすことになり、矛盾が生じます。

「成務天皇(俗称)」は、「第13代」であり、
「応神天皇(俗称)」は「第15代」なので、
どちらかの情報が間違っている可能性があります。

もしかすると、「茨木國造」と「茨城國造」の2つが本来は存在していたが、
気付いたら、「茨城國造」だけとなり、
情報も無かったので表記を統一したとも受け取れます。

あと、「馬來田國造」の名の後ろに記載される
「天津日子根命之孫」とはなんでしょうか?

「茨城國造」では「天津彦根命の孫、筑紫刀禰定賜國」とあるので、
「天津彦根命」の表記を使えば良いのに、
古事記表記を使っているのには、意味があるのでしょうか。

道尻岐閇國造

この國造に関しては、情報がありません。

「道口岐閉国造」という、類似した名はありますが、「道尻」なので違います。

「国造本紀」には「道江岐閉國造」があり、
注記に「古事記云道尻岐閇國造」と記載があります。

これが本当であれば、「道尻岐閇國造」は解散し、
「道江岐閉國造」が新設したと解釈できますが、何があったのでしょうか。

ちなみに、「国造本紀」には「道江岐閉国造」の祖の記載に、
「軽嶋豊明御世 建許呂命 兒宇佐比乃袮 定賜國造」とあります。

周芳國造

「国造本紀」には、
「軽嶋豊明朝 茨城國造同祖 加米乃意美 定賜國造」とあります。

「馬來田國造」でも書きましたが、
「茨木國造」と「茨城國造」の2つが存在していた場合、
同祖とは「筑紫刀禰」系と「許呂命」系のどちらを指すのでしょうか。

倭淹知造

「新撰姓氏録」に「左京神別の奄智造」、「大和国神別の奄智造」の
2つが掲載されていますが、「倭淹知造」ではありません。

「倭恩智神社」があり、「大和国神別の奄智造」の祖である
「同神十四世孫建凝命之後也」を祀っているようです。

「建凝命」を「たけころ」と書いているサイトが多いですが、
多分に「たけこり」が正しいのだと思います。

なお、「同神」とあるので、「天津彦根神」を指すと思われますが、
情報が無いので、時代考証出来ません。

高市縣主

「新撰姓氏録」の「和泉国神別 高市県主」があり、
「天津彦根命 十二世孫建許呂命之後也」と記載があります。

子孫に「高市許梅」という飛鳥時代の人物がいます。

また、「高市」には、「右京神別 高市連」があり、
「天津彦根命 三世孫彦伊賀都命之後也」と記載があります。

ちなみに、「県主」という「姓(かばね)」は、
西暦3〜4世紀頃に成立されたと考えられているようです。

額田部

「新撰姓氏録」には、「左京神別」に
「同命(天津彦根命)孫意富伊我都命之後也」とあります。

「意富伊我都命」を祖とする「姓」には、「額田部河田連」があり、
「大和国神別」に「同神(天津彦根命)三世孫意富伊我都命之後也」とあります。

しかし、不思議な事があります。

確かに、両方とも「意富伊我都命」とは書いていますが、
「同命孫」と「同神三世孫」で異なっています。

つまり、1代ずれている事になります。

中世以降は、「本人」を「1世」としますが、
古代においては、本人は含まずに、「子」を「1世」とします。

天津彦根神の孫:○(本人)─○(子)─○(孫)

三世孫:         ─○(子)─○(孫)─○(曾孫)

他にも、「同命」と「同神」と地位が異なっています。

「同神」とするのには、「大和国神別の奄智造」があり、
「同神十四世孫建凝命之後也」と記載されています。

「天津日子根命」の神社表記には、「神」は無いので、
あるとしたら、「天津彦根命」ですが、情報が無く判断できません。

「新撰姓氏録」を編纂する際には、間違えてはダメなので、
正確な情報源があったはずです。

なので、「天津彦根神」と書かれていた可能性があります。

そうなると、「天津彦根神」の存在した時代が焦点になりますが、
こちらも参考になる情報がありません。

上記のように考えると「額田部河田連」は、
「額田部」よりも数世代後の可能性があると思っています。

桑名首

「新撰姓氏録」には、「右京神別」に
「天津彦根命 男天久之比乃命之後也」とあります。

なぜか、「新撰姓氏録」を引用するサイトには、
「天久之行比乃命」と「行」が追加されているのが不思議です。

原文を見れば分かりますが、「行」はありません。

「桑名首」を祀っている「桑名宗社」があるようで、
祭神は「天津彦根命」と「天久々斯比乃命」とあります。

当然、「天久々斯比乃命」は「天久之比乃命」の子孫と思われます。

山背忌寸

「新撰姓氏録」には、「山城国神別」に
「天都比古祢命 子天麻比止都祢命之後也」とあります。

「天都比古祢命」は、「天津日子根命」の子孫と思われますが、
「彦」ではなく「比古」としている事から、
もしかすると、「天津彦根命」は「天津日子根命」の分家かも知れません。

「天都比古祢命」を調べましたが、情報がありませんでした。

ただ、「忌寸」という「姓(かばね)」は、調べると、
「684年」に制定された「八色の姓」以前には存在しない様なので、
「天都比古祢命」と「天麻比止都祢命」の親子は、
その当時の人物の可能性が高いです。

三枝部連

「新撰姓氏録」には、「大和国神別」に
「天津彦根命 十四世孫建許呂命之後也」とあります。

しかし、「新撰姓氏録」の「和泉国神別 高市県主」には、
「天津彦根命 十二世孫建許呂命之後也」と記載があり異なります。

「天津彦根命」子孫の別系統が「建許呂命」を継承したと考えれますが、
情報が無いので不明です。

ただ、「額田部湯坐連同祖」とあるので、
「天津彦根命 子明立天御影命之後也」が関係していると思われます。

國造

「新撰姓氏録」の「摂津国神別」に
「天津彦根命 男天戸間見命之後也」と記載があります。

こちらは「國造」との違いが分かりません。

ですが、「造」の「姓(かばね)」は、「八色の姓」により消滅したので、
「684年」以前の人物と言うのは、確定だと考えます。

「國造」については、情報が無く不明でしたが、
「天戸間見命」については、情報がありました。

天戸間見命は饒速日命の天降りに随伴した32人の防衛の一人。

参照5のサイトには、上記の様にありますが、
そもそも、「饒速日命」は「天火明命」と同一人物かどうかで、
時代考証が変わって来ます。

ただ、「天戸間見命」ではなく、「天斗麻弥命」とあるようなので、
系図化する際には、注意が必要そうです。

参照5: 青玉神社 兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽 - 神社と古事記

末使主

「新撰姓氏録」には、「和泉国神別」に
「天津彦根命子彦稲勝命之後也」とあります。

また、「新撰姓氏録」の「山城国諸蕃」にも「末使主」があり、
「出自百済国人津留牙使主也」と記載があります。

「末使主」についての情報が皆無に近いですが、
参照6のサイトでは「末使主望足」という人物を紹介しています。

残念ながら、「彦稲勝命」系、「津留牙使主」系のどちらかは不明です。

参照6: 末使主望足

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