最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

於是詔之 上瀬者瀬速 下瀬者瀬弱而 初於中瀬堕迦豆伎而滌時 所成坐神名 八十禍津日神
【訓禍云摩賀 下效此】次大禍津日神 此二神者 所到其穢繁國之時 因汚垢而 所成神之者也
次爲直其禍而所成神名 神直毘神【毘字以音 下效此】次大直毘神 次伊豆能賣
【并三神也伊以下四字以音】次於水底滌時 所成神名 底津綿(声注:上)津見神 次底筒之男命
於中滌時 所成神名 中津綿(声注:上)津見神 次中筒之男命 於水上滌時 所成神名
上津綿(声注:上)津見神【訓上云宇閇】次上筒之男命 此三柱綿津見神者
阿曇連等之祖神伊都久神也【伊以下三字以音 下效此】故阿曇連等者 其綿津見神之子
宇都志日金拆命之子孫也【宇都志三字以音】
其底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命三柱神者 墨江之三前大神也
解読

是於(これお)之(これ)詔(みことのり)す

瀬の上者(は:短語)速瀬、瀬の下者(は:短語)弱瀬

而(なんじ)中瀬に於いて初めて堕ち、迦豆伎(?)滌(あら)う時而(に)
坐る所から神名八十禍津日神(禍の訓は摩賀と云う。此れ下も效(なら)う。)成る

次に大禍津日神

此の二神者(は:短語)其の穢れが繁る國の所に到る時
汚や垢(あか)而(に)因って成る所の神の者也

次に其の禍(わざわい)直す爲而(に)成る所の神名
神直毘神(毘の字は音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

次に大直毘神、次に伊豆能賣(并せて三神也。伊以下四字は音を以ってす。)

次に水底於(お)滌(あら)う時に成る所の神名底津綿津見神

次に底筒之男命

中於(お)滌(あら)う時に成る所の神名中津綿津見神

次に中筒之男命

水上於(お)滌(あら)う時に成る所の神名上津綿津見神(上の訓は宇閇と云う)

次に上筒之男命

此の三柱綿津見神者(は:短語)阿曇連等之祖神伊都久(いつく)神也
(伊以下三字は音を以ってす。此れ下も效(なら)う。)

故、阿曇連等者(は:短語)其の綿津見神之子
宇都志日金拆命之子孫也(宇都志の三字は、音を以ってす。)

其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者(は:短語)
墨江之三前(みさき?)大神也

解説

03

八十禍津日神

原文:

而初於中瀬堕迦豆伎而滌時 所成坐神名 八十禍津日神【訓禍云摩賀 下效此】

解読:

而(なんじ)中瀬に於いて初めて堕ち、迦豆伎(?)滌(あら)う時而(に)
坐る所から神名八十禍津日神(禍の訓は摩賀と云う。此れ下も效(なら)う。)成る

前半の文章の考察は、前回したので、
今回は「八十禍津日神」について考えて行きます。

原文では「禍」の訓みは「摩賀」とあります。

「摩」:呉音:マ、漢音:バ(表外)、訓読み:表外:ま、さ、す

「賀」:呉音:ガ、漢音:カ(表外)、訓読み:表外:のり、よし、より、か

上記から呉音「まが」、漢音「バカ」になりそうです。

「禍」:

「神にいけにえを捧げる台」の象形と
「肉を削り取り頭部を備えた人の骨の象形と口の象形」
(「削られ、ゆがむ」の意味)から、
神のくだす「わざわい」を意味する「禍」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「摩」:

「切り立った崖の象形とあさの表皮をはぎとる象形」(「麻」の意味)と
「5本の指のある手」の象形で、
麻は表皮を水に浸してつぶして繊維をとる所から、
「手ですりつぶす」を意味する「摩」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「賀」:

「力強い腕・口の象形」(力と祈り(口)である作用を「くわえる」の意味)と
「子安貝(貨幣)」の象形(「財貨(金銭と品物)」の意味)から
貨幣を人に贈り「いわう」を意味する「賀」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「禍」・「摩」・「賀」と、3つの漢字の成り立ちを調べると違和感があります。

「禍」は悪い意味ですが、「賀」に至っては良い意味で使われます。

訓みの当て字とは言え、その様な漢字を当てるでしょうか?

どうも、漢字の基礎(甲骨文字含む)の時代と、
現代では認識に大きな差があるのではないか?と考えています。

そこで、「禍」を「示偏」と「咼」に分けて調べてみると、
参照12のサイトにあるように、少しずつ異なっていて、判断に困ります。

いつも参照させて貰う「OK辞典」では
「肉を削り取り頭部を備えた人の骨の象形と口の象形」を採用していますが、
この状況に至った経緯が分からないので、判断を難しくしています。

そこで、考えて見ると「禍」は、「賀」を訓みに使っているので、
もしかすると、「予報」と置き換える事が出来るように感じました。

例えば、この「八十禍津日神」が部下達と共に、日々観測し、
異常な現象が起きれば、國に知らせると言った仕事をしていた場合、
対処する為の時間が確保できるので、逃げたり、財産などの移動も出来るでしょう。

その様な事があったと仮定すると、
「賀」という漢字が使われていた理由も納得出来ます。

参照9:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「禍/禍」という漢字

参照10:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「摩」という漢字

参照11:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「賀」という漢字

参照12:「咼」もしくは「冎」という文字は“骨”という意味があるらしいが、
成り立ちが図になっているものが見たい。

八十

順番が逆になりましたが、「八十=やそ」の意味を考えます。

原文には、「八十禍津日神【訓禍云摩賀 下效此】」と「禍」についてはありますが、
「八十」については、注記がありません。

今後の「大國主神」の場面においても、「八十」についての注記が無く、
注記が無いのに、なぜか、「八十=やそ」と考えられています。

この場面以前を調べると、
「十」を使っている箇所は、「十字」・「十神」と言った数を数えている場合と、
「十拳劒」、「八十禍津日神」の様に命名された場合に分かれます。

ところが、同じ「10」を意味するのに、「共所生嶋壹拾肆嶋、神參拾伍神」の様に、
「拾」を使っている場合もあります。

今後の天皇家の年齢は、こちらを採用しています。

訓みは「じゅう」、「じゅっ」、「と」と普通に検索して調べて見つかりますが、
なぜか、「八十禍津日神」だけ、注釈も無く、「やそ」と多くの人は読んでいます。

正しいのでしょうか?

検索していると、決定的な答えは見つかりませんでしたが、
どうも、「八十路(やそじ)」から来ているのだと考えられます。

しかし、語源を探しても見つからないので、いつの間にかなのだと思います。

とすると、古事記編纂時に存在していなかった可能性もあるように思えます。

「東海林(しょうじ)」の様に、2つの事柄が、なんらかの理由により、
融合されて、「八十=やそ」と読まれる様になったのではないか?と推測しています。

参照13のサイトには、「十」は「まとまった」、「多くの」とあり、
「10」なので、「9つの束がまとまった」と解釈できます。

他にも検索して見ると、「10」にもある「0(ゼロ)」は、数字ではなく、
「記号」として、紀元前の頃から使われていた様です。

これらから考えると、
「八十=やそ」ではなく、「八十=はちじゅう」で問題ないと思います。

「八十=やそ」の考え方は、現代にも残っていたから、その様に思われたのであって、
もし、現存していなかったら、普通に「はちじゅう」と読まれていたと思います。

現存していなかった場合、「八十=やそ」と読める人は存在したのでしょうか?

もちろん、この記事が書かれた当時、「八十=やそ」だったかも知れませんが、
それは、現代では知る術はありません。

参照13:漢字の覚え方 十

まとめ

「八十禍津日神」という神名をまとめると、

「八十」:「はちじゅう」
「禍」:「気象予報士」の様な位置付け
「津(港)」・「日」:観測地

となりました。

「大禍津日神」は、「八十禍津日神」の補佐として活動していたと考えています。

八十禍津日神

八十禍津日神

弥久賀神社 末社 疫病神社、三島神社(日南市、合祀)、九社神社(日南市)、
警固神社(福岡市天神・南区)、宇津神社(岩国市)

八十麻加速毘神

大原神社 境内 桜井神社

八十禍津日大神

宇津神社(呉市)

弥久賀神社

「疫病神社」という事で、「疫病の流行防止」を目的にして、
「八十禍津日神」の名を使ったようです。

もちろん、「八十禍津日神」の名を使ったからと言って、
「疫病」を抑えられないのですが、
長い間、「禍」=「悪い事」と言う認識だった為と思われます。

本当に、「悪い事」であれば、神名にしないでしょうし、「禍」=「摩賀」と
年賀などの良い意味を持つ「賀」を読みの当て字に使わないでしょう。

古事記の情報源の時代以降に、「禍」=「悪い事」とするような、
出来事があり、それを知らない後世の人は信じてしまったのだと推測しています。

警固神社

この神社の名について、Wikiでは下記の様に記載しています。

社伝では神功皇后による三韓征伐の際、
皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を
福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。

慶長6年(1601年)福岡城築城の際に
下警固村(現在の福岡市中央区天神周辺)に移され、
慶長13年(1608年)に福岡城主黒田長政によって
現在の場所に社殿が造営された。

大正5年(1916年)、県社に列格した。

社名及び周辺の地名である『警固』は
かつて鴻臚館にあった役所『警固所』に由来する。

Wiki

上記の記事から、
「警固大神(神直毘神・大直毘神・八十禍津日神)」は、
「神功皇后による三韓征伐」の時には、
既に「3人が一体」という認識の様に受け取れます。

そして、本来最初のはずの「八十禍津日神」が最後なのは、
やはり、年齢順ではないかと思います。

つまり、この当時の「八十禍津日神」を継承した人物は、
「神直毘神」と「大直毘神」よりも若く、
経験も足りなかった為に、最後になったのだと考えています。

あと、「警固」の名は「警固所」に由来するとあるが、
Wikiの情報が正しければ、「神功皇后による三韓征伐」の時には、
「警固大神」と言っているのだから、「警固所」に由来するのはおかしいです。

「鴻臚館」を調べてみると、参照14のサイトには、下記の様に書いています。

鴻臚館は平安時代、
平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置された外交施設である。

その名は古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、
「鴻」は大きい、「臚」は伝えるという意味がある。

筑紫の鴻臚館は、
飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、
持統2年(688)に新羅国使全霜林を筑紫館でもてなしたという
『日本書紀』の記事に初めて登場する。

また天平8年(736)の遣新羅使が、
筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められている。

承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、
永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を
捕縛した記事が最後の記事となる。

なお、寛治5年(1091)の記事に見える鴻臚館は、
最近の研究で平安京の鴻臚館を指すものとの説が有力になっている。

前半を抽出しましたが、記事によれば、
「鴻臚館」は西暦688年〜1047年まで存在していたようです。

では、「神功皇后による三韓征伐」の時に、「警固大神」という名が存在していた場合、
神功皇后の任期は「西暦201年〜269年」だったようなので、
「鴻臚館」の「西暦688年」と「400年程」の差があり、
「警固」の名の由来にするのは、違うと思います。

Wikiの「三韓征伐」を見ると「神功皇后」の任期を120年ずらしていますが、
それでも、「300年程」の差があります。

もちろん、「三韓征伐」の時に、「警固大神」という名を使っていない情報があれば、
良いのですが、現時点ではその様な情報がありません。

ここで、本題なのですが、当時も「禍」=「悪い事」の認識であれば、
戦勝祈願の為に「八十禍津日神」の名を使う事はしなかったと思います。

つまり、「禍」=「悪い事」の認識は、古代でその認識が無いと考えると、
中世以降に、その認識が広まったのだと考えられそうです。

参照14:鴻臚館跡

宇津神社(呉市)

この神社の社伝が残っていて、

社伝によれば、初代神武天皇の東征の際に
宇津大神、八十禍津日神の先導で、この地に留まったとされている。

上記の内容が、参照15のサイトには書かれています。

そこで、社伝を調べていると、参照16のサイトが見つかりました。

享和元年(1801)頃に成立した「宇津神社本社末社棟札控」によれば、
宝亀四年(773)に禍津日神を祀ったのをはじめとし、
建保五年(1217)に神直日神と大直日神を勧請合祀した。

これには、「禍津日神」を祀ったとあります。

しかし、現在の祭神は「八十禍津日大神」・「神直日大神」・「大直日大神」なので、
参照16のサイトの情報が正しければ、元々は「禍津日神」だったけど、
後世になり、「八十禍津日大神」に変えたと考える事が出来ます。

しかし、この2つとは違う情報もあります。

参照17のPDFには、「棟札」について書かれています。

社伝によると、
宝亀年間(770〜781)に枉津日神(八十枉津日神)を祀ったのをはじめとし、
建保年間(1213〜1219)には神直日神と大直日神を勧請合祀し、三柱を崇めたという。

上記の様に、参照17のPDFでは「枉津日神(八十枉津日神)」と記載されて、
「禍津日神」と異なっています。

「宇津神社本社末社棟札控」を確認しようと探しましたが、見つかりませんでした。

これらにより、情報の信憑性が疑問視されます。

参照15:宇津神社 広島県呉市豊町大長 - 神社と古事記

参照16:宇津神社(七郎大明神)|戦国日本の津々浦々

参照17:広島県呉市大崎下島大長の宇津神社棟札

八十麻加速毘神

偶然、「神直毘神」の情報収集している時に見つけました。

今まで、「八十禍津日神」しか見た事が無く、
「八十禍津日命」の名があっても不思議ではないのに、見つかりませんでした。

そして、今回、「八十麻加速毘神」という「音の継承」がされた名を見つけました。

この名は、当然、「八十禍津日神」と同一人物ではありませんが、
「禍津日」→「麻加速毘」へと変更させています。

「麻加」は、古事記にある「摩賀」から上半分を抽出したのだと思いますが、
「津」は「速」に変わりますが、「つ」とは読めないので、
当時の状況の変化から、「速」を「津」に当てたのだと考えられます。

「日」と「毘」は、「日子系」と「毘古系」が関与しているように思えます。

しかし、傍証と思われる情報は、今回の名の様に、多く見つける事が出来ますが、
なぜ、その漢字を使用したのかについては、一切分かっていません。

その情報次第では、この人物が存在した時代が分かるかも知れません。

大禍津日神

大禍津日神

八幡神社(横手市)、九社神社(日南市)、瀬織津姫社(金沢市)、太白山神社、
弥久賀神社 摂社 疫病神社、大山祇神社 摂社 祓殿神社、勝山勝田神社、仲宿八幡宮、
伊豆神社(福岡県水巻町、合祀)、岡田神社 摂社 疫神社(北九州市八幡西区)、
三島神社(日南市)、比呂佐和神社、甘樫坐神社

大禍津日命

甲斐崎神社

大禍津比命

熊野神社(広島県双三郡吉舎町)

大禍津比神

大歳神社(広島県甲奴郡)

禍津日神

埴生神社(福岡県中間市)、疫神社(福岡県遠賀郡芦屋町)、萬千代神社

上記の様に「八十禍津日神」よりも「大禍津日神」が多く、祭神に使用されています。

神社を調べていて、「大禍津日命」、「大禍津比命」、「大禍津比神」、「禍津日神」の
新しい表記を知る事が出来ました。

それと、神名を「疫病」などの用途に扱う系統と、普通に区別なく扱う系統の
二系統があるように感じました。

情報が少なく、判断する事は、現時点では不可能だと思っています。

大禍津日命

この名は、古事記でも「神」と「命」で表記される神名があるので、
問題ありません。

ずっと、「大禍津日神」を継承し、その後、「大禍津日命」になったのであれば、
西暦2〜3世紀頃の人物かも知れません。

大禍津比命

この名は、「日」→「比」へと変化し、「大禍津日命」の子孫と思いますが、
「日」は「日子」、「比」は「比古」と考えると、系統が交代したと考えています。

もしくは、二系統が並んでいた時代があったのかも知れません。

「神」についても同じで、
最低でも「神」の地位に就いていた人物がいたのだと思います。

禍津日神

この名は、「大」を削除したものですが、
系統は、「大禍津日神」と同じ系統なので、「大禍津比命」で書いた様に、
二系統が並んでいたと解釈も出来ます。

しかし、やはり、情報が少なく、経緯を知る情報がありません。

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