最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

次國稚如浮脂而 久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】
如葦牙因萌騰之物而成神名 宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】
次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而隱身也
上件五柱神者別天神
解読

天次に国が稚(おさな)く脂(あぶら)が浮く如く而(に)
久羅下那洲多陀用幣琉(琉の字以上の十字は、音を以ってす。くらげなすただよえる)。

之(この)時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰がり而(に)因って之(この)物、
宇摩志阿斯訶備比古遲神
(此の神の名、音を以ってす。うましあしかびひこじのかみ)の神名に成る。

次、天之常立神。(常の訓を登許(とこ)と云う。立の訓を多知(たち)と云う。)

此の二柱神、亦、獨り神(ひとりがみ)而(に)成りて坐り隱れる身也。

上の件(くだん)の五柱神者(は:短語)別天神。(わけあまかみ)

解説

06

番外編


イネ

今までの考察から、「天之御中主神」達が列島(九州)に
移住した時代を「紀元前1000年頃」と考えています。

その頃、「天(あま)一族」は「水稲」の存在を知っていたのでしょうか?

最初の「天之御中主神」・「高御產巢日神」・「神產巢日神」の記述には、
「宇摩志阿斯訶備比古遲神」以降の様に、状況を知る記述がありません。

「天(あま)一族」が、どの様な経路で列島に移住したのかを知る事は、
現代では難しいですが、「陸稲」を知っていたとしても不思議では無いです。

しかし、列島の情報が無いので、調べてみると、
「殷代」から「水稲農耕」を主とする「淮夷(わいい)」という民族が、
「現上海近域」に居たようです。

「殷」は、「殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)(Wiki)」とされています。

「天(あま)一族」も「紀元前1000年以前」には、
既に「天」を名乗っていた可能性もあり、「淮夷(わいい)」という民族と、
どこかで接触していた可能性は大いにありえると考えています。

あと、「日本海貿易」では、「現上海近域」とも交流しているはずなので、
「水稲」の情報や、実際に栽培していても、当事者(「天(あま)一族」)に取っては、
日常なので、わざわざ、記さなかったのか、それとも、この時点では知らなかったのか、
その辺りの状況が現存していない様なので、気になります。

他に、もし。「天(あま)一族」が「水稲」の栽培をしていなくても、
「淮夷(わいい)」民族を招聘して、委託した可能性もありそうです。

「殷」や「周」から攻められていたようですので、
「天(あま)一族」が受け入れたというのもありそうです。

野生のイネ

「水稲」の存在を、「天(あま)一族」が知っていた可能性が高そうですが、
「野生のイネ」は、列島に存在しなかったのでしょうか?

検索しても、「古代に列島に野生稲は存在しなかった」と出て来ます。

しかし、考えれば考える程、大陸(古代インド、古代中国)には存在していて、
列島に存在していないと言えるのだろうか?と思えます。

現代の様に、簡単に移動も出来ませんし、活動範囲を広げるデメリットを考えると、
古代の人達が発見し、利用する範囲は狭いと考える事も出来ます。

その為、現代に証拠が無いから、
古代の列島に「野生イネ」が無いと決めつけるのは早いと思います。

本当に古代の列島に「野生イネ」が無いと、立証する場合、
全ての地域を、古代の地層まで掘り返し、探索する必要があります。

ですが、現実的には無理がありますので、
推測では「無い」と断言する事は不可能です。

あと、エジプトでは文献に載っている墓や船を実際に探し当て、
日本でも、島根県から出雲国の痕跡を見つけましたし、
出雲大社が高所に存在していた証拠も出て来ました。

他にも、マチュピチュに文字文化が無いと云われて来ましたが、
過去に、スペイン軍に強奪される前に、文字を消し、資料も持ち去ると言う内容の
TV番組を見た記憶があります。

これらの状況から、改めて、「古代に列島に野生稲は存在しなかった」と、
言える状況では無いと考えています。

「稲の日本史」の記事

過去のブログの記事を、改めて調べ直しました。

参照34の本は20年近く前の本ですが、面白い事が書かれています。

ジャポニカ型野生イネはもともと栄養繁殖性が強く
種子の生産性は決して高くない。

それが栽培化されて食料になるには、
たとえば気候の寒冷化などの動機を考えなければならない。

以前のブログにも書いていますが、列島には「弥生の小氷期」があったと云われていて、
時期は紀元前900年頃らしいです。

一章完成後の見直しで、列島の「寒冷化」の前兆は、
「紀元前1000年頃」から発生している可能性がある事が分かりました。

その代表が、「淤能碁呂嶋」です。

なので、「気候の寒冷化などの動機」は十分にありますので、
「列島」に「野生イネ」が存在していても不思議ではありません。

日本に野生イネがなかったと考えられる第二の理由は、
日本列島の日長(昼間の長さ)条件があげられる。

現存する野生イネのほとんどは花を咲かせるのに
短日条件ーつまり昼間の時間がある限界を超えて短くなる条件ー
を必要とする。

北半球では昼間の長さは、春分から秋分までの夏の間は、
北にゆく程長くなる。

この短日条件で一番不思議なのは、同じ「北半球」である、
「古代中国」や「古代インド」では「野生イネ」から栽培しているのに、
なぜ、列島に「野生イネ」が存在しないと言えるのだろうか?と言う事です。

「古代中国」や「古代インド」と「列島」で、何が違うのでしょう。

少なくとも今のイネに直接つながるような
野生イネはなかったと考えたい。

この記述も不思議です。

「野生イネ」が「ある」か「ない」かを考える時、
現在のイネの先祖かどうかは考える必要があるでしょうか?

現存している「種」だけが、「野生イネ」とは限らないと思います。

現存しない「種」は、発見されなかったり、
問題があったりで、生き残れなかっただけだと思います。

だから、「現在のイネの先祖」でなければ、
列島にも「野生イネ」が存在したのでは?とも解釈出来ます。

そもそも、なぜ、「野生イネ」は無かったんじゃない?と軽い気持ちでいれば良いのに、
「存在していない」と断定するのだろうか。

現代人が、古代の事で知っているのは一部でしか無いのにです。

考えたい

この、「考えたい」という言葉は、裏がある様に思えて仕方ありません。

もし、研究で「無い」可能性が高ければ、
「〜と言った理由で、野生イネは無かったと思います。」と書けば良いだけです。

「野生イネはなかったと考えたい。」とした背景に、

「野生イネ」は見つかっていないが、
断片的には類する情報がある。

しかし、自分の研究成果や他の事を考えると、
「考えたい」と祈るような気持ちがあるのではないか

と思ってしまいます。

もちろん、深い意味が無い場合もあります。

参照34:佐藤洋一郎著「稲の日本史(2002年発行)」

直良信夫

工事現場の洪積世末期地層から「稲籾の化石」を見つけ、
詳しく調べて見ると、栽培種のジャポニカとインディカ種の中間だったようです。

見つけた場所は、1万6千〜1万1千年前、最終氷河期の針葉樹の化石を含んでいて、
洪積世と沖積世を区切る重要な基準値層となっているようです。

この化石が本当に野生だったのかは、詳細なデータが無いので不明ですが、
「日本古代農業発達史」に発表している事から、「野生イネ」だったのだと思われます。

ところが、この方の功績は結局、闇に葬られたようです。

多分に、「野生イネ」は列島に存在しない派が潰したんだと思いますが、
なぜ、列島に「野生イネ」が存在していたら問題になるのか疑問です。

でも、闇に葬られたのだとしたら、
逆にこの方の発表は正しかったと肯定しているように思います。

あと、1万6千〜1万1千年前に存在していたのならば、
3000年前でも、少しは残っていた可能性があるのではないかと考えています。

ただ、記事にはありませんが、陸稲の可能性が高いと思います。

そこで、古代人が列島全土を調べる事は不可能なので、陸稲があるのならば、
低湿地帯に水稲の野生種が存在する事もあり得ると考えています。

参照35:異説・日本に「野生稲」──在野の植物学者・直良信夫の人と生涯

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