故、追う所を避けて、而(すなわち)出雲國之肥河の上に在る鳥髮地に降りる
此の時、其の河の下流の箸に従う
是於(これお)須佐之男命
其の河の上而(に)有る、人の為を以て、上を往く者へ尋ねて覓(もと)める
老夫と老女二人與(ともに)而(に)童女在りて、中而(に)置かれて泣く
爾(なんじ)之(この)問い賜る
汝等者(は:短語)誰か
故、其の老夫答えて言う
僕者(は:短語)国神で大山津見神之子
僕の名は足名椎と謂い、妻の名は手名椎と謂い、女の名は櫛名田比賣と謂う
亦、汝、哭く由者(は:短語)何かと問う
答えて白(もう)して言う
我之女者(は:短語)自ら八稚女(やちめ?)の本と在り
是、高志之八俣遠呂智(おろち)毎年来て喫す
今、其の来る可(べ)き時、故、泣く
爾(なんじ)其の形は何の如くかと問う
答て白(もう)す
彼の目は赤加賀智(かがち:ほおずき)の如く身一つ而(に)八頭八尾有る
亦、其の身に蘿(つた)及び檜(ひのき)榲(すぎ)が生えて
其の長い谿(たに)而(に)八峡谷に八尾度す
其の腹を見れ者(ば:短語)悉く血が常に爛(ただ)れる也
(此の赤加賀知(かがち)者(は:短語)今者(は:短語)酸醤?也)
櫛名田比賣
今回の表記は合計79個あり、今までで一番多いと思います。
古事記の表記です。
派生の表記として、「櫛名田比売」、「櫛名田比賣之命」、「櫛名田比賣命」、
「櫛名田比売命」、「櫛名田比賣尊」、「櫛名田比売神」、「櫛名田毘賣命」
があります。
「櫛名田比賣」、「櫛名田比賣命」、「櫛名田比賣尊」、「櫛名田比売神」、
「櫛名田毘賣命」の5種類の地位があります。
今までは、多くて3種類くらいですが、今回は多いです。
そして、「櫛名田毘賣命」は「植木神社」にあるだけですが、
本当に存在したとすると、「多紀理毘賣命」達の様に仕事によって、
表記を変えていた可能性があります。
しかし、残念ながら、情報が無く、追求出来ません。
それから、初代「櫛名田比賣」は「命」に地位にありませんでしたが、
貢献により「命」の地位になったのか、もしくは、二代目以降だと考えられます。
この表記は「比賣」→「姫」に変化しています。
派生の表記として、「櫛名田姫神」、「櫛名田姫大神」があります。
時代は、「姫」とあるので、日本書紀の基本的な時代と思われる、
「神武天皇(俗称)」の時代に近いと考えています。
「櫛名田比賣」の直系かどうかは不明です。
この表記は「名」→「奈」、「賣」→「咩」に変化しています。
「比賣」→「比咩」→「媛」→「姫」と変遷されたとすると、
「櫛名田姫命」の前なので、「櫛名田比賣」の分家の可能性が出て来ます。
この表記は「田」→「多」に変化しています。
「櫛名田姫命」の系統だと思われます。
この表記は「名」→「稻」に変化しています。
派生の表記として、「櫛稲田比賣命」、「櫛稲田比売命」、「櫛稲田比売神」、
「櫛稲田媛命」、「櫛稻田姫命」、「櫛稲田姫命」、「櫛稲田姫之神」、
「櫛稻田姫神」、「櫛稲田姫神」、「櫛稲田姫尊」、「櫛稲田姫」があります。
「比賣」→「媛」→「姫」と変遷が確認できるので、
派生の表記は、同系統なのかも知れません。
この表記は「櫛」→「奇」に変化しています。
派生の表記として、「奇名田比咩命」、「奇名田姫命」、「奇名田嬢命」があります。
この「奇名田」の表記があることによって、
「櫛名田比賣」、「奇名田比賣」、「名田比賣」の三家が
存在した可能性が推測できます。
「櫛名田比賣」を最高位として、「名田比賣」が「奇名田比賣」に、
「奇名田比賣」が「櫛名田比賣」に昇格する仕組みがあったのでは?と思っています。
この表記は「櫛」→「奇」に変化しています。
派生の表記として、「奇稲田比売命」、「奇稲田比売大神」、「奇稻田比咩命」、
「奇稲田毘売命」、「奇稲田媛命」、「奇稲田媛姫」、「奇稲田媛大神」、
「奇稻田姫神」、「奇稲田姫神」、「奇稻田姫之命」、「奇稻田姫命」、
「奇稲田姫之命」、「奇稲田姫命」、「奇稻田姫」、「奇稲田姫」、
「真髪觸奇稻田姫命」、「后神奇稲田姫尊」、「神奇稲田姫尊」、
「奇稻田姫尊」、「奇稲田姫尊」、「奇稻田豐麻奴良比咩命」があります。
「櫛稻田比賣命」と近い時代だと考えています。
この派生表記には、「真髪觸奇稻田姫命」、「后神奇稲田姫尊」、「神奇稲田姫尊」、
「奇稻田豐麻奴良比咩命」と他には無い表記があり、ヒントになるかも知れません。
「真髪觸」は「奇稻田姫命」を継承した人物の特徴だと思われます。
「真」=「珍しい」、「髪」=「草木」、「觸」=「触れる」とすると、
当時、近域の人でも触ったことの無い「草木」を触ったとも解釈できます。
日本書紀に「以稻田宮主簀狹之八箇耳生兒眞髮觸奇稻田媛」とあり、
「稻田宮主簀狹之八箇耳」の兒が「眞髮觸奇稻田媛」となります。
「稻田宮主簀狹之八箇耳」に近い表記が、古事記にあり、
「足名椎神」が「號稻田宮主須賀之八耳神」の名を負うとあります。
しかし、「須賀之八耳」と「簀狹之八箇耳」では意味が異なります。
「須賀之八耳」の子孫が「簀狹之八箇耳」だと思いますが、
時代考証できる情報がありません。
ただ、色々と参考にはなります。
「眞髮觸奇稻田媛」と「姫」ではなく「媛」なので、
日本書紀の基本となる時代と考える
「神武天皇(俗称)」の時代よりも前と判断できます。
日本書紀の原文で「媛」を検索すると「5例」見つかりますので、
「神武天皇(俗称)」以前は、「媛」の割合が多かったと考えます。
問題は、どこから「媛」に変化するのか?ですが、
古事記では、最後まで「比賣」があるので、「比賣・毘賣」の下位に「媛」があり、
時代によって変わり「姫」となったのでは?と考えています。
つまり、「比賣・毘賣」の時代でも「媛」は存在していたのだと思われます。
その様に考えると「稻田宮主簀狹之八箇耳」は、
「稻田宮主須賀之八耳神」の系統ではなく、別系統の可能性が出て来ます。
系図化する際に、改めて考えて行きます。
参照8: 真 - ウィクショナリー日本語版
参照9: 漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「髪/髮」という漢字
「豐」=「豊かな」、「麻」=「麻」、「奴」=「?」、「良」=「優れた」
と考えると、「豊富な麻がある優れた崖から、奴(粘り強く)採取する」
と解釈できます。
この人物は、自ら動いていたと思われますが、
「麻」を「胡麻(ごま)」にすると、発見者なのかも知れません。
この表記は「奇稲田比賣命」から「奇」を削除しています。
派生の表記として、「稲田比賣命」、「稲田比売命」、「稲田比売神」、
「稲田毘賣命」、「稲田毘売命」、「稲田比女命」、「稲田比咩命」、「稲田媛命」、
「稲田媛之神」、「稲田媛神」、「稲田姫之命」、「稻田姫命」、「稲田姫命」、
「稲田姫神」、「稲田姫尊」、「稲田姫」、「稲田女命」があります。
「比賣」と「毘賣」は同時期で、「比賣」の下位に「比女」・「比咩」、
「比女」の下位に「媛」、「媛」の下位に「姫」と解釈しました。
この表記は「奇」→「竒」に変化しています。
派生の表記として、「竒稲田姫大神」があります。
「竒」にわざわざ、変更するのだから、それなりの理由が存在したと思われますが、
情報がありません。
しかし、参照10のサイトにある、形の変遷を見ると、
「奇」が先にあり、「竒」は後になって作られたと感じます。
とすると、「奇稲田比賣命」の家督を継承したが、
「奇稲田比賣命」とは違うという意味で、「竒」にしたと考えられます。
系統が違うのか、それとも、他の事なのか不明です。
参照10: 奇(汉语汉字)_百度百科
この表記は「奇」→「串」・「希」に変化しています。
「櫛」、「奇」、「串」と「くし」と読む事は可能ですが、
「希」は「呉音:ケ(表外)、漢音:キ、訓読み:表外:まれ、のぞみ、こいねが-う」
となり、「くし」と読むのは不可能です。
これにより、「櫛」→「串」系統、「奇」→「希」系統が存在したと思われます。
この表記は「希稲田姫命」の「希」→「寄」に変化しています。
派生の表記として、「寄姫命」があります。
「寄稲田比賣命」と「比賣」があるので、
「奇」→「寄」→「希」と繋がっていた可能性があります。
この表記は、「くしいなだ」と読めますが、
基本とする「くしなた(なだ)」とは異なっています。
「稻」と表記にはありますが、「くしなた」の「な」として扱っていると思っています。
ところが、ここに来て「いなだ」としているのは不思議ですし、
1音1漢字の方法を採用しているのも、異なっています。
派生の表記として、「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」、
「久志伊奈太美等與麻奴良比売命」、「久志伊奈太伎比咩」、
「久志稲田姫命」があります。
「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」には「比賣」あり、
「奇稻田豐麻奴良比咩命」には「比咩」があるので、
同系統と考えることが出来そうです。
読みとしては「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」が、
「くしいなだみとよまぬら」と読むのかも知れません。
「みとよ」=「御豐」とすると、「大きく開発された地域で、物が豊富にある」
と解釈できるかも知れません。
「1音1漢字」に関しては、
「兄八嶋士奴美神」の子に「布波能母遲久奴須奴神」がいますが、
自分達とは違う生活形態の部族に婿養子に入ったと考えることが出来ます。
「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」も同じ部族かどうかは不明ですが、
名の形式が同じなので、関係はありそうですが、情報がありません。
たぶん、勢力拡大の際に味方になった部族とも考えられます。
ちなみに、この表記は
「出雲國風土記」の「飯石郡条」の「熊谷郷」で登場します。
原文:
熊谷郷 郡家東北廿六里。古老傳云、久志伊奈太美等與麻奴良比賣命、任身及将産時、
求處生之。爾時、到来此處、詔、久々麻々志枳谷在、詔也。故云熊谷。
解読:
熊谷郷 郡家東北26里。
古老伝えて云う。
久志伊奈太美等與麻奴良比賣命、身を任せて将に産む時に及び、
之(この)生まれる處求める。
爾(なんじ)此の處に来て到る時、詔(みことのり)す。
甚だ久々麻々志枳(くくまましき)谷在。
詔(みことのり)する也。
故、熊谷と云う。
参照11: 出雲国風土記・現代語訳
この神社には、複数の表記が伝わっているようです。
現在の祭神は「健伊那太比売命」で、
「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」とも関係があったと思われます。
ただ、「健」を「たけ」と考えると、
「建速須佐之男命」の子孫の表記にも「健速須佐之男命:」表記があるので、
「健伊那太比売命」と同時代などの関係性があったと考えられます。
下記に参照12のサイトにある、他の文献にある祭神名を記載します。
健伊奈大比売『神社覈録』
寄稻田姫命『大日本史神祇志』
稲田姫命『神名帳考証』『特選神名牒』『山城相樂郡誌』
健伊那太比売命 『神社明細書』
「神社覈録」の「健伊奈大比売」は「健伊那太比売命」と同系統と思います。
「大日本史神祇志」の「寄稻田姫命」は、
「寄稲田比賣命」と「寄姫命」の中間の人物と思われます。
参照12: 綺原坐健伊那太比売神社
上記に、表記の変遷について纏めてみました。
時代については、考えていないので、おかしな箇所もありますが、
流れ的には、この様な感じだったのではないかと考えています。