最終更新日 2022/08/23

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 第一章天之御中主神から伊邪那岐命と伊邪那美命まで

於是天神諸命以 詔伊邪那岐命 伊邪那美命二柱神 修理固成是多陀用幣流之國
賜天沼矛而 言依賜也 故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而 指下其沼矛以畫者
鹽許々袁々呂々邇【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而引上時 自其矛末垂落之鹽
累積成嶋 是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】
解読

是於(これお)、天神の諸(もろもろ)の命(めい)を以て、
伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱神に詔(みことのり)す。

多陀用幣流(ただよえる?)之(この)國、
理(ことわり)を修め、是(これ)固めて成る。

天沼矛を賜り、而(なんじ)言依さし賜る也。

故、二柱神を天浮橋而(に)立たし(立の訓は多多志(たたし)と云う)、
其の沼矛を指の下に以て畫(えが)く者(は:短語)、
鹽許々袁々呂々邇(此の七字、音を以ってす。しおこおうろこおうろに?)
畫(えが)き、鳴し(鳴の訓は那志(なし)と云う)而(に)引き上げる時、
其の矛の末自(より)垂れ落ちて、
之(この)鹽(しお)を累(しき)りに積みて嶋に成り、
是(これ)淤能碁呂嶋(淤自(より)以下四字、音を以ってす。おのごろしま)という。

解説

05

淤能碁呂嶋

淤能碁呂嶋を、以前まで「塩の精製」に関する記述かと思っていましたが、
「許々袁々呂々」の考察により、違う事を指していると思うようになりました。

淤能碁呂嶋

「淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】」とあり、
「以音」で「音読み」指定があるので、調べると下記の様になります。

「淤」:呉音:オ、漢音:ヨ

「能」:呉音:ノウ(ノゥ)、ノ、ナイ(表外)、
    漢音:ドウ(ドゥ)(表外)、ダイ(表外)、
    慣用音:タイ(表外)

「碁」:呉音:ギ(表外)、ゴ、漢音:キ(表外)

「呂」:呉音:ロ、漢音:リョ(表外)

上記だけを見ると、「呉音」で「おのごろ」と読む事が出来ます。

また、「淤」は「どろ」、「碁」は「石」を指す事から、
「弥生の小氷期」が始まり、徐々に海退した事により、陸地化が加速し、
どろや石などが堆積し、「淤能碁呂嶋」が出来上がったのではないか?と考えています。

原文を検証

下記に原文と訳を抽出しました。

自其矛末垂落之鹽 累積成嶋 是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】

其の矛の末自(より)垂れ落ちて、之(この)鹽(しお)を
累(しき)りに積みて嶋に成り、
是(これ)淤能碁呂嶋(おのごろしま)という。

気になる箇所が「累積」です。

最初は普通に「累積」としましたが、「鹽を累積」と意味が通じなさそうなので、
「累」と「積」に分けて、解読すると、意味のある文になりました。

訳を改めて見ると、「鹽(岩塩)」を陸地化して来た土地に起き、
積み重ねる事で、石垣や土嚢の役目を果たしたと解釈出来ます。

つまりは、自然的に嶋になったのではなく、
「鹽(岩塩)」を置くという「人工的」に出来た嶋と言えます。

現代で言えば、「埋立地」が当たるのではないでしょうか?

また、過去のブログで、「「淤」と言う「どろ」の場所と、「碁呂」と言う
「碁石ほどの石が連なっている」場所の特徴がある「嶋の海岸線」」と書きました。

どろを袋に詰めて土嚢の役割をさせ、遠くから見れば、
「海岸線」に見えるかも知れません。

また、「淤」が「泥」の意味を持つのと、「碁呂」が「ゴロゴロ」と仮定すると
「干拓」や「干潟」と言う考え方も出来るかも知れません。

それから、過去のブログに「碁」には「占星術の一法が変化・洗練」とあり、
改めて、参照15のサイトを見て見ました。

囲碁の実際の起源ははっきりとは判っていないが、
中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと言われている。

Wiki

「碁」と「占星術」で検索したら、参照16のサイトが見つかり、

当初囲碁は、古代中国の皇帝(=尭帝・舜帝)が、
囲碁を創って子どものしつけのために教えたという伝説や、
碁盤は宇宙、碁石は星のかわりで、暦(こよみ=カレンダー)、
占いに使ったという話があります。

と書かれていて、「淤能碁呂嶋」も関係があるのではないか?と思っています。

参照13:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「累」という漢字

参照14:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「積」という漢字

参照15:囲碁の歴史−Wiki

参照16:囲碁の歴史

まとめ

色々と考察しましたが、他の推察も出来そうに思えて来ました。

故、二柱神を天浮橋而(に)立たし、
其の沼矛を指の下に以て畫(えが)く者(は:短語)、
鹽許々袁々呂々邇(しおここおんおんろろ)畫(えが)き、
鳴し(鳴の訓は那志(なし)と云う)而(に)引き上げる時、
其の矛の末自(より)垂れ落ちて、
之(この)鹽(しお)を累(しき)りに積みて嶋に成り、
是(これ)淤能碁呂嶋(おのごろしま)という。

立たし

まず、「立たし」は、「自ら」立ったのではなく、
「他人」からその様に言われたとも解釈出来ます。

その場合、二柱神(伊邪那岐命・伊邪那美命)は、
「是於(これお)」の「二柱神」で考察した様に、先代の急死もしくは隠居の為に、
仕事を継承したので、「鹽(岩塩)抗」の現地「視察」をしていたのかも知れません。

天浮橋

「視察」に来た二人は、現場監督の先導の元、坑内を見て回ります。

当然、作業員と同じ場所だと、危険や邪魔になるので、
高架の様な「高台」から観察する事になります。

それを「天浮橋」と表現したと思われます。

観察して、気が付いた事を、「甲骨」などにメモを取る。

「沼」=「コウイカのイカスミ」、「矛」=「毛筆」と解釈すると、
現場の状況等を記入していたと考えられます。

記すべき「媒体」は、調べると、紀元前1000年頃では、
古代中国でも「甲骨」しか無く、列島でも「甲骨」を利用していたと思います。

許々袁々呂々

「鹽許々袁々呂々邇(しおここおんおんろろ)畫(えが)き、
鳴し(鳴の訓は那志(なし)と云う)而(に)引き上げる時」

「鹽許々袁々呂々」と「かけ声」を出しをながら、
「螺旋状」の「スロープ」を地上に向けて「引き上げた」のだと思います。

ここの「畫」は、「螺旋状」に「絵」を描くように地上へ上って行くので、
当時の人達は、その様に表現したのでしょう。

あと、「鳴」は先導が鳴り物を持っていたのか、
それとも、作業員を鳴り物で鼓舞していたのか、判断出来ません。

矛の末

最初、全然イメージが湧きませんでしたが、
「寒冷化」により「泥」が後に残った状況をイメージすると、
理解できた気がします。

つまり、この「矛」は、「其の」と付いている事から、「沼矛」を指し、
その「沼矛」の「矛」である「毛筆」を指していると思われます。

これにより、「矛の末」=「毛筆の先端」と解釈しました。

累積

「之(この)鹽(岩塩)を累(しき)りに積みて嶋に成り」

ここで「累」と「積」を考えます。

「累」:

「小さく取り囲む象形×3」(「重ねる」の意味)と「より糸」の象形から、
「糸を順序よく重ねる」を意味する「累」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「積」:

「穂先がたれかかる稲」の象形と
「とげの象形と子安貝(貨幣)の象形」(「金品を責め求める」の意味)から、
農作物を求め「集める・たくわえる・つむ」を意味する
「積」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

原意の通りに考えると、「積(集めた)」「鹽(岩塩)」を「累(順序よく重ねた)」と
解釈が出来る様になり、「鹽(岩塩)」を精製する事に関連があると考えています。

参考になるのが、参照19の「製品になるまで」の図です。

古代(紀元前1000年頃)の人達が、どの様に、「鹽(岩塩)」を精製したかは、
不明ですが、「累」・「積」・「精製」でなんとなくではありますが、見えて来ました。

河底を掘って、そこに「鹽(岩塩)抗」で掘り出した「鹽(岩塩)」を、
少々整形しながら、穴に数段?に敷き詰め、「鹽(岩塩)」側には、
予め水を入れる用と、「鹽水」が排出される穴を開けます。

その水を入れる用の穴には、「矛」=「毛筆」と例える事が可能な品を入れ、
満潮時に自動で、「鹽(岩塩)」側の穴に、河の水が入るようにする。

上記の様に、精製したとすれば、大きな労力を必要としなかった可能性がありますし、
「其の矛の末自(より)垂れ落ちて、」の文も、毛筆の様な「毛」が付いた品から、
満潮時に適度に水が流れていたのに、「寒冷化」の影響で、
水が流れなくなったと解釈する事が出来ます。

ただ、「淤(泥)」が「整然と引かれた線」が「長く」続いている状況と、
どの様に関係があるのか、調べても分かりませんでした。

参照17:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「累」という漢字

参照18:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「積」という漢字

参照19:岩塩

淤能碁呂嶋

今回の範囲(1−4)は、色々と解釈出来ますが、この嶋の状況が、
古代九州における「寒冷化」のスタートなのは確かだと思います。

今回の見直しで、「碁呂」=「ゴロゴロ」ではなく、別の意味があり、
「淤能碁呂嶋」もまた、過去に考察とは違う可能性があります。

「碁」:

「農具:箕(み)」の象形(「方形をして整っている」の意味)と
「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味)から、
整然と線の引かれた盤の上に、黒・白の石を交互に置き、
広く地(じ)を占めたほうを勝ちとする遊び「ゴ」を意味する
「碁」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

「呂」:

「人の背骨が連なる」象形から、
「背骨」、「長い」を意味する「呂」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

上記により、「淤能碁呂嶋」とは、
「淤(泥)」が「整然と引かれた線」が「長く」続いていると解釈出来ます。

満潮時には水の下だけど、干潮時には顔を出す、
つまり、「モンサンミッシェル」への「道」のような状況を指していると思われます。

当時の人達は、「嶋」と認識していたのでしょう。

この後世の「速須佐之男命」の時代には「八拳須」という表現に変わります。

参照20:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「碁」という漢字

参照21:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「呂」という漢字

まとめ

上記の様に、単語の考察は、正解から遠く外れていないように思えますが、
文章として考えた時、微妙に歯車が噛み合っていない様に感じます。

古事記編纂時には、この記事になっていたのか、
それとも、編纂時に編集したのか。

その編纂時の原文は無いので、真相は闇の中になります。

「淤」=「泥」とされていますが、
調べると、「淤」の成り立ちについて見つける事が出来ませんでした。

そこで、「於」について調べると、

「鳥」の象形から、鳥の鳴き声の擬声語を表し、
そこから、感嘆(感情を表す語)を表す「ああ」を意味する
「於」という漢字が成り立ちました。

OK辞典

とあり、これに「氵(さんずい)」を足しても、なぜ、「泥」となるのか疑問になります。

これにより、「淤」という漢字も、長い時間の間に、
色々と混同されて来たと言える様に思います。

だとすると、「淤(泥)」が「整然と引かれた線」が「長く」続いていると
解釈しましたが、何が「整然と引かれた線」の様に「長く」続いていたのでしょうか?

「淤能碁呂嶋」は「鳥の水場」だったのでしょうか?

この新たな疑問を解決できる情報は、現在見つかっていません。

参照22:漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「於」という漢字

場所

この「淤能碁呂嶋」の存在した場所ですが、「建速須佐之男命」の土地は、
「現九州南部」は確定だと思うので、「寒冷化」の影響が一番早く出た、
「淤能碁呂嶋」は「現九州北部」と言える様に思います。

他には、「水の中の道」は、「海」では発生しにくいと思うので、
「河」もしくは「川」だと考えています。

そこで、思いつくのは、
古代には繋がっていた「現博多湾」〜「古有明海」までの大きな「河」です。

発生した場所は、多くの候補地が出ますが、
最低でも「高天原」と想定する「雲仙普賢岳」よりは「北側」での現象だと思われます。

時代考証

「淤能碁呂嶋」が、「天(あま)一族」並びに「高天原」の人達が、
九州に移住して、「寒冷化」の影響を認識した初めての現象だと思われます。

「淤」ではない「碁呂嶋」、例えば、「砂」能「碁呂嶋」が存在していた可能性もあり、
だからこそ、「能」が入っているのだと思います。

時代としては、「建速須佐之男命」の土地で起きた「八拳須」を「紀元前900年頃」と
仮定すると、「淤能碁呂嶋」は、「紀元前950年頃」を想定しています。

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