是於(これお)、天神の諸(もろもろ)の命(めい)を以て、
伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱神に詔(みことのり)す。
多陀用幣流(ただよえる?)之(この)國、
理(ことわり)を修め、是(これ)固めて成る。
天沼矛を賜り、而(なんじ)言依さし賜る也。
故、二柱神を天浮橋而(に)立たし(立の訓は多多志(たたし)と云う)、
其の沼矛を指の下に以て畫(えが)く者(は:短語)、
鹽許々袁々呂々邇(此の七字、音を以ってす。しおこおうろこおうろに?)
畫(えが)き、鳴し(鳴の訓は那志(なし)と云う)而(に)引き上げる時、
其の矛の末自(より)垂れ落ちて、
之(この)鹽(しお)を累(しき)りに積みて嶋に成り、
是(これ)淤能碁呂嶋(淤自(より)以下四字、音を以ってす。おのごろしま)という。
淤能碁呂嶋
淤能碁呂嶋を、以前まで「塩の精製」に関する記述かと思っていましたが、
「許々袁々呂々」の考察により、違う事を指していると思うようになりました。
「淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】」とあり、
「以音」で「音読み」指定があるので、調べると下記の様になります。
「淤」:呉音:オ、漢音:ヨ
「能」:呉音:ノウ(ノゥ)、ノ、ナイ(表外)、
漢音:ドウ(ドゥ)(表外)、ダイ(表外)、
慣用音:タイ(表外)
「碁」:呉音:ギ(表外)、ゴ、漢音:キ(表外)
「呂」:呉音:ロ、漢音:リョ(表外)
上記だけを見ると、「呉音」で「おのごろ」と読む事が出来ます。
また、「淤」は「どろ」、「碁」は「石」を指す事から、
「弥生の小氷期」が始まり、徐々に海退した事により、陸地化が加速し、
どろや石などが堆積し、「淤能碁呂嶋」が出来上がったのではないか?と考えています。
下記に原文と訳を抽出しました。
自其矛末垂落之鹽 累積成嶋 是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】
其の矛の末自(より)垂れ落ちて、之(この)鹽(しお)を
累(しき)りに積みて嶋に成り、
是(これ)淤能碁呂嶋(おのごろしま)という。
気になる箇所が「累積」です。
最初は普通に「累積」としましたが、「鹽を累積」と意味が通じなさそうなので、
「累」と「積」に分けて、解読すると、意味のある文になりました。
訳を改めて見ると、「鹽(岩塩)」を陸地化して来た土地に起き、
積み重ねる事で、石垣や土嚢の役目を果たしたと解釈出来ます。
つまりは、自然的に嶋になったのではなく、
「鹽(岩塩)」を置くという「人工的」に出来た嶋と言えます。
現代で言えば、「埋立地」が当たるのではないでしょうか?
また、過去のブログで、「「淤」と言う「どろ」の場所と、「碁呂」と言う
「碁石ほどの石が連なっている」場所の特徴がある「嶋の海岸線」」と書きました。
どろを袋に詰めて土嚢の役割をさせ、遠くから見れば、
「海岸線」に見えるかも知れません。
また、「淤」が「泥」の意味を持つのと、「碁呂」が「ゴロゴロ」と仮定すると
「干拓」や「干潟」と言う考え方も出来るかも知れません。
それから、過去のブログに「碁」には「占星術の一法が変化・洗練」とあり、
改めて、参照15のサイトを見て見ました。
囲碁の実際の起源ははっきりとは判っていないが、
Wiki
中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと言われている。
「碁」と「占星術」で検索したら、参照16のサイトが見つかり、
当初囲碁は、古代中国の皇帝(=尭帝・舜帝)が、
囲碁を創って子どものしつけのために教えたという伝説や、
碁盤は宇宙、碁石は星のかわりで、暦(こよみ=カレンダー)、
占いに使ったという話があります。
と書かれていて、「淤能碁呂嶋」も関係があるのではないか?と思っています。
参照15:囲碁の歴史−Wiki
参照16:囲碁の歴史
色々と考察しましたが、他の推察も出来そうに思えて来ました。
故、二柱神を天浮橋而(に)立たし、
其の沼矛を指の下に以て畫(えが)く者(は:短語)、
鹽許々袁々呂々邇(しおここおんおんろろ)畫(えが)き、
鳴し(鳴の訓は那志(なし)と云う)而(に)引き上げる時、
其の矛の末自(より)垂れ落ちて、
之(この)鹽(しお)を累(しき)りに積みて嶋に成り、
是(これ)淤能碁呂嶋(おのごろしま)という。
まず、「立たし」は、「自ら」立ったのではなく、
「他人」からその様に言われたとも解釈出来ます。
その場合、二柱神(伊邪那岐命・伊邪那美命)は、
「是於(これお)」の「二柱神」で考察した様に、先代の急死もしくは隠居の為に、
仕事を継承したので、「鹽(岩塩)抗」の現地「視察」をしていたのかも知れません。
「視察」に来た二人は、現場監督の先導の元、坑内を見て回ります。
当然、作業員と同じ場所だと、危険や邪魔になるので、
高架の様な「高台」から観察する事になります。
それを「天浮橋」と表現したと思われます。
観察して、気が付いた事を、「甲骨」などにメモを取る。
「沼」=「コウイカのイカスミ」、「矛」=「毛筆」と解釈すると、
現場の状況等を記入していたと考えられます。
記すべき「媒体」は、調べると、紀元前1000年頃では、
古代中国でも「甲骨」しか無く、列島でも「甲骨」を利用していたと思います。
「鹽許々袁々呂々邇(しおここおんおんろろ)畫(えが)き、
鳴し(鳴の訓は那志(なし)と云う)而(に)引き上げる時」
「鹽許々袁々呂々」と「かけ声」を出しをながら、
「螺旋状」の「スロープ」を地上に向けて「引き上げた」のだと思います。
ここの「畫」は、「螺旋状」に「絵」を描くように地上へ上って行くので、
当時の人達は、その様に表現したのでしょう。
あと、「鳴」は先導が鳴り物を持っていたのか、
それとも、作業員を鳴り物で鼓舞していたのか、判断出来ません。
最初、全然イメージが湧きませんでしたが、
「寒冷化」により「泥」が後に残った状況をイメージすると、
理解できた気がします。
つまり、この「矛」は、「其の」と付いている事から、「沼矛」を指し、
その「沼矛」の「矛」である「毛筆」を指していると思われます。
これにより、「矛の末」=「毛筆の先端」と解釈しました。
「之(この)鹽(岩塩)を累(しき)りに積みて嶋に成り」
ここで「累」と「積」を考えます。
「累」:
「小さく取り囲む象形×3」(「重ねる」の意味)と「より糸」の象形から、
OK辞典
「糸を順序よく重ねる」を意味する「累」という漢字が成り立ちました。
「積」:
「穂先がたれかかる稲」の象形と
OK辞典
「とげの象形と子安貝(貨幣)の象形」(「金品を責め求める」の意味)から、
農作物を求め「集める・たくわえる・つむ」を意味する
「積」という漢字が成り立ちました。
原意の通りに考えると、「積(集めた)」「鹽(岩塩)」を「累(順序よく重ねた)」と
解釈が出来る様になり、「鹽(岩塩)」を精製する事に関連があると考えています。
参考になるのが、参照19の「製品になるまで」の図です。
古代(紀元前1000年頃)の人達が、どの様に、「鹽(岩塩)」を精製したかは、
不明ですが、「累」・「積」・「精製」でなんとなくではありますが、見えて来ました。
河底を掘って、そこに「鹽(岩塩)抗」で掘り出した「鹽(岩塩)」を、
少々整形しながら、穴に数段?に敷き詰め、「鹽(岩塩)」側には、
予め水を入れる用と、「鹽水」が排出される穴を開けます。
その水を入れる用の穴には、「矛」=「毛筆」と例える事が可能な品を入れ、
満潮時に自動で、「鹽(岩塩)」側の穴に、河の水が入るようにする。
上記の様に、精製したとすれば、大きな労力を必要としなかった可能性がありますし、
「其の矛の末自(より)垂れ落ちて、」の文も、毛筆の様な「毛」が付いた品から、
満潮時に適度に水が流れていたのに、「寒冷化」の影響で、
水が流れなくなったと解釈する事が出来ます。
ただ、「淤(泥)」が「整然と引かれた線」が「長く」続いている状況と、
どの様に関係があるのか、調べても分かりませんでした。
参照19:岩塩
今回の範囲(1−4)は、色々と解釈出来ますが、この嶋の状況が、
古代九州における「寒冷化」のスタートなのは確かだと思います。
今回の見直しで、「碁呂」=「ゴロゴロ」ではなく、別の意味があり、
「淤能碁呂嶋」もまた、過去に考察とは違う可能性があります。
「碁」:
「農具:箕(み)」の象形(「方形をして整っている」の意味)と
OK辞典
「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味)から、
整然と線の引かれた盤の上に、黒・白の石を交互に置き、
広く地(じ)を占めたほうを勝ちとする遊び「ゴ」を意味する
「碁」という漢字が成り立ちました。
「呂」:
「人の背骨が連なる」象形から、
OK辞典
「背骨」、「長い」を意味する「呂」という漢字が成り立ちました。
上記により、「淤能碁呂嶋」とは、
「淤(泥)」が「整然と引かれた線」が「長く」続いていると解釈出来ます。
満潮時には水の下だけど、干潮時には顔を出す、
つまり、「モンサンミッシェル」への「道」のような状況を指していると思われます。
当時の人達は、「嶋」と認識していたのでしょう。
この後世の「速須佐之男命」の時代には「八拳須」という表現に変わります。
上記の様に、単語の考察は、正解から遠く外れていないように思えますが、
文章として考えた時、微妙に歯車が噛み合っていない様に感じます。
古事記編纂時には、この記事になっていたのか、
それとも、編纂時に編集したのか。
その編纂時の原文は無いので、真相は闇の中になります。
「淤」=「泥」とされていますが、
調べると、「淤」の成り立ちについて見つける事が出来ませんでした。
そこで、「於」について調べると、
「鳥」の象形から、鳥の鳴き声の擬声語を表し、
OK辞典
そこから、感嘆(感情を表す語)を表す「ああ」を意味する
「於」という漢字が成り立ちました。
とあり、これに「氵(さんずい)」を足しても、なぜ、「泥」となるのか疑問になります。
これにより、「淤」という漢字も、長い時間の間に、
色々と混同されて来たと言える様に思います。
だとすると、「淤(泥)」が「整然と引かれた線」が「長く」続いていると
解釈しましたが、何が「整然と引かれた線」の様に「長く」続いていたのでしょうか?
「淤能碁呂嶋」は「鳥の水場」だったのでしょうか?
この新たな疑問を解決できる情報は、現在見つかっていません。
この「淤能碁呂嶋」の存在した場所ですが、「建速須佐之男命」の土地は、
「現九州南部」は確定だと思うので、「寒冷化」の影響が一番早く出た、
「淤能碁呂嶋」は「現九州北部」と言える様に思います。
他には、「水の中の道」は、「海」では発生しにくいと思うので、
「河」もしくは「川」だと考えています。
そこで、思いつくのは、
古代には繋がっていた「現博多湾」〜「古有明海」までの大きな「河」です。
発生した場所は、多くの候補地が出ますが、
最低でも「高天原」と想定する「雲仙普賢岳」よりは「北側」での現象だと思われます。
「淤能碁呂嶋」が、「天(あま)一族」並びに「高天原」の人達が、
九州に移住して、「寒冷化」の影響を認識した初めての現象だと思われます。
「淤」ではない「碁呂嶋」、例えば、「砂」能「碁呂嶋」が存在していた可能性もあり、
だからこそ、「能」が入っているのだと思います。
時代としては、「建速須佐之男命」の土地で起きた「八拳須」を「紀元前900年頃」と
仮定すると、「淤能碁呂嶋」は、「紀元前950年頃」を想定しています。