最終更新日 2024/11/12

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 第四章 葦原中國の平定

故爾問其大國主神 今汝子 事代主神 如此白訖 亦有可白子乎 於是亦白之
亦我子有建御名方神 除此者無也 如此白之間 其建御名方神 千引石擎手末而來 言 誰來我國而
忍忍如此物言 然欲爲力競 故 我先欲取其御手 故令取其御手者 卽取成立氷 亦取成劒刄
故爾懼而退居 爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者 如取若葦搤批而投離者 卽逃去 故追往而
迫到科野國之州羽海 將殺時 建御名方神白 恐 莫殺我 除此地者 不行他處
亦不違我父大國主神之命 不違八重事代主神之言 此葦原中國者 隨天神御子之命獻

故 更且還來 問其大國主神 汝子等 事代主神・建御名方神二神者 隨天神御子之命 勿違白訖
故 汝心奈何 爾答白之 僕子等二神隨白 僕之不違 此葦原中國者 隨命既獻也 唯僕住所者
如天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音】 下效此天之御巢而
於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】 於高天原氷木多迦斯理多迦斯理【四字以音】而 治賜者
僕者於百不足八十坰手隱而侍 亦僕子等百八十神者 卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者
違神者非也
解読

故爾(ゆえに)、其の大國主神を問う

今、汝の子、事代主神、此の白(もう)し訖(お)えるが如く、
亦、白(もう)す子乎(お)有る可(べ)き

於是(これを)、亦、之(これ)白(もう)す

亦、我子、建御名方神有り

此れ除く者(は:短語)無し也

此の之(これ)白(もう)す間の如く、
其の建御名方神、千引石を手で擎(かかげ)て末而(に)来ると言う

我國而(に)誰が来て、忍んで忍ばざる此の物の言が如く

然し、力で競う欲と爲す

故、我先に其の御手を欲し取る

故、其の御手者(は:短語)令(うながし)取る

卽(すなわち)、氷を取りて成り立ち、亦、劒刄を取り成して、
故爾(ゆえに)退居而(に) 懼(おそれる)

爾(なんじ)、其の建御名方神之手を欲して取り、
而(すなわち)取れ者(ば:短語) 歸(かえ)し乞う

若葦搤(つかんで)取る如く、而(すなわち)投離者(は:短語)批される

卽(すなわち)、逃げ去り、故、追い往く而(に)、科野國之州羽海に迫りて到る

將(まさ)に建御名方神を殺す時、白(もう)す

恐れながら、 殺す莫(なか)れ、我、此の地を除け者(ば:短語)、他の處に不行(いかず)

亦、我父大國主神之命に不違(たがわず)、八重事代主神、(これ)之言うにも不違(たがわず)

此の葦原中國者(は:短語) 天神御子之命獻に隨(したがう)

故、更に且つ還って来ず

其の大國主神に問う

汝の子等、事代主神・建御名方神二神者(は:短語)、天神御子之命に隨(したがう)

違う勿(なか)れ、白(もう)し訖(おえる)

故、汝の心、奈何(いかん)

爾(なんじ)之(これ)答えて白(もう)す

僕(やつがれ、使用人)子等二神。隨(したがう)と白(もう)す

僕(やつがれ、使用人)之(これ)不違(たがわず)

此、葦原中國者(は:短語)、既に命により獻(たてまつり)隨(したがう)也

唯(ただ)、僕(やつかれ、使用人)の住む所者(は:短語)
天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音 下效此】の如く
天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】
高天原氷木多迦斯理【四字以音】に於いて、
而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)、
僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)百不足に於いて、八十坰(けい)手而(に)隱れ侍る

亦、僕(やつがれ、使用人)子等百八十神者(は:短語)、
卽(すなわち)、八重事代主神と爲す

神之御尾前、而(すなわち)仕(つかえ)奉(たてまつる)者(は:短語)、
違(ちがう)神者(は:短語)非ず也

解説

02

複雑化した文2


科野國之州羽海

「建御名方神」が逃げてきた様に書かれていますが、何が原因かは書かれていません。

「卽逃去。故追往而、迫到科野國之州羽海」と逃げてきた事は分かりますが、
それまでの過程が難解な為、誰に追われていたのか、誰に殺されそうになったのか
についての情報がありません。

逃げるまでの過程が、そもそも、「建御名方神」が関与していたのかどうかも不明です。

ちなみに「科野國」を「信濃國」と混同している人が多いと思いますが、
「州羽海」という「海」が存在していないので、「信濃國」ではない事が分かります。

多分、「科野國之州羽海」は、「旧出雲國(九州)」に近い位置にあったのだと思われます。

もしかすると、「旧出雲國(九州)」に隣接していたかも知れません。

建御名方神の神社

建御名方神

玉川神社、立川諏訪神社、永山諏訪神社、白鬚神社(東向島、合祀)、稲付香取神社、
諏訪神社(駒形)、諏訪神社(みやま市)、諏訪神社(下小田切)、南方神社、高崎神社、
神明宮、大宮巌鼓神社、志乎神社、稲含神社(下仁田町栗山、甘楽町秋畑)

建御名方命

諏訪神社(四日市市)、諏訪神社(江戸川区)、諏訪大社、諏訪神社(八王子市)、
連光寺諏訪神社、相原諏訪神社、氷川神社(西五反田、合祀)、白髭神社(東四つ木)、
興野神社、平井諏訪神社、西早稲田天祖神社 境内 諏訪神社、三沢八幡神社

建御名方之命

札幌諏訪神社、神明宮 境内 諏訪二柱神社

諏訪建御名方神

廣田神社

建御名方刀美神

天祖・諏訪神社、槻本神社

建御名方刀美命

諏訪神社(城東区)、子檀嶺神社 奥社、子檀嶺神社 里社、小内神社

建御名方富神

村松神社

建御名方富命

石津太神社(合祀)、波布比咩命神社、須須岐水神社 境内 祝神社、馬脊神社(合祀)、
諏訪大社 下社 春宮

建南方刀美命

日宮神社 境内 諏訪社

建南方富命

大津神社(合祀)

建南方主神

清水神社(合祀)

建南方命

鑓水諏訪神社、宇奈具志神社 境内 諏訪社、大星神社

建御名方尊

鳥屋神社(『雲陽誌』『出雲神社巡拝記』)

建御名方彦神別命

諏訪大社 下社 春宮 境内 若宮社諏訪大社 下社 秋宮 境内 若宮社

武御名方神

諏訪神社(川久保)、八幡神社

武御名方命

新宿諏訪神社、熊野神社(合祀)、椋神社(合祀)、揖夜神社、三峯神社 境内 諏訪神社、
諏訪神社

武御名方主命

姉倉比賣神社

健御名方大神

小川八幡宮 境内祠

健御名方神

諏訪神社(湯川)、須倍神社(合祀)、小祝神社(合祀)、大倭物代主神社

健御名方命

小石川諏訪神社、青砥神社、諏訪神社(白糸台)、健御名方富命彦神別神社、
玉村八幡宮、若宮八幡神社、與能神社、石部神社、佐波神社、矢彦神社、塩野神社、
墨坂神社(合祀)、皇足穂命神社、清水神社、守田神社、子檀嶺神社(合祀)

健御名方刀美命

縣諏訪神社

南方刀美命

御笏神社 境内 諏訪神社

健御名方富命

中村神社、生島足島神社 境内 諏訪社、祝神社(海津城の二の丸祭神合祀)、
健御名方富命彦神別神社(飯山市)、健御名方富命彦神別神社(長野市)

健南方富命

科野大宮社、安曽神社

健南方命

六所神社(山形県神社誌)、長谷神社

鍵南方刀自命

石座神社 境内 須波南宮社

健御中方命

欅原神社

まとめ
建御名方神

第四章の範囲である「大國主神之女、下照比賣」と今回の「大國主神」には、
関係性があるようには思えません。

なので、個別に考えるべきと思います。

「問其大國主神 汝子等 事代主神・建御名方神二神者」と
「事代主神」と「建御名方神」が、「大國主神」の子とあります。

しかし、「大國主神之女、下照比賣」の時代から、どれだけ離れているかが不明です。

とはいえ、第三章の「大國主神」の時代から最低でも、2世代は、ずれていると思っています。

小野神社 長野県塩尻市北小野175-1

「社伝によると、建御名方命が科野に降臨し、諏訪へ入ろうとしたが
洩矢神がいたために入れず、この地にしばし留まった後、諏訪へ移動したという。
その旧跡に、崇神天皇の御代創祀されたという古社。」とあるので、
この「建御名方命」は、「崇神天皇」が西暦3世紀後半と云われているので、
情報があるので、西暦2世紀頃かも知れません。

天津神社 新潟県糸魚川市一の宮1-3-34

「此の地方は往昔沼川郷と稱し奴奈川媛命の棲みましし處八千矛命が遠く海を渡りて
此の地に上陸せられ媛と契らせ給へりと云ふ史實と御二方の間に生れましし
建御名方命が姫川の渓谷を辿りて信濃路へ進ませられ遠近を開拓統治し
給へりと云ふ傳説る」という伝説があるようです。

「八千矛命」の地位が「命」であり、「奴奈川媛命」が「媛」である事を考えれば、
日本書紀の範囲と考えることが出来、紀元前700年ごろの人物かも知れません。

派生

「建御名方神」の表記が正しいわけですが、派生した表記が27あります。

注目すべきは、ここでも「建」族、「武」族、「健」族に分かれます。

そして、「建御名方刀美神」のように「刀美」を冠する一族も登場します。

それなりに神社があるので、勢力も大きかったと思います。

問題は、「建御名方刀美神」が「建御名方神」から分かれたのか、
それとも、単独でこの様な名を使っていたのかです。

多分、前者の「建御名方神」から分かれたのだろうと考えていますが、
「建御名方神」の勢力が弱まった時に、使った一族が登場した可能性もあります。

あと、「建御名方刀美神」→「建南方刀美命」へと変化します。

「御名(みな)」→「南」への変化は、「南(みなみ)」の「みな」をとったのだと思いますが、
少々、無理矢理感があります。

この様に、無理矢理感がある事から、時代は西暦になってからなのかも知れません。

家族

「建御名方神」の家族と思えるような記事は、記紀にはありません。

ですが、「八坂刀賣神󠄀」が、なぜか、「建御名方神」の妃と言われています。

しかし、調べた限り、「建御名方神」と結婚したとする情報がありませんでした。

「復刻諏訪史料叢書 第四巻」に「天文22年12月」の記事が載っていて、
「本宮の御妻八坂刀売命(之、降孫供奉に臨み天中三十二神の八坂彦命の後流なり)」
とする情報を見ましたが、これは「天文22年」時点では、その様に思われていただけです。

そもそも、本当に、結婚したのであれば、
「諏訪大社」などに資料として残っていても不思議ではないです。

ところが、どこの資料にも、記事として無いのは、不思議でしかありません。

「建御名方神」が存在した時代は、初代神武天皇(仮)さえも誕生していない、
紀元前750年頃の話です。

もちろん、「建御名方神」の名が意味を成さなくなった時代に、
当時の「建御名方神」と「八坂刀賣神󠄀」が結婚した可能性はありますが、
それは、紀元前750年頃の話では無いです。

こちらが知りたいのは、初代「建御名方神」の存在した時代に、
「八坂刀賣神󠄀」と結婚したのかについてです。

先程の「降孫供奉に臨み天中三十二神の八坂彦命の後流なり」が本当であれば、
初代「建御名方神」の時の話とは、時代が異なっているので、
やはり、初代「建御名方神」の時代には、2人は結婚していない可能性が高そうです。

あと、「建御名方神」と「八坂刀賣神(神の地位に注目です。)」の間に、
13人の子がいるという話がありますが、資料としては見つけた事がありません。

ちなみに、「高杜神社」には、13人の中の「高杜神」の子孫と思われる「高毛利神」が
祀られていますが、これは「高杜神」本人では無いでしょう。

「境内案内板」には、「多加毛利命」とあるので、「高杜神」の先祖の可能性があります。

ここから、「13人の子」は養子の可能性があるように思います。

兄?

江野神社 新潟県上越市名立区名立大町字明神山1335

「神社名鑑」に、「里人大己貴命、建御名方命の遺徳 を追慕し、
之に建御名方の長兄中主命を合せ 三神を合祀して大宮と称し、〜」とあり、
「建御名方」と「命」でも「神」とも無いので、西暦に入ってからの人物の可能性が高いです。

この後に、「景行天皇二五年武内宿禰北陸諸国巡」とあり、
「景行天皇の時代」が西暦4世紀前半と云われているので、西暦3世紀頃かも知れません。

葦原中國

数カ所、「此の葦原中國者(は:短語) 天神御子之命獻に隨(したがう)」
という文を目にしますが、「宇志波祁流」の所でも、少し書きましたが、
「出雲國伊那佐之小濱」に来てまで、「葦原中國」の事は・・・。となるのは、少々おかしいです。

「葦原中國」内にいる反乱分子などが、「天神」は関係ないと言っているのであれば、
「葦原中國」内で治める必要があります。

という事は、「事代主神」、「建御名方神」、「八重言代主神」等の人物は、
「葦原中國」内では、反乱分子的な立ち位置だったからとも解釈できます。

僕(やつかれ、使用人)の住む所

原文:

唯僕住所者 如天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音下效此】天之御巢而
於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】 於高天原氷木多迦斯理多迦斯理【四字以音】而
治賜者 僕者於百不足八十坰手隱而侍 亦僕子等百八十神者
卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者 違神者非也

解読:

唯(ただ)、僕(やつかれ、使用人)の住む所者(は:短語)
天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音 下效此】の如く
天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】
高天原氷木多迦斯理多迦斯理【四字以音】に於いて、
而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)、
僕(やつがれ、使用者)者(は:短語)百不足に於いて、八十坰(けい)手而(に)隱れ侍る
亦、僕(やつがれ、使用者)子等百八十神者(は:短語)、
卽(すなわち)、八重事代主神が爲す
神之御尾の前而(に)いる仕(つかえ)奉(たてまつる)者(は:短語)、
違(ちがう)神者(は:短語)非ず也

僕の住む所

「僕(やつがれ、使用人)」の住む所は、上記にあるように、
「天神御子之天津日繼所知之登陀流」、「天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理」、
「高天原氷木多迦斯理多迦斯理」と言った、宮殿の様な場所と解釈できます。

これにより、「僕(やつがれ、使用人)」が住み込みで働いている場所とも考えられます。

天神御子之天津日繼所知之登陀流


読み

「登陀流【此三字以音 下效此】」と注記があるので、「音読み」指定となります。

「登」:呉音:トウ(トゥ)、漢音:トウ(トゥ)、慣用音:ト

「陀」:呉音:ダ、漢音:タ、唐宋音:ト

「流」:呉音:ル、漢音:リュウ(リウ)

上記により、呉音「とうだる」、漢音「とうたりゅう」になりそうです。

意味

「登」には、Wikiで二種類の意味を載せているので、
二種類の字形が似ていたのかも知れません。

1:「「豆」+「癶」で、食器に盛られた食べ物を捧げるさまを象る。
「すすめる」「ささげる」を意味する漢語{烝 /*təng/}を表す字。」

2:「登」はそれを音符にもつ形声文字で、「癶」は上方向に登っていく足の形。
「のぼる」「あがる」を意味する漢語{登 /*təəng/}を表す

3:「癶」は右足(「止」)と左足(「止」の鏡文字)を描いたもの。
左右の足をばたばたさせ、歩き始めることを意味か、

「か」とあるので、不安要素があるようです。

「癶」の解釈次第で「1」にも「2」にも変化すると考えられますが、
「1」と「2」では、意味が大きく異なる事から、
それぞれに対応した「癶」が存在した可能性が高そうです。

「它」ですが、参照254のサイトにある「「陀」㝬簋西周晚期集成4317」の字形と、
参照253のサイトにある「西周金文西周晚期」と「西周金文西周晚期或春秋早期」
を比較すると、参照254のサイトにある「「陀」㝬簋西周晚期集成4317」の字形は、
既に「()」の箇所が付いていますが、
参照253のサイトにある「西周金文西周晚期」と「西周金文西周晚期或春秋早期」の字形は、
「()」の箇所が付いていません。

これは大きな違いだと思います。

「它」を「へび」としていますが、本当に、当時、その様な使われ方をしたかは、
上記のように、異なるので、不明となります。

また、参照252のサイトにある「秦簡帛嶽麓書院」の字形と、
参照253のサイトにある「秦簡帛嶽麓書院」の字形を比較しても、
参照252のサイトにある「秦簡帛嶽麓書院」の字形には、途中から、上に伸びる線があり、
同一と呼べるかは不明です。

これらのことから、二種類存在していたが、
同じ字形だと「説文解字」の編纂者達が判断した可能性が高いように思えます。

そうでなければ、上記のような不審点は無いだろうと思います。

また、よく、「它」と「也」は「蛇の頭」から来たと云われていますが、
「陀」が「陀」と「阤」を混同した結果、同一であると思われたのだと思います。

実際に、参照252のサイトの「陀」と、参照255のサイトの「阤」と比較すると、同じであるならば、
わざわざ、別に分ける必要がありませんが、実際には分けています。

これにより、「陀」と「阤」では、違う意味を持つ漢字となります。

そうなると「陀」の意味ですが、「蛇」で検索すると、参照256のサイトが見つかり、
このサイトには、「蛇」の「説文解字」にある「象冤曲垂尾形」を
「上部が婉曲して、尾が垂れる形に象る」として書いています。

ただ、「婉曲」とは「表現のしかたが遠回しで、穏やかなさま。角立たないで、
やさしく言い表わすさま。」なので、「上部」が「婉曲」とは意味が不明になります。

また、「婉曲」ではなく「冤曲」となっているので、意味も異なります。

「冤曲」の意味を調べましたが、分かりませんでした。

しかし、「冤曲」は「曲がるのを免れた」とも解釈できるように思えます。

これにより、「上部は直線だけど、尾は垂れている」とも解釈できます。

参照252:陀: zi.tools

参照253: 它: zi.tools

参照254: 陀的解释|陀的意思|汉典 “陀”字的基本解释

参照255: 阤: zi.tools

参照256: 『説文』入門(21) -「蛇」の場合

「流」は、「氵’(さんずい)」と「㐬」で構成されています。

「㐬」には、参照257のサイトによると、
「子が生まれる」、「突出する」、「はたあし」の意味があるようです。

Wikiには、「水」+音符「㐬 (「毓」の省略形) /*RU/」。
「ながれる」を意味する漢語{流 /*ru/}を表す字。」とありますが、
参照258のサイトにある字形を見れば、違うことが分かります。

参照259のサイトの字形と比較しても、同一と考えるのは違うと思います。

参照257:漢字「㐬」の部首・画数・読み方・意味など

参照258: 毓: zi.tools

参照259: 流: zi.tools

まとめ

「登陀流」を考察しました。

「登」は「食器に盛られた食べ物を捧げるさまを象る。」と思います。

「陀」は「崩壊」という言葉が、参照252のサイトにあるので、とりあえず、入れておきます。

「流」は「毓(育)」とは無関係ですが、「子が生まれる」は、意味がありそうです。

「子が生まれる」時には、きれいにするために、水が必要だと思うので、有り得そうです。

上記の場合、「食べ物」を捧げ、「生まれた子」に名を与え、「崩壊」は不明となります。

なので、「陀」の意味をどの様に考えれるかで、色々と変わりそうです。

「陀」を調べると、「ななめ」、「平らでない」、「けわしい」、「くずれる」、「やぶれる」
の意味があるようなので、「険しい場所」で「食べ物」を捧げ、「生まれた子」に名を与えた
とも解釈できますが、どこまで正しいかは不明です。

天神御子之天津日繼所知之登陀流

「天神御子」は、時代によって変わると考えられます。

「天津日繼所」は、「天」が「阿麻家」、「津」が「港」、
「日繼所」が「日が繋がった所」と解釈することができます。

「日が繋がる所」とは、「「日(太陽)」の光を直接浴びる事のできる場所」だと思います。

天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理


読み

「布斗斯理【此四字以音】」と注記があり、「音読み」指定となります。

「布」:呉音:フ、漢音:ホ

「斗」:呉音:ツ(表外)、漢音:トウ(表外)、慣用音:ト

「斯」:呉音・漢音:シ、宋音:ス

「理」:呉音・漢音:リ

上記により、呉音「ふつしり」、漢音「ほとうしり」となりそうです。

意味

「布」は「巾」+「父」から構成されていると云われています。

「巾」は、「説文解字」で「佩(おびる)巾(きれ)也」とありますが、
参照260のサイトにある「字源」では、「本义是指古代妇女的佩巾」とあり、
「本義は、是(これ)、古代の妇(婦)女【的】が佩(お)びていた巾を指す」と解読できます。

これが本当であれば、古代において、主に女性が「スカーフ」などに利用していたと言えます。

問題は「父」にあります。

参照261のサイトにある字形を見ると「又(三本指)」の先に棒などがある様に見えます。

また、参照261のサイトにある「商甲骨文𠂤組」の字形と、
参照262のサイトにある「商甲骨文𠂤組」を比較すると、微妙に異なっている様にも見えます。

そして、参照263のサイトにある拡大された字形を見ると、
参照261のサイトでは、「左向き」なのに対して、「右向き」もあるので、
明らかに、別字が混じっていると思われます。

他にも、「又」は「三本指」を指すので、
「三本指」で「斧」を持つ事が可能なのか?という問題もあります。

この様に、「父」と考えると、問題点が多く出て来ます。

そもそも、「巾」自体が「布切れ」の可能性が高いので、
わざわざ、「父」と合わせて「布」という漢字を作る意味がありません。

そうなると、「父」でなければ、なにか?となりますが、
参照261のサイトにある「説文解字」には「巨(大きい)也」と考えれば、
「巾(布切れ)」を集めて、大きな「布」にする意味かも知れません。

しかし、仮にそうだとしても、
わざわざ「布」という漢字を創り出す程だったのか?疑問が出ます。

参照260:巾: zi.tools

参照261: 父: zi.tools

参照262: 又: zi.tools

参照263: 父的解释|父的意思|汉典 “父”字的基本解释

「斗」は、参照264のサイトにある「説文解字」には「十升(リットル)也」とあります。

Wikiなどでは、「柄の付いた杓を象る」とありますが、
それは「漢多」にある「甲金文象舀水的長柄勺子之形」が影響していると思われます。

正確には「略說: 甲金文象舀水的長柄勺子之形。」とありますが、正しいのかは不明です。

「字義」には「古代酒器」とあり、
もしかしたら、「10リットル」入る酒器が存在したのかも知れません。

「柄の付いた杓を象る」という物が存在した可能性が高いですが、
「説文解字」には「十升(リットル)也」とあるだけなので、「柄の付いた杓を象る」としても、
「10リットル」入るだけの「杓」でなければダメです。

つまり、「容量」が大事なのであって、「容器」に関しては指定していないという事になります。

参照264:斗: zi.tools

「斯」は、「其」+「斤」から構成されていると云われています。

しかし、参照265のサイトにある「西周金文西周晚期」の字形と、
参照266のサイトにある「西周金文西周晚期」と「西周金文西周晚期或春秋早期」の字形を
比較しても、同一であるという感じがしません。

また、参照267のサイトにある字形を見ると、「くぼみ」の中に「×」があり、
下に「二」がある字形ですが、参照265のサイトにある「西周金文西周晚期」の字形を
拡大して見ると、「二」の下に「点」か「線」かは不明ですがあります。

なので他にも何パターンか存在している可能性があります。

「くぼみ」の中に「×」がある字形は、「其」でも使われていますが、
「二」やその下の「点」や「線」については、全く書いていません。

なので、「其」ではなく、別の字形と考えられます。

次に、参照265のサイトにある「春秋金文春秋晚期」の字形から、
「丌」の字形と似ている字形が、「二」や下の「点」や「線」から変更されています。

また、参照267のサイトにある金文の「「斯」余贎乘兒鐘春秋晚期集成185」の字形
と同じ字系だとするならば、「二」の箇所が「一」に減っています。

この形が、以降続くわけですが、
「春秋金文春秋晚期」の前後の字形が同じ意味なのか?について不明です。

個人的には、「春秋金文春秋晚期」の前後で、漢字が異なっているのでは?と思っています。

参照265:斯: zi.tools

参照266: 其: zi.tools

参照267: 斯的解释|斯的意思|汉典 “斯”字的基本解释

意味

意味としては、参照265のサイトにある「説文解字」には「析也」となっています。

「析」は、Wikiに「おので木を割っているさまを象る」とあります。

つまり、「おので木を割っているさまを象る」と同じ意味なのが「斯」となりますが、
少々問題点もあります。

まず、参照265にある「説文解字」にある「析也。从斤其聲」には、
「斤」+「其」からできていると考えているのが分かりますが、それが間違いです。

参照266のサイトにある「説文解字」の字形を見ると、
「くぼみ」の中にある「×」の数が「2つ」になっていますが、「斯」では「1つ」です。

他に、上記の字形考察でも、解釈の一致ができていません。

この問題をなくさない限り、「説文解字」の言葉に説得力は無いです。

この漢字は、何回見ても、不自然さが目立ちます。

参照268のサイトでは、「秦篆書李斯」の字形以降のみしかありませんが、
参照269のサイトには、他の字形が存在しています。

「理」+「又」の漢字では、「王」ではなく「拝」の旁の様な字形と、
「里」の下から二番目の「横棒」が無い字形となっています。

その字形は「㚤理又每簋西周晚期集成3845」の字形ですが、
「西周晚期」に、これだけ、形を整理できている事から考えて、
「甲骨文字」の創生辺りから存在している可能性が高そうです。

当然ですが、「理」とはなっていますが、「理」ではない可能性が高そうです。

なにより、「理」という漢字の通りの字形でないのは大きいです。

あと、「傳抄古文字」ですが、「ひょうたん型」の偏と「田」と「円」を繋げた字形が、
「「理」四3.7老」、「「理」三4老」の2つありますが、これも「理」とは言えないと思います。

次に、「王」の下半分に「()」の様な形を付けた字形の「「理」陰」が2つあります。

こちらは、「()」の様な形は「車」を連想でき、「自走式戦車」をイメージしている様に思います。

これ以外は、「理」として考えても良い字形です。

参照268:理: zi.tools

参照269: 理的解释|理的意思|汉典 “理”字的基本解释

意味

「王・玉」偏と「里」旁で構成されていますが、「里」は人が居る事で「里」になるで、
「玉」は、Wikiに「複数の玉を紐で連ねた様子。」とあります。

「玉」は、主に「美しい石」を指すと思われます。

この様に考えると、「複数の「美しい石」を紐で連ねた物」が「玉」と考えられます。

「里」の近くにある水場で、「美しい石」を見つけたから「理」となったと思いますが、
その辺りは不明です。

参照268のサイトにある字義には、「古代的法官」というのもあり、
だからこそ、「玉で治める」という言葉ができたのだと思います。

まとめ

「布斗斯理」を考察してきました。

「布」:布

「斗」:10リットル

「斯」:「丌(机?)の上に何かを置いて、斧で作業をしていた」と解釈できます。

「理」:法律→ルール

上記のように考えた場合、「布斗斯理」とは、
「ルールを作り、10リットル樽に布を巻いて、近くで別作業をする」と解釈できそうですが、
繋がりがあるようには思えません。

ちなみに、第三章にある「於底津石根、宮柱布刀斯理【此四字以音】でも、
「斯理」が使われていますが、こちらでは「布刀斯理」と「斗」ではなく「刀」を使っています。

ただ、「刀」の「音読み」は、呉音「ト、トウ」、漢音「トウ(タウ)」、唐音「トウ(タウ)」となっていて、
今回の「斗」の漢音よりの音読みとなっていて、統一感がありません。

仮に「斯」の意味が「おので木を割っているさまを象る」だとしても、
「宮柱」の名として、適切かどうか微妙です。

天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理

「天」は「天(あま)なる國」、「御巢」は「活動の拠点」、
「底津石根宮柱」は「港の底にある石根を「宮柱」に用いた」と解釈できます。

「布斗斯理」は「宮柱」の名だと思われます。

高天原氷木多迦斯理


読み

「多迦斯理【四字以音】」と注記があり、「音読み」指定となります。

「多」:呉音・漢音:タ

「迦」:呉音:キャ、ケ、漢音:カ、キャ

「斯」:呉音・漢音:シ、宋音:ス

「理」:呉音・漢音:リ

上記のように、呉音「たけしり」、漢音「たかしり」になりそうです。

意味

「多」:多い

「迦」:「であう」、「巡り合う」、「比べる」

「斯」:「丌(机?)の上に何かを置いて、斧で作業をしていた」と解釈できます。

「理」:法律→ルール

上記から、「多くの木?が出会い、ルールのもとで作業を行う」と解釈できそうです。

ただ、やはり、「斯」の字源が不自然な事、「迦」の字源がほとんど、サイトに無い事を考えると、
本来の意味だったのか?と疑問が出ます。

あと、第三章で「於高天原、氷椽多迦斯理【此四字以音】」とあり、
なぜ、この時に「下效此」を書かなかったのか、すごく、疑問です。

前回の「於高天原、氷椽多迦斯理【此四字以音】」から変化したのは、
「椽」が「木」に変化したことです。

「椽」であれば、色々と推測をする事が可能ですが、「木」だけだと推測するのが難しいです。

高天原氷木多迦斯理

「高天原」から運ばれてきた「氷木」のようです。

「高天原」から運び込まれるのであれば、船による高速移動で運搬されたはずなので、
「現島根県」であれば、九州から距離があるため、一日や二日で到着するとは思えません。

なので、この時代の「出雲國」は「現島根県」ではなくて、
「高天原」から近い位置にあるという傍証だと考えています。

もしかしたら、「樹氷」の可能性もあり、その場合、運んだ季節が気になりますが、
「冬」で雪が積もる事がある地域に運び入れたのかも知れません。

まとめ

解読:

唯(ただ)、僕(やつかれ、使用人)の住む所者(は:短語)
天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音 下效此】の如く
天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】
高天原氷木多迦斯理多迦斯理【四字以音】に於いて、
而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)、
僕(やつがれ、使用者)者(は:短語)百不足に於いて、坰(けい)八十手而(に)隱れ侍る

亦、僕(やつがれ、使用者)子等百八十神者(は:短語)、
卽(すなわち)、八重事代主神が爲す

神之御尾の前而(に)いる仕(つかえ)奉(たてまつる)者(は:短語)、
違(ちがう)神者(は:短語)非ず也

意味不明

上記が今回の範囲ですが、なぜ、この様に繋がえたのか?と思えるような内容です。

「唯(ただ)、僕(やつかれ、使用人)の住む所者(は:短語)
天神御子之天津日繼所知之登陀流【此三字以音 下效此】の如く
天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】
高天原氷木多迦斯理多迦斯理【四字以音】に於いて、」

までは、問題ないと思われます。

しかし、「而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)、
僕(やつがれ、使用者)者(は:短語)百不足に於いて、八十坰(けい)手而(に)隱れ侍る」
に関しては、「而(すなわち)、賜りて治める者(は:短語)」と、
「僕(やつがれ、使用者)者(は:短語)百不足に於いて」は、
別の内容ではないか?と思っています。

原文でも「而治賜者」と「僕者於百不足八十坰手隱而侍」では、
同じ内容とは思えませんし、話が繋がるようには思えません。

本来は「而治賜者」の後に、少し言葉を足して終わりだったのではないか?と思っています。

「者(は:短語)」が、両方に存在している点でも、別の話を繋げている様にしか見えません。

「亦、僕(やつがれ、使用者)子等百八十神者(は:短語)、
卽(すなわち)、八重事代主神と爲す」は、
全員が一度は「八重事代主神」を名乗ったという事でしょうか。

「神之御尾の前而(に)いる仕(つかえ)奉(たてまつる)者(は:短語)、
違(ちがう)神者(は:短語)非ず也」は、意味としても不明ですが、
「違(ちがう)神」が、普通に人間としての「神」か、それとも、超常現象的な「神」かは不明です。

この様に、文章が繋がっている様には思えません。

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