漢書(前漢)
原文:
樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云
解読:
樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、
漢書(前漢)
歳時を以って來たり獻見すと云う。
「樂浪海中」を検索しても「列島」と捉えている人が多い中、
「首藤丸毛」さんの著書「『漢書』地理志にみえる「楽浪海中」の意味 19」では、
「井上秀雄」さんの説を紹介していて、「列島ではなく南朝鮮を指す」とあります。
記紀を調べる前は、列島を指すのだと漠然と考えていましたが、検索し調べて行くと、
「倭人」が必ずしも「列島人」を指すのではないと思うようになりました。
その考えからすれば、南朝鮮に「倭人」が存在していても何も問題がないと考えます。
それと、「山海経」の「同種の倭人」でも「古田武彦」さんの分析や
参照6のサイトでも、「倭人」は「南朝鮮」にいたという解釈になっています。
ちなみに、「井上秀雄」さんの説は以下の通りです。
「樂浪海中」という記事から、島国を予想するが、
同じ「漢書」天文・第六には「朝鮮在海中」とあって、
海中とは海上交通の便利なところというにすぎない。
そうすれば、楽浪郡に近接した南朝鮮を
比定するのが常識ではなかろうか。これを裏付けするものに「魏志」韓伝などがある。
「井上秀雄」さんの説に沿って考えると、
南朝鮮には倭人がいる。土地は、百余国に分かれ、
歳時に獻見に来る。
と解読する事が出来ます。
「倭國」ではなく、「倭人」を使っているという事は、
國を造るだけの人数がいるのではなく、
部落という認識で、部落のある土地の国王に属していたと考えられます。
この様に、「山海経」に続いて、「漢書(前漢)」でも、
「倭」と「倭人」が同一かは不明ですが、「列島」にいた人達ではなく、
南朝鮮にいた「倭」や「倭人」の事を、記載した可能性が高くなって来ました。
後漢書
卷一下光武帝紀第一下より 中元二年
原文:
東夷倭奴國王遣使奉獻
解読:
東夷の倭奴國王、奉献するために使いを遣わす。
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卷五孝安帝紀第五より 永初元年
原文:
倭國遣使奉獻
解読:
倭國、奉献するために使いを遣わす。
─────────────────────────────────
卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)
原文:
於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻
解読:
是に於いて、濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は萬里朝獻す。
──────────────────────────────────
卷八十五 東夷列傳第七十五 (倭)
原文:
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫
倭國之極南界也 光武賜以印綬解読:
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。
使人自ら大夫と称す。
倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
光武、印綬を以て賜う。
原文:
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
解読:
安帝、永初元年(107年)
後漢書
倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。
前漢書を見た上で、後漢書を考えると違った見方が出来ます。
「東夷」について、Wikiでは下記の様に書かれています。
東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。
夷(い)。
「夷」という漢字は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)と書いて、
好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、
秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、
Wiki
朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを
「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。
「夷」の漢字の成り立ちは、完全に間違っていて、
参照9のサイトでは、「ひもの巻き付いた矢」の象形と書かれています。
「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)ではありません。
「ひもの巻き付いた矢」は、
いぐるみ(矢に糸をつけて発射し、鳥や魚に当たると、
糸がからんで捕らえられるようになっているもの)
と言う道具のようです。
そこから考えるに、最初は、原始的な漁や狩猟をする場所などを
「夷」と表記していたのではないか?と考えています。
古代中国の文明からしたら、原始的に映ったとしてもおかしくありません。
そして、「秦以降」には、「朝鮮半島」や「列島」を指す言葉となった様ですが、
「以降」でも、「秦」による「古代中国全土統一」以降だと思います。
「統一」出来れば、「東方異民族」の外側にある、
「朝鮮半島」や「列島」に手を伸ばすのは、当時としては当然だと思います。
これらにより、「紀元前221年」以降に「半島」と「列島」を、
「東夷」に指定したと思われます。
参照8:古代史獺祭