最終更新日 2021/12/31

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倭國とは

解釈

06

「倭奴國」と「倭國」

「倭奴國」と「倭國」についてです。

後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (倭)

倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

後漢書

により、「倭奴國」と「倭國」が同時期に存在していた可能性があります。

不思議なのが、「倭奴國」は「漢委奴國王」の金印が貰えて、
「倭國」は、なぜ、貰えなかったのか?

冊封体制下に於ける古代中国の周辺諸国の君主たちは、
それぞれに名目的に 中国王朝の臣下とされ、それぞれが印綬を受けていた。

これは外臣と呼ばれ、
王朝に直接仕えている内臣よりも一段低い扱いを受ける。

Wiki

調べて行くと、上記の様な説明があり、金印は外臣の証明書みたいな物らしいです。

つまり、「倭奴國」は後漢王朝から「外臣」と認められたけど、
「倭國」は認められなかった。

「倭奴國」が「樂浪海中有倭人」の時の南朝鮮の倭人ならば、
朝鮮半島は大陸と陸続きで、自分達の力で國を維持出来ないと考えれば、
他者を頼るより他にありません。

だからこそ、周の時代から古代中国側に与する事で、
自分達の國を守って来たのだと思います。

その成果が、「印綬」なのではないか?と考えています。

倭奴國の場所

「倭奴國」はどこに存在していたのでしょう?

「後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (倭)」に「倭國之極南界也」とあり、
「倭國」の極南界(最南端)に「倭奴國」が存在し、隣接していたと解釈出来ます。

ここで疑問が出て来ます。

山海経に書かれていた「倭」は、
後漢書の「倭奴國」と「倭國」の先祖なのだろうか?という点です。

もし、同じであるならば、重要な情報となり得ますが、
大陸や朝鮮半島にいる「倭人」は、一部でしかありません。

「倭人」は「倭人」でも、別の集団の可能性もあります。

閑話休題

本題の「倭奴國」の場所ですが、やはり南朝鮮を考えます。

博多湾・志賀島で「漢委奴國王」の金印が出土したから、
九州と考える人が多いと思いますが、
出土したからと言って、何も証明にはなりません。

「倭奴國」の王族や親族が重要な物だからと、國の滅亡などの時に、
志賀島にまで生き延びて埋めたと解釈する事も可能だからです。

出土が重要なのではなく、その金印が埋められた年代が重要です。

Wikiの漢委奴国王印の中で偽造説の事が書かれていて、

三浦佑之さんが、著書『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』において、
発見地点の付近では、奴国に関する遺構が一切見つかっていない

Wiki

としています。

「倭奴國」が列島以外であれば、
関係遺跡等が見つからなくても不思議ではありません。

金印についてですが、「漢委奴國王」が外臣の証明書ならば、
「漢に所属している委奴國王」と考えられます。

読みに関しては、色々とあるようですが、
なぜ、「倭」ではなく「委」なのか、すごく気になります。

もしかすると、「倭奴國」とは別に「委奴國」が存在していた可能性もあり得ます。

なぜなら、違う国名の金印を渡せば、貰った側は不満に思い忠誠心が下がるし、
漢からすれば、国の運営に支障が出るかも知れないので、安心出来ないでしょう。

これらを回避するには、やはり、正しい国名を金印に刻印する必要があると考えます。

とはいえ、簡単に金印の大盤振る舞いするわけないので、
「倭奴國」と「委奴國」が無関係ではないと思っています。

あと、古事記の大国主神の時代で、「倭國」の記載がありますが、
大国主神がいつの時代の人なのかによって、対応が変わって来ます。

列島内に「倭國」があった場合、
「倭奴國」の北にある「倭國」とは別で読みも変えているかも知れません。

列島外の場合は、やはり、出雲から船で航海する場合、
北九州経由で南朝鮮行きになるように思えます。

でも、記紀に「倭」や「倭國」の表記はあっても、古代中国史書の内容を裏付ける箇所が
無いという事は、記紀の情報と古代中国の情報の関係性が薄いと考えられそうです。

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