最終更新日 2021/12/31

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倭國とは

解釈

03

山海経

原文:

蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕

解読:

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

「山海経」第十二「海内北経」

参照1:倭・倭人関連の中国文献

これに関しては、大陸側に残った倭人についてではないかと思います。

参照6のサイトに面白い事が書かれています。

「蓋国」はどこか、漢の武帝によって置かれた四郡の考証より、
玄兎郡西蓋馬県は朝鮮の域内にあったはずである。

蓋国は蓋馬大山を東に望む平壌城の付近、
すなわち現在のピョンヤンのあたりである。

山海経は北から南へと、
鉅燕(燕)、蓋国、倭という順序で記載している。

「倭属燕」の「属」は、その本来の意味として、
「帰属」または「服属・隷属」と解釈すべきと思われる。

参照6:古代史に遊ぼう-倭と倭人(中国の文献から見た)-

倭屬燕

1つ目のポイントは「倭屬燕」です。

この記述は、左右で真逆な意味合いになります。

左から読めば「倭は燕に属す」、右から読めば「燕は倭に属す」となりますが、
その当時の勢力図が分からないと、どちらが正しいかは分かりません。

それから、「蓋國」が仮に平壌付近の國だったとすると、
「鉅燕」は、三国志の公孫瓚のいた幽州近かったと考えられます。

その傍証として、三国志でも登場する遼東の 「公孫淵」は、
呉から「燕王」に封じられ、その後、魏より独立し「燕王」を称しています。

「倭」の北に「蓋國」があると言っているので、
当時の「倭」は南朝鮮と推測する事が出来ます。

これにより、「山海経」の「倭」は、列島を指すのではなくて、
南朝鮮にいた「倭」と言う集団を指したと言えます。

しかし、「倭人」は一つの地域にまとまっていたのではなく、
「現在の朝鮮半島に移動した組」、「大陸の中央にいた組」など、
何組か存在していたとすれば、「蓋國在鉅燕南、倭北、倭屬燕」の文だけでは、
文中の「倭」が「列島移動組」を指すのか判断出来ません。

明刀銭の出土

日本で燕国の明刀銭が出土していることによっても立証される。

この解釈に関しては、燕国の明刀銭が出土したからと言って、
「倭が燕に属す」の証拠とするには、物足りなさを感じます。

なぜなら、燕國の人々が列島に亡命して、自分達で使っていただけかも知れません。

もちろん、時代が判別でき、文章が証明されれば良いですが、
出土だけでなく、数や範囲などの要素が含まなければ、立証に至らないと感じます。

同種の倭人

2つ目のポイントは、
「古代朝鮮南部にいた倭人と列島に存在した倭人が同種」です。

古田武彦氏の分析によれば、
「蓋国」の南(南方ではない)に当る「倭」は、
現在の朝鮮半島の南半部(韓国)の称とみられる。

そこに住む住民は「倭人」であり、北部九州の倭人と同種。

すなわち、海洋民族としての「倭人」は、
朝鮮海峡の両岸に分布していたのであるとしている。

古代朝鮮南部にいた倭人と列島に存在した倭人が同種だと考えた場合、
当然、離れていても、連絡は取っていた可能性があります。

ただ一点、古田武彦さんの考えに賛同出来ない点が有ります。

「倭人」=「列島人」=「天(あま)一族」だと考えているだろうと思われる点です。

倭人の始まりは、あまり分かっていませんが、「倭」の漢字の成り立ちから考えると、
海洋民族よりは、内陸で「稲作」をする民族の様に思えます。

「天(あま)一族」の本家と思われる「阿毎(あま)一族」、
列島に移住した分家の「天(阿麻、あま)一族」、
この事を考えると、「倭人」=「天(あま)一族」と考えるには早いと思います。

もちろん、「天(あま)一族」が「倭人」と提携している可能性もあり、
長い年月、その様な関係でいれば、融合し、同族化するかも知れません。

しかし、現時点では、「天(あま)一族」がどこから来たのかなど、
不明な点が多いので、決めつけてしまうのは危険です。

柔軟な考察が出来なくなります。

あと、「列島人」=「倭人」となぜ言えるのでしょう?

列島は、氷河期時代から食料である獣を追って、多くの地域から人々が集まり、
独自の文化を築いて来た場所で、その中で「倭人」は新しい分類に入ると思います。

多種多様な文化がある中の一つが「倭人の倭國」であり、
「海洋民族」かも知れない「天(あま)一族」なのだと考えています。

ですので、「列島人」=「倭人」と考えるのは不適切だと思っています。

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