南斉書
「南斉書」列伝 第三十九 蛮 東南夷
原文:
倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。
建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、
安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。解読:
倭國、帶方東南の大海の中の島に在り、漢末以来、女王が立つ。
南斉書
<中略>倭王武、鎮東大將軍と號して為る。
これは興味深いです。
「大海の中の島」とあり、列島と考えるのには、難しいだろうと考えています。
現代では、ドローンや衛星などから、日本列島と認識出来ますが、
当時の人達が大陸や半島から見て、九州を「島」と認識出来たのでしょうか?
多分、「島」ではなく「大陸」と思っていたのではないかと考えています。
なにより、列島を指すのならば、「大海を越えた先」と表現するべきだと思います。
その事を踏まえて、「倭國は漢末以来女王を立てる」を見ると、
列島を指すのではなく、「倭奴國」の北にある「倭國」を指すのだと思われます。
魏志倭人伝の中に「其國本亦以男子為王住七八十年」の文があり、
「其の國」=「倭國」なら「男子を以って王と為す」と「漢末以来女王を立てる」で、
正反対の事を書いている事になります。
それと、もう一点、「卑彌呼」に関する記事では、「倭國」ではなく、
「倭王」や「倭女王」と表記されるだけで、「倭國王」の表記がありません。
なにより、魏志倭人伝の他の記事「制詔親魏倭王卑彌呼」でも、
「倭王」になっています。
「漢委奴國王」の金印では、「委奴國王」と「國王」と表記しているのにです。
参照11のサイトに辿り着きました。
王には「正統なる支配者」という意味がありますが、
皇帝という言葉が生まれて以降は少し違ったものになっていきます。中華世界における「○○国王」というのは
「○○国の支配者として皇帝に認められたもの」という意味になり、
実質上は中華帝国の地方領主のようなイメージを持つ言葉です。
これを、当てはめて考えると、
「倭王は正統なる支配者」と置き換えることが出来ます。
「正統」とは「倭人」を指すのでしょう。
魏志倭人伝には、
他にも「女王國東渡海千里復有國皆倭種」ともあり、「倭種」とあります。
これは、「倭人」から派生した人達を指すように思います。
「倭國」はどこに消えてしまったのか?
「南斉書」の「倭國」はどこを指すのか?
「漢末以來、立女王」の「漢末」が、「前漢」・「後漢」で時代が異なります。
「前漢(紀元前206年 - 8年)」・「後漢(25年 - 220年)」となり、
「前漢末」は「西暦8年頃」、「後漢末」は「西暦220年頃」と、
「212年」の差が生まれる事になります。
南斉書の範囲が
高帝の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの南斉の歴史
「前漢末」からなら「西暦8年頃」〜「西暦479年」、
「後漢末」からなら「西暦220年頃」〜「西暦479年」までの間、
「女王」が継承されて来たと言えます。
でも、「南斉書」の時代なら、
「西漢(前漢)」・「東漢(後漢)」の言葉があると思うのに、
なぜ、「漢末」と曖昧な表現にしたのでしょうか。
「倭王武」が建元元年(479年)に「倭王武號爲鎮東大將軍」とあるので、
「建元元年(479年)」まで斉國に貢献したのは、「南斉書」から分かります。
しかし、倭王武の前に「讃」・「珍」・「済」・「興」の4人も倭王ですが、
「漢末以來、立女王」から「倭の五王」=「女性」と考える事が出来ますが、
俗に言う「倭の五王」は女性だったのでしょうか?
それとも、複雑な事情があるのでしょうか。
あと、「倭王」と「倭國王」と「倭國」の使い分けがあるようですが、
どの様に違うのか、調べても分かりませんでした。
最後に素朴な疑問として、古代中国において、
女性の「倭王」が「鎮東大將軍」といった称号を得られたのでしょうか?